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コースアゲイン
北方謙三
   風の中の少女

       1

 船内の気圧計が異常を示していた。
 しかし、まだ強風域には入っていない。穏やかとは言えないものの、危険を感じるほどの海ではなかった。
 そして、魚はまだいるのだ。この二時間で、一メートル近い鰆を一本と、鰤を三本、それから鯖を十本近くあげていた。
 鮪が来る、という予感が私にはあった。
 そんな予感は当てになりはしないが、無視しても釣りにはならない。船速を七ノットほどにあげ、私はツナタワーに攀じ登った。船は船上建造物のないオープンタイプと呼ばれるもので、キャビンやバース、それにトイレやギャレーも船体の前半分に収められていた。操縦席は中央で、航海計器などもそこに備えてあるが、視界を確保するために充分な高さがあるとは言えない。それでアルミ製の櫓を組み、その上でも操船できるようになっているのだ。ツナタワーの上にあるのは、スロットルとクラッチのレバー、両舷エンジンの回転計、コンパスと舵輪という、必要最小限のものだった。そこに登れば、揺れは大きいが、フライブリッジ艇よりずっと視界はよかった。
 デッドスローが六百回転で、二百回転あげるとほぼ船速が二ノット増す。高回転域での増速はもっと大きいが、千二百回転まではそんなものだった。
 トミーが、気象ファックスを口にくわえ、ツナタワーの梯子を登ってきた。
「大した低気圧じゃないけど、前線を突っ切ることになりますぜ」
 私は、気象ファックスの等圧線をしばらく見ていた。私がむかおうとしている港までは、かなり強い風を受けながら走ることになる。
「あと三十分だ、トミー。その三十分を後悔しながら、えんえんと走ることになるかもしれんがね」
 時化た海では、スピードはあげられない。おまけにむかい風となると、眼の前の島が二時間経っても近づいてくることがなく、進んでいるのかどうか疑いたくなってくるのだ。
 しかし、魚はいる。鯖の群れがいたので、それを捕食する鮪もいる可能性が高い。
「まあ、あと三十分で、もう一回ぐらいヒットする、と俺も思いますが」
 船速を七ノットにあげた時点で、私が狙っているのが鮪だと、トミーも理解しているはずだった。海の経験はあまりないが、釣りは大好きというクルーである。今年でちょうど二十歳になり、あと四年は大学にいるつもりだと言っていた。クルーのアルバイトは、両方に好都合なのだ。
 風が出てきて、海面が波立ってきた。
 ヒットしたのは、ちょうど三十分経ったころだった。リールのクリックが鳴り、それに飛びつくトミーの姿が見えた。私は、ツナタワーの梯子を、滑るようにして降りた。
 百メートルほどラインは出してあったが、それは海面を走るのではなく、下にむかっていた。下にむかって潜るのは、鮪の特徴である。カジキなら、海面を走る。
「トミー、デッドスローだ」
 私は、ロッドを抱えこんで叫んだ。
 リールのドラッグを少し緩める。あまり強く締めていると、ラインがもたないからだ。十分ほど、やり取りをした。波が、さらに高くなっている。完全に強風域に入ったようだ。時々船ががぶられていて、震動で躰が浮きそうになった。
 私は、ドラッグを締めつけた。魚の動きが止まり、引き合うという状態になった。もう少し魚を疲れさせた方がいいのはわかっていたが、海況がそれを許さなくなっている。私は、徐々にラインを巻き取っていった。ラインが切れるかどうか、きわどいところだ。魚はまだ元気で、巻き取るには相当の力が必要だった。ラインが切れたら、魚は鉤を口にかけたままになる。ステンレスだとそのまま死んでしまうので、鉄製の鉤を使っていた。それだと、一週間ほどで錆び、ぽろりと魚の口から落ちると言われている。
 全身に汗が噴き出してきた。息もあがってくる。眼に入る汗を、トミーが汚れたウエスで、拭う。それに文句も言っていられなかった。この力であまり時間をかけると、ナイロンモノフィラメントのラインは、伸びきって切れてしまう。
 ようやく魚が海面近くまであがってきた時、私の肩から腕にかけては、痺れたように感覚がなくなっていた。
「やっぱり鮪だ。二十キロ以上はありそうですよ」
 ギャフを構えたトミーが、暢気な口調で言った。もうひと踏ん張りだった。私はロッドを立て、声をあげながらラインを巻いた。ルアーがついたリーダーをトミーが掴み、素速くギャフをかけると、呆気ないほど簡単に船上に鮪をあげた。トミーは軍手をした手で鮪を押さえこみ、ベルトにつけたケースからナイフを抜くと、鰓の横を刺した。尾のところにも、切れ目を入れる。これで魚の血は抜けるのだ。
 血で赤く染った後部甲板を、海水ウォッシャーでトミーがきれいにした。その時私は、
もう舵輪に取りついていた。波高は二メートルから三メートルになっている。
 千四百回転ほどでしばらく走ったが、ついに耐えきれず、減速した。眼の前の島影は、まったく近づいてこない。おまけに、雨まで降りはじめた。
 レーダーとGPSに頼るしかなかった。波で振られるので、コンパスは目まぐるしく動く。
「後悔してますか、もう?」
「してるな。いつも同じことだ」
 波が来て舳先が持ちあげられ、落ちる。その瞬間にスロットルをわずかに戻す。それで、船底が海面を打つのが、なんとか防げる。
「時化るとわかってたのに、どうしてこうなんだ。たった魚一匹のためだぜ」
「だけど、もうちょっと強烈な低気圧だったら、船長も早々に避難したでしょう。中途半端なやつが多すぎるってことですよ。おまけに、雨の情報はなかった。気象ファックスも、当てになりませんね」
 トミーの欠点は、お喋りなことぐらいだった。時化でも、度胸は据っているように見える。喋ることで、気を紛らわせるというのでもないのだ。うるさいと感じた時は、私は返事をしない。するとトミーは、ひとり言のようにぶつぶつとなにか言っている。
 四十五フィートの船体が持ちあげられ、波の谷間に落ちた。日本の海況では、波と波の間に落ちないためには、五十フィート以上の長さが必要だと言われている。
 雨で、波の状態がよく見えないので、しばしばまともな横波を食らう。
「まったく、魚一匹のために」
 トミーが呟く。煙草を喫いたい、と私は思った。こんな状態では、港に入るまで無理なことはわかっているが、そうなるとますます喫いたくなってしまうのだ。
 ようやく島が風を遮る海域に入ったのは、三時間以上経ってからだった。
 港に入ると、嘘のように波は静かになった。防波堤に打ちつけた波は、白い飛沫をあげている。
「松栄丸に抱き合わせできますよ」
 安爺の船だった。無線で入港許可は取ってあるが、プレジャーボートが岸壁を占領して、いい顔をされることはない。
 松栄丸に近づくと、なにか作業をしていたらしい安爺が顔を出し、舫いを取ってくれた。

       2

 翌日は晴れたが、まだ風が強く、出港する船はいなかった。
 発電機はかけたままだから、キャビンはエアコンが効いていて、湿気も少ない。清水を補給した。きのう、温水器を作動させてシャワーを使い、タンクがほとんど空になっていたのだ。
 朝食は、私とトミーは別々だった。トミーは卵とハムを焼き、さらにチーズを載せたものをレンジで加熱し、オープンサンドを作っていた。私は、きのう作っておいた締め鯖とビールである。朝から酒を飲みたがる私を、トミーは軽蔑している。それだけはやめてくれと、一度だけ頼まれたこともあった。
 私は鯖を食いながら、後部甲板に携帯用のガスレンジを出し、塩をした鰤のカマのところと、鮪の腹を薄く削いだものを焼いた。
 鮪は、二十二、三キロはあったが、まだメジと呼ばれる子供で、本マグロに成長するまでにあと二、三年はかかる。
 きのうの釣果のほとんどは、漁協に持ちこんで、引き取って貰った。金は受け取らない。係留料というわけで、だからこの港で私の評判は悪くなかった。
 十一時を回ったころ、安爺が一升壜をぶらさげてやってきた。今日一日は、船は出せない。明日になれば高気圧の圏内に入り、多少の余波は残っているものの、船は出せるはずだった。
「安爺、鰤のカマが焼けるところだ」
「ふん、漁師に魚を食わせようってのか、おまえ」
「焼きあがる、と言っただけだよ、俺は。食わせるとは言っちゃいない」
「まあ、食ってやってもいい」
 安爺との会話は、いつもこんなふうだった。この島で、十四歳の時から五十年漁をしている男だ。
「その酒、飲んでやってもいいぜ」
 私はもう、朝食と昼食が一緒になっていた。
 トミーは、清水を運んできては、潮を被った船体を洗っている。そういうところは、得難いクルーだった。
 紙コップに、安爺が酒を注ぐ。私はギャレーから、皿と箸を持ってきた。
「食えるだけ、幸せだと思え」
「俺が釣った魚だぜ、安爺」
「誰が釣った魚であろうとだ」
「まあね。海の恵みに感謝して、乾杯でもするか」
「おまえと、乾杯なんかしたくねえよ。海の恵みなんて言うやつとはな。海が、なにを恵んでくれたってんだ、え?」
「魚」
「その分、人の命も奪ってるぞ。おまえは、きのうの時化で死ねばよかったんだ」
 安爺が、不精髭の生えた顎をちょっと撫で、紙コップの酒を呷った。髭は、ほとんど白く見える。髪も、半分以上は白い。
 安爺は、海で死んだ人間を、何人も見てきたはずだった。自分が死ぬと思ったことも、多分あるのだろう。
「おまえは、いつも甘いよな。ほかの漁船は三時間も前に帰ってきてる。三十分の差が、三時間になって、しかも苦労する」
 安爺はコップを呷り、カマの塩焼に箸をのばした。安爺の機嫌が悪くても、私はあまり気にしないことにしていた。釣りのポイントだけでなく、海のことについて安爺にはずいぶんと教えられている。
 ほんとうは、機嫌がよかった。一升壜が半分空いたころから、安爺は笑いはじめ、安心したのかトミーも加わってきた。
 一升壜が空いた。安爺は、まず自分の船に乗り移り、それから岸壁にあがっていった。腰につけているらしい鈴が、小さな音をたてた。
 夜になって、安爺の孫娘が船にやってきた。まだ中学生だ。
「おじいちゃん、おかしなこと言いませんでしたか?」
 恵美子というその少女は、タコのブツ切りが入った、手製の海草サラダを持ってきていた。やはり手製らしいドレッシングもついていて、明日の朝食べてほしいと言った。
「機嫌がいいのか悪いのか、わからなかった」
「そうですか。ほんとは淋しいだけなんです」
「ほう、なんで?」
「ユキが死んじゃったから」
 一瞬、なんのことだか私にはわからなかった。トミーも首を傾げている。安爺が古女房を死なせたのはもう一年半も前で、私はその葬式にも出た。
「おばあちゃんが、かわいがってた猫。あたしが泣いてたら、もう長く生きたんだから、死ぬのが遅すぎたぐらいだって、わざとひどいことを言ったの」
「それでも、君はおじいちゃんが一番淋しがってる、と思ったわけだ」
「おばあちゃんが、かわいがってたから。自分で編んだ首輪に、鈴なんかつけてやって」
 その鈴は、いまは安爺の腰についている。なんとなく、私はそう思った。これからしばらくは、安爺が来るたびに、鈴の音が聞えるのかもしれない。
「家族になにか言うと、すぐユキのことに結びつけられるから、先生のところでひどいことを言ったんじゃないかと、心配になって」
「いつも通りだったよ、おじいちゃん」
 私は言い、それからちょっと考えた。
「少し、酒が多かったかもしれないが」
「ごめんなさい、余計なこと言って。おじいちゃん、先生のこと大好きだから。きのうも、入港の連絡があったのに、なかなか来ないって心配して、ずっと船にいたの」
 私が頷くと、恵美子が白い歯を見せて笑った。きのう、安爺は黙って舫いを取り、黙って帰っていった。
「サラダ、ありがとうよ」
「海草、とっても躰にいいの。先生、魚とか肉ばかり食べてるから。それに、ドレッシングは、あたしの自信作」
 恵美子が、身軽に松栄丸に乗り移り、岸壁にあがった。一度ふり返って手を振り、岸壁を駈けていった。
「いい娘だよな。泣けてくるよな」
 トミーが、サラダが入った容器を抱えたまま言った。発電機を回しているので、港の中で、私の船だけが明るい。
「いい女房になるって思いませんか、船長。いわゆる、人の気持がわかる女になるって?」
「わからん。女ってのは、変るもんだ」
「それ、実感ですか?」
「どうでもいいが、恵美子は中学生だぞ。惚れたりするなよ」
「あと五年で、大人じゃないですか。俺だって、まだ二十五だし」
 変るのに、五年あれば充分だ、と言いかけて私はやめた。
 煙草に火をつける。風が煙を吹き飛ばして、あまり味がしなかった。

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