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天空の約束
川端裕人

   雪と遠雷

 ガラス細工の小瓶に、のっぺりとした暗い雲の連なりが映っている。
 表面についた細かな水滴のひとつひとつに全天を宿し、風を受けて微妙にゆらぐ。陰影だけが刻々とうつろう万華鏡のようだ。
「ぼくたちは、とてつもなく高く育つ、熱い雲を見た」と男の声が言った。
「おそろしいわ。思い出すたび体が震える」と女の声が応えた。
 小瓶は男の掌の上にある。中に詰められた透明な液体が、くっきりと対流している。
「ああ、そうだね。おそろしいことだ。けれど、ぼくたちはいつも、おそろしいものに取り囲まれている」
 男の言葉に対して、女は憂いがちなおももちで、小首を傾げた。
「今、小瓶に映っている雲の中だって、大きな力が渦巻いている。のっぺりとしているようで、実はこのあたり特有の雪下ろしの雷をためこんでいる。きみには分かっているのだろう。これはこれで、凄まじいものだよ。雲の物理過程としても、興味深い」
 小瓶の表面に映った雲の底がどす黒くなっている。男の言う通り、大きな嵐が近づいていると女はとっくに気づいている。ひらりとした雪片が女のまつげにかかる。
「あなたは勉強したのね」
「いや、まだまだだ。知りたいことがたくさんある。だから、旅をやめられない」
 男は小瓶を女に差しだした。
「これを、あたしに?」
「マリヤから預かってから、ずっとぼくが持ち歩いていた。誰かが保管してくれるといい。あまりにたくさんの記憶が詰め込まれているからね」
 遠く雷の音が響く。小瓶の表面の雲は、すでに形を失って、無数の稲光を反射するばかりだ。

 数十年前のこと。飴のように滑らかな小瓶の面に最初に映し出されたのは、燃えさかる炎だった。内側に吹き込まれる圧力で膨らみ、筒型に整えられると、今度は透きとおった液体が満たされた。
 酵母が泡立ち、香ばしい匂いをあたりにまき散らす中、金色の花びらが一片落ちてきた。
「うわあ、きれい」と小さな女の子の手が包み込んで、両の目が映り込んだ。
 鼓動を感じ、息遣いを感じた。
 封じられた花びらを宿し、小瓶も一緒に呼吸を始めた。
 小瓶が映すのは、その子の濁りのない両の目であり、太陽の光であり、薄明るい星々だ。そして、時を経て、代替わりした子どもたちの声とともに揺れる。
 湿気をはらみ熱を対流させる空と同様に、小瓶の中の液体もめぐる。
 よき時ばかりではない。時には強すぎる嵐を映す。薄暗い雲の底が泡立ち、風や雹が吹き荒れる。あたたかな光をためこんだ小瓶は、不安げな子どもたちにそっと歌いかけるが、届かないこともしばしばだ。
 とりわけ、青空の一点から途方もなく凝縮された熱が放たれ、湧き上がった巨大な雲は、小瓶の「記憶」に深く刻みつけられた。子どもたちが助けを求める叫び声とともに。
 小瓶は語られるべき物語を持っている。耳を傾ける者を待っている。

「今しばらくは、預かっていてくれないか。ぼくたちに起こったこと、ぼくたちが見たことをいつか語る時のために」男の声が言った。
「気乗りしないなあ」と女の声が答えた。
「あたしはたぶん、自分の子には話さない。今お腹の中にいる子が生まれてきたら、普通の子として育てたい。だから、雪国に引きこもって、根を生やすつもり。夫と一緒に写真店を構えるの。店の名前も決めたわ。カメリヤ、英語で椿って意味よ。あなたも、いつか来てくれればいい。雪の研究をしたいなら、ここは悪くないはずじゃない」
「そうかもしれない。雪下ろしの雷の論文を書くことになれば、そうするよ。でも、ぼくたちが次の世代に伝えないとしたら、その子たちはどうなっていくのだろう。なにもかも忘れて、平凡に生きていけるのだろうか」
「そうだと思いたいわ。あたしたちみたいな体験はさせたくない。誰かに都合よく利用されたくない。あなたに会うのだって、わざわざこんな町外れまで出てきて、人に聞かれないようにしなきゃならないなんておかしいのよ」
「そうだね。ああいう時代はもう終わったと信じたい。だとしたら、語り継ぐ必要もない。もしも、ぼくたちがいなくなった後で、やはり語り継ぐ必要があったと分かったら……その時は、仕方ない。小瓶を手にすれば、少なくともあの場所にまではたどり着くだろう。ぼくたちがたどり着けなかった、楠の辻の向こう側に」
「怖い顔をしないで」と女は言い、少しだけ華やいだ雰囲気で笑った。
「辛い時代だったけど、あたし、みんなと一緒で楽しい記憶もたくさんあるのよ。マリヤや先生とも一緒で」
「ぼくだって、自分がちゃんと研究の道を志せたのはあの頃のおかげだ」
 遠雷が続けざまに轟いた。
「そろそろ行きましょう。雪と雷が本格的に来ないうちに」
「ぼくたちは帰らなければ。それぞれの場所へ。それぞれの旅へ」
 積もり始めた雪の中、男はくっきりとした足跡を残して駅の方へと歩み去った。その足跡は、すぐに雪に上書きされて消えたが、女の目には、しばらく、青白く光って見えていた。
 やがて、女は、下腹部に手を当て、いとしげにさすった。くるりときびすを返し、近くに見える町の灯りに向けて歩き始めた。
 小瓶は、女の自宅の引き出しの奥にしまいこまれた。一階に写真館がある洋風の建物で、そのまま長い間、顧みられずにそこにあった。
 空や雲や太陽を映すこともないまどろみの時間。沈んだ花びらは輝きをくすませて、それでも、誰かの声が聞こえるのを待ち続けた。
 相応しい者が切実な思いを語りかけた時、小瓶の中の花びらはふたたび震え、刻みつけたものを映し出すだろう。

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