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信長 暁の魔王
天野純希

   序章 黎 明

 この世に生まれ落ちた刹那のことを、今も覚えている。
 そう話すと、誰もが笑った。そんなことがあるはずがない。きっと、夢の中で見た出来事を、本当にあったことと思い込んでいるだけだ、と。
 だが、あれは断じて夢などではない。暗く、しかし温かい場所から引きずり出され、やわらかな産着にくるまれたあの感触は、今もしっかりと残っている。
 無論、まだ目は開いていない。それでも、自分が眩い場所に出てきたということはわかった。そしてこの耳で、母が放った言葉を聞いた。その時は意味などわからない。だが、母は泣き叫ぶような声で、はっきりとこう言ったのだ。
 おぞましい。その赤子を今すぐ殺せ、と。

 清洲城奥御殿の寝所で、織田上総介信長は目覚めた。
 夜明けまでにはまだ間があるが、梅雨の最中とあって蒸し暑い。小袖は汗に濡れている。
 寝所には、信長一人だった。独りで眠ることには慣れている。正室は信長のもとを去り、側室たちはそれぞれの実家にいて、この城には置いていない。
 枕元の水差しを取り、一口飲んだ。
 そろそろ、時か。夜具をはねのけて立ち上がり、宿直の小姓に短く命じる。
「具足」
 慌てて駆けていく小姓の足音を聞きながら、主殿の表座敷へと向かう。
 座敷に人の姿はない。昨夜は今川軍来襲の報を聞いて重臣たちが集まっていたが、軍議とは名ばかりの雑談を延々と続けた挙句、深更近くになってそれぞれの屋敷へと追い返したのだ。いつになく多弁な信長を見て困惑する者もいれば、露骨に嘆息を漏らす者もいた。
「勝てるか」
 誰の耳にも届かないほどの声で、呟いた。
 駿河、遠江、三河を領する今川勢は、四万五千と号している。実数でも、二万から二万五千というところだろう。味方は、どれほど掻き集めても五千に届かない。そのうちの半数を重臣たちが握っているが、誰が今川と内通しているかもわからない現状では、動かすことができなかった。できる限りの手配りはしてきたが、兵力差はあまりにも大きい。
 ふっと息を漏らし、小さく笑った。勝たねば、この首が飛ぶだけのことだ。
 扇子を抜き、腰を低く落とした。丹田に力を籠め、低く声を出す。

 人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり
 一度生を得て 滅せぬ者の あるべきか

 舞い終えると小袖を脱ぎ捨て、運ばれてきた具足を身につけた。
 立ったまま湯漬けを掻き込み、厩へ向かう。曳き出した馬に跨り大手門を出る。従うのは、佐脇藤八、岩室長門守ら、わずか五騎の近習のみ。いずれも、“尾張の大うつけ”と呼ばれていた頃からの付き合いで、気心は知れている。
 清洲の町は、まだ寝静まっている。人気のない通りを、百姓姿の小男が駆けてくるのが見えた。
「申し上げます」
 小男が、馬前に進み出て跪く。
「丸根、鷲津の両砦を囲む今川勢に動きあり。間もなく攻め寄せてまいるものと存じまする」
「義元は?」
「いまだ沓掛城に」
「猿、大儀であった。今後も目を離すな」
 へへっ、と大仰に頭を下げ、男が駆け去っていく。
「まずは、熱田へ」
 命じ、信長は馬上から振り返った。束の間、薄闇の中に浮かぶ清洲の城を眺める。今川などどうでもいい。本当の敵は、この城の中にいる。
 手綱を引き絞った。高く嘶きを上げ、馬が駆けはじめる。月と星の明かりで、走らせるのに支障はない。近習たちも、遅れずについてくる。
 夜明け前の冷えた気が、頬を、全身を打つ。体の中の奥深い場所で、何かが目を覚まそうとしている。
 血が見たい。唐突に思った。
 戦場に出ればすぐに見られると、抗い難い衝動を抑え込む。敵か味方か、あるいは己の血か。いや、思い描いた通りの戦ができたなら、勝てるはずだ。
 生きて清洲に戻ったら。馬を駆けさせながら、信長は思った。
 俺は、この手で母を殺す。


 第一章 大うつけ

     一
 激しく床板を踏み鳴らしながら現れた吉法師の姿を一瞥し、上段の間に座る久子は思わず腰を浮かしかけた。
 尾張古渡城、大広間。久子の隣にはこの城の主、織田弾正忠家当主信秀が並び、左右には一族、家臣がずらりと居並んでいる。
「近う」
 信秀の声に応え、吉法師が立ったまま中央に進み出る。自身に注がれる視線も意に介さず、立てた小指を鼻の穴に突っ込んだ。
 口から飛び出しそうになる罵声を呑み込み、久子は吉法師を見据えた。
 色白の細面。鼻筋高く、やや切れ長の両目も父の弾正忠信秀によく似ている。美男といってもいい面立ちは、吉法師がまぎれもなく織田家の血を引くことを示していた。
 だが、問題はその出で立ちだった。
 両袖をちぎった湯帷子に半袴、帯代わりに締めた荒縄には瓢箪や皮袋をいくつもぶら下げ、派手な朱鞘の刀を差している。髪は茶筅のように高々と結い上げ、これも派手な朱色の紐で結んでいた。
 噂には聞いていたが、さすがにこの格好でやってくるとは思わなかった。時と場所をわきまえないにも程がある。
 これが、尾張一の実力を持つ織田弾正忠家の嫡男なのか。あまりの見苦しさに、居並んだ家臣たちは誰もが顔を顰めている。その非難の目が実母である自分にも向けられているような気がして、久子は怒りと羞恥に身を震わせた。
 救いを求めるように、視線を隣に向けた。だが夫の信秀は、我が子の奇矯な出で立ちを叱るでもなく、頬を緩めてさえいる。
 久子より七つ年長の信秀は、当年三十六。文武に秀で、主筋に当たる守護代の清洲織田家や、さらにその主君である尾張守護の斯波氏をも凌ぐ勢力を築いている。近年は他国へも活発に兵を出し、西三河の安祥や美濃の大垣までも勢力下に収めていた。
「何を突っ立っておる。座るがよい」
 信秀が声をかけた。返事の一つもなく、吉法師は憮然とした表情のままどっかと胡坐をかく。その不遜な態度に、家臣たちは嘆息を漏らした。十三歳にもなって、まるで礼法が身についていない。久子が睨み据えると、傅役の平手政秀が恐縮しきった面持ちで頭を下げた。
「なかなかに面白きなりをしておる。そなたのことじゃ、何ぞ意味があるのであろう?」
 この場で頬を緩めているのは信秀だけだった。だが吉法師は、無言のままそっぽを向いている。
「も、申し訳ございませぬ。若殿は……」
 しわがれ声を張り上げる平手を「よい」と制し、信秀はあくまで穏やかに語りかける。
「答えとうなければ、無理に訊きはせぬ。だが、装束は改めてもらわねばならんぞ。今日のために、斯波の御屋形様をはじめ、清洲の守護代殿もおいでになる。そのなりでは、烏帽子をかぶっても格好はつくまい」
 執り行われるのは、吉法師の元服の儀だった。夫はこの日のために親交のある僧侶に多額の銭を積み、吉法師の実名を選んでもらっている。
「織田三郎信長。これより、そなたはそう名乗るがよい」
「……信長」
 確かめるように、吉法師が呟く。
「よき名であろう。いずれはその名を天下に轟かすよう、精進いたせ」
 傅役たちに促され、吉法師改め三郎信長が退出していく。見送る信秀の顔は、どこか満足げだった。
「殿。もっときつう叱ってやってもよかったのでは?」
 小声で言うと、信秀はかぶりを振った。
「好きにさせておけ。無理に改めさせたところで、性根までは変えられぬ」
「されど、もしも方々の前で粗相でもあれば……」
「その程度のことはわかっておろう。あれは、わしの顔を潰すような真似はせぬ」
 久子や家臣たちの危惧をよそに、元服の儀は滞りなく行われた。
 式には、尾張守護の斯波義統や、信秀の直接の主筋に当たる清洲の織田大和守、昨年に信秀と同盟を結んだ西三河の水野信元ら、錚々たる顔ぶれが揃った。正装に着替えた信長は斯波義統から烏帽子を授けられ、三郎信長の実名披露も行われた。
 その後に開かれた宴は盛大なもので、膳には贅を尽くした料理が並んだ。信秀は終始上機嫌で、誰彼となく手ずから酒を注いで回ったほどだ。もっとも、元服した当人は相変わらず笑顔の一つも見せず、決められたことを淡々とこなしているだけのように見えた。
「何とか、つつがなく終わりましたな」
 珍しく酒を過ごした信秀とともに寝所に戻り、久子は言った。
「方々の前で見苦しき振る舞いをいたさぬか、気が気ではございませなんだ」
「申したであろう。あれは、わしの顔を潰したりはせぬ」
 直垂姿のままごろりと横になった信秀の頬は、すっかり緩みきっている。
「なれど、民草は吉法師、いえ、信長殿のことを大うつけなどと称しておる由にございまする。すでに、殿の面目を潰しておるとも言えましょう」
「言いたい者には言わせておけ。世の風評ほど当てにならぬものはない。ただ、残念なことが一つだけあるわ」
「それは?」
「あれは、酒を一滴も受けつけないほどのひどい下戸らしい。元服の暁には盃を酌み交わそうと楽しみにしておったのだが」
 十三の童に、下戸も何もあるまい。呆れるうち、信秀は鼾を掻きはじめた。

 元服の翌年、秋の刈り入れが終わった頃、信長は初陣に臨んだ。相手は、信秀と同盟を結ぶ水野家の領内に侵入した駿河の今川勢である。
 西三河、刈谷城主の水野信元は、信秀と結んで今川家に対抗していた。今回の出兵は、信元の援軍要請に応えたものだ。
「さて、どう戦うか、見ものよ」
 信長が那古野を出陣したと聞いても、信秀は古渡城を動こうとはしなかった。
 通常、初陣は父親の下で本陣に控え、戦場の雰囲気を味わうだけにとどめる。だが信秀は、息子にいきなり一軍の指揮を委ねた。
「信長殿には、いかほどの兵を?」
「我が手勢から選りすぐった精兵八百じゃ。将も兵も、幾多の修羅場をくぐっておる」
「されど、今川勢は二千と聞きまする。いくら水野様の軍がともに戦うとはいえ」
「二千といっても、せいぜい小競り合い程度にしかなるまい。ほとんどは大浜に砦を築くための人足じゃ。ひと当てすれば、すぐに逃げ散る」
「それゆえ、信長殿にすべてを委ねたと?」
「あれは、人の下に付いて力を出す類の男ではない。生まれついての、一軍の将よ」
 夫が信長のどこを買っているのか、久子にはまるで理解できなかった。これまで、信長を廃嫡するよう幾度も勧めたが、「女子が口を挟むな」の一点張りで、ろくに話を聞こうともしない。
 尾張に並ぶ者のない力を持つ信秀といえど、我が子のこととなると目が曇るのだろうか。
 信長は久子にとって、棄てたも同然の子だった。
 尾張海東郡土豪、土田政久の娘に生まれた久子に台頭著しい織田弾正忠家から声がかかったのは、十五歳の時のことだ。当主信秀の妻、しかも正室に迎えたいという、願ってもない話だった。
 城に入ると、久子は土田御前と呼ばれるようになった。侍女たちにかしずかれ、家臣たちには丁重に扱われる。美しい着物で己を飾り立て、美食に舌鼓を打つ。城での暮らしは、夢に見た以上のものだった。
 だが、そうした絶頂も長くは続かなかった。信長を身ごもったその時から、すべてが狂ったのだ。
 はじめて経験するつわりは地獄のような苦しみで、丸一日近くかかる難産だった。気を失い、堪え難い痛みに目覚めてはまた気を失う。それを、幾度も繰り返した。
 この子は、分に苦痛を与えるために生を享けたのか。想像をはるかに超える痛みを味わいながら、自分は我が子に殺されるのだと恐怖を覚えた。
 生きて出産を終えられたのは、奇跡に近かった。母子ともに命を失っていてもおかしくはない状態だったという。
 何と可愛げがないのか。生まれ出た我が子を目にした瞬間、久子は思った。自分には似ても似つかない、皺だらけの醜い生き物。いとおしさなどまるで感じない。殺されかけたのだと思えば、憎しみさえ覚える。気づくと、久子は赤子を殺せと叫んでいた。
 その件は一時的な錯乱ということで片付けられたが、それ以後も信長に対する愛情が芽生えることはなかった。武家の嫡男の通例として、信長は生まれてすぐに乳母に引き取られていったが、それが悲しいとも思わない。
 信秀にとっては三人目の男子だが、上の二人はいずれも妾腹だった。つつがなく成長すれば、いずれは信長が弾正忠家の家督を継ぐことになる。夫も家臣も、自分にかしずいていた侍女たちも、久子には目もくれず、信長ばかりを気にかけた。甲高い声で泣けば「元気がある」と称え、勢いよく乳を吸えば、「この子は大きくなる」と誉めそやす。輿入れ以来、城の奥向きはすべて久子を中心に回っていた。だが、信長が生まれてからというもの、自分だけが蚊帳の外に置かれている。自分が手に入れたものすべてを奪われたような気がして、信長への怒りと疎ましさはさらに募っていった。
 信長を産んだ翌年、久子は二人目の男児、勘十郎信行を出産する。
 不安はあったものの、こちらは信長を産んだ時の苦しみが嘘のような安産だった。信行を産んだ時、久子ははじめて我が子に対する慈しみを感じることができた。信行には久子自ら乳を与え、肌身離さず手元に置いて育てている。大人しく手間もかからない信行を見ていると、やはり信長が異常なのだとわかった。
 乳飲み子の頃から、信長は尋常ではない癇癖の持ち主だった。些細なことで泣き叫び、怒りを露わにする。歩けるようになってからは手当たり次第に暴れ回り、侍女たちを困惑させた。障子を蹴破り、高価な掛け軸を引き裂いたことも一再ではない。
 癇癪を除いては、童らしいところのまるでない子供だった。誰に対しても笑顔を見せず、信秀や実母の久子にもまるで懐かない。声を発することさえほとんどなく、周囲は知恵が遅れているのではと危惧した。
 上下の歯が生え揃ってもなお、信長は乳をせがみ続けた。そしてさらに異様なのは、乳母が気に入らなければその乳首を噛み切ることだった。幾人もの女が浅からぬ傷を負い、城を去っていった。
 久子は一度だけ、その場を目の当たりにしたことがある。
 口のまわりを血で染め、泣き叫ぶ乳母を無言で見つめる。これが腹を痛めて産んだ我が子とは、到底信じられなかった。いや、人の子でさえない。自分の腹を借りて生まれた、悪鬼の化身。そうとしか思えなかった。
 信長は五歳になると、古渡城から一里(一里は約三・九キロメートル)ほど北の那古野に移された。
 信秀が謀略を用いて奪った那古野城は、国中と呼ばれる尾張中央部の要衝である。この地を押さえるには、信秀の一族を置いておく必要がある。そのため、信秀は幼い嫡男に平手政秀らの老臣を付けて城主としたのだ。
 だが、そうした事情は別にして、久子は信長と離れられることを喜んだ。信長の顔を見ると、なぜか胸がざわつき、わけのわからない苛立ちに駆られる。できることなら、寺にでも入れて一生俗世から切り離してほしかったが、少なくとも、これで信長の顔を見る機会が減る。信行に思う存分、愛情を注げる。
 信長の振る舞いが目に余るものになったのは、ここ一、二年ほどのことだ。城を抜け出しては馬を責め、川遊びや戦ごっこに興じる。見苦しい出で立ちで町を練り歩き、近習の肩に寄りかかりながら物を食らう。大人たちは眉を顰めたが、近隣の悪童たちはこぞって、信長を頭と仰いでいるのだという。
 自分へのあてつけか。
 はじめて噂を聞いた時、久子は思った。奇行に走り、久子に“うつけの母”の恪印を押す。それが、自分を棄てた母への、信長の復讐なのだ。
 いっそ、川で溺れ死んではくれまいか。どこぞで喧嘩沙汰でも起こして殺されるのでもいい。
 家臣たちの期待は、何を考えているかわからない信長ではなく、利発で品行方正な信行に移っている。信長が死ねば、家督は信行が継ぐことになるだろう。
 いつしか久子は、我が子の死を切実に願うようになっていた。

 吉良大浜での戦勝が報じられたのは、信長が出陣した翌日のことだった。
 海路、吉良大浜に上陸した信長以下八百の兵は敵陣に忍び寄り、敵の仮小屋に火矢を射かけた。折からの強風に、炎は瞬く間に燃え広がっていく。信長は混乱に陥った敵陣に突っ込み、逃げ惑う今川勢を散々に追い散らしたという。
「お味方の放った火は敵陣を舐め尽くし、天をも焦がさんばかりの勢いにございました。炎を背に采配を振る若殿は、まさに軍神の申し子に候」
 伝令の武者が、興奮気味にまくし立てた。その顔は煤に汚れ、鎧のあちこちも黒ずんでいる。どれほどの炎だったのか、戦を知らない久子にも、ある程度の想像はついた。
「大儀であった。ゆるりと休むがよい」
 伝令を下がらせると、信秀はそれまで抑えていた笑いを解き放った。
「見事なものではないか。これぞ我が嫡男に相応しき、苛烈なる戦ぶりよ。のう、久子」
「大仰な。所詮は小競り合い。殿がそう申されたのではありませぬか」
「小競り合いであろうと、将器の片鱗は見て取れる。あれは、わしをも超える無双の大将となろう」
「さようにございますか」
 答えながらも、久子は内心で恐怖に慄いていた。
 戦の様相を聞いた途端、脳裏にいつか夢で見た光景が広がった。闇夜の中、紅蓮に燃え盛る炎が照らし出す、刀を提げた男の影。その足元には、夥しい数の骸が転がっている。やがて、男はおもむろに振り返り、血の滴る刀を久子に向けて振り上げる。
 はじめてこの夢を見た時、信長はまだ、自分の腹の中にいた。それでもなぜか、男がこれから生まれる我が子なのだと、はっきりとわかった。
 やはりあの夢は、来るべき未来なのだ。
 いずれ信長は織田家に、そして自分に、とてつもない災厄をもたらす。久子はそう確信している。

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