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くろご
中谷航太郎

   第 一 章

     一

 町は夜霧の底で眠っている。
 西天に浮かぶ上弦の月は、紗の幕を透かしたように霞み、どこかで吼える野犬の尖った声も、いつもよりやんわりと響いていた。
 人気のない深夜の路上を、二人の武士が歩んでくる。
 主従と見え、提灯を手にした二十五、六歳の軽輩が、絹の頭巾を被った恰幅のいい武士を先導していた。
 二人とも酩酊し、よろめくような足運びだった。
 ふいに足を止めた頭巾の武士が、
「高部、屋敷はまだか?」
 苛々と放ち、足元に淀んだ霧を蹴散らした。
 落し物でも探しているのかと思いきや、なんと、帰る屋敷を地面に探していた。
「もうこのあたりのはずでございます」
 高部と呼ばれた家来が、場所の見当をつけようと提灯を翳す。
「なにも見えぬではないか!」
「これほど深い霧は、見たことも聞いたこともございません。もしや、狸に化かされているのでは」
 高部が、おどけた仕草で腹鼓を打つ。
「たわけ! 狸ごときに化かされるわしではない。おぬしのせいで、迷子になってしもうたではないか」
 主は笑うどころか、怒りだしてしまった。
「ほんの冗談にございます。こんなことになったのは、なにもかも、駕籠屋のせいにございます」
 二人は帰り道で駕籠を拾い損ねたらしい。そもそもこんな夜更けに、流しの駕籠と行き会えると思うほうがどうかしているが、いずれにせよ、迷子になった責任を、高部が駕籠屋になすりつけたのは明らかだった。
「うむ、おぬしの申す通りじゃ」
 意外にも主は、身体がふらつくほど大きくうなずき、
「貧乏なくせに、夜っぴて働こうとせぬ、怠け者どものせいじゃ」
 高部がすかさず被せる。
「それにしても、奴ばらも運が悪うございます」
「なにがじゃ?」
「殿に拾われておれば、酒手を弾んでもらえたでしょうに」
「そうじゃな。小判の一枚や二枚、恵んでやったのにな」
「今宵の殿は、博奕の神が乗り遷ったようでございました。賭場に集まった金を総ざらいしたあげく、どうせこんなものは泡銭じゃと、気前よく散財なされた殿の器の大きさには、この高部、ただただ感服仕りました」
「ふふっ、まあよい。夜霧も、おつなものじゃ」
 主もようやく機嫌を直した。
 だが、酔っ払いは、一筋縄ではいかない面倒な生き物である。
「さすが殿、風流まで弁えておられまする」
 高部が重ねた空世辞をどう受け取ったものか、
「このわしから役を解くとは、まったくもってけしからぬ」
 主はまたしても不興に転じた。
「ご、ごもっともでございます。殿ほどのご器量の持ち主を小普……」
 その先を、高部はかろうじて呑み込んだ。手遅れだった。
「そうじゃ、小普請じゃ。三河以来の旗本にして、五百石を預かる綾瀬家の当主たるこのわしが、縮尻小普請と陰口を叩かれておるわ!」
 三千石未満の無視の旗本は、小普請組に編入される。その中でも、懲罰を受けて小普請組入りをした者を、縮尻小普請、あるいは御咎小普請などと蔑称した。
「声がお高うございます。夜更けとは申せ、どこに耳があるか、しれたものではございませぬ」
「それがなんじゃ。わしに陰口を叩く者どもに、聞かせてやればよいではないか」
「殿、なにとぞ」
「厭じゃ、わしは黙らぬ。ええい、よく聞くがいい。わしだけが悪いのではないぞ。もっと悪事を働いた者が、すぐそこで枕を高うして眠っておるわ」
 綾瀬が放った罵声が、武家屋敷の建ち並ぶ番町に木霊した。
「殿、いましばらくのご辛抱にございます。殿ほどのご強運の持ち主なれば、必ずや、お役に与れる日が参ります。どうか、どうか、お気を鎮め下され」
 博突に勝った勝負運を引き合いに出して、高部は主の暴挙を宥めた。
「邪魔立て致すと、おぬしといえども、許さぬぞ!」
 綾瀬がますますいきり立ったとき、突然、背後に声が湧いた。
「元勘定率行金座方、綾瀬成匡様でございますか?」
「なに奴っ?」
 振り向いた綾瀬が、
「な、なんでこんなところに?」
 戸惑ったのも無理はない。
 夜霧に佇んでいたのは、着衣から腹当、手甲、股引、帯、頭巾に至るまで黒で統一し、さらに黒い垂れで顔を覆った──黒子だった。
 深夜の路上に、黒子がいることからして面妖だが、
「あ、あれは……」
 高部が指を向けた先にあったものは、ぎょっとするようなシロモノだった。
 黒子は、長さ二尺(約六十センチ)ほどの短筒を構えていた。突き出された筒先が、綾瀬を睨んでいる。
「まさか、そんな」
 相手が黒子だけに、芝居の小道具と思えなくもない。だが、よく見ると、銃身の上に小さな赤い光が灯っていた。
「あは、あはは……」
 綾瀬は引き攣った笑い声を上げながら、高節の背後へ回り込んだ。そうする間、片時も黒子から目を離さなかった。
「綾瀬様で、ございますか?」
 黒子が、いま一度、問いかけた。
「ち、違う、人違いだ」
 綾瀬は両手を振って否定した。
「こちらのお方は、綾瀬様ではない」
 高部も口を添えたが、
「そういうあなたは、高部殿でございましょう」
 逆に図星を指されて愕然とし、手から提灯を落とした。
 黒子が垂れの奥の両眼を、ぎらりと光らせ、影が伸びるように二人に近づく。
「殿、なにをなされます」
 高部が喚いたのは、綾瀬に背中を突き飛ばされたからだった。
 綾瀬は家来を犠牲に、己を救おうとしていた。
 だが、その目論見はもろくも崩れた。黒子の短筒で鳩尾を突かれた高部が、
「うっ」
 呻いたときには、綾瀬の額に冷たい巣口(銃口)が押し付けられていた。
 酔いも消し飛んだ綾瀬は、怯えた小娘のように身を竦め、
「あ、あの方に……金で雇われたのだろう。その倍を払う……だから、撃たないでくれ」
 黒子が首を斜めに傾けた。引き金に指を乗せたまま、抑揚のない声で問う。
「あの方とは、先ほど罵っていた相手のことか?」
「そ、そうだ」
 首を小刻みに上下に振りながら、綾瀬が答えた。
「名は?」
「聞かずともわかっておろう」
 黒子が短筒を押して、綾瀬を仰け反らせた。
「向井原様だ。そのほうは、わしの口を封じるために向井原様からいくら貰った? その倍、いや、そのほうが欲しいだけ払う。頼む。それで見逃してくれ」
 綾瀬が両手を擦り合わせて懇願したが、
「そんな名は、聞いたこともない」
 黒子は冷たく言い放ち、躊躇うことなく、引き金を落とした。
 深々と静まりかえった町に、乾いた銃声が響き渡った。
 音に驚いた数羽の鳥が、いずこからともなく、夜空に羽ばたいた。
 短筒の先から噴き出した炎に吹き飛ばされたように、綾瀬が一間(約一・八メートル)ほど後方の土塀に叩きつけられた。
 かっと瞠いたその目は、額に開いた穴から流れ落ちた血に覆われても、二度と閉じられることはなかった。
 土塀に背中をつけたまま、綾瀬がずるずると滑り落ちた。
 折りしも地面に転がっていた提灯がぼっと燃え上がり、綾瀬が毛髪で土塀に描いた一筋の血痕が、鮮やかに照らし出された。
 黒子は首を巡らせて周囲を警戒しつつ、短筒に弾を込め直していた。
 手元を見ることもなく正確に作業を進め、瞬くうちに装塡を終えると、高部に近づいていった。
 高部は意識を失い、長々と地面に横たわっていた。
 黒子は短筒を高部の傍らに置き、両腕でその半身を抱き起こした。
 高部の両足を折り畳み、無理やり胡坐をかかせた。短筒を拾い上げ、筒先を高部の喉に当ててから、床尾(銃床)を組ませた足の隙間に押し込んだ。
 舞台の上で、黒子が役者の動きを助ける場面さながらの光景に、足りないのは観客だけだった。
 ふいに闇が濃さを増した。燻っていた提灯が燃え尽きていた。
 黒子は影も形もわからなくなった。
 高部の右腕が、すいっと浮き上がった。うな垂れたように下を向いていた手首が、むっくりと起き、短筒へと伸びていく。
 高部の人差し指が引き金に絡んだ瞬間、再び銃声が轟いた。
 一瞬の閃光に、高部の頭が激しく反り返る様が浮かび上がった。
 高部の身体が、どさりと地面に崩れた。喉から頭頂部へ抜けた銃弾が血と脳漿を撒き散らし、あたりに腥い臭気が立ち込めた。
 そのときにはすでに、黒子は音もなく立ち去っていた。その場にいたのは死者のみ、生者の気配はどこにもなかった。
 異変を察した武家屋敷の住人たちが駆けつけたのは、それから間もなくのことであった。

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