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Masato
岩城けい

   1 新しい学校

 オーチャード・クリーク小学校は、ぼくの家から歩いて五分のところにある。金曜日の朝、お母さんはお皿を一枚、ビニール袋に入れて持たせてくれた。前の日、お知らせのプリントを渡された。12番教室のジョシュア・ファーリーくん(五年生)がクイーンズランドに引っ越すので、明日は彼のお別れパーティーをクラスで開きます、お皿を各自持ってきて下さい、って書いてあったらしい。お母さんが言った。おもしろいわね、こっちの学校は。パーティーにお皿を持ってきなさいだなんて。
 かばんを背負って、プラスチックのお皿の入ったビニール袋をブンブン振り回しながら歩いて、学校に着いた。教室の外側の壁にずらっとフックがあって、そのなかのひとつ、Masatoって書かれたシールがはられたフックにかばんをかける。お皿をビニール袋から出して教室に入る。窓際のロッカーのうえは食べ物でいっぱいだ。ハムサンドやソーセージロール。カラフルな砂糖をまぶしたカップケーキ、ポテトチップスやチョコレートだってある。大きな、食べ物ののったお皿が並んでいた。
 あっと思ったときにはおそかった。エイダンがぼくのからっぽのお皿をめざとく見つけて大声をあげた。もちろん、なにを言っているかわからなかったけれど、あいつの顔がこう言ってた。こいつ、ばっかじゃねえの!

 一ヶ月くらい前、ぼくたち家族はオーストラリアにやってきた。お父さんは車関係の仕事をやっていて、会社の命令でここにきた。しばらくホテルに住んだあと、家を借りた。お母さんはこっちにきてから家でずっと引っ越しの片づけ。いつまでも片づかなくていやになる、って言ってる。ときどきお父さんと同じ会社の日本人がくる。日本人のおばさんたちもくる。お姉ちゃんは来年の高校受験にそなえて、現地校には行かずに、日本人学校に通っている。ぼくは地元の公立の小学校の五年生に転入した。日本では六年生になるはずだった。いやだわ、まるで落第したみたいじゃないのってお母さんはすごくいやそうだった。でも、ぼくは三年生か四年生でもよかったと思ってる。ぼくのクラスは、五年生と六年生がまざっている。
 学校の勉強でまともについていけるのは、算数の計算問題だけ。もともと算数は好きだし、計算問題は得意だから、それだけいつも一番だけど、ケルヴィン・チョウにはときどき負ける。ケルヴィンは頭がいいから、クラスのみんなから一目置かれているし、ピアノがすごくうまい。音楽の時間はいつも先生に言われて、ケルヴィンがキーボードで歌の伴奏をする。ぼくのお父さんの会社で作っていそうな、でもぜったいにお父さんには買えそうにない高そうな車で学校に送り迎えされている。ぼくは、そんなケルヴィンにくっついて歩いてる。同じような顔かたちや髪の毛の色をしているだけで一緒にいると安心する。とくに、エイダンみたいなやつが近くにいるときは。だから、このときも、ぼくはとっさにケルヴィンの姿を探したけれど、見当たらなかった。

「見ろよ! ×××!」
 とエイダンがクラスのみんなに向かって叫ぶ。見ろよ、の次は、わからない。知りたくない。でもあいつが何回も繰り返すので、覚えてしまった。先生はまだ来ていない。エイダンは、ぼくからプラスチックのお皿をとりあげると、教室のまんなかまで走っていって、いちばん大きなテーブルの上に飛び乗った。みんながエイダンを目で追う。

 ナーナナナーナー! ヤーヤヤヤーヤー!

 いやなことがぜったいにはじまる、おきまりのメロディーが彼の口からながれる。ぼくは、あいつのでっかい手で心臓をつかまれたみたいにどきっとなる。周りのみんながどっと笑う。ぼくのほうをいっせいにふりかえる。みんなの目がぼくを欲しがっている。こんどはぎくっとなる。エイダンはテーブルから飛びおりるとぼくのロッカーからぼくの色鉛筆やノート、のり、はさみ、とにかくありったけのものを出してきて、皿の上にのせた。そして、またテーブルに飛び乗った。お皿を頭の上にのせ、体をくねらせて、

 ナーナナナーナン! ヤーヤヤヤーヤン!

 と大声で叫びながら踊る。プラスチックのお皿が床に落ちて大きな音がした。色鉛筆がばらばらと降った。その一本を拾って鼻の穴に突っ込む。みんながさらに大笑いする。エイダンは、今度はズボンを下げて、お尻をみせてたたく。それから、両手で両目をキツネみたいにつり上げて、ぼくを指さす。×××! 「このバカ」ってまた言った。クラス中が大爆笑。エイダンがスシ、スシ、と呪いの呪文みたいに叫ぶ。クラスのみんなもそれにあわせて、スシ、スシ、スシ、と笑いあえいでいる。はやし立てる。
 ケルヴィンがやってきた。ぼくは目で彼に助けを求めたけれど、彼はその騒ぎをちらっと見ただけで、ぼくと目を合わせようともしない。ケルヴィンだって、ちゃんと食べ物ののった皿を持ってる。ショックだった。
 スシ! スシ! スシ! いつのまにかクラス中がいじわるな大波にゆさぶられている。ぼくはもういちどケルヴィンを見た。クラスの騒ぎにおかまいなしで、自分のロッカーから大人っぽい表紙の本を出してきた。本読みの宿題をケルヴィンは家に持って帰らないで、朝、授業がはじまる前に済ませてしまう。ぼくは英語ができない子のクラスで、一、二年生用の、テントウムシのマークがついた本を読まされている。今日をかぎりに転校していくジョシュも、エイダンのとなりでふざけた踊りをやっている。

 スシ! スシ! スシ!

 ナーナナナーナー!

 スシ! スシ! スシ!

 ヤーヤヤヤーヤー!

 エイダンが体をゆすって踊ったので、テーブルがガタガタゆれた。お母さんが水筒を入れるために作ってくれた巾着袋がテーブルの上に落ちた。エイダンがそれをわざと踏みつける。何度も、何度も。ぼくはテーブルの上にのって、エイダンにつかみかかった。女の子がキャーと叫ぶ。始業のベルが鳴った。マサァトゥ! マサァトゥ! マサァトゥ! と先生の声がする。いつまでたっても、何度呼ばれても、自分の名前にきこえない。エイダンがぼくの髪の毛をひっぱったり、頭を両手でたたきまくる。ぼくはエイダンの靴下の上から足首にかみついた。そしたら、足で背中を思いっきりけられた。二人でテーブルから落ちて、ぼくは膝をすりむいた。おまけに顔をあげた瞬間にあいつの頭がぶちあたって、鼻血がでた。フラナガン先生の白いブラウスに赤い水玉模様がついた。

 エイダンとぼくは校長室に呼ばれる。さっきからトイレに行きたいんだけれど、言えない。校長先生の質問にエイダンがずっと答えている。ぼくは、なにも言うことがない。なにを質問されているかわからない。トイレに行きたい。エイダンが、靴下の破れたところを校長先生に見せている。トイレット、とぼくは言いかけて、マサァトゥ、マサァトゥ、マサァトゥ、とエイダンが何回も言うので、びくっとなる。こいつ、ぼくがぜんぶ悪いって言ってるに決まってる。顔がかぁっと熱くなって、パンツのなかが生あたたかくなる。エイダンはフラナガン先生に連れられて部屋の外へ出ていく。
 校長先生がぼくに話しかける。こっちにくる前、英会話スクールに通わされたけど、あんなふうにゆっくり話してくれないし、おなじ英語にきこえない。マサァトゥが自分の名前ということしかわからない。ノー、マサト。ノー、コール、マサァトゥ。ノー、ノット、ミー・マイ・ネーム。ノット・マイ・ネーム。ノー、スシ。ノー、マサァトゥ。のどにつかえていたかたまりがうまくはき出せなくて、こなごなにくだけてのどの奥から目と鼻に流れていく。ひとつぶ、ふたつぶ、ほっぺたから落ち、鼻の先からさっきの鼻血の混じった鼻水がたれた。
 校長先生が椅子から立ち上がって、ぼくのそばに来て肩を抱く。オー、マサァトゥ。オー、ボーイ。ものすごく困った顔をしている。フラナガン先生が帰ってくる。オー・ノー、マサァトゥ、ダーリン。ティッシュでぼくの涙と鼻水をふいてくれる。こっちもすごく困った顔。ぼくだって、すっごく困ってる。フラナガン先生のブラウスの胸元の赤い水玉の上にこんどは透明の雨がふる。ごめんなさいってなんて言うのかくらい知ってる。それなのに、アイム・ソーリーが出てこない。エイダンのやつが悪いんだ! 受付のミセス・カーがバケツとぞうきんと替えのパンツを持ってやってくる。ぼくを見て、パンツを見て、ミセス・カーもすごく困った顔。あんな小さなパンツ、入らない。部屋をでていったかと思うと、こんどはメンテナンスのおじさんを一緒に連れてくる。
 おじさんは自転車でどこかへ行った。ミセス・カーが貸してくれた予備のズボンに保健室ではきかえようとしたら、おじさんがまた現れた。はあはあと息がきれてる。新しいパンツをぼくにくれる。3ドル99セントって値札がついてる。おじさんが困った顔をした。洗面台のところにかかっていたぬれた靴下を見て、こんどはじっとぼくを見て、なんにも言わないで、ぼくの頭をくしゃくしゃって、でっかい手でなでた。おじさんは、また自転車でどこかへ行った。おじさんのくれたパンツにはきかえた。こっちのパンツって前が開いてない。だから、こっちの子って「小」のときでも、わざわざズボンを下ろしてお尻丸出しなのかって思った。しばらくして、ベッドに腰掛けていたら、様子を見に来たフラナガン先生が新しい靴下をくれた。裏に1ドル99セントってシールがはってあった。

 フラナガン先生と一緒に教室に戻る。五、六年生全員でジョシュのお別れパーティーをやっている。ジョシュは朝のことなんかまるで忘れたみたいな晴れ晴れした顔で、今日の主役になりきっている。エイダンがこっちを見て舌を出した。
 ケルヴィンと目があった。彼のとなりはぽっかり空いている。ケルヴィンのとなりにしかない空気の椅子。ケルヴィンはぼくから目をはなさない。ちょっと迷ってから、ぼくは自分の椅子をケルヴィンのとなりに置いて座った。
 ぼくたちはなにも言わない。一緒にいるだけ。ぼくはなんて言ったらいいかわからないし、たぶん、ケルヴィンもなにを言ったらいいのかわからない。前のほうでは、なにかのゲームをやっている。ときどきわっと声があがる。ぼくはなんのことかわからなくって笑えない。ケルヴィンはたぶんおもしろくないから笑わない。先生がキーボードを準備し始めた。いつものようにケルヴィンが弾くにちがいない。心臓がドキドキしてくる。ぼくは、おもいきって声をかける。
 ケルヴィンはぽかんとしてぼくを見た。ゲームが終わって、ケルヴィンが先生に呼ばれて、キーボードを弾き始める。みんなでいっせいに歌を歌う。教室の真ん中には、クラス全員からのプレゼントを渡されて照れているジョシュ。ぼくはその歌をきいたこともないし、歌えないから歌わない。ケルヴィンはキーボードを弾いているけれど、口元は動いていない。歌が終わって、いっせいに皿が──、つまり食べ物がテーブルの上に置かれる。
 みんな口いっぱいにほお張っている。ケルヴィンが自分の皿を持って、ぼくのところへ来た。だれも、ケルヴィンの皿から食べようとしない。もちみたいな、まんじゅうみたいな、みたことないやつ。ぼくはそのちょっとへんなものに手をのばす。ケルヴィンはぼくが食べるのをじっと見ている。休み時間のベルが鳴る。みんながわっと外に飛び出す。ケルヴィンがぼくの手からそれをひったくって皿にもどし、残りと一緒にぜんぶゴミ箱にぶちまける。そして、空になった皿をロッカーにがちゃんと放り込んでから、みんなとおなじように外に飛び出していく。ドアのところで立ち止まって、ぼくに向かって叫ぶ。カム・オーバー・ヒア!
 ぼくは、ウサギみたいにケルヴィンのところまで走った。

 家に帰ると、お母さんが料理していた。今日は学校楽しかった? ってお母さんはきくけれど、ぼくのほうは見ていない。お鍋のなかにはおでんが煮えている。おはしでこんにゃくをつきさしながら、今日はまあくんの大好きなおでんにしたの、松浦さんのおくさんに教えてもらった日本食品のお店までわざわざ行ってきたんだから、これ、とっても高かったのよぉ、と言う。お母さんは料理がとてもうまい。今日は黄色と水色のしましまのエプロンをしている。お母さんはエプロンを二枚持っていて、ぼくはこっちのほうが好きだ。ポケットのところにテントウムシのアップリケがついてる。小さかったころ、ここによくほっぺたをくっつけた。ちょうどお母さんの手がそこにあって、あら、まあくん、どうしたの、って頭をなでてもらうのが好きだった。
 お母さんは、お鍋のふたを脇において、今日もぜんぜん片付かなかったわ、でもまあ、そのうちに、と言いながら、冷蔵庫の横にある引っ越しのときの段ボール箱から大皿を取り出す。そこへおでんを盛りつけていく。こんにゃく、じゃがいも、牛すじ、卵。パーティーのお皿だ。ケルヴィンのお皿だ。こんなの、こっちじゃ、だれも食べやしない。
 お母さんが動くたび、エプロンのテントウムシが右へ左へと動く。このごろテントウムシを見るといやな気持ちになる。真人の好きながんもは売ってなかったのよ、ごめんね、とお母さんはあやまる。お母さん、とぼくは呼びかける。お母さん、あのね。

 お母さんが顔をあげてぼくを見た。台所いっぱいにおでんのいいにおいがしている。お姉ちゃんがマンガを読みながら、げらげら笑っている。テレビはNHKのニュース。松浦さんのおくさんのだんなさんがこのあいだ来たときに、アンテナ屋さんを呼んで衛星放送のアンテナをつけてくれた。それからずっとNHKばっかりで、こっちのテレビをみたことがない。「連日、真夏のような気温が続いております」ってアナウンサーの声がしている。半袖でアイスキャンディーを食べているぼくとおなじくらいの子供が映っている。画面のこっちがわでは、ぼくが制服のうえからセーターを着ている。翔太や拓也はいまごろどうしてるかなって思う。一回だけ、翔太がスカイプしてきた。おまえってラッキーだよな、オーストラリアかぁ、なあ、もう英語ペラペラになったんだろ? なんかしゃべってみろよ。ガイコクジンの友だちもいるんだろ? 金髪のさ。ぼくは、うん、ってなるべくふつうに答えておいた。そろそろゴールデンウィークだな。夏休みには、学校のプール開放にいったり、夏祭りにいったりするのかな。あいつたちは私立にいくから、今年はそんなことやってられないだろうな。画面にこんどはジュースを飲んでる小さな女の子が映った。翔太と拓也、塾のあとで、いつもみたいに自販機でジュース買って飲んでるのかな。こっちはほとんど冬。学校にプールはないし、塾なんかない。自販機もない。それに、そんなこと一緒にする友だちなんかいない。友だちになりたくっても、どうしていいかわかんないし、みんなが何言ってるかぜんぜんわかんない。エイダンみたいなやつもいる。他の子には無視される。こいつ、まだいたのか、っていう顔をされる。ケルヴィンが見当たらないときは、ランチもひとりで食べて、教室でもひとりでいて、休み時間も、校庭の水飲み場のベンチにひとりで座ってみんながオーストラリアのフットボールやっているのを見る。いまだにルールもわからない。授業では、かろうじて同じテーブルの女子が、マサァトゥ、って声をかけてくれるときがあるけど、ゲームとかプロジェクトとかさせられると、だれもぼくとペアになりたがらない。
 テレビの前で寝そべっていたチロが立ち上がって、ゆっくりとぼくのほうへやってきた。湿った真っ黒な鼻先をぼくの膝のばんそうこうのところに押しつける。ばんそうこうをぺろりとなめた。東京から連れてきた、ぼくの犬。

 お母さん、あのね、ってもういちど言う。なあに、まあくん。エプロンのテントウムシもお母さんと一緒に止まってぼくを見た。どうしたの、血がついてるじゃない。
お母さんは、ぼくの鼻の穴の縁に乾いた血のかたまりを見つけて、指をのばそうとした。それにさわられたくなくって、ぼくは体を少しよじった。満月のお月さまが雲にかくれるみたいに、お母さんの顔がさっとくもった。
「お母さん、あのね」
 お母さんはぼくの顔をのぞき込んだ。ほら、目をパチパチするの、やめなさい、って怒られる。チロがあったかい舌で、今度はぼくの手をなめた。ぴたっ、ぴたっ、ぴたっ、ってチロの舌が指先、指のあいだ、手の甲に這い上がっていくにつれて、ぼくの目の周りがじわじわ滲んでくる。お別れパーティー、どうだった、とちょっと心配そうにお母さんがきく。ぼくは、プラスチックのお皿をお母さんに返す。お皿の上に、お皿を入れていたビニール袋をのせる。メンテナンスのおじさんが洗ってくれたパンツと靴下が濡れたまま入ってる。お母さんが、目を丸くした。
 まあまあだったよ、とぼくはなるべくふつうに答える。
 ひざまずいて、チロの背中に顔をうめながら。

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