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逢坂の六人
周防 柳

   序 みやこの辰巳

     1

「おもしろう、ないな」
 手元の料紙を眺めながら、貫之はつぶやいた。
 朝から同じ場所に座りづめに座り、これで何度目の同じせりふであったろう。
「つまらぬ」
 手の中でいじくりまわしていた狩衣のくくり緒を、さらにもみくちゃにした。それは貫之が考えこんだときにやる悪い癖で、おかげで紐の結び目は猫の子にでもいたずらされたかのように、ささらになっていた。
 延喜四年の、皐月のなかば。
 山の端に白い月がかかり、あたたかな夜風が吹いている。そのしじまの底にさらさらと鳴りつづけているのは宇治川の瀬の音で、貫之はそれを片耳に聞きながら、文机の前に石地蔵のようになっていた。
 彼が呻吟しつつ向かっているのは──。
 みかどの号令によって編纂されることになった、勅撰和歌集の序文であった。
 その執筆に取り組むためにここへやってきて、はや十日であった。しかし、それはなかなか進捗しないのであった。
 いや、おおむねのところはできた。でも、いちばんかんじんな精髄のようなものが、欠けているのであった。そして、それがなんなのかわからなくて、苦しんでいるのであった。
 貴之は、また「うーん」と唸った。

     2

 三十九歳の下級官吏の紀貫之が、歌才を認められてその勅撰集の撰者に命じられたのは、いまから二年前のことだった。
 ──いよいよ、きたか。
 貫之は心の中で叫んだ。
 その少し前に、近しい縁者の紀友則から、「ここだけの話で」と内々には聞いていた。
 近々、主上の命によってやまと歌の撰集が編まれることになるらしい。自分は本院の左大臣時平様から、撰者の一人をつとめてもらえぬかと打診を受けた。もちろんいなやもなく承ったが、そなたもともに選んでほしいと推薦しておいた──。
 友則は言った。
「そなたはわしより一回り以上も若い。そのうえに、歌の才は二倍ある。わしはもう老いぼれゆえどうか援けてくれ。ともに励もうぞ」
 年季の入った温顔をふわりとゆるめた。
 それを聞いて貫之は深く頭を下げたのだが、いざほんとに勅命が下ったら初めて聞いたことのように感激して、ぶるぶる、ぶるぶる震えた。
 撰者は友則と貫之のほかに二人選ばれていて、壬生忠岑と、凡河内躬恒であった。年齢でいえば忠岑がいちばん年長で十数歳上、次が友則でやはり十数歳上、次が躬恒で数歳違い。年齢と官位からすると友則が筆頭だったが、実力ではもっとも年若な貫之が抜きん出ていた。
 貫之は幼いころからやまと歌が好きだった。まれな天稟があった。父親には早く死に別れていたが、歌の妙味を教えてくれるよき大人たちに恵まれて、才能を豊かに伸ばしてきた。
 やまと歌の勅撰集──!
 長年念願し、夢に見つづけてきたことであった。
 よろこびのあまり、舞いあがる思いだった。
 それまでにも、今昔のやまと歌を集めた歌集がなかったわけではない。百年あまり前につくられた『万葉集』というものがある。だがそれは、このたびの集とはまったく意味の違うものである。
 なぜなら、まず『万葉集』は勅撰集ではない。というよりも、誰が命じて、誰が編んだのかということが、そもそもわからない。よくよく眺めると、部分的に折々のみかどに献じられたような気配は見えるが、詳細は不明というよりほかない。しかも、約四千五百首の歌が並んだその集は継ぎはぎだらけで、全編を通した統一意図というものがない。貫之は伝えられているさまざまな写本をためつすがめつ眺め、けっきょくこれは長年にわたっていろいろな人びとが編んだ雑巻を、最終的に誰かが──おそらく大伴家持などいく人かの人が──、一つに合わせたものであろうと推測していた。
 また、『万葉集』は必ずしも秀歌が選ばれて載せられているわけではない。非常に巧みな歌もあるが、そうでないものも混じっている。詠者は貴賤、老若、男女、都鄙にかかわらずさまざまで、歌の形式は雑多である。ゆえに選び抜かれた歌の集というよりも、むしろ、この国に存在するありとあらゆるやまと歌を、とにもかくにも拾い聚めた大全集といったほうが正しかった。
 しかし、このたびの集はそうではない。
 かしこくも当今があきらかな号令を発してとりおこなう公的事業である。また、歌の優劣を判定する撰者が置かれ、きびしく吟味し、選抜したもののみを収載する。すなわちこれはわが邦が公式に刊行する最高の和歌集であり、そこに選ばれた歌は国家から秀歌としてお墨付きを与えられた歌、ということになるのであった。
 その初めての勅撰集の撰者に、自分が選ばれた。
 無上の栄誉であった。

     3

 世の中を見渡せば、いま、やまと歌が大流行であった。誰もかれもが、歌、歌、歌。恋のさやあても、まつりごとの根回しも、地位の懇願も、なんでもかんでもやまと歌に託していた。あちらこちらで凝った趣向の歌合が企画され、曲水の宴がもよおされ、貴族の遊興に欠かせぬものになっていた。そんな風潮の中で、貫之はさいきんいちばんの詠い手として評判になっていた。
 貫之の身分は高くない。紀氏という弱小の公家の一員であり、位は七位にすぎない。官職は禁裏の書庫である御書所の預で、たくさんの蔵書を管理する司書のような仕事である。が、抜きん出た歌才のゆえに、偉い大臣や堂上がたから「歌をつくってほしい」と頼まれるまでになっていた。
 しかし、そんな人気とはうらはらに、やまと歌の格式はあまり高くなく、文芸の王座は唐歌、すなわち漢詩にあった。やまと歌はあくまでも私的な秘事にもちゆるものというのが一般的な認識であり、価値としては唐歌よりいちだん劣るとみなされていた。それが、貴之ははがゆかった。
 やまと歌はこの国の言葉の発生とともに生まれ、しぜんに発達し、時とともに磨かれ育ってきた純粋国産の芸術である。しかし、それは必ずしもつねに陽のあたる場所を歩んできたわけではない。
 その第一の高潮は平城の都のころにあり、貴賤老若を問わず愛され、『万葉集』のごとき大集ができた。が、その後清新な魅力を失い、その上に折からの唐風ばやりが重なって、唐歌に首座を奪われてしまった。めりはりのきいた韻律と高度に整った規矩を持つ唐歌には独特の洗練と骨太感があって、なよなよと柔弱なやまと歌に飽いていた知識人の目にはきわめて新鮮に映ったのである。
 もともとこの国では公文書は漢文で記す伝統であったから、唐歌はまたたく間に貴族社会を席巻した。ことに時代が大きく移り変わった平安遷都のころには、その持っている味わいが時代の青雲の志にぴたりと適合した。知性や教養は唐歌であらわすというのが常識になり、唐歌がつくれねば一人前の男子にあらずとさえいわれた。このころには単に「歌」といえば唐歌のことを指したほどであった。
 公的事業としての勅撰集も、『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』と、漢詩集ばかりつくられた。おかげでやまと歌は片隅に追いやられ、古色蒼然となり、せいぜい婦女子の手すさびという不名誉な位置に堕すことになった。
 いうまでもなく、漢詩は外来の芸術だ。だからこれはおかしな逆転現象なのだが、それでもその感覚が長く続いたのである。
 やまと歌が暗黒時代を抜けてふたたび復権の兆しをみせはじめたのは、貫之が生まれる少し前の仁明、文徳朝のころであった。猫も杓子も唐歌、唐歌と言っていた風潮にほころびができ、海彼の形式ではあらわしきれぬ機微を表現する方途として、やまと歌が浮かびあがってきた。そして、少しずつ勢いを盛り返していった。
 童のころからやまと歌をこよなく愛してきた貫之は、その世界がだんだんに興隆し、豊かに拡がっていく様子を興味しんしんで見つめた。そして、いま最高の盛りあがりとなって、絶好の機がめぐってきた。国家事業として、漢詩集ではなく勅撰の和歌集が編まれる。それは、彼岸此岸の二つの詩の地位を逆転させ、文芸の王座を奪還できる可能性をあらわしていた。
 七位の貫之が撰者となったことが示すように、現今のやまと歌の主たる担い手は、高位高官の士よりも、位階的にはあまりぱっとしない人びとのほうが多かった。そこには逆説的な必然があって、身のうちに憂さがあって浮かばれぬ者のほうが、巧まずしてやまと歌のこころをよくあらわしたのである。それを返して言えば、この世に満ち足りている者からは、あまりすぐれた歌は生まれなかった。また返して言えば、そういう者は唐歌を詠めばよいのであった。
 貫之以外の三人も、似たり寄ったりの吹けば飛ぶような身分だった。友則は大内記で六位。忠岑は宮中の警護をする左近衛府の番長で、八位にも相当せず。躬恒は八位で、数年前に甲斐の少目を終えてからは官職にあぶれて散位だった。そんな面々がみかどからじきじきに国家の大事への参加を命じられた。身も心もはりさけんばかりの栄誉であった。
 歌人というのは官職ではない。だから、歌がうまいからといって禄が増えるわけでもなく、位が上がるわけでもない。しかし、勅撰和歌集の編纂は歴とした公的事業であり、正式の任務である。
 だから、四人ともいまこそやるべしと意気を新たにしたのであった。

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