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ダブル・フォールト
真保裕一

   1

 よくできた人形劇を見るようだった。
 子どものころテレビでかかさず見たのは何という番組だったか。放課後に寄り道しようと、必ず陽が沈む前には家路につき、テレビの前に座ったものだ。
 僕はいつも手に汗握って、その番組を楽しんだ。中でも、はかなげな美しさの女──もちろん人形なのだが、僕には艶っぽい女性に見えた──がくるりと一回転したとたん、般若の面にも似た恐ろしい形相に変わって主人公に襲いかかるシーンがお気に入りだった。人形の顔が一瞬のうちに様変わりする早業を見て、いたく感心したのを覚えている。
 目の前に座る女性も、手慣れた化粧で整えた仮面が、ぼろぼろと無残にはがれかけていた。
「あんた、わたしの言うこと、信じてないのね」
「いいえ、疑おうなどとは思ってもいません。信じるからこそ、我々はお手伝いができるのです。こうして事実関係を何度も確認させていただくのは、事件の経緯をつまびらかにしておき、結果につなげたいと思っているからです」
 ボスから割り振られた時には、簡単な損害賠償案件だと思えた。事実を積み上げていけば、相手も納得するほかはなく、示談に持ちこめる、と踏んでいた。
「もう半年も前のことなのよ。あなたがグズグズしてるから、記憶が曖昧になるのよね」
 依頼人は、四谷で会員制クラブを経営している。鳥越暁美、四十五歳。客の一人が酔ったあげくに暴れて店の内装をめちゃくちゃにしたが、常連客なので最初は警察ざたにしなかった。相手も暴れた事実は認め、壊したグラスやテーブルの損害賠償には応じると言った。
 ところが──示談の話を進めるうちに、互いの主張が真っ向から対立した。依頼人は、壁の高級絵画が裂けたと主張し、客の男は、そんな絵など見たこともないと言った。
 問題は絵の購入額だ。依頼人は画商から買った際の領収書を持参し、うちの事務所を訪ねてきた。その額、一千七百八十万円。
 クラブの従業員も絵の詳しい価格は知らされておらず、調査に出向いた店内で誰もが驚き顔を作ってみせた。
「わたしが毎日どれだけのお客と顔を合わせてると思うのよ? 名前と顔を覚えるのが、そりゃ仕事みたいなものよ。でも、すべてを覚えてろだなんて無茶な話でしょ」
「通りすがりの客ではありません。一千七百万円もの絵を買うことになった相手を紹介してくれた客です」
「紹介された時には、絵を買うとは決まってなかったんだから、しょうがないでしょ。この目でじかに絵を見て気に入ったから、買ったの。全額を振り込んだ記録が、銀行口座に証拠となって残ってるじゃないの」
 通帳には、振込先と金額が記載されていた。だから最初は、楽勝と思ったのだ。
 しかし──金の大半がキックバックされていないとの証拠はなかった。なぜなら、画廊はすでに倒産し、銀行口座からは有り金すべてが消えていた。「北章画廊」という看板をかかげながらも、本社は東上野にあるマンションの一室で、典型的なペーパーカンパニーだった。代表取締役の男の行方は今もわかっていない。
「画廊がつぶれたのは、あたしの責任じゃないわ。とにかく絵を傷つけたのは、あの男なのよ」
 男は断じて絵を見たことはないと言い張っている。画商が姿を消している以上、領収書の価値も疑わしい、と弁護士を通じて伝えてきた。
 さらに男は、女との肉体関係を公表し、二人の間で別れ話が出ていたともいうのだった。
「相手は何も賠償をしないとは言っていません。子どものいたずら描きのような絵に大金は払えない、そう主張しているわけでして──」
 男は名のある画商に鑑定を依頼した。その結果、名前も聞いたことのないフランス人画家の絵で、パリの路地裏へ行けば十枚ひとまとめで売っている代物だと判明した。
「あたしは千八百万も払ってあの絵を買ったのよ。最初に、いい絵が見つかったって相談したのは、あの男なんだから。あいつが嘘をついてるに決まってるでしょ。あんた、そんなことも見抜けないの?」
 ののしる依頼人に、僕は深くうなずいた。
 そう。人は嘘をつく動物だ。自分の立場や利益を守るためや、恨みを晴らすためであれば、他者を傷つけても平然としていられる。
「確かに、鳥越さんと画商の間での商取引は成立しています。しかし、あの絵の客観的な価値には、そもそも限度があります。いくらあなたが大金を支払っていようと、その価値を他人にまで求めるのは難しいと言わざるを得ない状況が……」
「どうしてよ! あたしは二千万も払ったのよ。あの男もそれを知ってたんだから、あいつが金を払うのは当然でしょうが!」
「ですから、賠償には応じると向こうも言っています。ただし、世間が認める一般的な価値に準じた額になるのが妥当だと……」
「あの男が絵を台無しにしたのよ」
「では、こう考えてください。すでに死んでいる人の胸にナイフを何度突き立てようと、その行為は殺人罪に問われません。すでに死んでいる人は、もう殺せないからです。あの絵は、死人と同じ価値しかなかったので、それを台無しにしたところで──」
 喩え話が少し突拍子もなさすぎたろうか。般若の面さえ張り裂けそうなほどに、女の目が見開かれた。
「ふざけないでよ! あたしが払った二千万はどうなるの。あんたじゃ話にならない。所長を呼んできなさい!」
「生憎と、本日は不在でして……」
 本当は奥のボス部屋にいたが、言いなりになって話を取り次ぐわけにはいかなかった。任された仕事は責任を持って果たすべきとのルールが、うちの事務所では徹底されている。
 我らのボス、高階徹也は、事務所のイソ弁(居候弁護士)をいびり倒すような悪趣味は持たない。温厚かつ信念強く、知恵は回り、経験から得た計算高さも持ち合わせる、まさに弁護士の鑑たる人物だ。やっと拾ってもらった身であり、手をわずらわせたのではバチが当たる。
「お気持ちはわかります。しかし、あなたが訴える相手は権堂さんではなく、行方をくらました画商のほうです。その訴訟を起こすのであれば、もちろん協力はいたします。ただ、権堂さんを訴えたところで、これ以上の賠償金を引き出すのは……」
 なるべく穏当な言葉を選んで言った。
 女は指先を震わせて煙草を探りだした。金色のライターで火をつけようとしたが、何度も失敗して火花が散った。うちの事務所は全室禁煙だとアドバイスを送ったのでは、彼女の怒りの炎に油をそそぐことになるだろう。
 やっと煙草に火をつけると、煙を顔の前に吐いて、自分の表情をごまかしながら、急に背筋を伸ばした。
「あの男よ……。あいつがあたしに画商を紹介したのよ」
「しかし、先ほどは、覚えがないと──」
「思い出したのよ。絶対にそうだわ。あの男があたしを騙して絵を売りつけたのよ」
「鳥越さん。いいかげんな当て推量で物を言うのはやめませんか」
「まだわからないの? あいつなのよ。だから、あの絵を台無しにしておいても平気な顔をしてられるのよ。そうでしょ、弁護士さん。違う?」
 彼女に僕の声は聞こえていない。誰かが耳元でささやきをくり返している。あなたは悪くない。騙されたのよ。弁護士をうまく使えば、きっと多額の金が戻ってくる。
「そうよ、そうだわ。あの男を訴えて。あいつから二千万を奪い返してよ」
「もう一度うかがいます。あなたに画商を紹介したのは、本当に権堂正之さんだったのですか。それを証明することができますか。もしあくまで権堂さんを訴えるとおっしゃるのであれば、その準備を進めますが、勝てる見込みがどれほどあるかは保証いたしかねます。経費も馬鹿になりません。ここはもう一度冷静に──」
「あんた弁護士でしょ。依頼人の話を信じたらどうなのよ!」
 話がくるりと一周して、またスタート地点に戻った。このくり返しが果てしなく続く。
「わたしどもは現状の法律に則したアドバイスをさせていただき──」
「わかったわよ。誰があんたなんかに頼むもんですか!」
 女が応接テーブルの脚を蹴飛ばして席を立ち、薄い間仕切りのドアに突進した。ノブを引きながら、最後の捨て台詞を吐いた。
「どうせあいつから金を受け取ったんでしょ! あんたなんか弁護士失格よ。弁護士会に訴えてやるから覚悟しなさいよ。いいわね!」
 女が憤然とドアを開けて応接コーナーから出ていった。その先でデスクを並べる先輩や事務員にも八つ当たりをぶつけて言った。
「こんなでたらめな弁護士事務所があるなんて知らなかったわよ。ほら、そこをどきなさい」
 誰かが押しやられる気配に続いて自動ドアの閉まる音が聞こえ、やっと事務所に静寂が戻ってきた。コピー機の複写音がこんなにも耳に心地よいものだとは知らなかった。
 床に落ちた吸いさしの煙草についた真っ赤な口紅の跡を見ながら考える。
 依願人が嘘をついていたのは明らかだった。しかし、権堂という男が裏で糸を引き、彼女に画商を紹介した可能性は残る。いくら酒癖の悪い男でも、店で必ず暴れるとの確証はなく、壁の絵に被害が及ぶとは限らないのだ。女が、権堂を罠にかけるのは難しすぎる。
 ただし、絵が破られる場面を目撃した者はおらず、騒動が収まったあとで、女が密かに絵を傷つけた可能性は否定できなかった。欲に目をくらませた女が、男の思惑どおりに画商から絵を買った可能性と同じ程度には。
 真相がいかなるものか、興味はそそられた。が、たぶんこれで依頼は取り消される。そしてまた別の同業者が、同じ依頼を受けて訴訟の準備にかかり、すぐにいわくありげな裏事情が浮かんで、貧乏くじをつかまされた事実を知るのだった。
 僕は煙草を拾ってゴミ箱に捨て、応接コーナーの間仕切りから出た。
 誰も僕を見ていなかった。北風から首をすくめるように、そろって背を向けていた。揉め事にはかかわりたくない。紛争の仲裁を仕事とする弁護士やその事務スタッフであれば、なおのこと危険を察知する能力には長けている。
 さて……ボスにどう報告したらいいか。依頼人に逃げられました。でも、着手金はもらっているので実害はそうありません。正直に告げるしかないのはわかっていたが、気は重い。
 事務所に机を借りて、名刺まで与えられていながら、利益に貢献するどころか、足を引っ張る仕事しかできていないと、マイナス評価の実感だけはあった。司法改革のあおりを受けて、近ごろは新人弁護士が毎年ところてん方式にじゃんじゃか送り出されてくる。その立派な一員だから文句は言いにくいが、弁護士の平均年収は減る一方だ。
 こんなはずじゃなかった。

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