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洋子さんの本棚
小川洋子/平松洋子

 第一章 少女時代の本棚


●女の子は空想力で自分を救う


小川 ゆっくりお話しするのは初めてですね。ご出身は岡山の倉敷市でいらっしゃいますか。
平松 そうです。小川さんは岡山市のお生まれですか。
小川 はい。でも、倉敷市の玉島にも十年ぐらい住んでいました。
平松 岡山ではおいくつまで過ごされたのですか。
小川 大学時代の四年間以外、ずっと岡山です。その後、結婚を機に倉敷に移りました。
平松 高校はどちらにいらしたのですか。
小川 岡山朝日高校です。平松さんはどちらですか。
平松 私はノートルダム清心でした。
小川 何だか懐かしい。
平松 懐かしい響きでしょう。
小川 渡辺和子さんが学長をされていた頃ですか。
平松 そうです。三十六歳という若さで大学の学長になられて、私が高校に入学したのは十年ほど後です。
小川 とても怖い先生だという話を耳にしたことがあります。
平松 謹厳でしたね。「シスター渡辺」とお呼びしていましたが、壇上に立たれると、すっと「話す姿」になられた。高校生なんて落ち着きがなくなるものですが、当時からそれをさせない威厳がおありでした。私が人の話を聴くという行為を意識したのは、シスター渡辺が初めてでした。
小川 それはお幸せな体験ですね。
平松 ええ。髪をベールで包んだお姿の印象は、ずっとお変わりになりませんでした。眼鏡の奥の柔和な瞳に見透かされそうな、尊敬と畏怖がないまぜになる印象もそのままです。
小川 今思い出しましたが、平松さんは『野蛮な読書』(集英社文庫)の中で、「性急に大人になることを強いられた者特有の匂い」を持った子どものことを書いていらっしゃいましたよね。確か開高健さんの『戦場の博物誌』についての記述でしたが、渡辺和子さんも九歳で二・二六事件に遭遇し、当時、陸軍教育総監であったお父様の渡辺錠太郎氏が殺されるのを目撃している。渡辺さんもその一瞬で大人にならざるを得なかったのかもしれません。
平松 数多くの講話をうかがいましたが、シスター渡辺はそういうこともはっきりおっしゃるのです。目の前で起きたことに抗うのではなく、どう受け止めるか。それを考え続けるのが、人生だとすれば、様々な出来事をひとつずつ受け入れる過程を通じて、人は大人になってゆく。しかしシスター渡辺は一気に引き受けられた──。
小川 ゆっくりと受け入れていくことが自然だし、望ましい形だと思います。時に回り道をしながら、いろいろなことを味わって成長していくのが幸せなあり方ですね。考えてみればアンネ・フランクも、それがかなわなかった少女だと思います。自分の力ではどうしようもない外圧の中で、生きなければならなかった。
平松 閉塞状況にいた彼女は書くことで自分を知り、育てていった。誰もが本を読むことで自己を形成していきますが、アンネ・フランクは読むよりも書き続けることで自らを発見していったのではないかと思います。
小川 もしアンネが自由に学校に行ったり、図書館で本を借りたりできる状況だったら、あれほどまでに書くことにのめり込まなかったかもしれません。アンネは書くことが唯一、しかし絶対的な自由だということを証明してみせた。自分はなんてかわいそうなんだろうと、哀れみを求めたり、不満を吐き出すための日記ではないところが、彼女の才能ですね。
平松 書くことが人にもたらす自由と尊厳を証明したという意味で、日記というジャンルを超えた文学性を獲得したし、さらにはそれを十代の若さでやってのけた。
小川 何より、キティーという架空の人物を設定して書いたことが、単なる日記を超えて日記文学になった最大の要因でしょう。紙の上に自分を映し出すだけでなく、紙の向こうにいる誰かに向かって語って聞かせるということが重要だったと思います。
平松 キティーという人物は、文学たりうる有効な装置だったということでしょうか。
小川 はい。しかもそれを最初の日からやっている。
平松 書きたいという欲望があってキティーが生まれたのか、それとも、書く前からキティーはいたのか。
小川 もしかすると、アンネがもっと小さい時は、天井の裏にいるキティーに向かって、眠る前に語りかけていたかもしれませんね。
平松 ある対象に向かって生まれた言葉は、モノローグの場合よりも強度が得られることがあります。
小川 はい。だからこそ思春期特有の内面的な苦悩も、甘えを排した客観的な強度に支えられてこちらに伝わってくる。そればかりでなく、たとえば支援者を招待しての夕食会の喜びや、泥棒が侵入した夜の緊迫感、あるいは大量に手に入ったイチゴでジャムを作る心弾むひとときなど、人物観察から情景描写まで、実に鮮やかです。
平松 閉ざされた状況の中、総出でジャムを作る様子をキティーに伝えたい。語りたい、表現したい。その欲望は、相手がいればこそですね。
小川 ここにいない人に向かって、ここで起こっている出来事を伝える係が自分なのだと、アンネは考えた。日記でありながら、自分を主人公ではなく語り手にしたところが魅力だと思います。今回、少女時代に読んだ本を振り返ってみて、改めて「女の子は空想力で自分を救っている」と思いました。アンネもそうですし、『点子ちゃんとアントン』の点子ちゃんも自分は双子で、もうひとりの私がどこかにいると想像していた。そういう利発さは、女の子の美点ですね。
平松 物語の女の子が「わたし王女よ」と突然言ったりするのも女の子っぽい妄想で。
小川 女の子の利発さは抜け目のなさにつながることもあるけれど、そこがまたかわいい。対照的に、男の子の美点はしばしば、無邪気さや素直な優しさとして描かれますね。
平松 男の子は、今ある現実にどう対処し、乗り越えるかという役割を与えられることが多いですね。
小川 病気のお母さんを助けるために奮闘するアントンは、まさに現実と正面から向かい合っています。しかしながら、男の子が本来神様から授けられている無邪気さや、あふれんばかりの活気を奪われていると感じるのが『にんじん』の主人公です。
平松 母親から「にんじん」というあだ名をつけられ、不当な扱いを受ける少年には、作者のルナアル自身の体験が投影されている。ある意味悲惨で、救いようのない話なのに、ルナアルにかかると独特のズレが生み出されているのですが、小説家の視点でご覧になると、この書き方はどのように映るのでしょうか。
小川 嫌だ、悲しい、つらいという、にんじんの生の感情を、ルナアルは書いていません。常に客観的事実の中ににんじんを置いている。たとえばお父さんに「なにが一番欲しい。ラッパか、それともピストルか?」と訊かれ、本当はラッパが欲しいのに、大人の顔色をうかがい、自分ぐらいの年齢の男の子はピストルを欲しがるだろうと、「ピストルのほうがいいや」と答える。でもお父さんが買ってきたお土産はラッパだった。ルナアルは、お母さんが戸棚のてっぺんに仕舞ってしまった鳴らないそのラッパを描写することで、にんじんの感情を伝えています。ここには、目に見えない感情を表現するための、言葉の可能性が示されていると感じます。
平松 にんじんの感情が書かれていないために、読者が救われ、逆に諧謔さえ生まれている。
小川 残酷さを突き抜けて、ある種のユーモアの域に達しています。それはルナアルが同情を求めていないからではないでしょうか。
平松 同情を求められたら読者はつらくなってしまう。
小川 『にんじん』では、児童文学としては少し衝撃的な、鳥を絞めたり、もぐらを石に叩きつけたり、猫を撃ち殺したりする場面が細部まで描写されています。でも、なんてかわいそうなんでしょう、という書き方はされていない。まるで理科の実験レポートのように冷静なんです。
平松 アンネともつながることだと思いますが、自分は誰それと比べてつらい目に遭っている、というように、幸か不幸か子どもは物事を相対化しづらい。その意味で、ある種の耐性を持たされるという側面があります。
小川 人と比べるだけの材料をあまり持っていませんものね。
平松 自分で自分を丸ごと受け入れるほかなくて、それは子どものひとつの強さと言っていい。そして『にんじん』に書かれているのは、そういう強さではないかと。ルナール自身がそれを熟知していたから、あのような書き方をした。でなければ、にんじんの感情をうっかり描写してしまったのではないでしょうか。
小川 にんじんの目に映ったことしか書かれていない、ということですね。
平松 にんじんの悲惨さが、逆に幼いながらに持っている強靭さを伝える。特別な物語だと思います。

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