書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
 
水無月の墓
小池真理子
     足

 真鶴の駅で降りた。三月初旬の金曜日。午後一時ちょっと過ぎだった。
 駅前の公衆電話で、妹の和代の家に電話をしたのだが、誰も出ない。和代の義母は熱海の病院に入院中だったから、おおかた病院にでも行ったんだろう、と私は思った。
 玄関の合鍵を持っているので、留守でも別段、困らなかった。そろそろ姪の舞子が学校から戻って来る時間でもあるし、どこかでケーキでも買って行こうか、と思いつつ、あたりを見回しているうちに、構内タクシーがやって来た。
 電車で真鶴を訪れるのは初めてだった。いつもは自分で車を運転して来る。免許を取ってから十五年。無事故無違反が自慢だったのに、昨年の秋、真鶴に向かう途中で大きな事故を起こしてしまった。以来、怖くなって車の運転はしていない。
 タクシーに乗り、妹夫婦の住む町の名を言った。あったかくなったねえ、とごま塩頭の運転手はバックミラー越しに笑いかけた。ほんとにねえ、と私は応えた。それまで沈んでいた気分が、急に浮き立ったような感じがした。
 妹夫婦のところに来るのが、目下のところ、私の一番の楽しみだった。私は真鶴の町も空気も、妹夫婦の家も、ここに住む人たちも、そしてもちろん、妹の家族も、何もかも気にいっていた。
 いくら妹夫婦が大歓迎してくれるからと言って、度を越した頻繁な訪問は控えるべきだ、身内であっても、相手はすでに独立して家庭を持っているのだから……そう自分に言い聞かせ、自重するのだが、一ケ月ともったためしがない。気がつくと、週末を妹の家で過ごしている。今回のように、金曜日に会社を休み、週明けまで真鶴にいて、ここから直接、出勤したことも何度かある。
 家族のいない私が寂しそうに見えるのか。それとも、そう言うのが礼儀だと思ったからなのか。何度か義弟の浩から「義姉さん、いっそのこと、一緒に暮らしませんか。幸い、この家は広いし、仕事なんかやめて、ここでのんびりされたらどうです」と持ちかけられた。
 正直なところ、ふと心が揺れたこともある。東京でサラリーマン生活を送っていた義弟は、真鶴の実家の父親が急死してから、家業の酒屋を継ぐために急遽、妻子を伴ってこの地にやって来た。浩の実家は古い農家を改造したもので、部屋数が十近くある。私一人くらい増えたところで、どうということはないだろう、という甘えもあった。
 それに私がいれば、和代が熱海の病院に行っている間、舞子の相手もしてもらえるし、御飯も作ってもらえる。犬の散歩、家事雑事一切を頼めるわけだから、忙しい彼らにとっては便利には違いない。
 だが、結局、私は断った。おかしな言い方だが、そこまで落ちぶれるつもりはなかったのだ。私にはまだ、浜田という恋人がいて、腐れ縁にしろ何にしろ、その男との関係が続いている。東京を引き払う気はなかった。浜田と別れ、仕事もやめ、真鶴に来てしまったら、おしまいのような気がする。
 浜田には妻子がいた。ひょんなことから知り合い、恋におち、離婚するのしないの、と大騒ぎをしてから十年ほどたつ。
 一緒に借りた1LDKのマンションに私ひとりが住み続け、今も浜田は毎週火曜日の夜になると、判で押したように通ってくる。泊まっていくのは半年に一度ほど。それ以外は、一緒に食事をし、酒を飲み、テレビを観、風呂に入るのも、ベッドに入るのも面倒になって、そのまま寄り添ってうとうとするだけ。
 映画を観に行ったり、飲みに行ったり、旅行したりしていたのは初めだけで、私が四十、彼が五十を過ぎた今は、そういうこともしなくなった。肌を触れ合わせることも少なくなり、いったい何のために関係を続けているのか、自分でもよくわからない。どちらかが、ピリオドを打とうとすれば、何かが変わるのだろうけれど、とりたててそうする必要も感じられず、気がつくとまた一年が過ぎている。
 浜田が来ない日は時間をもて余し、時々、いたたまれないほど寂しくなるが、そういう時に限って浜田は、まるでどこかで私を見ていたかのように、酔っぱらって電話をかけてくる。滞りがちな会話の後で、私がしみじみと、もう十年たつのね、と言うと、そうだね、と彼は吐息の中でつぶやき、本気なのか、冗談なのか、二十年でも三十年でも一緒にいよう、やっぱりきみが一番だ、などと呂律の回らない口調で言うのだった。
 妹夫婦の家に着き、料金を払ってタクシーから降りると、気配を聞きつけたのか、飼い犬のゴン太が、大きく吠えた。ゴン太、ゴン太、と呼びかけながら庭に行く。興奮して私に飛びかかろうとするものだから、鎖に引っ張られて、ゴン太は首吊り状態だ。喉を詰まらせ、ひゅうひゅうという変な声を出しながら、それでも必死になって私を求め、前足をばたつかせる。
 私は両手でゴン太の頭をごしごしと撫でてやり、元気だった? と聞いた。ゴン太は喜ぶと、オスのくせに地面に尻をなすりつけておしっこをたれる癖がある。危うく、足を濡らされそうになったので、私は笑ってゴン太から離れた。
 庭にはクヌギの巨木があり、他にも柿、ザクロ、ウメなど果実のなる本がたくさんある。少しずつ芽吹き始めた木々は、どれも暖かな陽射しを浴び、気持ちよさそうに枝を伸ばしている。古い木造の家屋のガラス戸は、空を映して青い鏡のように輝いている。縁の下には、乾いた土がこびりついた素焼きの鉢やら、自転車の空気入れやら、錆びついたシャベルやら、すりきれた竹箒などが雑然と押し込まれていて、ゴン太の恰好のおもちゃになっている。
 私も和代も東京生まれの東京育ち。子供のころは、大森の借家に住んでいた。小さな家だったが、庭がついており、やっぱり縁の下には似たようなものが押し込まれていた。
 暮れの大掃除のころになると、決まって父が「縁の下が汚い」とぶつぶつ文句を言うのだが、言うわりには面倒くさがって片づけようとしない。あまり身体が丈夫でなかった母も、めったに庭掃除などしなかったから、いつも縁の下には様々ながらくたが転がっており、それをいいことに、私や和代は、チュウインガムの滓やアイスクリームの蓋などをゴミ箱代わりに投げ捨てて、父に見つかった時は、ひどく叱られたものである。
 父は私が二十二の時に、母は六年前、それぞれ病死した。父も母も早死にの家系だった。父方の兄弟姉妹で残っているのは一人だけ。母は二人姉妹の長女だったが、今ではそろってこの世にいない。
 大森の家には、しょっちゅう、筆子おばさんが出入りしていた。母の妹にあたる人で、当時、二十七、八歳だったと思う。ショートカットにした髪の毛を真っ赤に染め、手足の爪も、唇も真っ赤に塗りたくり、ともかくいつ見ても派手で、おばさんがうちに来ると、近所の人たちが噂し合うほど目立っていたのだが、その筆子おばさんも、ずいぶん昔に死んでしまった。
 母が死んでからは、しばらくの間、私が両親の位牌と一緒に、身寄りのない筆子おばさんの位牌も預かっていた。だが、義父の死後、和代が、真鶴に素敵なお仏壇を用意した、というので、位牌を三つとも和代夫婦の家に持ってきた。
 和代が買ったのは、まるで仏壇らしくない、黒と白のダイナミックな幾何学模様が入っている細長いモダンな仏壇だった。洋風の家ならともかく、日の当たらない古い農家の北向きの仏間にはそぐわない。その、あっけらかんとした佇まいに違和感すら覚えたが、私は文句は言わなかった。先のわからぬ関係の男と借りたマンションに位牌を置かれているよりも、窓の向こうに木々の緑が見え、風向きによっては相模湾の潮の香りが漂ってくるようなところで、しっくりと落ち着くことができたのは、両親にとっても筆子おばさんにとっても、喜ばしいことだったに違いない。
 合鍵を使って玄関の引き戸を開け、中に入った。玄関の右手に長い縁側が延びている。縁側に沿って、いくつもの座敷が並んでいる。襖を開け放すと、大宴会場に早変わりするような間取りである。
 玄関の斜め前には、昔ながらの土間をそのまま残した大きな厨房がある。厨房の脇の暗い廊下を進んで行くと、裏手に仏間になっている小部屋、かつて酒屋の従業員に貸していたという部屋、納戸、それに風呂場とトイレがある。
 和代が意識して洋風に装飾しているため、玄関先の、ガラスの壺に入れられたドライフラワーやアラベスク模様の敷物、カラフルなボアスリッパなどが、黒光りした古い家屋に不釣り合いで可笑しい。
 舞子が学校から帰るまで、庭に出ていようかと思ったが、なんだか疲れた感じがした。さっきゴン太に触れた手に、日向くさいゴン太の匂いがこびりついている。
 私は薄暗い廊下を歩き、風呂場の隣の洗面所に入って、手を洗った。洗面台には歯磨きのクリームがこびりつき、数本の抜け毛が、絡み合うようにして落ちていた。
 最新式の全自動洗濯機の上には、汚れものが山のように積まれてある。何日も前に洗濯して、取り込むのを忘れているらしい舞子のソックスだのパンツだの、和代のパンティストッキングだのが、天井に渡されたナイロン紐にぶら下がったままになっている。
 酒屋の手伝いや姑の世話で忙しい和代は、家の中のこととなると、呆れるほどおろそかである。やっぱり私がこの家に来てあげなくちゃだめなのかしら、と私は思い、誰かに答えを求めるつもりで、仏間を振り返った。
 風呂場、トイレ、洗面所と並んでいる廊下を隔てた向かい側に仏間がある。仏間の襖はいつも、開け放されたままになっている。仄暗い部屋に、浩の先祖が祀られた黒檀のどっしりとした仏壇と並んで、いかにもふざけた感じの、例のモダンな黒白幾何学模様の仏壇が置かれているのが見える。
 浩の母親が病に倒れるまでは、両家の仏壇は別々の部屋に置かれていた。さすがの和代も、嫁ぎ先に血縁の位牌を持ち込むことに遠慮があったようだ。モダンな仏壇は夫婦の寝室に置き、姑の目につかないよう配慮していたようだが、姑の長期入院を機に、この家は和代の天下になった。浩にも文句ひとつ言わせず、仏壇をさっさと仏間に移してしまったのは、いかにも和代らしい。
 何事につけ、和代は私と違って雑駁で、型破りだった。姑が死んだら、黒檀の仏壇を取り払い、両家の位牌をごちゃまぜにして、あの黒白の現代風な仏壇の中に納めようと言い出す可能性もあった。
 筆子おばさんは、大勢の人の輪の中で賑やかにしていることが好きだったからそれでもいいかもしれないけど、と私は思い、苦笑した。父や母はいやがるだろう。とりわけ、あの融通のきかない、堅物そのものだった父は。
 筆子おばさんが生きていたころ、父は家におばさんが出入りするのを嫌っていた。理由は簡単。髪を真っ赤に染めた筆子おばさんは、バーに勤めていたからだ。
 子供たちの教育に悪い、と父は母に向かって低い声で文句を言った。どうして筆子おばさんが来ると教育に悪いのか、わからなかった。説明を求めるつもりで、父に質問しようとすると、決まって、子供は黙っていなさい、と怖い顔で睨まれた。
 きっと筆子は寂しいのよ、と母はそのたびに、私や和代を気づかって、そっと父をいさめた。両親ももういないし、血のつながった人間は私しか残っていないんだし。家族も持たずに働いて、あんなに派手にしているけど、ほんとは寂しくて寂しくて仕方がないのよ。
 それとこれとは別だ、と父は不機嫌そうに言い、私や和代の手前、話を打ち切る。そのくせ、生来、気が弱い男でもあったから、筆子おばさんと顔を合わせると、父は心にもない世辞を言ったり、冗談を飛ばしたり、おばさんのコップにビールをついでやったりして、おばさんが来ることを歓迎するふりをしていた。
 おばさんは酒好きで、煙草もたしなんだ。私や和代の見ている前で、赤い紅を塗った唇をすぼめ、天井に向けて煙の輪を何個も作ってくれる。ほら、おばさんのほっぺたを突っついてごらん。そうすれば輪ができるから。そう言われて、私も和代も夢中になって、おばさんの頬に人さし指を伸ばした。
 おばさんが言った通り、私たちが頬をぽんと突くたびに、赤い唇からぽかりと輪が浮き上がる。私たちが拍手をし、声をあげて笑うと、おばさんは自慢げに、何度も何度も、輪を作って見せてくれるのだった。
 当時、幼かった和代は別にして、おばさんは私のことを決して子供扱いしなかった。まさに、それこそが父を不安がらせ、教育に悪いと、言わしめていた原因だったと思うのだが、筆子おばさんは時々、大まじめに打ち明け話までしてくれた。
 男の人にだまされてばっかり、とおばさんは縁側で爪の手入れなどしながら、ぽつりと言って笑う。男運が悪いのよ。いい人だな、と思うと、そういう人に限って、あたしのこと利用して逃げていくの。
 オトコウンって何? と聞くと、私にもわかるように、きちんと説明してくれる。おばさんはにっこり私に微笑みかける。ついこの間まで、結婚したいと思ってた人がいたのよ。でも、その人には奥さんも子供もいたの。独身だって信じてたから、びっくりしちゃって。仕方ないね。諦めるのも癪だけど、世の中には諦めなくちゃいけないことが、たくさんあるんだからさ。あたしの言ってる意味、わかる?
 私がこくりとうなずき、なんとなくわかる、と言うと、おばさんは嬉しそうに私の頭に手を伸ばし、髪の毛がくしゃくしゃになるまで撫でてくれた。
 当時、私たち一家が住んでいた大森の家に、部屋は三つあった。そのうち二つは続き部屋で、南向きの明るい縁側に沿って並んでおり、両親はその二つの部屋をそれぞれ、茶の間、寝室として使っていた。
 残る一部屋は四畳半で、東に向いていたものの、隣家の鬱蒼とした葡萄棚に囲まれていたため、昼でも薄暗かった。勉強をするには落ち着いてちょうどいいから、と言い、父はその部屋に勉強机を置いて、私に勉強部屋として使うよう命じたが、実際、私がそこで一人で勉強することは稀だった。
 夜、一人で部屋にいるのは怖い、とわがままを言うと、父は不承不承、勉強机を茶の間に面した縁側の隅に運んでくれた。そのため、東向きの四畳半は、結局は、筆子おばさんが来た時に寝起きするための部屋になってしまった。
 二棹の洋服箪笥が置いてあり、薄暗くて湿っている上に狭苦しい空間ではあったが、筆子おばさんは、いつのまにかそこに自分専用の籐椅子だの、小さな丸テーブルだのを運びこみ、それなりに居心地のいいよう飾りたてて、週末になると必ず、やって来るようになった。
 部屋には、筆子おばさんの派手なドレスや帽子や、ちまちまとした化粧道具、姫鏡台などがあふれかえった。おばさんは姫鏡台に向かって、しょっちゅう、化粧をしていた。手足の爪を赤く塗り、息を吹きかけて乾かし、乾くまでじっとしてなきゃいけないの、と言って、私を呼びつけ、台所の床下からビールを持って来させたりした。
 自分の借りている家の一部を、気にいらない義妹に占領された父の気持ちは、想像するまでもない。週末になるたびに、わがもの顔で通ってくる義妹に苛々し、蔭で母にあたりちらし、当時、両親の仲は険悪になっていたようだが、筆子おばさんがそのことに気づいている様子はなかった。
 おばさんはいつも、チョコレートだのゼリービーンズだの、マシュマロだの、私や和代が喜びそうなお菓子を手にやって来て、母を相手に長々と雑談し、楽しそうに笑いころげた。時に、私たち子供が理解できない言葉を使って、深刻そうに眉を曇らせていることもあったが、おばさんがそんな顔をすることは稀だった。
 母が疲れた、と言って横になると、おばさんは葡萄棚の見える四畳半に、私を連れて行った。そして、化粧品に興味を示す私の唇に桃色の口紅を塗りたくっては、きれいきれい、早くおかあさんに見せておいで、と歓声をあげる。
 和代が、あたしも塗って、と騒ぐと、ようし、和代ちゃんには真っ赤っかを塗ってあげよう、と言い、真っ赤っかっか、空の雲、みんなのお顔も真っ赤っか……などと歌いながら、和代の唇を赤く塗りつぶす。和代は化け物のように塗られた真っ赤な唇のまま、喜んで外に飛び出して行き、たまたま和代と鉢合わせした近所の老婆が、ガラスで口を切ったものと思いこんで大騒ぎを始めたこともあった。
 その筆子おばさんは、私が小学校五年になった年の春、泥酔状態のまま、深夜の交差点でトラックにはねられた。明け方、警察から連絡があり、母が大慌てで病院に駆けつけたのだが、その時、すでにおばさんは死んでいた。ほとんど即死だったらしい、と後から聞かされた。
 子供心にも寂しい葬式だったと記憶している。焼香に訪れる人の数も少なく、来た人の大半が、おばさんの勤めるバーの関係者で、父はまたしても不機嫌そうに、葬式にあんな派手ななりをしてきて、と文句を言った。母は、桜の季節だったことだけが、せめてもの慰めね、と言って泣きくずれた。
 その筆子おばさんについては、奇妙な思い出がある。おばさんが死んだ年の夏のことだ。
 何事につけ怖がりだった私は、風呂に入る時も、風呂場の引き戸を開けっ放しにしておくのが習慣だった。粗末な小さい家だったから、脱衣場があるわけでもない。風呂場の引き戸は廊下に面しており、廊下をはさんだ向かい側に、例の四畳半がある。
 その夜、四畳半の部屋の襖は開いていた。九月とはいえ、まだ残暑が厳しかったころのことである。母が四畳半の葡萄棚に面した窓を開け放ち、風通しをよくするために、部屋の襖も開けておいたらしかった。
 湯船に身体を沈めて前を向くと、廊下の向こうに闇に沈んだ四畳半が見えた。葡萄棚に向かって開け放された窓の外から、かすかに隣家のざわめきが聞こえてくる。さっちゃんという、私と同い年の子供が住んでいる家だった。そのさっちゃんの笑い声もはっきりと聞き取れた。
 茶の間では、母がテレビを観ていた。お笑い番組だったと思う。筆子おばさんが死んでからあまり笑わなくなってしまった母が、珍しくくすくす笑う声が聞こえた。
 和代はもう寝ていた。父はまだ帰っていなかった。
 四畳半には、二棹の洋服箪笥の他に、筆子おばさんの使っていた籐椅子と小さな丸テーブルが残されていた。筆子おばさんが生きていた時は、あんなものを置かれたら、部屋が狭くなってかなわない、と蔭で文句を言っていたくせに、父はその籐椅子とテーブルを処分しようとは言い出さなかった。筆子おばさんの死が、あまりに突然で、おまけに寂しい死に方だったせいだろう。おばさんの死後、父がおばさんを悪く言うようなことは一切、なくなっていた。
 湯船につかっていた私の目が、ふと四畳半の籐椅子に吸い寄せられた。籐椅子は、風呂場に向かって横向きに置かれていた。
 籐椅子に足が見えた。長くて細い、きれいな白い足が一本だけ。足首はテーブルに載っている。あたかも誰かが籐椅子でくつろぎ、のびのびと足を伸ばして、テーブルに載せているかのように。
 初めは、怖いとか気味が悪い、といった感覚はなかった。誰の足なのか、どうして胴体がないのに、足だけ見えるのか、そんなことは考えなかった。籐椅子から足が伸びている。それだけのことのように思えた。
 右足だったと思う。爪には赤いペディキュアがほどこされていた。指と指の間には、丸めた脱脂綿がはさまれてあった。ふうふう、と爪に息を吹きかける気配がした。
 それはどこかで見た光景だった。そう思った途端、私は湯の中で凍りついた。
 あれは筆子おばさんの足だ、と私は思った。筆子おばさんが帰ってきた。今、筆子おばさんは籐椅子に座って、足の爪に塗った真っ赤なペディキュアを乾かしている。
 おかあさん……と私は声を出した。ひどくうわずっていて、声にならない。茶の間からは、相変わらずテレビの音声が流れてくる。母の笑い声がする。湯呑みを卓袱台に置く音がする。葡萄棚の向こうのさっちゃんの笑い声も続いている。
 ふうふう。息の音がした。耳元で聞こえたような気がした。恐怖のあまり、私は動けなくなった。パッキングのゆるんだ蛇口から、水がぽたりと湯船に落ちた。
 長い長い間、私はじっとしていた。隣家で、がちゃんと食器が割れる音がした。さっちゃんの母親が、「ほら、ごらん! ぼやぼやしてるから!」と怒鳴った。小言が続いた。べそをかきながら、言い訳をするさっちゃんの声が聞こえた。
 足が消えたのはその時だった。どんなふうにして消えたのかわからない。私の見ている前で消えたのか。それとも、私が無意識に目をつぶってしまったのか。
 気がつくと、足は見えなくなっていた。見慣れた籐椅子と丸テーブルが、ひっそりと暗い四畳半にあるだけだった。
 茶の間から母が出て来た。風呂場を通り過ぎる時、私に向かって、「ああ、可笑しかった」と言った。「久しぶりに笑ったわ。湯加減、どう?」
 ちょうどいい、と私は言った。母は台所に入って行き、大声で「カルピスでも作ろうか」と言った。うん、と私は答えた。
 父にも母にもその話はしなかった。話したら最後、その時こそ、本当に怖くなるような気がしたからだった。
 和代が真鶴に引っ越した直後だったか。和代にだけ打ち明けたことがある。
 誰に似たのか、徹底して合理的なものの考え方をする和代は、へえ、そう、と言って、けらけら笑った。見間違ったのよ、きっと。籐椅子に、大根か何かが置いてあったのよ。子供はよく、そういうものを見た、って言い張るんだから。うちの舞子だって、時々、庭に干してある洗濯物を見て、おばけがいた、って大騒ぎ。いちいち真面目に取り合ってたら、身がもたない。ただでさえ忙しいのに。
 そうね、と私は言い、その話はそれきりになった。最近では、妹との間に、筆子おばさんの思い出話はおろか、亡くなった両親の話も出てこない。

トップページへ戻る