書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
熱風
福田隆浩

   1

 息を整え、黄色いボールをゆっくりと投げ上げた。
 夏の日射しが、ボールの底に鮮やかな黒い影を作りだしている。
 片足に体重を移し、ラケットを振りかぶる。ゆるめた膝に力を入れ、高みに舞い上がっていくボールの影を目で追った。
 ボールは光の中で一瞬留まり、そして、あきらめたように落下を始める。
 体じゅうの力を右腕の一点に集中させ、黒い影めがけてラケットを振り下ろした。
 ラケット面がボールを捕える音が両耳の補聴器から体の中に響き渡る。
 ぼくの打ったサーブは鋭い角度で相手のコートヘと飛び込んだ。
 この試合は予想していた以上に長引いた。
 確かに、自分のテニスに自信があるからこそ、そいつは強引に試合を申し込んできたのだろう。
 逆立てた金髪にずり下がったズボンという格好のくせに、思った以上に正確なプレーをするやつだった。たぶんどこかのテニススクールに通っていたのだろう。
 そいつは、体勢を崩しながらもなんとかサーブを打ち返した。けれどそのボールにはまるで勢いがなかった。
 ぼくはラケットをバックハンドに引きながらボールの動きを追った。
 結局、あと1点取れば試合は6─3でこちらの勝ちになる。
 ラケットを持つ手首を固め、ぼくは半歩踏み込んだ。そして、左肩から右膝に向けて半円を描くようにラケットを振り下ろした。
 新たな回転をかけられたボールは、次の瞬間にはネットを越え、滑るように相手コートの右隅に突き刺さった。そして跳ね上がると同時にコート外へと弾け飛んだ。
 そいつはボールに手を伸ばすことさえできなかった。
 コートサイドにはその金髪男の仲間が座り込み、しきりにやじをとばしている。こっちを指さし、にらんでいるやつもいる。妙な格好をしているが自分とそう年齢は離れていないはずだ。時々、この廃工場で見かけたこともあった。
 じゃあ次の相手はおまえか。
 ぼくはラケットをかざし、にらみ返した。けれど、連中にそんな勇気があるはずがなかった。面倒くさそうに立ち上がると、金髪男と一緒にぞろぞろとコートを出ていった。
 錆だらけの金網を抜ける時、連中のひとりが振り向きざまに何かを言った。ぼくはそいつの口の動きから、その言葉を理解した。見慣れた口形だった。連中が聞こえないぼくたちを蔑む時に口にするいつもの言葉だった。
 手にしたボールをトスアップし、連中が通り過ぎようとしている金網に向かって思い切り打ち込んだ。
 ボールは金網に突き刺さり、連中は足早に走り去った。

 このテニスコートは造船所近くの崩れかけた廃工場内にあった。
 金網に囲まれた1面のハードコートと壁打ちコートを備えていたが、今はもう見る影もなかった。到る所に亀裂が走り、コンクリートの欠片やガラスの破片があちこちに散らばっていた。破れかけたネットはずっと張りっぱなしで、いつ落ちてもおかしくない状態だった。
 工場入り口には有刺鉄線が張られ、立ち入り禁止の看板も立てられていた。けれど、ぼくたちは鉄線をくぐり抜け、かまわずこのコートに集まっていた。
 たまらなく蒸し暑かった。
 七月に入ったばかりで梅雨はまだ明けていないはずなのに、ここ数日、炎天が続いていた。
 廃工場の閉ざされた敷地には風も吹き込まず、熱せられたコンクリートから立ち上る熱い空気の塊に覆われていた。すでに昼を過ぎ、コート内は蒸し風呂のようだった。

 膝に痛みが走った。長い打ち合いの途中で無理な力をかけてしまったのだろうか。
 何度か屈伸をしてみたが、その痛みは消えそうになかった。仕方なくコートサイドの金網に寄りかかり、そのままひびだらけの地面に座り込んだ。
 右の補聴器から変な音が響いているのに気付いたのはその時だった。
 うなるような鈍い音だった。
 補聴器を外し、日にかざした。イヤモールドにつながっている透明チューブの中に汗の粒が見えた。流れ込んだ汗が補聴器を狂わせてしまったのだろう。
 この場所で補聴器を分解し、手入れをする気にはなれなかった。ぼくは外した補聴器をタオルに包むとそのままラケットバッグの中に突っ込んだ。
 音がかすれ、暗い海の中に沈み込んでいくような感覚が体の中に広がっていった。
 ラケットバッグの奥から携帯を引っ張り出して時間を見た。もう二時を過ぎていた。桜庭テニス会の練習はもう始まっているはずだった。
 行くのは止めようかと迷いはしたが、結局ぼくはバッグを抱えて立ち上がった。そして、ふらつきながら廃工場の出口へと向かった。

     2

 自転車の前カゴにラケットバッグを突っ込み、坂道を押しながら上った。
 見慣れた古い教会の屋根が現れ、そして古い港町が眼下に見えた。
 上りきった所に高台を切り開いて作られた広々とした市営庭球場があった。最近改修されたこの庭球場は、12面の競技用オムニコートと管理棟であるクラブハウスを備えていた。
 日曜の午後だけあって、色鮮やかなテニスウェアを着た人たちで辺りは華やかだった。
 汗でぐっしょりの薄汚れたTシャツ姿の自分だけがまるでよそ者のように思えた。
 ボールの弾む音、交わされる会話、風の音、この空間に漂う音の大部分が自分の中に留まることなく通り過ぎていた。
 多くのコートが使用中だった。
 試合をしているコートもあれば、数人でのんびりボールを打ち合っているコートもあった。
 ぼくはもう一度全てのコートを見回した。
 4番コートでボールが入ったカゴを両手に抱えている人の姿が見えた。
 安田コーチだった。
 見慣れたメンバーの姿も見える。皆、すでに肩で息をしていた。ぼくはバッグをかつぎ直すとそのコートヘと向かった。
 ぼくがテニスを始めたのは、この街に住む同じ聾学校の先輩に誘われたのがきっかけだった。
「孝司、テニスのサークル入らないか? 近所の人がやっててさ、小学生も入れてくれるらしいぜ」
 当時中学生だった先輩は、渡り廊下でぼくをつかまえると巧みな手話でそう言った。
 今から考えると、聞こえる人たちのサークルにひとりで行くことに先輩は自信がなかったのだろう。
「俺、テニスなんてやったことないですよ」
「いいって、いいって、初心者大歓迎って言ってたぜ。基本から教えてくれるってさ」
 断ることもできずに、ぼくはそのテニスサークルに入ることになった。
 結構、大きなテニスのサークルで、教えてくれる人もたくさんいた。けれど、一緒に入った先輩は一か月もしないうちにあっさりとやめてしまった。
「あんな、聞こえるやつらばっかりが偉そうにしているとこで、テニスなんかできるかよ」
 先輩は怒りに満ちた表情でぼくに言った。
 サークルには先輩と手話で話せるような人はいなかった。そのことが先輩にはつらかったのだろう。
 けれどぼくはやめなかった。
 コートの中でボールを追いかけ、相手が取れないボールを打ち返す。ぼくはテニスというスポーツに魅せられてしまっていた。
 ちょうどぼくが小学部を卒業する頃、そのサークルは解散することになった。いろんな事情があったらしい。
 その時、サークルの人に勧められてぼくは別のテニスチームに入ることになった。有志が集まって練習している小さなテニスチームで、それが「桜庭テニス会」だった。
 ぼくに気付いた安田コーチが、入ってこいと手で合図した。
 がっしりとした体格、濃く日焼けした顔に顎鬚を生やしたコーチは、テニス選手とは思えないほどの迫力があった。聞けば大学時代は、山岳部に所属していたということだった。年齢は五十に近いのではないだろうか。駅前の予備校で講師の仕事をしている人だと誰かが教えてくれた。
 安田コーチはぼくをにらみ付けた。
 練習時間に遅れてきたのが気に入らないのだろう。
 けれど素直に頭を下げる気にはなれなかった。ひとりでボールを打ちたい時もある。所属しているからといってチームだけに縛られたくはなかった。
 ぼくはコーチの鋭い視線を目をそらさずに受け止めた。
「試合。シングルスだ」
 安田コーチはいきなりそう言った。
 どこで習ったのか知らないが、コーチは手話を使う時がある。けれど、いつもは指さしや身振りで指示を出すことが多かった。
「4ゲーム先取。タイブレークはなしだ」
 ごつごつとした指先を使って、コーチは珍しく手話を続けた。
 4ゲーム先取のシングルスの試合。
 それは一対一で試合を進め、先に4ゲームを取ったほうが勝つという試合方法だった。
 普通の試合のやり方だと、終わるまでにかなりの時間がかかる。けれどこのやり方だと短時間で試合を済ませることができた。
 ぼくは右手の甲を頬に当て、「誰?」という手話を作った。
 コーチはテニスコートの奥を指さした。
 そこには、白い帽子をかぶった少年が立っていた。
 猫背気味のひょろりとした体をしていて、骨張った顔が妙に浅黒く見えた。そいつは青いラケットを退屈そうに振っていた。
 コーチが何かを叫ぶと、そいつはこっちに視線を向けた。
 そしてぼくと目が合うやいなや、つり上がった目でこちらをじろりとにらんだ。
 むかついた。人を馬鹿にするような挑戦的な目付きだった。
「中2だ。おまえと同じだ」
 コーチはゆっくりと手話の言葉を並べた。
「うまいぞ、あいつ」
 コーチはそれだけ言うと、何事もなかったかのようにコートのほうに戻っていった。
 ぼくはラケットバッグをベンチの横に下ろすと、急いで屈伸を始めた。膝の違和感は相変わらずだったが、なんとか痛みはおさまったようだった。
 右の補聴器が使えないのが残念だった。
 けれど集中してボールの動きを見ればなんとかなるはずだった。今までも補聴器なしで試合をしたことは何度もあった。
 バッグからラケットを取り出しながらコートのほうを見た。
 そいつは細い唇の端をねじ曲げ、不機嫌そうな顔付きでこっちを見ていた。
 ラケットのガットを指で整えながら、ぼくはなんとしてもあいつをうち負かしてやると思った。
 初めて会うやつだったが、こいつにだけは負けたくなかった。なぜか無性にそう思った。

トップページへ戻る