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島の果て
島尾敏雄

   島の果て

 むかし、世界中が戦争をしていた頃のお話なのですが──

 トエは薔薇の中に住んでいたと言ってもよかったのです。と言うのは薔薇垣の葉だらけの、朽葉しきつめたお庭の中に、母屋と離れてぽつんとトエの部屋がありました。ここカゲロウ島では薔薇の花が年がら年中咲きました。その部屋の廻りは木の廊下がめぐっていて、ひとところだけが母屋に通ずる取りはずしのできる橋廊下になっていました。夜になると三方に紙の障子をたてめぐらして蝋燭をともしました。そして木の戸をひきしめて戸締りを厳重にすることもなくてすんでいたのでした。

 トエの一日の仕事というのは部落の子供達と遊ぶことでした。部落の子供という子供がみんなはだしでトエの庭に集まってくるのです。トエは子供達に歌を教えました。
  浜千鳥、千鳥よ
  何故お前は泣きますか(ぬが・うらや・なきゆる)──
 トエがいくつになるのか誰も知らなかったのです。たいへん若く見えました。小鳥のように円い頭をしてほかの娘たちよりいくらか大きなからだつきをしていました。娘らしく太っていました。それでも体重はむやみに軽かったのです。顔だちはと言えば、ほかの島娘たちとそう違っているようにも思われなかったのですが、ただ口もとに特徴がありました。ほほえむと、口もとは横に細長くきりりとしまりました。部落の人たちは大人でも子供でもトエは自分たちと人間が違うのだと考えている人が多かったのです。それは昔からトエの家の人たちはそういうふうに、思われてきたので、ほかには別に理由はなかったのですが、不思議なこととも思われずにトエは部落全体のおかげで毎日遊んでいてくらして行くことができましたが、二、三の年寄りたちは、トエがこの部落の生れの者でないことを知って居りました。

 その頃、隣り部落のショハーテに軍隊が駐屯してきました。そのためにトエのいる部落にも何となくあわただしい空気が流れ、世界の戦争がこのカゲロウ島近くまで覆いかぶさってくる不吉な予感に人々はおびえました。一体何人ぐらいの軍人がやってきてどんなことをするのだろう。部落にとってめいわくなことが起こりはしないだろうか。頭目という人はどんなひとだろう。あれこれと部落びとは心配をしました。
 だが、やがていろいろなことが分りました。ショハーテの軍人は百八十一人で、その頭目の若い中尉は、まるでひるあんどんみたいな人であること。むしろ副頭目の隼人という少尉さんの方が、男ざかりではあるし経験もつみ万事てきぱきとして人との応対も威厳があって軍人らしい。百八十人の部下は──いや、隼人少尉を除いて百七十九人の部下は、若い頭目に同情はしているけれども、副頭目のきびきびした命令にすっかり服従しているらしい、などということどもでありました。だから頭目の一日の仕事というのは、自分の領分内の、チタン、サガシバマ、タガンマ、スンギバラ、それから対岸のウジレハマなどを廻り歩いて十二の洞窟と八つの合掌造りの兵舎の様子を見てさえいればそれでこと足りるのさ、という評判でありました。
 朔中尉──と、そう頭目は呼ばれていたのですが、背は高いがやせていると部落では噂をされました。それに引きかえ隼人少尉はずんぐりしていて真っ赤な丈夫そうな顔付きをしていると言われました。
 副頭目は心の中で朔中尉をそんなに好きではなかったのですが、表向き二人は仲良くやっているように見えました。で、お酒を飲んだりしたときは、袋の中の錐のように隼人少尉の言葉はちくりちくりと朔中尉をつつきました。時とするとぐでんぐでんに酔っぱらったふりをして朔中尉にあてつけの、乱暴をすることもありましたが、朔中尉は何も言おうとしませんでした。だから隼人少尉は頭目は何を考えているのだろうと思いました。実際の所、朔中尉が何を考えているのかちょっと誰にも分らなかったのです。

 戦雲は拡がってきました。敵の飛行機がカゲロウ島の上空にもぼつぼつ現われるようになりました。
 或る日非常に悪い情報がはいりました。──カゲロウ島に大空襲がある。戦局は急転直下の変貌を示した。敵は新しい作戦を計画したようだ。大空襲のあとに、敵は島に上ってくるだろう──
 この情報は朔中尉の軍隊にもてき面にひびいてきました。空襲にそなえて洞窟の前に爆弾の被害をさける柵を構築せよという命令がきたのです。
 その命令を朔中尉が受け取ったのは夕方の食事もすんで、たそがれ行くはまべには、もう寝るばかりの一日の中で一番長くてのんびりした休憩の、時の移り行くのを惜しむ姿がちらほらしていた時でした。ハモニカを吹いている若者もいました。どうして情報の急変などということが考えられましょう。
 だが、小高い本部の木小屋でそのような夕ぐれに身をまかせていた頭目は隼人少尉を呼んでこう言いました。
「隼人少尉、この作業は徹夜をすることになっても止むを得ん。今からかかりましょう」
 それをきいて隼人少尉はぼつぼつと闘志のみなぎり来るのを感じました。やがて隼人少尉のきびきびした作業の区処により十二の洞窟の前にはランタンのゆらめくあかりが見え、丸太のぶつかり合う威勢のよいひびきがきかれました。この洞窟の中には実はたいへんなものがかくされてありました。それはいよいよ敵がカゲロウ島に上ってくるときにだけ使われるもので、その色々のことについては頭目と百八十人の中から選ばれた五十一人の者だけしか知らないことでした。

 朔中尉は胸さわぎがしました。運命の日があまりにあっけなく眼の前にやってきたことに甚だ不満のようでありました。しかし、一方これから起こるかもしれない未知の冒険にふるい立つ心も湧いてきました。ただどうしても心にかかることが一つだけあったのです。それはその日がすっかり暮れてしまったら、ショハーテの部落の督督基(トク・トクキ)さんの家を訪ねる約束をしていたことでした。それは──
 督基さんのところのヨチという女の子に、若い頭目は心ひかれたのでした。というのは、中尉さんがヨチを背負ってやったときに、やわらかい二本の足と中尉さんの肩をそっと掴んでいるヨチの可愛い掌と、そしてそっと中尉の頬をくすぐったヨチの息遣いが忘れられなかったのです。ヨチは中尉さんの胸までも背丈はありませんでした。前の日中尉さんがショハーテの部落うちを通ったときに、赤ん坊の督四(トクヨン)をねんねこで負ぶってふくらんだヨチがいきをはずませて、
「中尉さん中尉さんショハーテの中尉さん」と呼びました。
 中尉は立ち止って督ヨチの赤いくちもとをじっと見ました。まつげが頬にかげを作る位長いのです。おむすびのように大きな黒い頭のヨチが思いきって言いました。背中の督四をあやすので始終からだをゆすりながら。
「ガジマルの木の下にケンムンが出てこわいのです」
 ねんねこが短く二本の細いすねと素足のくるぶしがいたいたしく見えました。
「こわいから遊びにいらっしゃいね、ね」
「あした又(あちや・また)」
 朔中尉はぽつんと歩きながら島ことばで答えて、しばらく行きすぎてからふり向いてつけ足しました。
「すっかり夜になってから」(それまでにヨチのために棒飴をつくらせて──)
 ──その約束を思い出したのです。ひょっとしたら予感にたがわず明日あたりからカゲロウ島は激烈な戦闘の様相を帯びてくるかも知れない。カゲロウ島そのものがこの地球の上から無くなってしまうようなそんなことはおそらくないだろうし、又此処の島びとたちはいのちのふかしぎから島の草木と共に生きのびるかもしれない。ああ、島に駐屯している軍人たちでさえもその幾人かは颱風一過のあとでこおろぎの音色に泣くものもあるだろう。しかし朔中尉と五十一人にはそのことは或る命令のために考えてみることさえせつない、望まれないことでした。
 中尉さんは心の中で泣きました。ヨチとの約束を守らなければいけない。一途にそう思ったのです。

 隼人少尉と百七十九人はそれぞれの仕事をして居りました。いつのまにか夜空が険悪になって雲の流れる気配が地上にまで伝わりました。風さえ出てきたようです。
 中尉さんは木小屋の本部の頭目の部屋にはいると従卒を呼びました。
「小城(オグスク)よ棒飴を持って俺に続いてきておくれ」
 小城は急いで棒飴を風呂敷に包むと、はまべに下りて行って小舟を用意しました。中尉は黙って黒々と小舟に乗り移ると、小城は櫂で急がしく漕ぎはじめました。櫂の音は仕事を監督していた隼人少尉の耳にはいりました。少尉は闇をすかして入江の中を見ると、ショハーテ部落の方にへさきを向けた小舟に頭目らしい人影と従卒のそれを見たのでした。風が出てへさきはぐるぐる廻りました。でもほどなく小舟が目的の岸につくと中尉さんは岩の上にとび上り、小城従卒から棒飴の包みを受け取ると闇の中に部落の方へと消え去りました。小城は杙に小舟をつなぎ腰をおろし頬杖をついて自分の仲間が仕事をしている対岸の方をぼんやり眺めました。ランタンの灯がみぎわで伸びたり縮んだりしているのを見ていると、子供のとき泣き笑いしてみた街の灯が十字架のように伸び縮みしたこととごっちゃになっていました。黒い雲が一ぱい出て来たようでありました。
 中尉さんのおとのうた家は、居間と台所の二間しかない極く貧しい掘建小屋のような家でした。それなのに家の中には沢山の子供が居りました。あるじの督基さんはここ一箇月ばかり前にウ島のクニャに行って未だ帰ってこないということでした。おかみさんのウイノさんはこんなことを言いました。
「中尉さんこんなに沢山の子供をちょっと見て下さい。むかしちいさこべのすがるはきっとこんなふうでしたでしょうね」
 中尉さんは笑いました。ほんとに、督熊(トクグマ)、ヨチ、督二郎(トクジロウ)、リエ、督三(トクゾウ)それにややこの督四、こんなに沢山いる──小さなヨチはその中でお姉さんのように振る舞っていました。もう寝ていた弟の督二郎や督三も妹リエもにこにこ笑いながら起きてきました。ヨチはお姉さん顔をしてお行儀をたしなめたりしました。牛乳のような匂いにみちてこんなに沢山の子供がいるのに朔中尉には何故かとても寂しく感じられてなりませんでした。それは胸がしめつけられるような寂しさでありました。もし、その日が来たときにはこのやわらかな子供たちはどんなことになってしまうのだろう。この考えは居ても立ってもいられないものでした。
「この島に敵が上ってきたらこの子供たちをどうしましょう。中尉さん敵は上ってくるのですか」
 ウイノさんはこうききました。
「こんな小さな島に来るものですか」
 中尉さんはごまかしました。そしてそんなふうにしらばくれていることにがまんができなくなりおいとま乞いをしました。敵が上陸して来そうだからこそお別れにきたのではありませんか。子供たちはおみやげの棒飴をおいしそうに食べながら膝小僧をそろえてあがり口に並びました。
「中尉さん、さようなら、ショハーテの中尉さん」
 中尉さんは子供たちの手をにぎりました。おお、やわらかな手、世の中にこんなにやわらかいものがあったのだろうか。ヨチはおませな口調で、
「ね、中尉さん。トエが、トエがお魚をたくさんたくさん買いましたから、ショハーテの中尉さんに、いっしょに食べにおいでって」いきをはずませて言いました。
 朔中尉の前にもうこの世のことは何もありませんでした。追っつけ命令が下り、あの洞窟の中のものを海に浮かべて打ち乗り、敵の船に体当りにぶつかって行くこの世とも思われぬ非情な自分と五十一人それぞれのふう変わりな運命の姿ばかりが先立つのです。小舟のある所まで行くのに足がふるえました。がっくり小舟に乗ると、小城は岸からこぎ放しました。折しもせききれなかったもののようにさあーっと水の面をたたくものがありました。それはあたりがしぐれてきたのでした。水面にはぽつぽつぽつぽつ一ぱいあばたができました。黙って二人とも濡れました。ウイノさんがくれたピーナツを小城のポケットにいれてやると小城は黙って頭を下げました。仕事はもう終わってしまったらしく、チタン、サガシバマ、タガンマ、スンギバラ、ウジレハマはみんな物音もなく雨足のみ蚕しぐれのようにふりそそいでいました。

 次の日は一日中雨でした。

 そしてこの島への危険は通りすぎたようでありました。敵はずっと東の方の小島に新しい作戦をはじめ出しました。
 雨勢はだんだんつのってきて、車軸を流すようになったので、午後はみんな休みました。中尉さんはつかれたので自分の部屋で寝ました。板敷の床下でヒメアマガエルのなくのをきいているうちにすっかり眠ってしまいました。
 ……夢の中で隣りの部屋の人声がやかましくて仕方がない。そんな傍若無人な奴はとても許して置けないと自分でひどくいらいらしてるなと思っていると眼が覚めました。部屋はまっくらでした。またいつのまにか夜のとばりに覆われて、雨は相変わらず降っていました。そして隣室では実際に人声がしていたのです。きくともなくきいていると次のような言葉が耳にはいりました。
 いつどんな命令が来るかも分らないのに……それにみんなが大切な仕事……そんなふうだから……四号の洞窟……眠ってはいられない……
 朔中尉にはその意味がすぐぴんと来たのです。隼人少尉の蛇のように冷たく沈んだ眼の色を思い出してびくりととび起きたのです。
 中尉はわざと足音高く隣りの部屋にはいって行きました。隣りの部屋ではランプを三つもともして隼人少尉が部下の主だった者の二、三人をあつめてお酒を飲んでいました。真っ赤な顔をランプの灯にてかてかと光らせて、
「これはこれは朔中尉どの」
 酔った調子で、でもいくらかてれくさそうにこう言いました。
「おやかましくて、おやすみになってはいられますまい」
 二、三人の主だった部下は一寸困って酔いがさめたような様子をしましたが、朔中尉は立ったままにこりともしないで言いました。
「隼人少尉、洞窟四号の話は本当なの?」
「さあ、本当にもなにも、御覧になれば分ることでさあ……なあ伊集院(イジュイン)」
 と一人の部下の方に赤い顔を持って行ったのです。
「そう」
 中尉さんはそう言うと静かにその部屋を出て、自分の部屋に戻り、紺のレインコートを釘からはずし、それを着ながら雨の中に出て行きました。
 しばらくして、雨の中を当番が、洞窟四号の作業受持の者集合! の命令を伝えて歩きました。それをきいた隼人少尉はふと、どきりとした顔付きをしましたが、にが笑いをしながら右の手でぶるんと顔をなでると、
「やれ乃公はおやすみ遊ばすか。伊集院お前たちも寝たらどうだ。それとも洞窟四号の受持かな」
 というと、もう寝台の上にからだを横たえていました。
 洞窟四号の前には十五人ばかりがしぶしぶ集まって来ました。折角積みあげた土嚢は無残にも崩れてしまっていました。そこは地面がやわらかなのと山の地下水の道筋になっていたらしく小さな川のように水が湧き流れ出て、すっかり土を洗い流してしまっているのでした。崩れた土嚢を見ると中尉はそれが醜い自分の姿のように思えました。集まった者は口の中でぶつぶつ言うことをやめませんでした。雨水は襟といわず袖といわず、ひやひや気持悪く肌の中に流れこんできました。
「先任の者は集まった者の数をあたれ」
 そう中尉が言うと、誰かが小さな声で、ちえっ仕事にならねえと言いました。中尉はそれをきくとぐっと胸につかえました。突然に何とも知れぬ大きな悲しみの底につき落とされました。やがてそれはからだじゅう真っ赤になるような恥ずかしさに変わりました。と勃然と憤怒が湧き上ってきたのです。
「待てっ!」
 自分でもびっくりする程すき透った大きな声が出ました。
「お前たちは……お前たちは只今即刻兵舎に帰ってやすんでよろしい。ぬくぬくとやすんでいてよろしい」
 部落の方にまできこえるように大きな声でした。とっさのことに十五名ばかりの者はそこを動きませんでした。じっとして動かずに雨に打たれて中尉さんの次の言葉を待ちました。すると、中尉さんの顔にはさっと殺気が走ったようでありました。が次の瞬間にはそれはくしゃくしゃに崩れて泣顔になり持っていた竹鞭を振り上げて叫びました。
「わかったらやすんでよろしい。よろしいと言ったらよろしいのだ」
 いつにない頭目の剣幕に十五人ばかりの者は白けきった気持で各々の兵舎に帰って行きました。そのあとに残った中尉さんはたったひとりでその仕事をやり始めたのです。始めに水の流れる一帯を掘り起こしました。それはぐんぐん破壊して行く仕事でした。そのみぞにはバラスをつめました。そうして一人で持てばたいへん重い土嚢を一つずつ積んで行きました。その仕事がすっかり終わる頃には、夜は深更に及びいつか雨はやんで居りました。雲の割れ目から月が出て居りました。その夜は十六夜の月でありました。この哀れな中尉さんの頭は熱病のような交響楽で一ぱいでありました。腰をさすって見上げた雲の中のお月様はとても険し気でありました。彼は自分の運命のようなものを感じないわけにはいかなかったのです。その夜も生きていたのでした。そうして敵がいよいよウ島やカゲロウ島めがけてやって来るのはきっとお月夜の晩にちがいない、と彼は突然の啓示のようなものに打たれました。彼は寝ようと思い、本部の木小屋の方にやって来る途中で峠へのぼる道の分れている所に出ました。(トエが、お魚沢山沢山買いましたから……)その峠は小さな峠でそれを越すとトエの部落は眼の下に見えるはずでした。つと誘われるように中尉さんは峠への道を選んでおりました。彼がショハーテに駐屯するようになるや否や誰からともなく隣り部落のトエのことは耳にはいってきて、その部落にトエが居るということは既にさだめごとのような気持になっていたのでした。しかし中尉さんは未だ一ペんもトエを見たことはなかったのです。峠に出る途中には人間のような声で鳴く蛙が一匹居りました。
 峠には小さな箱小屋が立っていて中尉さんの部下が寝ずの番をして居りました。
「頭目、峠の上もまたここから見渡すことのできる眼路のかぎりあやしげなるもの無し、又けたいな物音もきこえぬようであります。雨は○○三〇に停止しました」
 自分の頭目の姿を認めた寝ずの番はこう言いました。中尉さんは黙って頷きました。眼の下には海の色が月光で青冷めて輝いていました。部落はもう少し山の鼻を廻らないと見えないのです。中尉さんが峠の向こう側に降りて行く様子を察すると寝ずの番は尋ねました。
「頭目どちらに」
「山の端の向こうの青白い月夜の部落には真珠を飲んだつめたい魚がまな板の上に死んだふりをして横たわっているのだ。私は是非ともその様子を見届けて来なければならない」
 頭目は気どってこんなふうな答を与えました。
 山の端を廻った所には、大きなガジマルの樹が不気味な沢山の手をひろげて道に覆いかぶさって居りました。この樹は悪魔の樹なのです。ヨチのおそろしがった細いしつこい声がきこえるような気がしました。その下を走るように通り過ぎると、トエの部落が摺鉢の底のように肩をよせ合って寝ていたのです。その部落のたたずまいは朔中尉の心を深くとらえました。朔中尉は生れて二十八年の間にこんな印象深い夜の部落を見たことはないような気になりました。そしてこの後とてもここの部落の真昼の有様を知ることはなかったのでしたが──まるですっかり夜の部落でありました。人家はかなり沢山あるのに、部落の道を通う人影はひとつもありませんでした。人家の中でひとの気配がしているにもかかわらず、あかりは少しももれてきませんでした。部落の中はすべて、朔中尉のひとり歩きのためにつくられているようでありました。月かげで、ものなべては青白く、もののかたちは黒々と区切りがついていました。それに中尉さんが部落の路地にふみこむと何とも言いようのない芳香に包まれてしまいました。たとえてみるなら、全体の調子は甘いのですが、それは橘の実のすっぱさで程よくぼかされていました。さき程の雨で部落はすっかりしめりわたりその匂いはむせるようでありました。部落うちには到る処古びた大木があって、ひげのように、長い沢山の根や茎を垂らしているのでした。この大木たちはお互いに肩を奇妙なふうに組み合わせて部落を包みこんでいました。名知れぬ花が夜だけそっとその蕾を開くとさえ言われていました。
 中尉さんは何故かこっそり足音をしのばせて、ひとひとりいない月夜の部落を歩いているのでした。そして自分の足音をきくことに心ときめかせて、とある中庭にまぎれこんだのです。中尉さんを導いたのは障子越しにゆらゆらゆらめいている蝋燭のあかりでありました。あそこだけにどうしてあかりがついているのだろう。こんな夜更けに──そう思いながら中尉さんは薔薇垣をぐるりと廻って庭の奥に足をふみ入れると、庭一ぱいの腐った朽葉が雨水にしめって眼のように光っていました。朽葉の眼は幾枚も重なっていて中尉さんが歩くとしめっぽい音をたてました。三方に紙の障子をたてめぐらしたその部屋をすきまから覗いてみたら、豪華な机の上にお魚の御馳走が一皿だけのっかっていて、銀製の燭台の蝋燭が大きくゆらめいているのが見えるばかり、人かげはありませんでした。もっとよく見るために廊下に手をつこうとしてびっくりしました。そこに何か寝そべっています。そして百合の蕊の匂いがしたような気がしました。ワンピースの簡単衣を着た娘がひとり宿無し犬ころのように寝ていたのでした。中尉さんは、そうだトエだと思いました。中尉さんは手のひらの中にはいってしまうような小さな懐中電灯を出してトエの顔を照らしました。大きな丸い顔にびっくりしました。頬の辺にうっすらと雀斑のあるのがはっきり写し出されました。トエはまぶしそうに眼をぱちぱちさせると右手で中尉さんをぶつようなしぐさをしてにっこり笑いました。それは口もとが横に細長くきりりとしまる特徴のある微笑でした。そして上半身を起こし裾のあたりをおさえて、
「お月様かと思ったの」
 と言いました。
「ごめんなさい。でも眠っていたのではありませんわ」
 そうして、つと立ち上るとばねのような歩き方をして障子を開け放ち、中尉さんを招じ入れました。蝋燭がトエの姿の向こうになるとトエのからだが衣通って見えました。燃え尽きようとする蝋燭を新しいそれに替えるために、美濃紙で囲った銀の燭台を一寸覗いたときにトエの顔は紅色のネガになって輝きました。燭台をまんなかにして中尉さんとトエは少しななめになって坐り、冷たくなったお魚の御馳走を黙って眺めていました。中尉さんはお魚はあんまり好きではありませんでした。
「トエ」
 ぽつんと中尉さんが呼びますと、
「え」
 それまで眼を落としていたトエは中尉さんの眼を見ました。そして彼女の運命をよみとったのです。
「私は誰ですか」
「ショハーテの中尉さんです」
「あなたは誰なの」
「トエなのです」
「お魚はトエが食べてしまいなさい」
 トエは笑いました。トエは娘らしく太っていました。いたずら盛りの小娘のように頑丈そうでした。ただ瞳がいくらかななめを見ていてたよりな気でありました。その瞳を見たときに中尉さんは自分が囚われの身になってしまったことを知りました。
 やがて、にぎやかな羽子板星が東の空に見え初めると、あけがたの金星が対岸ウ島のキャンマ山の頂に輝き出すのに間もないことが分るのでした。

 副頭目の隼人少尉をはじめ部下が寝静まった頃おいになると朔中尉は峠への道を歩いていました。そしてその途中では必ずあの人間のような声を出す一匹の蛙におびやかされました。峠に立った寝ずの番の前を通るときはたいへんつらい思いをしました。だがウ島のキャンマ山に金星が輝き出す頃には頭目の部屋は中尉さんの気配で満たされました。しかし、ひるあんどんの頭目・中尉さんの深夜の行動は寝ずの当番たちの口から隊
全体に広がってしまいました。
 敵の東の小島での作戦は終わりに近付きました。カゲロウ島では夜中にも敵の飛行機がとんでくるようになりました。

 或る晩、中尉さんはすが目のトエを見ていました。トエはうたいました。飛行機からあかりが見えないように廊下には木の戸をしめ燭台にはトエの着物をかぶせてくらくしました。
  遊ぶ夜のあささよ
  宵ち思めば夜中
  鶏歌とち思めば、よ
  既夜ぬ明ける
 トエがうたっていると、にぶいけったいな音が耳にまつわりついてきました。それは南の方から、はじめはきこえるかきこえぬか分らぬ位の音がだんだんカゲロウ島の方に近付いてくるのです。
 トエはうたをやめると中尉さんにしっかりつかまりました。
「敵が来る」
 そう言ってふるえました。
「トエ、何がこわいものか」
 中尉さんが笑ってみせてもトエはふるえていました。
「敵、敵が来る、みんな知ってる」
 そして中尉さんの顔を穴のあくほど見つめて言いました。
「行っちゃいや。みんな知ってる。洞窟の中に何がはいっているか知っているの。こわい。トエこわい。五十一人のことも知っている。トエこわい。行っちゃいやなの」

 中尉さんがトエをなだめての帰り道、峠の例のガジマルの樹の下に来るときまって峠の下の部落からあやしい音色が耳にまつわりついてきて歩みをさまたげるのです。そしてこんな気持に誘いこんでしまうのです。それは──部落全体が青い沼の底に沈んで、部落の人びとの悲しみが凝り固まり呪いの叫びを挙げているのです。やがて嫋々とした一人の狂女の声音になって沼の底からメタンガスのようにぶつぶつふき出し、峠を越えて部落をのがれ行く青年をとらえて放さないのです。その歌声は長く長く緒をひいて今までのどんな音楽にもきいたことのないようなメロディなのでありました。中尉さんは両手の指で固く耳にふたをして急ぎますが、その音色をきかないわけには行かなかったのです。それはトエがはだしのまま浜辺にとび出してきて歌っているのにちがいないのです。加那やもう見えらぬ……と。
 隼人少尉も眼がくぼんできはじめました。隼人少尉は夜もおちおち眠れなくなりました。頭目が本当に頭目の部屋で寝ているかどうかが気がかりなのでした。頭目の部屋でことりと音がする度に隣りの部屋では隼人少尉の眼が異様に光っていたのでした。

 しかし、やがてそんな心配はいらなくなりました。戦争の状況は全く行き着く所に来てしまったのです。
 頭目は昼も夜も、隊の外には一歩も出なくなりました。運命の日のそのときのために、頭目の朔中尉は部屋にこもりました。そして五十一人をひとところに集めては、最期のときのことについてこまかい打ち合わせをしました。
 それは此の間のように骰子の出た目ではなかったのです。日にちの問題でした。
 昼間は敵の飛行機があぶなくて仕事などすることはとてもできなくなりました。それで、昼は洞窟の中に寝ていて、夜になると起き出してきては仕事をしました。しかしそれとても大っぴらにはやれなかったのです。夜は夜で夜の眼を持った飛行機がとんで来ました。

 トエはどんなにか待っていたでしょう。トエにとっては夜だけがこの世でありました。昼間は自分でも何をしているのか分らなくなりました。突拍子もなく笑ってみたり、むやみにおしゃべりをしたり、お芋を掘ったり、ピーナツの根を植えたり、髪をお下げにしてみたり、リボンを着けてみたり、お砂糖をこっそりなめてみたり、気取った恰好で部落うちを歩いたりしていました。そうすると夕方になりました。
 夕方になるとトエは思うのでした。今夜はきっとおいでになる。そうしてじっと庭の方に耳をかたむけるのでした。部落びとの足おとにさえどきりとしました。やがて何べんも驚かされているうちに深々と更けわたる夜に耐えられなくなり、廊下に出て星空を眺めました。そして来し方のもの思いにふけりました。
 自分がどうなるのか分らなくなるのです。ぼろぼろ涙があふれました。
  今朝お逢いしてさえ夕べとなれば
  またお逢いしとうございます
  どうして十日二十日
  別れて居らりゅめ
 トエはそんなうたをうたってみました。するとまたしても胸がこみ上げてきました。トエは自分がどうしてこんなになってしまったのか分らないのです。朔中尉の世にも不思議な仕事を知ったときにトエは気が違いそうになりました。そして自分のからだを眺めてみて、自分が人間であることをどんなに悲しんだでしょう。トエはただ祈りました。トエの信じている神様に向かって。トエは本当は貰われ子だったのです。それは年とった二、三の部落びとだけが知っていた秘密でした。トエの母親は厳格な戒律の家に生れたひとでしたがトエを生み落とすとすぐ死んでしまったのでした。そのことはトエが大きくなるにつれて何時とはなくトエの耳にもはいっていました。いつどんなふうにして今の家に来たのかは分りませんでしたが、物覚えのついたときにトエは一冊の革表紙のブックを持っていたのでした。そのブックはお母さんのものであったのに違いないと思いました。そして自分が知らず知らず信じていた神様はきっとお母さんの信じていた戒律の教えの神様に違いないと思いました。その神様にお祈りするときにトエはそっとブックに頬付けをしました。するとブックの表紙に縫いこまれた二本の長短の細い銀の短冊形の交叉している紋章がひんやりと頬のぬくもりを奪うのでした。このことをトエは誰にも話しませんでした。
 きっとこれは邪宗の教えだと言われるに違いないと思ったからでした。
 中尉さんはだんだん怒りっぽくなって来ました。トエはひしと感じました。トエは中尉さんがひるあんどんだと、うとんじられているらしいことも知りました。可哀そうな中尉さん、トエにばかり威張ってみせて我儘をするのだわ、トエには中尉さんのぴりぴりした神経がその胸から伝わってくるのを知っていました。トエは突然呪わしい気持になりました。何故何故何故。いつか金星がすっかりキャンマ山の上に上ってしまってあわてて峠を駈けあしして帰って行った中尉さんの後ろ姿。そのときトエは部落の広場に佇んで朝もやに包まれた峠への赤土道を人影を求めていつまでもいつまでも見つめていたのに。
  トエのいる浦の朝ぎり
  軍服のお袖に
  別れ涙の
  別れ涙の紅のあと
 すると、新しく涙がぽろぽろ頬を伝わりました。敵が近付いていることは、トエにもうすうす感じられました。中尉さんが何故この頃トエの所に来られないかも分っていました。そしていよいよ敵がやってくれば中尉さんがどうするかは、それは分りすぎるほどはっきり分っていました。でもトエは毎晩毎晩羽子板星が中空にあがりきってキャンマ山の頂に金星が不気味に明るくまたたき初めるまで、お縁のところにじっと坐っていました。その年の金星は二人にとって、いみじくも偶々きぬぎぬの星であったことさえただごとと思い捨てていたほどに。

 或る日、敵の飛行機の合間を縫って中尉さんのお使いの小城従卒があわただしくやって来てトエに白い細長い包みを渡すと又あわただしく帰って行きました。
 トエはいきをとめて白い包みをほどくと一ふりの短剣が出てきました。トエはどきりとしました。短剣は銀の飾りのついた鞘にはいっていました。そして文が結びつけてありました。それには、岬ノ西ノシホヤキ小屋ノハマベノ一番汐ノ退クトキハ今夜十二時、と折れ釘のような字が読まれました。
 まだショハーテに朔隊の人たちが駐屯して来ない前には、トエの部落の人たちは潮のひいたころ合を見はからって磯伝いに岬の鼻を廻ってショハーテに行くこともありました。そしてショハーテ寄りのところに塩を焼く小屋が建っていたのです。そこは駐屯地の一番北東の端にあたるチタンの浜からすぐの所なのでした。しかし、この岬廻りはたいへん危険でした。潮の一番ひく時のわずかな間だけ浜辺を伝うことができましたがすぐ波が押し寄せてきて、とがった岩にぶつかり岬は硬い表情の立神になってしまい、後にも先にも行けなくなるのです。その上、岩の間には時々怖ろしい毒へびがとぐろを巻いていて、人に噛みつこうと待っているのです。
 トエは部落がすっかり寝静まってから頃合を見て浜辺に出ました。だが中尉さんは潮汐の図表の見方をあやまっていました。部落に近い浜辺では何ほどのこともなかったのですが岬の鼻近くなるとだんだん行手は険しくそそり立って潮はみなぎって居りました。トエは山際の崖を難儀して歩かなければなりませんでした。そしてそれはあの毒へびに対しては一層危険でした。そのうち山際がそそり立っていてどうしても歩けない場所がありました。そんなときにトエはすべる岩をつかまえて海の中をこしました。白月に向かった月はもう沈んで居りました。海の底はとがった岩やそそり立った貝がかくれていて、あしを傷つけました。夜光虫がトエの着物に一ぱいまとわりついて光ったり消えたりしました。なまぐさい潮の香が鼻をつきトエは泣きました。誰をうらむでもなく、ただ自分の生れ合わせを泣きました。ガジマルの生えた下を通るときはトエもヨチと同じようにケンムンが怖かったのです。夢中で通り過ぎました。沖の方から時々櫂の音がきこえてきました。こんな夜更けに誰が通るというのでしょう。それはきっと亡霊に違いないと、トエは思いました。風がヒュウヒュウと吹いているところもありました。トエは眼をつぶり岩のかげにうずくまって祈りました。もうれが通り過ぎると、いためてびっこになった足をひきずって又山際の岩の間や海の中を歩きました。

 一方朔中尉は、眼がさめました。枕もとの夜光時計を見ると針は十二時の十五分前を示して居りました。もやもやした布切のようなものが朔中尉の頭の中にはいってきて起こしたのでした。それで寝ずの番に、私は塩焼小屋の所で夜の海を見ているから用事ができたら躊躇なく大声で呼ぶように、そうすると塩焼小屋に居る私はその声をきいてすぐとんでくるからと言い置いて、塩焼小屋の浜辺にやって来ました。トエの来る方向の闇をすかして見ますと潮がひたひたと山際まで来ているのを発見しました。しまった! と中尉さんは思いました。でもトエは来る! きっと来る。しかしひどい難渋をしてくるだろう。つと胸がつきあげられ、トエがいとしくてたまらなくなりました。じっとしておれないのです。しかしじっとつっ立っていました。やがてためらい勝ちに浜辺の砂をふむ足おとが近付いてきました。思わず岩のかげにかくれました。その足おとが岩のところに来て、ぎくりと立ち止ると、中尉さんは静かに岩かげから出て、その人かげをしっかり胸に抱きました。トエは黙って抱かれました。汗でうむれて髪の毛のにおいがしました。中尉さんはトエの顔を胸から離して闇の中でながめようとしました。ほの白くほつれ毛が汗で額にくっついていました。中尉さんが両手でトエの目もとをさぐると指がぬれました。そしてにわかにあついしたたりを指先に感じました。何だかズボンのあたりがつめたいので、トエのからだをさぐると腰から下がびっしょり濡れているのを知りました。びっくりしてよく見ると、腰のあたりに海草がくっついていました。トエがどんなにしてここまで来たかがよく分りました。胸がしめつけられるように痛みました。足もとを見るとトエははだしになっていました。そしてあちらこちらに血がにじんでいました。中尉さんは自分のからだでトエをあたためてやろうとしましたが、トエのからだはなかなかあたたまりませんでした。トエは着物の手首と紋平の足首の所にゴムひもをつけてからだをきつくしめていました。それでそこがゴムひものせいでくびれました。中尉さんは何も言いませんでした。トエも黙って自分の胸の鼓動を数えていました。対岸のウ島のキャンマ山の頂がうっすら明るくなりました。それはあかつきの金星が出て来る前ぶれでありました。

 トエは言いました。
「あそこなの」顔は中尉さんの方に向けたまま指だけあらぬ闇の岬の方をさしました。
「へびがいたの」
 その晩もトエは冒険をしたのです。
 中尉さんはこのはだしのむすめの小さな心臓が嘘のようにどきどき大きな鼓動を打ち続けているのがたいへん不思議になってきました。彼女はもう全く何も考えていないだろうということが素晴らしく奇妙なことに思われたのでした。自分はこんなにも、別のことを考えておどおど闇の中をうかがっているのに。
 すると又、あの鈍いけったいな物音が南の方から耳にまつわりはじめました。それは又してもカゲロウ島の方に刻々と近付いてくるのです。生けどった小鳥のように暖く小さく動いているトエを胸にしながら中尉さんは、眼と耳を物音の方に集中しました。それは、近付いて来ました。いつもの音より二倍も三倍も大きいものでありました。耳にがんがんひびいて頭が痛くなるような近さまでやって来ました。と眼の前がぱっと紫に明るくなり、ウ島とカゲロウ島の間の海に真っ赤な火柱が竜のように立ち昇りました。それは瞬間の出来事でした。その火柱はすぐ消え失せてしまい、けったいな物音はだんだん北の方に遠ざかって行きました。
 中尉さんは新しい事態を予知しました。トエを、つき放しました。トエはびっくりして中尉さんの顔を見ました。
「敵が来るの?」
「大丈夫、トエ。ぼく急に仕事を思い出した。大事な仕事だから。大丈夫。敵なんか来ないよ。だけど今晩はいけない。今からお帰り。心配しないで。あした小城を使いにやるから」
「ハイ」
 トエは素直に返事をしておろおろしました。
「トエ、心配しないで、あしたすぐもようを知らせるから」
「ハイ」
 中尉さんは本部の方にかけ出しました。トエのあまりに素直な返事が気になりました。たださっき見た変な爆発はただ事でないと思いました。浜辺の寝ずの番のそばを通るとき中尉さんは叫びました。
「本部に異状はないか」
「ございません」
 寝ずの番は元気よく答えました。中尉さんはやがて別に何事もない本部の様子を確かめました。みんな静かに寝て居りました。隼人少尉も寝ているようでありました。少しあわてたかな、そう中尉さんは思いました。トエが岬を行きなずんでいることを自分が受ける罰のように悔みました。

 あんなにも昼となく夜となくやって来た敵の飛行機がぱったり来なくなりました。それはぶきみな沈黙でありました。そんな日が三日ばかり続きました。その頃は毎日毎日がぷつんと絶ち切れていて、昔の日とも将来の日ともつながりがないように感じられてきました。それは怖ろしいことでした。どんなことにも感動しなくなってきたのです。そして思い出したように血が狂うのです。血の狂う日は心の中に雨ぐもが低く低くたれこめていました。

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