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日本国最後の帰還兵
深谷義治とその家族
深谷敏雄

   まえがき

 以前、中国残留孤児の波乱の半生を描いたNHKのドラマ『大地の子』を見ていた時、私の心に私たち家族が中国と日本で体験した生活が走馬灯のように浮かび上がってきた。このドラマの主人公や家族の苦しみが私たちに過酷な体験の記憶を呼び起こさせ、思わず涙が流れてきた。

 本書に書き記されているのは、私たち家族の過去の辛く悲しい思い出であり、戦争の傷跡をえぐる出来事である。
 私の父・深谷義治は第二次世界大戦で日本陸軍に従軍し、勇敢さと才能を軍に買われ、中国大陸で「特殊任務」という地下工作に従事した。日本人でありながら中国人を装い、数々の任務を成し遂げた。そのため、二十七歳までに国から勲七等に叙せられ瑞宝章を含め二回勲章をいただいた。その後、北京で三笠宮殿下から一日中個人的に指導を賜ったこともあった。
 終戦後、上官が下した「任務続行」という命令を受け、日本国の国益のため、中国の大地に十三年間潜伏しながら任務を全うした。しかし昭和三十三年(1958年)、戦中戦後にかけて日本国のために働いたスパイ容疑で中国当局に逮捕され、世界でも最も処遇が厳しいといわれる上海市第一看守所(拘置所)と上海市監獄(刑務所)に、合わせて二十年四ヵ月収監された。判決を受けるまでの十六年間、父は外界との連絡を一切禁じられ、公安によって家族には生死さえも極秘にされた。
 父が拘禁されている間、母は罪人の妻として、子供は罪人の子として、中国政府に人質として囚われ続けた。その苦境の中、母は女手ひとつで幼い四人の子供を育て上げた。だがのちに、成人した兄も反革命分子の家族という不利な状況下で冤罪をでっち上げられ、九年間、父と同じように囚われることになった。
 昭和四十七年(1972年)、田中角栄首相(当時。以下、肩書などはすべて当時のもの)が中国を訪問した。それから二年後、十六年間拘禁されていた父は「中国の安全に対し重大な危害を与えた罪」で中国政府から無期懲役の判決を受けた。そして、父と私たち家族は日中平和友好条約締結の際の交渉駆け引きの切り札として、中国政府に利用されることとなった。
 父は長い受刑により片目の視力を失い、命までも脅かされるほどの重病にかかった。その間、日本政府による中国政府へのたび重なる釈放要請があったにもかかわらず、それには応じてもらえなかった。その根本の原因は、父が戦後も日本のスパイであり続けたことを絶対に認めなかったことにあった。敗戦国が無条件降伏後に敵対国にスパイを潜伏させることは、決してあってはならないことである。そのため、父は日本国の名誉を傷つけないために完全黙秘を貫いた。
 昭和五十三年(1978年)十月十三日、中国政府はケ小平副首相の訪日の際の日本政府への手土産として、父と兄を釈放した。私たち一家は、外務省や多くの方々の支援や尽力のおかげで、やっと祖国日本に帰ることができた。
 帰国後も、父は国の名誉を傷つけないという信念を貫くために、戦後、日本のスパイとして活動した過去について沈黙を保ち続けた。しかし、帰国後六年目に元上官たちの勧めで、歴史の真実を尊重する観点から、テレビ朝日の『日本100大出来事』という番組に出演。戦後も日本のスパイとして任務を続行したことを公表した。

 父は監獄に囚われていた時、激励に来られた恒松制治島根県知事に「釈放されたら『母を想う』という内容で本を書いて、日本の皆さんに私の波乱万丈の人生をわかっていただきたいと思います」と伝えた。しかし、拘禁の後遺症や様々なことを原因として重度身体障害者になり、自らの手で本を書くという望みは絶たれてしまった。
 だが、次男である私は、父が体験してきた壮絶な人生と、一家が歩んで来た苦難の道のりを歴史の闇に葬ってはならないと思い続けてきた。そこで、父の夢、そして私たち家族の夢を実現するため、本書にまとめる決心をした。
 私は中国で育った。そこでは高校までしか通えず、日本語を学ぶ機会はなかった。だが、日本への帰国後三十六年間、正社員として仕事を続けながら日本語をゼロから独学で学んできた。そして、六年の歳月を費やして、粛々と本書を仕上げてきた。私の背中を押したのは両親の長過ぎた苦しみと、青少年期に置かれた逆境から生まれた日本人二世としての不屈の精神である。

 私は中国在住時は中国国籍の尤敏龍として住民登録されていたため、その時代の記述では尤敏龍の名前ですべて記されている。そして、日本への帰国時に深谷敏雄に改名した。
 本書は、私・深谷敏雄の視点で書かれた章と父・深谷義治の視点から書かれた章とが交互に展開していく。父の視点での章を構成するにあたっては、父の書いた『獄中記録』と帰国後の手記を引用している。最後に私の娘・富美子に感想を書いてもらった。
 読みにくいことは重々承知しているが、なるべく父の生の言葉を残したいという気持ちから、このような構成にしたことをご理解いただきたい。

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