書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
岳飛伝 十一 烽燧の章
北方謙三

   粘切の火

    一

 樹々の間を縫って、道を作った。人ひとりが、ようやく通れるような小径である。
 館から三本、そういう小径を十里(約五キロ)ほどのばした。その間に、人は住んでいない。人が通ったという跡すらなかった。
 ほかと較べると、人が通るのが難しくないところだった。崖や谷を避ければ、その三本しか小径は作れなかった。
 梁紅玉は、三本の小径を自分の脚で歩いて、なんとなく安堵感を持った。
 館は、間違いなく人里から隔絶された場所にある。湾の南北十里の海岸にも、集落はないという。
 館のそばに、部下たちは営舎を建てた。倉もひとつ建てられている。
 大型船の交易品を、日本の品物と交換したほかに、かなりの銀が手に入っていた。荒々しく見えるが、炳成世はそこのところはきちんとしていた。
 中型船二艘を、西へ偵察に出していた。それには、炳成世のところの若い者が、十名ずつ乗っている。もうすぐ、戻ってくるはずだった。ほかに預かっている三十名は、湾の中で操船の稽古をしている。
 炳成世がどういう人間なのか、しばしば考えた。手下が多い。その手下が示す忠誠心のようなものが、尋常ではない。それに、梁紅玉が知っているどの男より、構えが大きかった。ずっと先を見据えている、という気がする。
 ただ、五十名の手下と十艘の小舟を残しただけで、あれから姿を見せていない。虎符と呼ばれる漢人の男は残されていたので、手下たちと話すのに不便はなかった。
 交易船に乗っていて海賊に捕われた商人ということ以外、虎符は自分のことを語ろうとせず、炳成世の話題も出さなかった。梁紅玉が訊いても、答えない。ほんとうのところは知らないのではないかと思え、ただ畏怖だけは大きく抱いているようだ。
 浜には船着場が竹と木で作られ、潮が満ちた時には、中型船を二艘、繋げられる。
「帰ってきました」
 小径を駈け降りてきた部下が、大声で叫んでいた。
 小径の行き止まりには、小さな小屋が建ててあり、部下二人と炳成世の手下がひとり、交替で見張りに立っている。ひとつの小屋からは、山の斜面だけでなく、湾の沖の海も見渡せるのだった。
 やがて、二艘が湾に入ってきた。館からそれを見ていた梁紅玉は、浜まで降りた。満潮まであと二刻(一時間)というところで、中型船は難なく船着場に着けられた。
 大きな報告は、南宋水軍が梁山泊水軍と激しい交戦をし、敗北して大打撃を蒙ったというものだった。韓世忠が無事だったのかどうか、梁紅玉は気にしなかったが、生きていると部下は報告してきた。
 南宋水軍の潰滅は、部下たちに大きな動揺を与えている。
「われらは、交易船隊なのです。宰相からも、直々に命じられています。この地で、交易をなします。そして銀を蓄え、やがてそれを南宋に運びます。われらの船が失われたわけではない。われらは定海を出発した時のままの姿で、そして交易をはじめています。梁山泊水軍に遭遇しないようにしていれば、戦の外にいられるということです」
 二百名全員を集めて、梁紅玉は言った。ひとりとして、若い兵はいない。戦からははずれたが、航海では役に立つ、という者たちばかりだ。最も年長の船頭は、六十歳を超えていた。
「この船隊が戦に加わることは、宰相も望んでおられません。南宋水軍本隊でさえ、大敗したのですから。この船隊の使命は、どこまでも交易です。南宋水軍本隊が潰滅した以上、あらゆる方法で梁山泊水軍を避けながら、交易をなすしかありません」
 部下たちから、声はあがらない。頷いている者が、数人見えるだけだ。
「この地は、梁山泊の交易水路からは大きくはずれています。ここを全船隊の船溜りとし、船の手入れなどを行い、乗員の休息や調練などもまた」
「隊長。交易の相手は、どこになるのでしょうか?」
 年長の船頭が言った。
「炳成世殿と、南宋、及び金国。その物産などを運び、銀を得ます」
 全員が、大きな危険はないと理解したようだった。金国は、南宋と同盟を結んでいる。
「生き延びるために、無理なこともしてきました。これから先は、糧食も購えます。何年か経てば、国へ帰る道も見えてくると思います」
 水夫たちが、国へ帰ることを切望している、というところはなかった。水軍にいる者も、陸上の軍にいる者も、一生のうちに故郷へ帰れれば、無上の喜びだと思っている。そうやって帰った者も、故郷では忘れられていたりするのだ。
「この地を、私は故郷とします。二番目の故郷」
 一番目の故郷である無為軍(郡)の造船所は、戦で焼かれてしまっているという。
 部下は、密かに中華に上陸し、市まで行ってさまざまなものも買い集めてきた。中型船なのでたいした量ではないが、陶器、磁器がひと箱ずつあり、絹織物や日本ではめずらしい文具、薬、香料などがあった。
「米を買い占めて、高値で売った商人たちが摘発されたようです。危険だと思ったので、詳しくは訊きませんでした。品物は、多いと感じました」
 炳成世の手下も四名上陸していて、市などを見てきたらしい。しかし、梁紅玉に報告するということはなかった。
 銀の小袋を持たせていたが、手付かずだった。よく数えてみると、袋がひとつ多い。真珠十粒が、それだけで売れたということだ。宝石や貴石に近い価値が、もしかするとあるのかもしれない。
 炳成世が現われたのは三日後で、早すぎると梁紅玉は思った。なにかしら、連絡を受ける方法を、持っているのかもしれない。
 上陸した四名は、並んで片膝をつき、炳成世に報告しはじめた。炳成世以外には報告しない、というような態度に見える。
「偵察と言いながら、いい商いができたようだな、梁紅玉殿」
 炳成世が闊達に言った。高貴というのではないが、多くの人間の上に立っているのは間違いない。
「大型船を出して、もっと大がかりにやりますか、炳成世殿」
「慌てるな。むこうで、同心してくれる商人を二人ばかり捜そう。多少の利を与えれば、喜んでやる人間がいるだろう。その二人を見つけるためには、梁紅玉、おまえが行ってくれないか」
「大型船を出すのなら」
「いや、中型二艘だ。物を運ぶのではなく、まず人を捜すのだ」
「炳成世殿、真珠がいい値で売れます」
「わかってるさ。十粒で、おまえらの銀を遣わなくても済んだだろう」
 炳成世は、価値がよくわかっているようだった。
「真珠はな、貝が腹の中に抱いている。その貝を見つけるのは、これは難しい。見つけても、真珠がまだ小さい時もある。わかるか、梁紅玉。真珠は、育つのだ。宝石とは違って、生きているものなのさ。俺は、海に潜るのを得意とする者が多い村を、二つ抱えている。俵物も、そこで作るのだがな」
「中華には、ないものだと思います」
「できるだけ、集めようとはしているさ」
「まだ、だいぶお持ちでしょう、炳成世殿。十粒ということは、あり得ませんよね」
「ほう。女子は、宝石とか真珠とかに、こだわるのだな」
 炳成世が、はぐらかすように笑った。
 中型船が運んできた品物は、すべて小舟に積みこまれ、運ばれていった。
「中華へ行って商人を捜すのは、ほんとうは俺がやりたいことだ。しかし、長く京を離れることはできんのさ。いいか、品物の種類を多く扱う商人を捜せ。そして銀を流しこめ。多少の損など、気にするな。この交易に関れば、必ず儲かると確信した時、その商人は自分でも想像していないほどの、大きな利を運んでくる」
「私が、ひとりで?」
「俺の手下十名。その中に、京から来た部下が二名。むこうでは奴僕の扱いでいい。商人には、真珠を二粒ぐらい見せてやれ」
 部下に命じる、という口調だったが、なぜか不快ではなかった。
 別の小舟が、糧食を運びこんできていた。ほかにも、日用に必要なものがさまざま運ばれ、梁紅玉は日本の着物を身につけたりもしている。
「館も恰好がついてきたな、梁紅玉殿。ここが本拠、と思えるようになったのではないのかな。あとは、男を作れ。漢人の部下ではなく、俺の手下の若い者でいい」
「埓もないことを」
「いや、男を作れば、日本語も早く覚える。この国のことも、よくわかるぞ。おまえの男になれば、手下を持つことになるから、資格に欠けていれば、俺が首を刎ねる」
 なにかもの足りなさを梁紅玉は感じたが、笑みの中に覆い隠した。
 料理人が五名、牛の肉を焼きはじめていた。食物など、船上の生活では信じられないほどのものである。
 食事のために集まる場所も、建てていた。床に、藁を編んだ敷物が並んでいる。床に腰を降ろしてしまうことに、はじめはいくらかの違和感があったが、いまは馴れて心地よいほどだ。
 藁も小舟が運んできたが、炳成世の手下たちは、それでさまざまなものを作った。
「冬の風が吹くが、行けるかな?」
「炳成世殿。風と潮流を読む者が、私も含めて何名もおります。二日、三日先の天候を読み、それがあまりはずれない、という者もいるのです。定海を出て、長い間、海にいられたのも、そういう者たちがいるからですよ」
「なるほど。羨ましい話だ」
 炳成世がなにか命じると、手下たちはきびきび動き、箱が二つ小舟から降ろされた。
「これも、持っていけ。硫黄だ。必要だと言っていたろう」
「いつ、私に出発せよと?」
「明日。中型船二艘だな」
 まだ大型船を動かす段階ではない、と炳成世は考えているのだろう。
「五十名の若い者は、そこそこ漢語を覚えはじめたようだな」
「わからないところは、虎符に訊けるのですよ。それで、早く覚えます」
「ここに置いておくのは、悪いことではなかったな」
 会話は虎符が間に入っているが、梁紅玉はそれがあまり気にならなくなっていた。
 館に行った。
 牛の肉が、焼きあがっているようだ。手下の中には、肉を食らうのを嫌う者もいるが、炳成世はむしろ好んでいるように見えた。
「明日の出航の準備を部下にさせますが、伴う手下を、炳成世殿は自分で選ばれますか?」
「後黙丸を、あんたの船に乗せてくれ。あとの九名は、任せる」
 後黙丸は、ほかの者といくらか違い、炳成世と似たような剣を佩いている。
「いいでしょう。これでさらに十名が、中華への航路を体験することになります」
「船だよなあ。でかい刳舟の横に、板を立てたのぐらいしか、造れるやつがいない」
「水軍でも、作るつもりですか?」
「水軍は、いるのさ。ここにいる手下どもは、みんな水軍だ」
 船が、たやすく造れないことを、梁紅玉はよく知っていた。伯父の葉春から、陳武が技を受け継いだ。葉春は、誰からか受け継ぎ、技に工夫を加えたのだ。陳武の試みは、そばで見てよく知っている。南宋水軍の船を手がけるようになってからは、憑かれたようだった。
「船の手入れの方法を、いま部下に考えさせています。それに、ここにいる手下を加えるといいでしょう。船がどんなふうになっているか、よくわかると思います」
「ありがたいな、それは」
「水の上での戦は、あまり経験がないのですか?」
「海賊の討滅も、戦というようなものではなかった。陸に追いこんで、首を奪ったのだからな。俺は、陸の上の戦はやるよ。やらなければならないことが多いし、大軍を動かすこともある」
「大軍」
 二百とか三百の手下のことを、大軍と言っているのだろうか。少なくとも、舟を操る手下たちだけでも、二百はいる。
 炳成世が、何者なのかは、相変らずわからない。わからせようとしていない、とも感じられた。虎符は、炳成世のことになると、酒を飲ませても口を噤む。
「商人を見つけることはやりますが、もうひとつ、なんとか甘蔗糖が手に入らないか、探ってみることにします」
「甘蔗糖か。南から、十三湊に運んで、昆布と交換している者がいるな。だから京へは、北から流れてきている」
「手に入ると思うのですよ、真珠と交換ならば」
「真珠はない」
 梁紅玉を見て、炳成世はにやりと笑った。
「しかし、甘蔗糖は欲しい。そこは商いだ。銀で購えるはずだ。いずれは、甘蔗糖が入る道も作りたい。そのためにも、商人だろう」
「甘蔗糖を積みこんだ交易船を襲って奪う、ということは考えておられないのですね?」
「それをやったら、賊徒であろう。商いというのは、信義だ。俺は、それを曲げようとは思わん」
 確かに、炳成世は、奪おうと思えばたやすい、大型船に積んでいた交易品に、まっとうな値をつけた。商いの姿勢は、まったく崩していない。
「いい商人を、見つけてきます」
「俺は、時々思うな。この湾に、交易船が多数入ってきて、館にも海浜にも倉が建ち並ぶ。人も増えてくる。そうやって、国や人は豊かになっていくのだろうとな。この国は、それを抑えている。上にいる者だけが、豊かになればいい、としか思っていない」
「そのようですね。以前、私は交易を求めて九州の北へ行きましたが、追い返されています」
「豊かではないということにすら、気づいていない。下の者と較べて多くのものを持っている。それを豊かさと思いこんでいるのだな」
「だとしたら、国そのものは、大きくなろうとしていないのですね」
「それはわからぬが、国を豊かにしようという考えが、ないとしか俺には思えん」
「そのうち、滅ぼされますよ」
「ところが、捨てたものでもないのだ。棟梁の下で、ひとつにまとまる。そして大きな力を出す。それはできるはずだと、俺は思っている。そのためには、上に頼らないと自分に言い聞かせることだ。頼ったところで、上は自分たちのことしか考えておらん」
「交易の利を、炳成世殿は、誰のために遣おうと考えておられるのですか?」
「はっきり見えれば、とうに遣っている。利を注ぎこめばなんとかなるという人間が、見えてこない。俺の眼が曇っているのかもしれんが」
「自分のために、お遣いになるというのは?」
「最後は、それか」
 炳成世が、大声を出して笑った。
 翌早朝には、出航の準備は整っていた。
「身をもって、梁紅玉殿をお護りいたします。先に死ねと、炳成世から申しつけられております」
 乗船の前に、後黙丸がそばに立って言った。後黙丸の言葉遣いは、ほかの者と較べてもどこか違う。鍛えあげたがっしりした躰で、打ちこむ隙も見えない。
「九州の南の端を通る時、赤い旗を掲げた船が現われる。そこでは、水や糧食の補給ができる。それから先のことは、俺にはどうにもできん」
「赤い旗、ですね」
「そうだ、赤い旗さ」
 九州にも、炳成世の力は及んでいるのだろうか。炳成世の小舟が、赤い旗を掲げているのは見たことがない。
「出航します、炳成世殿」
 炳成世は、遠くの海に眼をやり、腕を組んでいた。
 櫓を遣って、方向を変え、船はゆっくりと進みはじめた。綱で、帆柱は立ててある。ただ、帆を張るのはもっと沖へ出てからだ。
 櫓の回数を伝える船頭の、よく通るかけ声と、木を打ち鳴らす音が聞えた。

トップページへ戻る