書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
ダー・天使
一雫ライオン

  〜文中より抜粋〜

「地上に返してくれ、俺を。それを言いに来たんだ」
 神はしばらく顎の下のニキビを弄り黙った。
「ロッジ帰って糞して寝ろよ。俺が人間(ヒューマニャー)に与えた最高級のエンタテインメントがなにか知ってるか? それは食うことと寝ることだ。ぐちゃぐちゃ考えないで気持ちよく寝ろ」
「返せ。俺を地上に返してくれ」
 少年は二郎を無視して回転盤に玉を落とした。
「頼む。たとえ娘と妻に運命が決まっていようが、見守りたい。そばで見守りたいんだ」
「あんたも今日一日天国で過ごしてわかったろ? ここは最高だ」
「わかってる。持っていればいつか娘も妻もここに来て永遠に暮らせることも理解してる。でも、やっぱり俺は待ちたくない。待ちたくないんだ。今日一日過ごしてそう思った。確かに素晴らしかった。文句のひとつもない。会いたかった母にも会えた。兄にも会えた。でも、母と兄の幸せな姿を見てると思いだすんだ。沙和子と凛を。俺はあんな死に方をしたんだぞ? 子供はどうやってその傷を癒す。どうやって生きていく。沙和子は親がいないんだ。頼れる人間も少ない。頼む、戻してくれ。地上に俺を戻してくれ」
「はっきり言うよ。親は無くとも子は育つ。これ、地上でも天国でも鉄板の不変だから」
「頼むよ。頼む、帰らしてくれ」
 二郎は月明かりが照らす白雲の上に額をこすりつけた。二郎に恥も外聞もなかった。
「なんで? あんたら日本人(ジャポーネ)は盆になれば地上に帰省できるんだぜ? それで充分じゃん。あとはさ、のんびりここで好きなことしながら、毎日二時間愛する者を見守って待てばいいじゃん。そのあと、あんたの妻と子供がここに来たらまた一緒に暮らせんだから。それこそさ、あんたの母親とか兄貴とか、みんなで仲良く永遠に暮らせるんだぜ?」
「いやだ。俺は帰る。それまで待てない」
 駄々っ子かよ、と言いながら神様は舌打ちをした。
「そう簡単に誰もがね、愛する者を見守る天使にはなれないの。わかる? 誰でも天使にはさせられないんだよ、ダーさん」
「天使?」
 二郎は顔を上げ神様を見つめた。
「あんたがここに来たとき言ってた守護霊とか背後霊っていうのは、天使のことだ。羽が背中から生えて赤ん坊みたいなのが飛んでるイメージしてただろ? 現実は違うの。子供の天使もいるけど、天国にいることを拒否して地上に戻る人間のことを、総合的に天使って言うの」
「じゃあ、やっぱりいるんだな! 地上には降りられるんだな!」
「できるよ。だって俺神様だもん。でも言っとくよ? 天使になったところで奥さんとか子供にはあんたのこと見えないよ? ただそばで見守れるだけ。要は体のいいストーカーと変わんないんだから」
「いい。それでもいい」
「あんたがそばに行ったって、なんも変わんないよ。あんたの家族の運命は」
「……それでもいい。帰してくれ、俺を子と妻のもとに」
 十七歳の神様は眠気を覚ますように両目を擦ると、二郎に目を閉じろと命じた。二郎はそれに従った。
「試しに天国から見てみろよ。それから戻るかどうか決めれば?」
「どうやったら見られる」
「もうあんたには見えるよ。ここで一日過ごしたんだから。心を無にして、感じろ」
 二郎は必死に心を無にした。
「なあ神様」
「なに」
「俺はここに来てなんとなく感じてるんだが、ここでの一日は地上の一日の長さと違うんだろ?」
「おう、勘のいいおじさんだね」
「俺が死んだ日は娘の誕生日だったんだ。でも、そんな感じがしなかった」
「時は無情に流れけり、だよ」
「見るのが怖いな」
「そんなこと怖がってるなら、地上になんて降りないほうがいいぜ。見たくないもん、たくさん見ちゃうんだから」
「いい……見る」
 二郎は目を閉じたまま、心の暗闇を見つめた。すべての力を抜き、五感さえも閉じた。
 ──娘の姿が見えた。娘は成長していた。背は伸び、百二十センチはあるだろうか? おめかしをして、なにかをみんなと歌おうとしている。これは保育園だ。おぼろげだった周りの景色が見えてきた。卒園式だ。垂れ幕がかかっている。ということは、娘は六歳になっているはずだ。おおきくなった凛は髪の毛を後ろで一本に束ね、気をつけの姿勢をして歌おうとしている。歌は卒園式でよく歌われる「思い出のアルバム」という曲だ。凛は必死に背筋を伸ばし、両手を後ろ手に組みその時を待っていた。親の目から見ても緊張しているのがわかる。下唇を歯で噛んでいた。これは娘が幼いころから緊張しているときにする癖だ。二郎は祈った。大丈夫。大丈夫だよ、凛はきっと間違えずに歌えるよ。やがて歌がはじまると、娘はすーっと息を吸い、精一杯おおきな声で歌いはじめた。
〈いつのことだか 思いだしてごらん あんなこと こんなこと あったでしょう うれしかったこと おもしろかったこと いつになっても わすれない〉
 娘は必死に、練習したであろう曲を間違えまいと歌っていた。おおきな声で。みんなと一緒に。前でタクトを振る先生の目を見ながら、背筋を伸ばし歌っていた。後ろには、保護者たちが座り子供たちの背を見つめていた。ビデオを撮る者、泣いている者、それぞれ子の成長を見つめていた。その中に沙和子がいた。紺色のスーツを身にまとい、娘の歌に合わせちいさく首を揺らし微笑んでいる。沙和子が着ているスーツは、凛の七五
三のときに二郎と共に購入したものだ。二郎は歌が終わると、そっと目を開いた。
「……おっさん……超泣いてんじゃん」
 神様が感動で泣きじゃくる二郎の顔を見て、呟いた。
「うるせえ……ほっとけ」
 二郎はひくひくと背中を震わせ泣き続けた。神様はそっと二郎との距離を取ると、手を伸ばしハンカチを差し出した。
「……ありがとう」
「俺、いま正直若干引いてます。中年の父親の涙に。おえーって」
「うるさい! おまえにはこの気持ちはわからん! ガキは黙ってろ!」
「鼻水雲に落とすなよ! 俺あんがい潔癖症なんだよ!」
 二郎は溢れ出る涙を零しながら、雲の上に落ちた自分の鼻水を拭いた。
「で──どうすんの。これでも帰るの。こうやって天国からでも成長は見られるのわかったろ?」
「帰るよ。必要な気がする。たとえなにかが出来るわけじゃなくても、俺がそばにいないといけない気がする。いや……いたい。娘と妻のそばにいたい」
「絶対?」
「ああ、絶対だ」
「その気持ち絶対に絶対? 命かける?」
「俺はもう死んでる。しかも決めたのはおまえだ。ふざけるのはよせ」
「なんだよ、冗談通じないな」
 と、神様は一転真面目な顔をして二郎を見つめた。二郎はまじまじと少年に見つめられ、また彼の目に吸い込まれるのではないかと錯覚した。それほどにこの少年は美しかった。甘美さ、いや、妖艶さまで漂わせている。少年は二郎の目を見つめたまま、声を落とし話しはじめた。
「条件がある」
「条件?」
「条件と言うより取引だ。天国から地上に降りて天使になる者への約束事だ。これは昔から決まってる。誰それ構わず地上になんて戻してたらきりがない。秩序も乱れるしな」
「なんだ、言ってくれ」
「これを聞いて降りるのを辞める者は多いよ」
「いいから、頼む。教えてくれ」
「天使になるなら、俺は奪わなきゃいけない。あんたの幸せを」
 教えてくれともう一度口にしながら、二郎は背筋が凍った。言いようのない凄みが、十七歳の神様から漏れていた。
「いいかよく聞け。これが嫌なら天使にはさせられない。聞くか?」
 二郎は美しい真白い大蛇に見つめられた蛙のように、こくりと頷いた。
「それはな──」
 神は珍しくゆっくりとした口調で、端的に二郎に教えた。それを聞いた二郎はしばし黙り込んだ。やがて鎮座する白い雲を見つめながら、二郎は答えた。
「それでもいい。俺を地上に戻してくれ」
「わかった。立て」
 二郎は言われるがまま立ちあがった。ここへ来る途中で呑んだ焼酎の酔いはとっくに醒めていた。
「はああ、面倒くせえな、人間は」
 少年はまた軽口にもどった。
「もう覚悟は出来てる」
「はいはい、行ってらっしゃい、おじさん」

トップページへ戻る