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相棒はドM刑事 3
〜横浜誘拐紀行〜
神埜明美

   1.初めての誘拐(捜査)

 秋とは名ばかりの残暑続きだった九月も終わり、涼しさを実感し始めた十月最初の土曜日。空は快晴、絶好の行楽日和に老いも若きもこぞって遊びに繰り出していく──。
 というのは、一般人の話で。女刑事たる菱川海月には週末なんて関係なく、今日も馴染みのパンツスーツに身を包み電車に揺られて職場である港みらい署をめざしていた。
 刑事は公務員なので当直を除けば事件のない土日は公休日になるのだが、そこはそれ。溜まった書類を片付けるとかで大抵の者は休日も出勤している。特に刑事になって二年半、署の強行犯係の中では二番目に下っ端の海月としては、先輩が出勤しているのに休むのも気がひけるのだ。
(ま、したいことも行きたい所も特にないから、いいんだけど)
 電車の窓から流れていく風景を見ながら海月は独り毒づいた。会社員の友人とはスマホのアプリで会話するだけで満足しているし、買い物は大体通販で、コンビニ受け取りだ。二十五歳の独身女性にしては寂しい生活かもしれないが、優秀な刑事になるという目標に向かって頑張っているからいいんだもん、と己を納得させた。
 それでも、駅を一緒に出る群衆がみんな遊びに来た風情だと少し損をした気分になるもので。更に観光地みなとみらいの名物の一つ、帆船日本丸が帆を広げていたりすると(総帆展帆はたまにしか見られないレアものだ)、風に吹かれて自分も何処かへ行ってしまいたくなりもする。だから「少し遠回りして汽車道を散歩しながら行こうかな……」と考えたのもごく自然なことだった。
 汽車道とは、桜木町駅から徒歩数分先にある、臨港貨物線路の遺構を利用して作られた遊歩道のことだ。港内の小さな湾を斜めに横切るように設けられているので、そこを歩くだけで、船に乗らなくてもみなとみらいの高層ビル群を海の上から眺めることができるというわけだ。特に夜は凪いだ海面にビルの灯りが映りこむ幻想的な光景が楽しめる。
(いい天気……ちょっとよすぎるくらい)
 夜景には劣るかもしれないが、澄んだ青空を背に並び立つ高層ビルの勇壮な姿もなかなかのもので、明るい日差しの今日は窓の一つ一つまでもがくっきりと見えていた。
 三つの鉄橋を渡り切るとそこが汽車道の終点だ。線路を埋め込んだウッドデッキはまだまだ続くが海月の旅はここで終わり、ウッドデッキを外れて遊園地の方角へと曲がる。港みらい署は遊園地の向こう側にあるのだ。一緒に歩いていた人々は逆方向の赤レンガ倉庫方面へ向かい、こちらへ行くのは海月一人になった。
(さて、気持ちを切り替えて出勤出勤)
 ジェットコースターのレールを見上げながら歩道を進んでいると、背後から一人の男性に声をかけられた。
「すみませんがお嬢さん」
「はい……!?」
 道を間違えた観先客かと思いながら振り向いた海月の目と足は、視線の先の人物に釘付けになった。なぜなら。そこにいたのは、ダークグレーの三つ揃いのスーツを着こなした、すらりと背の高いロマンスグレーのおじ様だったからだ!
 歳はおそらく五十代後半、髪は銀髪のリーゼントだが、石川係長(海月の上官)の盛り過ぎでワサワサ茂るリーゼントとは違って、程よい量の髪が撫でつけられている。鼻筋の高い整った顔立ちは外国の俳優みたいで、若い頃はさぞモテただろうと容易に想像できた。
 何よりも素晴らしいのは声だ。姿勢のよい腹腔から出てくる低めの声は、オペラ歌手もかくやと思うほど深みがある。要するに美声だ。そんな百点満点中五百点の壮年男性が、紳士的な笑みを浮かべ海月を見つめているのだ。おじ様好き、友人に言わせると枯れ専の海月の血は一気に沸騰した。
(こんな完璧なおじ様、見たことない。この人こそおじ様の中のおじ様、ベスト・オブ・おじ様!)
 思わず「写真撮らせてください」と言いかけたところに、おじ様が被せるように声を発した。
「ああ、やっぱりあなただ。港みらい署の刑事さんですね」
「え? 私のこと、ご存知なんですか」
 どこかで会っただろうか。いや、一度でも見かけたら絶対に忘れないはずだ。なにしろ相手はベスト・オブ・おじ様……。
 海月が首を傾げていると、おじ様は上機嫌に語りだした。
「いや、最近インターネットの動画サイトで投稿ビデオを見ましてね。公園に出没した変質者に豪快な飛び蹴りをかます女刑事! 相手が全裸の男でも一切動揺しないで組み伏せるその冷静な精神! まさに女性警官の鑑だと──」
「うわぁああああっ!!」
 ドガシャッ!
 気がつくと海月は無意識におじ様を歩道脇の鉄柵まで突き飛ばしていた。
「おぅふっ!」
 おじ様は柵にバウンドしてたたらを踏んだが、なんとか転ばずに踏みとどまっていた。
「すみません、忘れてくださいっ!!」
 海月は相手の顔も見ずに九十度の角度で頭を下げると、一度も振り返らずに走り去った。

 港みらい署は今からおよそ二年半前に、埋立地みなとみらい地区の急激な人口増加に対応すべく設立された若い警察署だ。一、二階部分は移築された昭和初期の石造りのビルをそのまま使い、三階より上は新しく建造された長方形の鉄筋ビルディングが聳えている。一般人もよく訪れる交通課や警務課がある一階吹き抜け部分は、列柱やアーチ形の窓などのレトロな雰囲気が満載だが、残念ながら海月の所属する刑事課は新築された三階にあるので内装も普通のオフィス然としていた。
 しかしエレベーターだけは別だ。新しく設置されたものだが内扉が昔の鉄柵風で、中も飴色の木製パネルが貼られている。その洒落たエレベーターをニューヨーカーになった妄想にふけりながら使うのが海月の日課だったが、今日はそんなもの待っていられないと階段を駆け上った。
 白いだけで面白みのない扉を開けて広い刑事課の室内に飛び込むと、奥の強行犯係の島(机が島のように寄せてある)から、ダークブラウンのスーツを着たサラサラ茶髪のイケメンが立ち上がって海月を出迎えた。
「先輩! おはようござ」
「亘ーーっ! 死ねーーーっ!」
 駆け込んだ勢いもそのままにイケメン亘に膝蹴りを入れると、年下の相棒は崩れ落ちながらも「……いますっ」と最後まで挨拶を言い切った。礼儀正しい男である。
「く、くらげちゃん! 今のは傷害罪だぞ」
 白髪リーゼントの石川係長が前髪をわさわさ揺らしながら窓際の自分の席から立ち上がるが、海月はふんと鼻息を吐いただけだった。
「いいんです、本人も蹴られることを望んでいるんですから。それから私の名前はみづきです!!」
 フーフー息をつきながら睨みつけると、手負いの獣には敵わないと思ったのか石川はすごすごと着席した。ちなみに、海月が仁王立ちしている場所、強行犯係の島には十台の机があり全員が席についていたが、誰一人としてこちらを見もしない。海月による後輩・亘善への鉄拳制裁は日常茶飯事だからだ。
「げほっ、あの、先輩」
 足元からの声に海月はようやく視線を下ろした。長身の亘が手足を折り曲げて床に座っているとズワイガニを彷彿させる。二重の瞼も、真っ直ぐで高い鼻も薄い唇も、全てが整いすぎるほど整っている彼は、一緒に聞き込みしているとしばしばナンパされるのだが(女性たちには隣にいる海月が見えないようだ)、いつもあっさり袖にしている。
 それは職務中だから……という理由なら感心するのだが、そんなことは全くない。単に言い寄ってくる可愛い系の女性に彼が全く興味を抱かないからだ。なにせ彼は年上の性格のキツい女性に痛めつけられるのが大好きという正真正銘のドMくんなのだ。今だって鳩尾を押さえてプルプル震えているが、見上げる顔は超!笑顔だ。
「あの、先輩。朝から嬉しいんですが、僕はどうして蹴られたんでしょう」
「気にしないで、ただの八つ当たりだから。ま、ちょっとはあんたのせいなんだけど」
「それは、どうも?」
 海月はうずくまる亘の足を跨いで自分の机に向かうと、パソコンを立ち上げて急いで有名動画サイトに繋いだ。
 先般のおじ様が見たという動画には心当たりがありまくりだ。今年の夏、マンションの一室で起きた事件の張り込み中に、犯人の気をそらすために亘が公園に出て噂の幽霊に扮してわざと騒ぎを起こしたことがあった。しかし当初の打合せでは、幽霊のふりをして付近の住民を怖がらせていた愉快犯という設定だったのに、調子に乗った亘が全裸の変態(のふり)をしたため公然わいせつ罪で本気で捕まえてしまったのだ。逮捕の際に、ついつい飛び蹴りだけじゃなく股間への膝蹴りも加えてしまったが、相手が亘だったので、脂汗を垂らしながら「先輩の蹴り、最高……です」と喜ばれてしまったという苦い思い出だ。
 しかし動画に撮られていたとなると話は別だ。警察による過剰な暴行と騒がれでもしたら反論できない。まさか「これはヤラセで、この変態はうちの署員です」と説明するわけにもいかないし、そもそも本気で蹴っているのでヤラセではなくただの事実だ。
「これは確認しないわけには……見たくないけど」
 みなとみらい、変質者の類で検索をかけるとすぐにその動画がヒットした。
『実録! みなとみらいの怪談? 深夜の公園に現れる幽霊の正体!!』という筆書きフォントの題字と共に、夜更けの公園を俯瞰した映像が映る。どうやらマンションのベランダから家庭用ビデオで撮影したものらしい。テレビのホラー特集を意識した作りで、おどろおどろしい効果音までついている。音声は入っていないが、この公園に出るという幽霊の噂を字幕で説明している。街灯の下に全身黒尽くめの男がふらりと出現すると、『出たーー!』との字幕と共にホラー調のBGMがやかましく鳴り響いた。
 ここでやめてくれればただの怪奇ビデオなのだが、問題はここからだ。男が羽織っていた黒いコートの前をガバッと開くと中は一糸まとわぬ裸体で、同時に股間にモザイクがかかる。実はこの時、亘は肌色のパンツをはいていたので映っても問題ないのだが、モザイクのせいでかえって本物の変態に見えた。
(それにしても、なにも真正面から捉えなくたっていいでしょーに)
 まさかこの投稿者は亘とグルなんじゃ、などと穿った見方をして気分がささくれているところに、いつの間にか海月の背後に集まった強行犯係の先輩たちが能天気な声援を上げ始めた。
「おー決まった! くらげちゃんのライダーキック。こりゃ過剰な暴力だな、監察にタレこもーぜ」
「しかし何度見てもラストの金的蹴りは必要ねーよな、無抵抗なのに」
「でもこのシーン、『羨ましい』ってコメントで溢れてますよ」
「マジか。世も末だな」
 海月以外は全員男性なせいか、腹立たしいことに強行犯係は海月いじりとなるとこうして一致団結するのだ。本人は好きじゃない「くらげ」のあだ名でいつまでも呼ばれ続けているのもその一環だ。
 ちょうどその時に動画で流れ出したBGMも相まって(舞台がしっちゃかめっちゃかになった時に流れるドリフの例の曲だ)、海月の苛々は爆発した。
「じゃあみなさんにも一発ずつお見舞いしましょうか!?」
 振り返ると輪になっていた先輩たちがさっと散らばる。亘一人が期待に満ちた瞳で待っているが、これは無視した。
「甞田さん」
 海月は逃げの体勢に入っていた先輩の一人を呼んだ。ヤンキー風に金髪を逆立てた先輩(これでも三十代)は一応、足を止めて振り返った。
「この動画の存在、以前から知ってましたよね?」
 甞田は「ん、何のことだ」としらばっくれるが、海月に「さっき『何度見ても』って言いました」と指摘されるとコロッと開き直った。
「そりゃそうだ。なにせアップロード当時は人気トップテンに入ってたからな。最近すっかり沈んじゃったけどなー」
(なぜ教えない! それ以前に消せ!)
 口をついて出かかったが、どうせみんな面白がってわざと放置していたに違いない。
「ちょっと亘!」
 相棒という名の後輩(後輩と書いて下僕と読む)を呼ぶと、大喜びで「はい!」と応えた。
「サイトの動画ってどうやって消すの。やって」
「ええー消すんですか? もったいな……」
 本気で残念がる亘をギロリと睨むと語尾が小さくなった。
「まあいいですけど。僕は自分用にコピーしてあるので」
「…………それも消しなさい」
「はい……」
 海月の冷ややかな目に亘はしぶしぶ、自分の席で動画サイト宛の削除依頼メッセージを書き始めた。その頃には先輩たちはもう飽きたのか全員自分の席に戻っている。同じ室内のよその係は最初から何もなかったかのように仕事をしていた。
 メールを送る亘の背後に近づくと海月は囁いた。
「こんなもの残しておいて、うちの署の不祥事に発展したらどうするのよ」
「大丈夫ですよ、暴力振るわれた本人が訴える気がないので」
「私の名誉に傷がつくの! 大体、なんで投稿者は私の顔にはモザイクかけないわけ」
「先輩の顔ってそんなにいかがわしいんですか」
 分かっていてはぐらかす後輩に腹が立ってゴツッと頭にげんこつをくれてやったが、にへら、と笑われただけだった。
(しまった、またご褒美を与えてしまった)
 年上で気の強い女性からの鉄拳制裁が大好きな亘は、こうしてわざと『海月を挑発してはパンチやキックを貰っているのだ。二度とその手には乗るもんかと思うのに、気の短い海月はつい手や足が出てしまう。
「まったく。亘のせいで罪のないおじ様を突き飛ばしちゃったじゃない」
 朝の出来事を話すと「それ、先輩が悪いだけじゃ……」と事実を指摘されたので、優しく脛を蹴っておいた。
「じゃ、その削除作業やっときなさいよ」
 後輩に命令を与え、安堵して自分の席へ着いた。ふと顔を上げて窓際を見ると、強行犯係の島を見守るように置かれた机は空になっていた。
「あれ? 係長がいない」
 とある事情から亘びいきな石川は、海月が後輩にご褒美(?)を与える度に文句をいうのが常だ。妙に静かなのは途中から不在だったからか。
「係長ならさっき慌てて出ていったぞ」
 見た目は冴えない痩せぎすのサラリーマン、実体は優秀なベテラン刑事の平林が隣席から教えてくれた。
「え、何があったんでしょう」
「内線電話だったから上に呼ばれたんだろうな、非常事態っぽかったぞ」
「珍しいですね」
 通常、所轄内で事件が発生すれば県警の通信指令室から直接入電がある。
 朝から無駄に時間を費やしてしまいやっと書類の作成を始めると、刑事課のドアが勢いよく開いて真剣な面持ちの石川が戻って来た。こころなし、ふさふさの白髪リーゼントにも覇気がない。
「当番の者以外、全員出るぞ!」
「へ?」
 海月同様、みな変な声を出して顔を上げるが、石川の台詞はきちんと聞き取っていた。
「県警から大規模捜査の応援に呼ばれた。捜査本部は大通り署だ」
「事件ですか?」
 石川に問いかけると目線はこちらへ向けられたが、急いでいるのか無視された。
「覆面車両も一時的に提供する、各々運転して先方へ向かえ」
「はい!」
 海月以外の全員が反応のよい返事と共に立ち上がった。それにしても、いつもなら係長が担当を決めて、それぞれの組に直接指示を与えるだけだ。おそらくこれは海月が刑事になって初めて体験する非常事態……。
 ベテランの平林が呟いた。
「緊急の要請、人海戦術で大規模捜査となると、誘拐事件発生ってとこか」
(誘拐!)
 初めて経験する犯罪に、海月はにわかに緊張を感じた。

 
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