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ブルズアイ
小森陽一

 山の中腹にある浄泉寺の本堂は、しんしんと冷えていた。
 広さは六十畳ほどある。それだけでも十分な広さなのに、奥の板張りには三つの大きな仏壇が並んでおり、同じくらいのスペースがある。天井もやたらと高い。古びた大きな梁の、そのまた上は、薄暗くてはっきりと見えないほどだ。三方向にある障子戸からは、じわりと隙間風が忍び込んでくる。大小合わせて八台のストーブがめいっぱい火勢を上げているが、今もって温まる気配は一切ない。そんな中、ただ、住職のお経を誦む朗々とした声だけが響き渡っている。
 坂上陸は畳に置かれた薄い座布団の上に正座して、小刻みに身体を震わせていた。少しでも気を許すと、歯の根が合わなくなってガチガチ鳴ってしまいそうになる。奥歯を噛んで必死に耐えていた。住職のすぐ後ろには、家族が横一列に並んでいる。父親の護は平然とした顔で前を向いたままだ。微動だにしない。母親の春香はちょっと俯き加減で、じっとお経に耳を傾けている。いつもは口煩い姉の雪香も、身じろぎもせずに黙ったままだ。陸の後ろには父方や母方の親戚、従兄弟など総勢十人ほどがおり、中にはまだ小学校にも入っていない小さな子供もいる。さっきからなんの物音もしない。誰もが声も立てず、咳もせず、身じろぎもせず、じっと正座を続けている。そわそわしているのは陸だけだ。でも、これには訳がある。
「今日はまた一段と寒かけん、遠慮せんと、コートや襟巻をしたままでよかですけんね」
 本堂とは廊下で隔てられた場所にある応接室で法要の始まりを待っていた時、襖が開いて住職がにこやかな顔を覗かせた。法要はお経と住職のありがたい法話で約一時間。そこそこ長い。もちろん、ここを訪れたのは初めてではないから、本堂の寒さは知っている。ソファに掛けた厚手の黒いロングコートに手を伸ばしかけた時、護と目が合った。今ではもう、昔のような確執はない。完全に角は取れていた。とはいえ、長年口を利かない関係を続けてきたわけで、多少のぎくしゃくした感じは残っている。
 陸はひょいと手を引っ込めた。年寄りや子供ならいざ知らず、若いお前がコートを着込むなんて情けない。そんな風に言われた気がしたからだ。春香が「着ていきなさい」と声をかけたが、
「寒いかなぁ。小松に比べたら別に大したことないんだけど」
 あえておどけた口調で答えた。
 護がコートを羽織って応接室から出ていった。陸はちょっとした優越感を感じた。
「なんで笑ってんの?」
 いきなり雪香に顔を覗き込まれてギクリとする。雪香は昔から見なくてもいい場面をちゃっかりと見ているところがある。慌てて「元からこんな顔」と取り繕うと、「気持ちワルっ」とそっぽを向かれた。陸は聞こえないように「うっせぇ」と悪態をついた。
 だが、ものの十分も過ぎた頃にはもう、後悔が頭をもたげていた。つまらない意地など張らずに、言われた通りにしておけばよかった。
 陸は音を立てないように細心の注意を払いながら、かじかんだ指から数珠を抜き取って膝の上に置くと、両方の手をお椀のようにして、その中に息を吹きかけた。温かい空気がお椀の中に溜まり、手のひらや鼻の頭がほんのりと温かくなる。それを何度か繰り返した。ふいに障子がガタリと音を立てた。強い風が吹いたのだ。すーっと冷気が辺りを包む。スーツの下の薄いシャツを突き抜け、直接、素肌に触れてくる。途端、ブルッと身震いした。数珠が畳に落ちて音を立てた。急いで拾い上げたが、雪香越しに春香と視線が合った。冷ややかな目だった。陸にはそれが、「それみたことか」という表情に思えた。もちろん春香は喪服の上に上着を着ている。首にはスカーフも巻いている。雪香にいたっては、厚手のコートをしっかり着込み、おまけに手袋まではめている。びくともしないところを見ると、きっとあちこちにカイロを忍ばせているに違いない。陸は春香の視線から逃れるように正面を向いた。すると、別の視線とぶつかった。仏壇に飾られた一八郎の遺影だ。腕組みをして僅かに頭を後ろに反らしているから、自然と目線はこちらを見下している感じになる。不遜な態度この上ない。
「陸よぉ、カッコつけるんやったら、最後までつけ通さんか」
 今、ここに、一八郎がいたらそんな風に言う気がする……。
 一八郎は三年前の十二月十六日、この世を去った。今日みたいに底冷えのする、とても寒い日だった。突然、居間で倒れ、春香が救急車を呼んだそうだ。以前にも倒れて病院に運ばれたことがあった。その時、医師から告げられた病名は脳梗塞。あちこちの血管に瘤ができているということだった。しかし、高齢ということもあって手術はせず、投薬治療で様子をみようということになった。それ以来、春香も雪香も、一八郎をなるべく一人にしないように気を配っていたそうだ。でも、いつまた倒れてもおかしくないと、家族はどこかで覚悟もしていた。
 陸は死に目に会えた。三日後に、眠るように息を引き取った。何も苦しまず、とても安らかな顔だった。
 陸にとって一八郎は、物心つく頃からずっと同じ印象のままだった。明るく、世話好きの女好きで、一切他人の話を聞かない。第二次世界大戦の際、陸軍のパイロットとして出撃回数は百回を超え、死線を何度も経験した凄い人物だと聞かされても、どこか掴みどころがなく、現実感がなかった。陸の知っている一八郎は、映画やテレビに出てくるような歴戦の勇者ではなく、近所をぶらついては仲間を集め、どこまでも好き放題生きている気ままな自由人といった風情だった。弱音を吐いたところなんか見たことがない。脳梗塞で倒れるまで、寝込んだことすらなかった。入院している病院でもつねに冗談を飛ばし、看護師さんにちょっかいをかけ、周りを呆れさせた。風邪をひいて熱が出ていたり、肩や腰が痛かったり、他にもいろいろあったとは思う。一応、人間だから。でも、そんな素振りすら見せなかった。この遺影も生前、本人が選んだものだそうだ。春香は「もっと優しい感じのものにしたら」と提案したそうだが、ガンとして受け付けなかったと言っていた。これが自分。たとえ死んでしまっても、人からこんな風に見られたい。カッコつけ通した人生。坂上一八郎とは──今思うと、どこまでも小粋なクソジジイだった。

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