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岳飛伝 十二 飄風の章
北方謙三
     訛朶の火

     一

 二つの島の漁師が、沖を行く船隊を見ていた。十五艘である。
 漁師の舟は、かなり島から離れていたので、船隊が見えたのだろう。島からは、見えないはずだ、と李俊は思った。
 梁山泊船の航路にある島は、なにもかもよく心得ていて、素速く水の樽を入れ替え、炭と食糧を補給してきた。手馴れている、と船尾楼から眺めながら李俊は感じ、漢語を喋れる男が船に乗りこんでくると、小梁山で造っている酒の瓶をひとつ渡した。
 男は、李俊が歳をとっているのに、驚いたようだった。ただ、船隊の動きについては、かなりの評価をした。二十艘が湾に進入してきて、並んで錨を打つのに、たいした時がかからなかったのだ。
 そして李俊の名を知っていて、三度名を確認すると、水軍の大将がこんなところまで来た理由を訊ねてきた。
「俺はもう、水軍の大将ではないのだよ。大将は、張朔さ。年寄りは、どこかで徒花を咲かせるだけだな。咲けばいいのだが」
「この間も、張朔殿と酒を飲みましたよ。夕刻に入ってきて、夜明けに出航したのですよ。親父が、長く生きすぎたことを悔やんで、とても困っている、と言っていました。親父とは、李俊様のことです。この島に来て貰えるとは、思ってもいませんでしたよ」
「見た通り、いつ死んでもおかしくない、老いぼれさ」
「張朔殿はいつも、李俊様を親父と呼んでいますよ。あの張朔殿が親父と呼ぶのだから、どんな人だろうと、俺はよく考えました」
「老いぼれで、悪かった」
「いえ、よかった。荒いだけの男は、いくらでもいます。まるで、そんなのではないな。俺は、李俊様に会えて、嬉しいです」
 親父か、と李俊は思った。なにか、胸を衝いてくるものがある。
「張朔が伜か」
 呟くと、島の長は、穏やかに笑って頷いた。
 この島は、規模の大きい補給基地だった。時化た時に逃げこむだけのところも、航路図にはいくつも書きこまれている。
「上陸されませんか、李俊様。将校の方々のために、床のある小屋を作ってあります」
「いいな。馴れていても、船はじわじわと躰を疲れさせる」
 小舟に乗り移った。
 二十艘もの船隊で、広い海を航走り回っても、探れるのはわずかな海域だった。常時、二艘を出し、島伝いの航路の周辺から眼を離さないようにしている方が、韓世忠の船隊を発見できる可能性は大きかった。
「いつも払っているものを、払う」
「李俊様から、礼をいただきたくはない。そんな気がしますが」
 男が、李俊を見つめてくる。
「わかりました。いつも頂戴しているだけ、受け取らせていただきます」
 男の言葉遣いは、どこか丁寧すぎるような気がした。しかし、意味はしっかり伝わってくる。
 浜から、さらに木立の中に入ったところに、四つの小屋が並んでいた。高い床の小屋がひとつと、地に藁を編んだものを敷いた小屋が三つだった。雨露をしのぐには、充分である。
「霍洋、航路図を、俺の小屋の壁に張れ」
 航路図には、大きなものから小さなものまである。大きなものを離れて眺めていると、いままで見えなかったものが見えたりするのだ。
 将校用の小屋の一角だけ仕切られていて、そこが李俊の寝床だった。沓を脱いで入るようになっている。
 霍洋が、航路図を持ってきて、壁に張った。
 従者は、兵の中から一名選んである。長く従者をしていた浦は、結局、水の上の暮らしに馴れることがなかった。仙浦という名になり、いまは甘蔗園にいる。
 李俊は、航路図に線を三本引いた。二艘の偵察隊を、三つ出す。その隊は交戦することはなく、できるかぎり敵に見つからないように、航路だけを読んで戻ってくる。
「いいな、霍洋。まず情報だけだ。補給地にも寄って、漁師たちにも訊いてくる。それを徹底させろ」
 大型船が、また燃やされていた。交易品を満載した船が、三艘沈められたことになる。三艘目には護衛の中型船が十五艘ついていたが、徹底した鴎焔の攻撃を受け、手の施しようがなくなり、燃えた。
 大型船を燃やすことだけを考えた攻撃なら、難しくはなかった。護衛を振り切って大型船に近づき、鴎焔を撃ちこみ続ける。交戦の意図はないので、護衛の船からは、ただ逃げることだけを考えればいい。
 韓世忠は、なりふり構わなくなっている。交易船を鹵獲して、交易品を奪うことすら考えていないのだ。
 二艘が三組、出航していった。
 李俊は、木立の中の小屋で、何日も航路図を見続けた。少しずつ、情報が集まってくる。遠い洋上の船隊。帆を遣っている船隊。
 はじめ情報は錯綜し、ただ船隊がいたということしかわからなかったが、その中でも少しずつ傾向が見えてきた。
「どう思う?」
 霍洋を呼んだ。
 「まだ、はっきりはわかりませんが」
 霍洋が、航路図に大きな円を描いた。かなり広い海域になるが、方向だけは絞られている。いまいる島より北の海域で、補給地のある島が二つ入っているが、ほかに七つの島がある。
 李俊が考えていることと、ほぼ重なっていた。
「六艘を、すべてこの海域にむけろ。交戦はせず、追われたら逃げる。少しずつ、この海域を絞りこんでいこう」
「俺も、出ていいでしょうか?」
「そろそろ、いいかな。俺が出たいところだが」
「総帥には、ここにいていただかなければ」
 呼ぶなと言っても、霍洋は李俊を総帥と頑なに呼ぶ。
「偵察隊を、無駄のないように動かせ。海域のすべてを、眼で撫でろ」
 霍洋が、出動していった。
 時々、島の長がやってくる。李俊は客人の扱いをして、それ以上は近づけなかった。ここにいるのは、水軍であり、交易船隊ではない。それは、長にもわかってきたようだ。
 この島へ来て、すでに十数日が経っている。
 霍洋が戻ってきたのは、三日後だった。
 二つの島に、絞りこんでいた。
「韓世忠も、こちらの動きに気づいている、と考えざるを得ません」
 こちらから見えるということは、相手にも見えているのだ。
 考えなければならないのは、罠があるということだ。洋上での罠は罠にならないので、船溜りのある湾の中だ。どういう罠かは、湾の形状にもよる。
「突っこむ時は、突っこむさ。俺は、韓世忠の戦については、すべて分析したと言っていいだろう」
 韓世忠の弱点は、臆病さだった。それがいい方に作用すると、奇襲をかけ逃げるという闘い方になる。陸上でも洋上でも、そんなふうだった。はずれると、総大将の臆病さが際立ってしまう。
 もはや、兵や水夫の練度ではなかった。武器でもなかった。胆の据え方なのだ。それでは、張朔の敵ではなかったということだろう。
「こちらを探られないようには、しています。この島まで半日という距離に近づいたら、必ずわかるように、哨戒を厳しくします」
「いいだろう。侮るなよ」
 韓世忠ごときに、という気持が、李俊にはある。しかしそれを、表に出しはしなかった。
「鴎焔を受けるための網も、急がせろ」
「それについてですが、島民に払うものを払って作らせる、というのはどうなのでしょうか?」
「いかん。どんなかたちであろうと、島民は巻きこむな。補給を受けるだけ。おまえたち若い者が、その節度を崩すな」
「兵の尻を叩いて、急がせます」
 梁山泊軍は、民を巻きこまない戦を心がけてきた。しかし戦をやれば、否応なく巻きこむこともある。水軍の戦では、陸上の戦よりそれは避けやすいだろう。
 項充と狄成がどうしているか、いまはわからなかった。この島には、便船が寄ることもないのだ。
 二人には、平底船を長江(揚子江)に運び、陸上の南宋軍の砦を急襲する、という任務を与えてあった。狄成は船隊に加わりたがったが、李俊は許さなかった。
 項充とともに闘うということで、狄成はなんとか自分を納得させたようだ。五艘の平底船隊も、李俊の指揮下である。
 象の河で、李俊は一千の兵を育てた。平底船隊には、三百名がいる。
 張朔の水軍は、規模が大きくなっていた。護衛の中型船はすべて軍船でもあるが、新しい大型の交易船の数も増えている。船腹に扉があり、荷役はそこでできるかたちになっていた。沈められた三艘のうちの一艘は、その新しい型の船だ。
 梁山泊聚義庁から、直接、出動許可を取った。張朔は、自分では許可を出さない。しかし、顔を見るたびに言っているので、聚義庁が許可を出すなら、仕方がないと思うだろう。そう考えて、やったことだった。
 張朔は、怒るというより、悲しんでいる。老人を、というより李俊を、戦場に出してはならないと思っているのだ。
「島そのものが、罠ということもあり得る。関係ない島を囮にすることも、韓世忠なら考えそうだ。二島を徹底的に調べた上で、俺が気にかかっている島も、調べよう」
「島を、襲うのですか?」
「韓世忠の首を奪るなら、最後はそうすることになる。海戦で決着がつけば、そちらの方がいいが、甘くないだろうな」
「海上で、できるだけ叩きたいですね。こちらが二十艘ということは、まだわかっていないと思います」
「十艘ずつ、二隊でやる。その時は、おまえと俺が、それぞれの指揮だ」
「総帥のそばを離れるのは、副官のやるべきことではないと思いますが、戦闘の時は、命令をいただければ、やります」
「気負うなよ、霍洋。出動してから、俺は肩の力が抜けた」
「なるべく、俺もそう心がけます」
 いま陸上にいる兵は、鴎焔用の網を編むことに専心している。船全体に網を張り、鴎焔を落とす。やわらかく受けとめられるので、鴎焔は破裂しないことの方が多いようだ。
 網にとられた鴎焔を、撃ち返すための準備もした。投石機のしくみと同じだが、ごく小さなものを、各船に二つ備えてある。
 李俊は、毎日、網作りを見て回った。燃えると捨てなければならないので、いくらあってもいいのだ。
 雨の日が多く、しかしそれは象の河のあたりの豪雨とはまるで違っていた。降っているのかいないのか、というような雨が、半日以上続き、あがってもあまり陽が射してはこない。
 そういう気候の土地なのか、あるいは季節によるものなのか、いまのところはっきりしていない。島の長によれば、夏には暑くなるという。それなら、梁山泊あたりの気候と、それほど変らないのかもしれない。
 いまのところ、颶風には襲われていなかった。避難のための湾は、航路図にいくつも書きこんである。海で最も警戒すべきなのが、颶風だった。
 偵察の情報が、絞りこんだ二島を指すことが多かった。ほぼ確定してもいい、と霍洋などは言いはじめている。
 李俊は、自分でも意外なほど、落ち着いていた。そして、慎重だった。
 気になっていたもうひとつの島を、夜間、密かに探ることを命じた。島に十里(約五キロ)ほどのところへ近づき、周囲を回ってみる。それは、李俊の勘のようなものだった。
 二島のどちらかだとすると、簡単すぎる。韓世忠は、用心深い男のはずだ。そして臆病さは、必要以上のことをやらせ、かえって不自然になったりするものだ。
 二島についての情報は、ありすぎるという気がした。
 二艘ずつ、ふた晩に分けて出した。最初に出した偵察が戻ったのは、四日後だった。
  島の南東の湾の奥に、明りが見えた。十里離れて明りが見えるのは、かなりの集落があるということだ。あるいは軍営で、篝を絶やさないようにしているのか。
 それよりも、山の中腹に、ぽつんとひとつ明りがあったという。同じように遠くから見分けられる明りが、海面よりいくらか高いところにもあった。
 合わせ灯である。夜、湾に進入する時、二つの明りを結ぶ線上を進めば、なにもなく入ることができる。
 残りの二艘が戻ってきて、合わせ灯に導かれて、進入していく船を確認したと報告してきた。
「夜明けには、はるか洋上に離脱していますので、敵に発見されてはいません」
 霍洋は、もうひとつの島に赤い色で印をつけながら、そう言った。
「しかし総帥。あの二つの島が、囮であることが、どうしてわかったのですか?」
「韓世忠とは、そういう男だ」
「そういうことですか。俺は、罠に嵌められたかもしれません。そこまで疑ってみることはしませんでしたから」
「韓世忠の戦を、昔から見てきている。梁山泊の指揮官たちも、しばしば幻惑されたものだ」
 霍洋は、うなだれていた。誰でも騙されるだろう、と李俊は思った。李俊も、勘を働かせたにすぎない。
「そんなことより、網を張るのに遣う竹を集めておけ。船の点検をしろ」
「やるべきことをすべてやり、報告いたします」
「霍洋、戦はとうにはじまっているのだ。いま緊張が過ぎることに、意味はない。部下にそれが伝わると考えると、むしろない方がいいものだ」
「はい、肩の力を抜きます」
 出来あがった網から、船に積みこまれていく。竹の棒も、新しいものが集められた。新しいほど、燃えにくいのだ。
 李俊は、考え続けた。
 湾にそのまま攻めこむのは、危険である。韓世忠の用心深さは、さまざまな罠を張らせているはずだった。
 湾から、船隊を引き出すには、どうすればいいのか。
 一艘に帆柱を立て、帆を張った状態で、それを折った。櫓も、四挺に減らした。
「これでいい。新しい帆柱を積み、島の近辺で、いまのように帆を張って折れ。それで、島にむかって流れるような状態にするのだ」
 疑り深いが、敵の数が少なければ、強気になる男だった。
 残りの船は、近辺にいなければならない。望めるなら、ごく近くだ。
 島の、ほかの湾のことを報告させたが、明りもないというだけで、詳しいことはなにもわからない。
「賭けてみるか」
 李俊は呟いた。船溜りから、一艘だけ様子を見に出てくればいい。漂流に見せかけた船に百名を載せていれば、接舷して乗り移ることは問題ない。一艘を制して奪えば、それを知った船隊は、出てくるだろう。
 そういう、細かいことの積み重ねで、韓世忠を幻惑する。言ってみれば、これは韓世忠のやり方と言える。
 潮流を確かめた。潮流を味方につけられるかどうかは、海上の戦を大きく左右する。
 それから李俊は、自分が立てた作戦を、丸一日かけて検討し、さまざまな想定をくり返した。
 やはり、老いたということなのだろうか。戦を厭ってはいないが、やる以上、完璧にやってのけたい。若い者たちに、さすがに李俊と言わせたい。
 霍洋など、明らかに苛立っていたが、李俊はなにも言葉をかけなかった。

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