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海外で恥をかかない世界の新常識
池上 彰
はじめに

 ニューヨークの街を歩くにはエネルギーがいる。ニューヨークの喧騒のなかに身を置くと、確かに元気になるのだけれど、心身ともに疲れているときは、むしろ余計に疲れてしまう。
 そんなときは、キプロスのニコシアで地中海からの風に吹かれて、心に休養を。少し回復したら、モロッコのマラケシュの混沌か、ベトナムのホーチミンの雑踏か。どちらも心の回復薬になってくれるはずです。
 これまで世界各地を旅してきました。とはいえ、海外デビューは社会人になってだいぶ経ってからのこと。大韓航空機がソ連軍の戦闘機に撃墜された事件(一九八三年)を取材にソウルに行ったのが、初の海外でした。
 このときは、緊急のために取材ビザの申請が間に合わず、香港への途中、トランジットでソウルに立ち寄るという方法を取りました。
 当時のソウルは、まだ軍事政権。街の至るところに小銃を持った兵士が立ち、車で移動していると、車内をのぞき込んでくるのですが、このとき一緒に小銃の銃口まで車内に飛び込んできました。
 ソウルで二晩徹夜して、フラフラになった頃、正規の取材ビザを得た交代要員が到着し、お役御免。香港へのトランジットである以上、いったんは香港に行かなくてはなりません。まだ中国に返還される前のこと。香港の夜を楽しんで、などと思っていましたが、二晩徹夜をしていたため、疲労困憊。香港の夜景を楽しむ元気もなく、ホテルで爆睡。翌日、飲茶のランチをしただけで帰国しました。なんだかなあ。
 海外に頻繁に出かけるようになったのは、二〇〇五年にNHKを退職し、フリーランスのジャーナリストになってからです。中東調査会に入会し、中東各地へ自費で取材に行っているうちに、民放テレビから声がかかるようになり、その後は、テレビ番組の取材で世界各地に行くことも多くなりました。
 イラクのバグダッドでは、防弾チョッキを着用し、防弾車で移動。車の助手席には民間軍事会社の武装要員が同乗。窓の外に爆風避けの土嚢が積まれた宿舎に宿泊。夜間になると、チグリス川の向こう岸からロケット弾が撃ち込まれることがあり、そのときは警報が鳴るから防弾チョッキを着てヘルメットをかぶれと指示されたのですが、翌未明、その通りにロケット弾が近くに着弾。しかし、それに気づかずに熟睡していました。
 北朝鮮の平壌やキューバのハバナ、サウジアラビアのジェッダ、リヤドでは情報省の役人などのお目付け役が、私の行動に目を光らせていました。自由な取材が不可能な所も多いのです。
 こんな取材旅行を繰り返しながらも、世界各地の魅力ある街を歩いてきました。街を歩きながら、その国の歴史を振り返り、いまの政治制度の成り立ちを考える。すると、街の姿が違って見えてくる。読者のあなたにも、そんな体験をしていただきたいと考え、一風変わった旅行案内が誕生しました。
 世界のことを知らないまま旅していたのでは、思わぬ恥をかくこともあります。それを防ぐために、この本がお役に立つこともあるでしょう。
 街を見ることで、その国が見えてくる。その国が見えると、やがて世界が見えてくるのです。
 本当は、もっと多くの場所を紹介したかったのですが、私が案内できる街は、いささか治安に問題があったり、内戦終結の残り火がくすぶっていたりするところが多く、安全が保証できない街の紹介は断念しました。
 とはいえ、世界のどこの国も、日本ほど治安はよくありません。出かける際は、身の回りにご注意を。自己責任の世界ですから。

 この本に取り上げた街の多くは、集英社の女性月刊誌『BAILA』に連載したものが元になっています。その連載が始まったのが二〇一〇年で、単行本として出版されたのが二〇一五年でした。そして現在に至るまでには、それぞれの街や国において政治情勢などが変わったところがあります。今回の文庫化にあたり、そういう変動のあった部分を加筆、修正しました。
 とはいえ、この本でとりあげた大半の街は、何百年もその姿を変えずに人々を見守り続けてきました。遠い見知らぬ街に思いを馳せ、さらに旅に出かけるときに、この本を役立てていただければ幸いです。

 二〇一七年七月
         ジャーナリスト・名城大学教授 池上彰


chapter1 アジア

ソウル
   【国名】大韓民国 【公用語】韓国語 【通 貨】ウォン

いまだ停戦中


 東京から飛行機で二時間半、福岡からなら一時間半。その気なら日帰りだって可能なソウルは、日本から最も近い外国の首都です。
 顔つきも似ていて、お互いの食文化も浸透している日本と韓国ですが、たどってきた歴史のために感情面では大きな隔たりがあることを、韓国を訪れる人はまず知っておいたほうがいいでしょう。
 ソウルで地下鉄に乗ろうとすると、日本人には違和感を覚える光景がそこにあります。ホームの壁沿いにショーケースのようなロッカーがあり、そこには防毒マスクが並んでいます。そう、これは北朝鮮の攻撃に備えたもの。この国の戦争は、まだ終わっていないのです。韓国には徴兵制がありますし、朝鮮戦争の開始時期から国運軍の主力部隊として派遣されたアメリカ軍が、現在も駐留しています。
 実際に目にすることはできませんが、ソウルを流れる漢江(ハンガン)に架かる大きな橋には爆薬が仕掛けられています。北朝鮮が攻めてきたとき、橋を爆破して漢江を渡らせないようにするためです。朝鮮戦争が停戦してからしばらくは、漢江の北の土地の値段は南より安かったのです。また注意してみると気が付きますが、高速道路の一部には中央分離帯のないところがあります。これも有事には滑走路として使う目的があるためです。
 一九五〇年に始まった朝鮮戦争は、一九五三年に休戦協定が結ばれましたが、現在もあくまで停戦中。その停戦までの三年間、同じ民族同士が半島全土で戦い、死者四〇〇万人ともいわれる悲惨な状況を経験したのです。北と南で離ればなれになった家族も多くあります。戦争という言葉には、われわれ日本人よりはるかに敏感なわけです。

反日カード

 その朝鮮戦争以前、かつて日本は大韓帝国を併合して支配下(一九一〇〜一九四五)に置き、韓国の人たちの言葉も文化も土地も奪ってしまいました。韓国では、「日帝三六年」という言い方をします。名前まで日本風に改名させました。「創氏改名」です。
 今でも、お年寄りのなかには日本語が上手な方がいます。でも、軽々しく「お上手ですね」なんて言わないほうがいい。母国語を取り上げられ、無理に押しつけられた日本語を褒められても、うれしくはありませんから。
 またその間の第二次世界大戦中には、朝鮮半島の人たちが日本で労働を強いられたり、慰安婦として戦地に送られたりしています。これは、もともと日本人についても行われていたことですが、そういった日本支配の時代が「反日」という感情を生んだのです。
 前大統領の朴槿恵(パククネ)は韓国で初めての女性大統領であり、朴正煕元大統領の娘でもありました。父は独裁的に権力を振るった大統領という側面と、韓国を大きく成長させた立役者であるという側面を持ち合わせ、韓国国内でも評価の分かれる人物ですが、日本の士官学校の出身であることや、妥協の末に日韓基本条約を結んだことで「親日」のレッテルを貼られています。だからこそ、娘の朴槿恵が国民の支持を得るためには「反日」のスタンスを崩すわけにはいかなかったのです。
 韓国の大統領の任期は五年で、再選は禁じられています。過去の多くの大統領に言えることですが、国民の支持を得て大統領に選出されても、その期待に応えるのはなかなか困難なこと。すべての政策が国民に受け入れられることはなく、やがて支持率は低下していきます。そこで彼らが持ち出すのが「反日」カード。これを使えば支持率は上がるとばかりに、日本に対して強い態度で臨むのです。そもそも反日教育を受けた国民のなかにある反日感情を、政治的に利用していることも事実なのです。
 こういった反日感情や反日教育を背景に、韓国では一九九〇年代まで、日本の音楽や書物などの文化が拒否されてきました。しかし現在では、その様子は大きく変わっています。ソウルの書店に行くとわかりますが、日本の作家の韓国語に訳された本がずらりと並び、若い世代を中心に読まれています。ドラマや映画もお互いのものが見られるようになり、音楽も相互の国でファンを得ています。政治とは関係のないところで、文化交流は着実に進んでいます。
 また、日本での韓流ブームをきっかけに、日本語を勉強する人も格段に増えているようです。こうした事実を知ったうえでソウルに行けば、「反日」という言葉におびえることなく、街を楽しめることでしょう。

奇跡の経済成長

 日本が右肩上がりに経済成長していた時代は、「ソニー」「トヨタ」「ホンダ」などのブランド名が世界を席巻していました。それが、今はどうか。勢いのある「サムスン」「ヒュンダイ」「LG」、すべて韓国の企業です。
 日本に追いつけ追い越せとばかりに発展してきた経済成長ぶりは「漢江の奇跡」とまで言われたものです。一九八〇年代から一九九〇年代にかけて、韓国の経済は驚異的な成長を遂げました。しかしその後、一九九七年にはIMF(国際通貨基金)の支援を受けるほどの経済危機に見舞われました。
 日本の人口、約一億三〇〇〇万人に対して、韓国は約五〇〇〇万人。人口が日本の半分以下ですから、国内だけをマーケットにするには限界があります。だから初めから、グローバル・スタンダードという意識が高く、世界を相手に物を作っていこうという発想があったのです。そのために、国を挙げて英語能力の向上に取り組んできました。「ガラパゴス化」したといわれている日本とは対照的です。
 その一方で、韓国経済を牽引している企業のほとんどが財閥グループの企業。韓国全体の売り上げの四分の三は財閥十大グループの売り上げといわれるほどです。二〇一四年に起きた「ナッツリターン」と呼ばれる事件に代表されるような、財閥やその後継者の振る舞いが国民の非難の的になります。傲慢な経営体質や政治家との結びつきなど、
一般庶民には非常識としか考えられないような事件が起きています。朴前大統領も財閥との関係が国民の反発を呼び、大統領弾刻訴追に追い込まれました。
 それでも財閥企業あっての韓国経済だということを国民は知っています。学生が就職を希望するほとんどの会社が財閥グループのもの。そこには、やり場のないジレンマがあるのです。

活気に満ちた熱い街

 ソウルの熱っぽさを感じるなら、やはり市場でしょう。南大門にも東大門にも大きな市場があります。農産物、海産物、衣料に日用品。あらゆる店がずらりと軒を連ねています。私が好きなのは、特に夜。一二時くらいになっても、驚くべき賑やかさと明るさのなか、若い人たちから子連れの家族までが歩いています。朝まで営業している飲食店も多くあり、エネルギッシュなパワーに圧倒されます。「草食系」なんていなさそうですよね。最初は、そのパワーに圧倒されて「負けた」なんて思ってしまいますが、そのうちだんだんこちらにもそのエネルギーが伝染してくる。それはおもしろい感覚の体験です。
 日本では、韓国料理といえば焼き肉と冷麺がセットになっているイメージがありますね。でもこの冷麺、もともとは半島北部、つまり現在の北朝鮮の料理なのです。国が南北に分かれ、北から南に逃れてきた人たちが、故郷の味、冷麺の店を韓国で始めたのです。
 ソウル市内の中心を流れる清渓川(チョンゲチョン)周辺は、ぶらぶら歩くには格好の場所です。緑豊かな遊歩道や噴水があり、ソウル市民のデートスポットや散歩コースになっています。以前は周辺住民の下水道がわりに利用され、その水質汚染が悪化したためにそこに蓋をして高架道路がつくられていました。しかし一九九〇年代には高架道の老朽化が進み、排ガスによる大気汚染も問題になります。そこで市民からの要請もあって、李明博(イミョンバク)元大統領がソウル市長だった時代に、高架道をすべて撤去して全長約六キロメートルの人工河川としてよみがえらせたのです。

目で見て肌で感じて

 時間に余裕があれば、板門店(パンムンジョム)にも行ってみるといいでしょう。ソウルから北へ約八〇キロメートル、一九五三年七月二七日に朝鮮戦争の休戦協定が調印された場所で、軍事境界線上に「軍事停戦委員会本会議場」や「中立国停戦監視委員会」の施設などがあり、ツアーに参加して見学することができます。
 北朝鮮側からの見学者もいますが、南からの見学者とは接触できないようになっています。韓国の人たちは厳しい規制があってなかなか行くことができませんが、日本人なら大丈夫。ただし、気軽に行けるわけではありません。事前に申し込む必要があり、戦闘に巻き込まれて死んだとしても文句は言いません、という意味合いの念書にサインさせられます。また服装や持ち物にも制限があり、注意が必要です。
 ツアーによっては、「第三トンネル」の見学もできます。これは停戦状態にもかかわらず、北朝鮮が韓国に侵攻するために掘ったもので、板門店からおよそ四キロメートルのところにあり、ソウルからいちばん近い「南進トンネル」です。
 都羅(トラ)展望台からは北朝鮮が見え、南北ともに何かあれば即座に戦える態勢で兵士が武装しています。停戦状態の分断国家の最前線に立つという、日本では想像もつかない緊迫感。
 戦争とは何か、を考えずにはいられない場所です。


台北
     【地域名】台湾(中華民国) 
     【公用語】中国語、台湾語、客家語、等
     【通 貨】新台湾ドル


日本初の植民地

 何年か前、台湾の日本向け観光キャンペーンのなかで「初めてなのに懐かしい」というキャッチコピーがありました。それを見てなるほどと思った記憶があります。実際、台湾に行くと、ふとそんなふうに感じることがあります。それは年配の人間に限ったことではなく、若い人でもちょっと昔の日本に出合ったような懐かしさを感じるようです。
 一八九五年、日清戦争に勝利した日本は、清の領土の一部だった台湾を統治することになりました。日本としては初の海外植民地を得たわけです。当時の台湾は産業もなく、人口も少なく、清の政府にとってはまったく魅力のない島でした。土地は荒れ果て、疫病など衛生問題も深刻でした。そこで人材を投入し、日本を規範としたさまざまな開発に乗り出します。
 なかでも台湾総督府の民政長官となった後藤新平が、現在の台湾の基礎づくりに貢献しました。彼は「その土地の社会的習慣や制度は、そこならではの理由と必要性があって生じたものである。だから、現地の状況に合わせたやり方が望ましい」と考え、現地調査を徹底して行ったうえで、農地の開墾やインフラの整備、教育制度、医療体制などを整えていきました。
 その後、第二次世界大戦で日本が敗れると、一九四五年に台湾は中華民国へと返還されます。当時の中華民国は国民党と共産党との内戦状態にありました。一九四九年、内戦で共産党が勝って、毛沢東は中華人民共和国をつくります。日本が出ていった台湾に、今度は内戦で敗れた国民党が流れてくることになりました。
 しかし国民党の統治はあまりに横暴で、民衆の反発には大弾圧で臨みます。一九四七年二月に起きた暴動は「二・二八事件」と呼ばれ、二万人もの人々が殺されました。日本の植民地時代に高等教育を受けた知識人の多くが処刑され、国民党以前の色を徹底的に排除して支配しました。
 日本の統治時代には現地の人々はもちろん嫌な目にも遭っていますし、反抗する人は殺されたこともありました。ただ、大陸からやってきた国民党軍に比べれば日本の時代のほうがまだましだったと思った人々がいても不思議ではありません。

国交のない関係


 台湾が国民党の独裁から民主的な中華民国へと変貌していく過程で重要な役割を果たすのが李登輝です。彼は「内省人」初の総統です。内省人(または本省人)というのは、台湾省出身者のことで、いわば「内側」の人。外省人は、大陸からやってきた人および子孫のことをいい、両者には激しい対立がありました。
 日本やアメリカでも学んだ李登輝は、一九八八年から二〇〇〇年まで総統を務めました。
 本格的な民主化を推し進めた彼の主張の根底には、大陸の中国と中華民国とは別ものである、という考えがありました。つまり、台湾は台湾として大陸とは違う独自の道を歩んでいくということ。「台湾独立論」です。
 当然、中華人民共和国はこれを認めるはずはありません。「反国家分裂法」という法律をつくり、もし台湾が独立するようなことがあれば、武力を使ってでも阻止すると宣言しています。
 日本との関係でいえば、一九五二年に日華平和条約が調印されて、国交を回復しましたが、一九七二年の日中国交正常化により、日本は中華人民共和国を国家として認めたため、中華民国とは国交を断絶して現在に至っています。
 しかし、日本と台湾との行き来は盛んで、貿易から文化に至るまで、あらゆる面で積極的に交流が進められています。政治を担うのが民進党であれ国民党であれ、それは変わりません。

建国の父

 中国の礎を築いた孫文と蒋介石は、二人とも、日本にも長く滞在し、日本と深い縁を持つことになりました。
 孫文は多くの日本人も支援した辛亥革命を起こして清朝を倒し、中華民国を建国しました。彼は「国父」と称されています。生誕一〇〇周年を記念して建てられた「国父紀念館」が、中山公園の一画にあり、台北駅からほど近いところには「国父史蹟紀念館」があって、孫文が滞在したことのある日本式の旅館と日本庭園が保存されています。
 蒋介石は日本で孫文と出会い、辛亥革命に参加。その後初代の中華民国総統になり、一九五〇年から一九七五年までの長期政権を維持しました。「中正紀念堂」を見れば、彼がいかに崇拝されていたかがうかがえます。「中正」とは蒋介石の本名。高さ七〇メートルもの白い大理石の建物が、広大な自由広場を見下ろしています。
 台湾の歴史を振り返るとき、忘れてならないのは「忠烈祠」。辛亥革命や抗日戦争などで亡くなった軍人をはじめ、国家に貢献した人々が祀られています。ここでは、衛兵の交代式が、訪れる人のお目当てのひとつ。海軍は白、空軍は青、陸軍は緑の制服を身につけたイケメン揃いの儀仗兵の行進とセレモニーが見ものです。

若者に多いハーリーズー


 日本とのつながりは古いものばかりではありません。
 植民地時代に日本語教育を受けたお年寄りは日本語が話せます。彼らは強制的に日本語を学ばされたのですが、いまでは、若い人たちが積極的に日本語を学んでいます。彼らが「哈日族(ハーリーズー)」。日本大好きっ子たちのこと。コミックやファッション、J-POPなどをきっかけに、日本文化に親しんでいます。
 ハーリーズーの聖地ともいわれる西門町は、台湾の原宿とも渋谷とも呼ばれているそうです。若い人たちのファッション街といったところ。ちなみに、町名は日本の統治時代の名残で、いまも通称として使われています。
 資本主義で大陸に比べてはるかに民主主義が浸透しているため、外国企業が進出しやすい一面もありますが、近年は大陸の市場が拡大し、大陸からの観光客も増加して、台湾経済の大陸依存度が高くなっています。通貨も「台湾元」(新台湾ドル)が人民元圏に吸収されつつあり、いずれは経済的に「中国の一部」になるという状況が予想されます。

夜市に温泉

 蒋介石は軍隊を引き連れて大陸から台湾にやってきて、長期の独裁政権を敷いていました。その歴史のなかには内省人虐殺という大弾圧もあり、蒋介石に対する国民感情には崇拝と反発の両面がつきまといます。
 しかし、実際的な貢献をしたという点で見解が一致しているのが故宮博物院です。内戦に敗れて台湾へ逃走してきたときに、北京の故宮博物院の所蔵品を大量に運んできました。ルーヴル美術館や大英博物館と並ぶ屈指の博物館となっているのは、その膨大なコレクションの数々のため。すべてを見るには八年はかかるといわれています。
 それから、料理にも貢献したといえるでしょう。人々とともに大陸各地の料理も集まったわけですから、地元の台湾料理以外にも、四川、上海、北京、湖南、広東、杭州などのさまざまな土地の料理を楽しむことができるのです。
 おすすめは夜市です。街中いたるところに夜市がありますので、夕食を軽めにしておいて、ぜひ出かけてください。ウサギや鶏をまるごと吊るしてあったり、スッポンやヘビがいたり、ちょっとグロテスクな場面に遭遇するかもしれませんが、それも食文化の一面です。なにより、食欲をそそるにおいと雑多な賑わいが魅力です。
 さらにうれしいことに、温泉があります。台北駅からMRT(新交通システム)で三〇分のところにあるのが北投温泉(ベイトウウェンチュエン)。日本が統治していた時代に開発され、温泉旅館を建てて保養地にしたのです。一時期さびれたこともありましたが、現在では温泉博物館や公営露天風呂もあり、賑わいを見せています。

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