書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
大きくなる日
佐川光晴

   第1話 ぼくのなまえ

「ぼくはタイちゃんじゃない。ぼくのなまえは都営地下鉄三田線くんなの。だから、三田線くんってよんでください」
 おとうさんは子どもっぽい声でいって、ぼくと目をあわせた。
「まったく、あれはケッサクだったな。太二が三歳のときで、自分でもおぼえてるんだろ?」
 ぼくがうなずくと、おとうさんはわらった。おとうさんのわらい声は大きい。まどガラスがふるえることもある。
「あなた、ご近所にめいわくですよ」
 おとうさんをちゅういするおかあさんも、なんだかうれしそうだ。でも、おねえちゃんはちょっとイヤそうな顔をしている。
 ぼくのおとうさんは会社員で、とてもいそがしい。外国にシュッチョウに行くこともある。行きさきはマレーシアやインドネシアだ。ながいときは二しゅうかんか三しゅうかんくらい、外国ではたらいてくる。日本にいるときも、おとうさんは夜おそくにかえってきて、朝はやくに会社に行ってしまうから、ぼくは何日もあえないことがある。日曜日に、今日こそは休みだといっていたのに、だれからか電話がかかってきて、あわてて出かけていったこともあった。
 でも、あしただけは、どんなことがあっても仕事に行かないとやくそくしてくれた。あしたは、山花保育園の卒園式だからだ。
 今日も、おとうさんはいつもよりずっとはやくかえってきて、保育園にむかえにきてくれた。おふろも、おとうさんといっしょにはいった。金曜日の夜に、かぞく四人がそろってごはんをたべるのなんて、すごくひさしぶりだ。
 卒園祝いのパーティーはあしたの夜だけど、今夜もごちそうだ。おかあさんも病院の仕事をおひるであがってスブタをつくってくれた。スブタやハッポーサイはつくるのがたいへんなので、めったにつくってくれない。
 おかあさんは看護師をしている。おにくやさんのカラアゲやトンカツがおかずのときは、おかあさんがとてもつかれているしょうこだから、ぼくはプラレールや電車の絵本をだしっぱなしにしないようにきをつけていた。
 おとうさんはさっきからビールをのんでゴキゲンだ。保育園にむかえにくるのはひと月に一回か二回だけど、おとうさんは山花保育園が大すきだからだ。
「星野先生に会ったのも、久しぶりだったな。あのひとは本当にいい先生だよなあ。あいかわらず顔にソバカスがいっぱいでさ。さっき言った『三田線くん』のときも、ほかの先生は、『三田くん』 って微妙に省略してよんでいたのに、星野先生だけは、太二の希望どおりに、『三田線くん』 ってよんでただろ。ああいうのは、本当にだいじなことなんだよ。もちろん、おれも、『三田線くん』 ってよんでたけどね」
 ぼくは一さいから山花保育園にはいった。十一月うまれなので、せいかくには一さいと四かげつで保育園にはいった。さいしょがタンポポ組。つぎがレンゲ組。それからスミレ組、モモ組になり、いまは年長のサクラ組だ。
 レンゲ組のときに、「ぼくのなまえは都営地下鉄三田線くんなの」と、しゅちょうした。さいしょは家でいって、保育園でもおなじことをいった。
 どうしてそんなことをいったのかといえば、「タイちゃん」と赤ちゃんぽくよばれるのがイヤだったからだ。それで、電車のなかでいちばんかっこいいとおもっていた「三田線」とよんでほしくなったのだ。「都営地下鉄」がみょうじで、「三田線」がなまえのつもりだった。
 おねえちゃんによると、おとうさんがこのはなしをくりかえしするので、ぼくは自分でもおぼえているようにおもいこんでいるだけだという。
 弓子ねえちゃんは小学四年生で、とてもものしりだ。テストでも、百点ばかりとってくる。それで、ぼくのことをバカにするから、しょっちゅうケンカになる。
 おねえちゃんがなんといおうと、ぼくはそのときのことをはっきりおぼえている。
「タイちゃん」ではなくて、もっとかっこいいなまえでよんでほしいとかんじていたときのくやしいきもちを、ぼくはちゃんとおぼえているのだ。
「あとは、あれだ。モモ組の秋だから、太二はもう五歳になってたのか」
 ビールで顔を赤くしたおとうさんがうれしそうにはなしだした。ぼくとおねえちゃんはもうごはんをたべおわっていて、ウーロン茶をのみながらデザートのフルーチェをたべていた。
 モモ組のとき、ぼくはみんなとあそぶのがイヤだった。おひるねからおきたあと、みんなが「ダルマさんがころんだ」や「氷オニ」をしていても、ぼくはまざらないで園庭をブラブラしていた。星野先生は一かいはさそってくるけど、「やらない」とこたえれば、それいじょうはしつこくしてこなかった。
 おとうさんはいつもよりはやく保育園にむかえにきたときに、星野先生とぼくがそのやりとりをしていたところをたまたまモクゲキして、とてもカンゲキしたらしい。
「なかなかできることじゃないぞ。『みんなでなかよくあそびましょう』は、保育園や幼稚園では法律みたいなものだからな。でも、なかにはあのころの太二みたいに、みんなとあそぶのがイヤになっている子どもだっているはずなんだよ。イヤがっているのに、むりやりみんなとあそばせたら、それがきっかけですごくひねくれた子どもになってしまうかもしれない。ところが、星野先生は太二をほうっておいてくれた。太二はしっかりした子だってわかっているから、いつかは気がかわって、またみんなと一緒にあそぶようになると信じていたわけだ。そのきもちがうれしくて、星野先生に、『太二をほうっておいてくれて、ありがとうございます』ってお礼を言ったら、鳩が豆鉄砲をくったような顔になってさ」
 そこで、おとうさんはコップのビールをおいしそうにのんだ。
「そのはなし、もう聞きあきたんだけど」と、おねえちゃんがもんくをいった。
「弓子」
 おかあさんがちゅういしても、おねえちゃんはへんじをしなかった。
「あたし、あしたはひとりでテニスに行くから。保育園の卒園式には出ないからね」
 おこった顔でいうと、おねえちゃんはイスから立ちあがった。
「勝手にしな。ただし、おまえがしたことは、そのままおまえにはねかえるからな。それは覚悟しておけよ」
 おとうさんのいいかたはこわくて、おどろいたおねえちゃんが泣きそうな顔になった。でも、歯をくいしばって、おねえちゃんはいいかえした。
「どうして、自分がしたいようにしちゃいけないのよ。太二がみんなとあそばなかったように、あたしは保育園の卒園式には行きたくないの」
「おまえはバカか。自分のことを『三田線くん』とよんでくれって妙ちきりんなことを言ったり、みんなとまざらずにブラブラしていた太二が、しっかりしたサクラ組のおにいちゃんになって、保育園を卒園しようとしてるんだぞ。おまえだって、同じ山花保育園に通ってたんだから、卒園式がどんなにたいせつなものかわかってるはずじゃないか。それに、山花保育園は三月いっぱいで閉園なんだぞ」
 おとうさんはおねえちゃんをにらんで、大声でしかった。そうなのだ、山花保育園はたてものがふるくなってしまったのと、土地をかしてくれていたお寺が保育園があるばしょをつかいたいということで、もうおしまいなのだ。
「バカで悪かったわね。どうせあたしはバカですよ」
 なみだをながしながらいうと、おねえちゃんはろうかを走って自分のへやにはいった。

トップページへ戻る