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みちくさ道中
木内 昇

   まっすぐ働く

先延ばし

 年始より年末のほうが好きである。有り体に言えば、「新たな一年をはじめるぞ」と意気込むよりも、「ここらで一旦リセットしよう」と息を抜くほうが、据わりがいいのだ。なんともやる気のない書き出しで申し訳ないが、年々この傾向が強くなるのは困ったものである。
「今年の抱負」「目標」「計画」──新年になるとほうぼうで目にする文言も、なかなかに気が重い。というのも私の場合、これまでの人生で一遍たりとも計画通り、思い通りに事が運んだためしがないからである。加えて生来の刹那主義も祟り、自分の理想とする将来像を掲げ、そこに向かって進め! といった建設的思考とも縁がない。それより年末に来し方を振り返るほうが、まだ性に合っている。が、これとてたいがいは、幾多の失敗を思い出して嘆息する。はたまた「今年もパッとしなかった」とひとりごちるのが関の山、愉しみとは懸け離れた行為となる。ただ年末ゆえに「年も改まることだし、これまでのことは忘れよう」と開き直れるのが救いといえば救いである。
 ずいぶん前になるが、「将来の夢」を訊かれるたび、「歴史に名を残すことです」と答えていた時期があった。スケールが大きいね、と相手は必ず目を丸くしたが、これは単なる目くらましで、私に字面通りの野望遠謀があったわけではない。そもそも、歴史に名が残るか否かは、後世の人に下駄を預けるべきことで、今を生きる私たちにはどうにもできないことなのだ。例えば太宰治にしても、よもや未だ墓に花が絶えぬほど人気が続くとは、生前思いもよらなかったのではないか。「俺がそんなに? 井伏じゃなくて?」と、草葉の陰で驚いているやもしれぬ。つまり私は、何人たりとも検証し得ないことを言っては、現世で果たすべき計画や目標から逃げの一手を打ってきたわけである。
 この癖は、作家になってからも相変わらず。編集者から途方もない目標(ベストセラーとか)を与えられるたび、「いや、そいつぁ来世の楽しみにとっておきましょう」と、お茶を濁している。さすが時代小説を書いているだけあって長尺でものを見ますな、と感心する編集者は皆無、みな呆れて、そそくさと去っていくのが難なのだが。
 まさに流れ流されの浮き草人生。しかしそんな身ゆえ、心がけていることがひとつある。自分に起こった事柄は引き受ける、という単純な決め事だ。それが不可抗力であれ、自らの意志とは関わりないことであれ、背負ってしまったほうが楽だと、これまたあるときから開き直った。もちろんすべてが容易に背負いきれるものではないが、といって嫌なことがあったとき元凶となるところをしつこく恨んだとしても状況が改善するわけではないからだ。それよりも、どうすればいいかな、と考える。どうにもいい案が浮かばぬときは、あまり思い詰めず「なんとかなるさ」と一旦据え置く。あまりに相手が悪ければ、潔く退却する。そうこうするうち、あっという間に一年が経ってしまい、「今年もパッとしなかった」と肩を落とすハメになるのだが、この、ひとつひとつ小石を積み重ねていくような作業が、いつの日かなにかしらの形を成すのではないかと、あくまで楽観的に構えている。
 人生、思い通りにいかぬところにこそドラマがある。そう自分を慰めつつ、たとえどんな時代を生きても、「これはこれで面白かった」と思える胆力をつちかえれば、と実は密かに、贅沢な夢を抱いているのだ。


妄想的活躍譚

 かつて会社勤めをしていた頃、何度となく脳内で繰り広げていた妄想があった。物語は、社のフロア入口で悲鳴があがる場面からはじまる。振り向いて見れば、黒装束の忍者が抜き身の刀を振り回して走り込んでくる。私は即座に机の下に潜ませていた剣を手に取り、単身、敵に立ち向かう。峰打ちでバッタバッタと奴らを倒して同僚たちから拍手喝采を浴びる、という筋である。
 いい大人が、机に向かって仕事をしているふりをしながらその実、自分の活躍譚を密かに組み立てて悦に入っている図というのは、そんじょそこらのホラー映画より遥かにおどろおどろしい。だいたい、忍者たちはなんのために、どこから送られてくるのか? そもそも二十一世紀の今、スナイパーではなくなぜ忍者? されど当時の私には、細かな点などどうでもよかった。本気で忍者来襲に備え、剣術の修練を積んでいたわけでも無論ない。たぶん、個人的にしっくりこない雑誌の編集部に配属されていたために、逃避願望に見舞われたのだと思われる。
 しかし。仮にも編集者ならば、例えばヒット企画を生み出す、とか、編集長になるとかいうのが活躍の形として適正なはずである。それなのに、よりによって忍者と斬り合い……。私はこの妄想を、同僚にも話さなかった。明らかにどうかしているという自覚はあったからだ。
 その頃、とあるタレントさんのインタビュー仕事が入った。話を聞き終え、食事をしながらの雑談になったとき、なにがきっかけだったか「仕事での夢」という話題になる。タレントさんが「いずれお芝居をしたい」と気恥ずかしげに告げた後、マネージャー氏に話を振ると、彼は目を輝かせて語り出したのである。
「撮影のセット脇に足場用の長い鉄柱が立てかけてあるとします。それが突然倒れてくる。スタッフや出演者が危ない! そこで僕が駆け込んでいって、間一髪、鉄柱を片手で受け止めて、みんなに感謝される──そんな夢をよく思うんです」
 私は息を呑んだ。……それって夢じゃないよ、妄想だよ。唖然としつつも「ここにも、いた」と思わず腹の中で叫んだ。タレントを大きく育てることでも、いい仕事を決めることでもなく、鉄柱を受け止めるという普通に考えれば起こりえない物語を創作、さらにはその妄想を、担当するタレントの前で堂々と口にする彼の勇気に感銘すらした。私はすべてを打ち明け、彼に共感したかった。が、できなかった。そこまで人間が練れてはいないのだ。タレントさんから白い目を向けられるマネージャー氏のかたわらで、ただただ良心の呵責にさいなまれていた。数年後、はじめての著作が出た際、私は彼にお詫びのつもりでそれを送った。なぜ一度しか会っていない僕に本を? という戸惑いもあらわな、お礼の電話がかかってきた。
 以来私は、この手の妄想で仕事の辛さを乗り越えている人はまだまだ存在すると信じるようになった。非合理的な営みには違いないが、飲みに行って憂さを晴らすより経済的で、愚痴を言い合うより精神衛生上よろしい。そしてなにより、全国のまだ見ぬ同志(同病?)が今日もさまざまな妄想を静かに花開かせ、それによって自らを保ち、現実に立ち向かい、また乗り切っていると思えば勇気凛々、明日も頑張ろうという活力が湧くのである。

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