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池上彰の講義の時間
高校生からわかるイスラム世界
池上 彰

はじめに

 イスラム教という言葉を聞くと、あなたはどんなイメージを持つでしょうか。
 この本は、高校生を前にして、私がイスラム教とイスラム世界について講義した内容が元になっています。講義を始める前、何人かの高校生にイスラム教についての印象を聞いたところ、「怖い」「暗い」「他の宗教より激しい」などという言葉が返ってきました。
 そういう印象を持っている人は多いことでしょう。でも、どうしてなのでしょうか。それは、世界の紛争のニュースが伝えられるとき、それに関連してイスラム教やイスラム教徒の動向が取り上げられることが多くなっているからでしょう。
 しかし、それは、「イスラム教徒だから紛争が起きた」のでしょうか。それとも、たまたま紛争が起きた場所に、イスラム教徒が住んでいたからなのでしょうか。そこをはっきりさせずに、「イスラム教徒は怖い」という印象を持つのは、大変おかしなことだと私は思います。
 地球上の人口七六億人のうち、イスラム教徒の教は一〇億人以上。おそらく一六億人くらいいるのではないかとも言われています。数としては、まだキリスト教徒の方が多いのですが、イスラム教徒が、どんどん増えています。間もなくキリスト教徒を数で抜いて、世界で一番信者が多い宗教になるだろうと言われています。
 あなたもこれから、海外に行ったりすれば、どこでイスラム教の信者と出会っても不思議ではない時代になってきています。それ以外にも、イスラム教という宗教が世界を大きく動かしつつあるという現実があります。
 しかも、産油国がイスラム教の国家に多いということもあって、このところ世界のお金は、イスラム世界に流れ込んでいます。その結果、イスラム世界が世界全体のお金の流れをコントロールすることも多くなりました。「イスラムが世界を動かす」というわけです。
 ですから、これからを生きるあなたの常識として、イスラム教はどんな宗教なのか知っておいたほうがいいと思うのです。
 以前私が中東のヨルダンに取材に行ったときにインタビューしたヨルダンの学者が日本を訪ねてきて、東京で会ったことがあります。一二月のことでした。街にはクリスマスの飾りつけがいっぱいです。これを見た彼が、「日本にはこんなにキリスト教徒が多いのか」と聞くのです。私が、「キリスト教を信じているというよりは、クリスマスという行事を楽しんだり商売にしたりしている人が多いのだ」と説明したのですが、彼は納得できないという顔をしていました。自分が信じているわけではない宗教行事を祝うということが、国際的な常識では信じられないことだからです。
 日本では、文化庁が、日本の宗教の信者数をまとめています。そのデータによれば、仏教やキリスト教、神道などの信者数を合計すると、日本の人口よりはるかに多くなっています。不思議なことですね。
 どうしてなのか。たとえば正月、神社に初詣に行く人は多いでしょう。神社に寄附をしたり、お祭りに行ったりして、神社を支えている人たちのことを氏子といいます。氏子になっている家は、みんなそこの神社の神様を信じているとして、神社側は文化庁に届けます。だから、あなたも、神社の氏子という形で、神道という宗教を信じている信者だと計算されている可能性があります。
 ところが、葬式となると、仏式でやることが多いですね。あなたの家代々の墓がお寺にあると、それは、檀家として、お寺を支えていることになりますから、あなたの家の人たちは、仏教の信者ということになります。
 だから、おそらくあなたの家は、神社の氏子であると同時に、仏教の檀家としてダブルカウントされている可能性が高いのです。
 日本人の行動は、世界からみると、非常に不思議です。赤ちゃんが生まれると、お宮参りに行き、もう少し大きくなると、七五三でも神社に行くことでしょう。神社に行くということは、神道を信じている、日本の神様を信じているというふうに普通は考えられます。ところが結婚式は、いまはキリスト教で挙げるカップルが多いですね。高原の教会で結婚式をするのが夢だったりします。そうなれば、それは、クリスチャン、キリスト教徒ということになります。
 それでいて、葬式となると、お寺のお坊さんに来てもらって、お経を読んでもらう。最後は、仏教の信者で終わるということになる。不思議ですね。本来それぞれみんな別々の宗教のはずなのに。
 日本人というのは、そういう意味では、世界から見ると非常に不思議な人たちだというふうに思われているんだということを、まずは知っておいてください。
 私たちは、イスラム教というと何か不思議な宗教だなという印象を持つかもしれないけれど、世界の人たちにしてみると、日本人は一体何を信じているんだろう、とても不思議な人たちだなと思われているかもしれないのです。

 どこかの宗教を信じていますと言うと、日本だと何か特別のような感じがすることが多いと思います。宗教を信じています、信者を増やすために活動していますなんて言うと、普通じゃないような目で見られたりするということもありますが、世界では、信仰を持つということは、ごく当たり前のことなのです。
 もう何年も前になりますが、ちょうどクリスマスの日に、私はなぜかアメリカのラスベガスというところにいて、タクシーに乗りました。そのタクシーの運転手に、「こんなクリスマスの日に働いているわけ?」と聞いたら、運転手が「そりゃ、クリスチャンは、みんな休んでるさ。でもおれはイスラム教徒だから関係ない。きょう働いているのは、おれたちとユダヤ教徒ぐらいのもんだ」と言うんですね。
 逆に、「そういうあなたこそ何しにここへ来ているんだ、こんなクリスマスの日に」と聞き返されてしまいました。困った私は、「本を書くための仕事に来ている。私は仏教徒だからクリスマスは関係ない」と、とりあえずそういう言い方をしましたけれど……。
 人によっては、「信じている宗教なんかないから、クリスマスでも仕事をするさ」と答えたかもしれませんね。
 ところが、「信じている宗教がありません」と言うのは日本では珍しくありませんが、これが海外に行くと、とても不思議な人、おかしな人、あるいはテロリストかもしれない、というふうに見られる可能性があります。
 というのも、信じている宗教がないということは、神様の存在を認めていないということになるからです。神様の存在を認めていない人間は、神様を恐れない。神をも恐れぬとんでもないテロリストではないか、と見られることさえあるのです。
 先ほどのヨルダン人の学者に対して、「私は仏教徒だ」と言ったら、彼に、「キリスト教やイスラム教でなかったら、天国や地獄という概念もないのだろう。だったら、人々の行動の規範はどうなっているのだ」と問いつめられました。つまり、人々は、「悪いことをしたら地獄に行く。そうならないように正しく生きよう」と考えるから、この世の秩序が保たれている、という考え方なのですね。
 本来なら私は、仏教の輪廻の概念を詳しく説明すべきだったのでしょうが、残念ながら、それだけの英語力がありません。そこで、きわめてざっくりと、「仏教でも、この世で良い行いをすれば極楽浄土に行け、悪いことをすれば地獄に落ちるという教えがある」と説明しますと、「それならわかる」と大きくうなずきました。つまり、人々が宗教を信じていてこそ、この世の平和は保たれる、というわけです。ヨルダン人のイスラム教徒である彼は、「神を信じているからこそ、私たちは正しい行いができる。この世の倫理が守られる」と考えているのです。
 こう考えると、イスラム教徒は、神の存在を信じているからこそ平和に暮らせると考えていることがわかります。
 私たちは、イスラム教と聞くと、危険だ、怖い、テロリストがいると思ったりしがちですが、イスラム教を信じている人たちにしてみると、「宗教を信じていないの? テロリストじゃないの?」というふうに思われるかもしれないということです。
 そんな世界の常識を確認した上で、次の章から、イスラム教とイスラム世界の基礎について学んでいくことにしましょう。


 第1講 イスラムが世界を動かす

「神にすべてを委ねて人間の心は平和になる」

 そもそもイスラム教の「イスラム」は、本当は「イスラーム」と発音するのですが、日本では、新聞でもテレビでもイスラムという言い方をすることが多いですね。そこで、この本でも、イスラムという言い方を採用します。
 アラビア語で「サラーム」という言葉があります。これは平和、あるいは平安という意味です。アラビア語の挨拶の言葉である「アッサラーム・アライクム」というのは、「あなた方に平安がありますように」という意味です。韓国語の「アンニョンハシムニカ」という言い方の「アンニョン」とは「安寧」のこと。あなたは安寧に暮らしていらっしゃいますか、という意味ですから、発想としては似ていますね。
「アッサラーム」の中の「サラーム」というのが平和ということです。イスラームという言葉もサラームと語源は同じです。
 イスラムとは、神様に帰依するという意味です。神様に帰依、つまり神様にすべてを委ねるということです。「帰依」するというのは、ある宗教を信じるという意味です。仏教に帰依するというと、お釈迦様を信じ、お釈迦様の教えに従いますということです。イスラムというのは、神様の存在を信じ、神様にすべて我が身を捧げます、我が身を委ねますという意味なんです。
「信じる者は救われる」という言い方がありますね。この世の中は神様がおつくりになり、私の行動は、自分で気づいていないだけで、すべて神様が導いてくださっているんだよというふうに考えると、非常に平和な気持ちになれるのです。すべては神様がお決めになったこと、すべてを神様に委ねた、それがイスラムの意味です。
 そのような状態のことなので、イスラムという言葉の中には、実は宗教の教えという意味まで含まれています。ですので、本来は「イスラム」だけでいいのですが、ここでは日本の慣習に従って、「イスラム教」という言い方をしておきます。

イスラム教徒はどこに多いのか

 ここではイスラム教が世界を動かすという話をするのですが、世界でイスラム教徒が一番多い国は、どこだかわかりますか?
 何となくイスラム教というと、中東というイメージがあると思います。たしかに中東にはイスラム教徒が多いですね。でも、イスラム教徒が世界一多い国は中東にはありません。イスラム教徒が一番多いのは、実はインドネシアなんです。
 インドネシアは人口が二億五〇〇〇万人。二億五〇〇〇万人のうち九〇%がイスラム教徒なので、実に二億二五〇〇万人がイスラム教徒という計算になります。日本の人口より多いですね。みんながよく知っているバリ島は、インドネシアの他の島々から離れていたせいで、ここだけはヒンドゥー教徒が多いのですが、それ以外のところはイスラム教徒が多いのです。
 ほかにもアジアではイスラム教徒が多いのですね。たとえばマレーシアにもシンガポールにも、大勢が住んでいます。中国も、新疆ウイグル自治区で暴動が起きたりしていますが、この地域にも、もともとはイスラム教徒が多いのです。最近は、イスラム教徒ではない漢民族が多く移住していますが。
 インドというと、ヒンドゥー教というイメージがありますが、インドにもイスラム教徒が一億七〇〇〇万人もいます。ヒンドゥー教徒がもちろん一番多いのですが、二番目に多いのがイスラム教徒なのです。
 もちろん中東はほとんどイスラム教ですし、アフリカもサハラ砂漠から北はほとんどみんなイスラム教です。これが南部のほうになってくると、もともと地元の土着宗教があったところにヨーロッパの宣教師たちがやってきてキリスト教を広めたので、キリスト教徒が結構いますが、アフリカの北半分はほとんどイスラム教ということになります。
 最近はヨーロッパに多くのイスラム教徒が移り住んできています。そこで子どもが生まれますと、もちろんイスラム教徒ということになります。いまヨーロッパでイスラム教徒がどんどん増えているのです。
 アメリカにも、中東での紛争を嫌って移り住んでくる人たちが大勢います。この多くがイスラム教徒です。そういう意味でイスラム教徒が増えています。アメリカの黒人たちは、多くが以前はキリスト教徒だったのですが、なかなか黒人差別がなくならない現実に失望して、キリスト教からイスラム教に改宗する黒人が増えています。この点でも、アメリカでイスラム教徒が非常に増え続けているのです。
 中央アジアでも人口の大多数はイスラム教徒です。いまのロシアは、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)という国が崩壊した後、ロシアとそれ以外の国々になりましたが、ロシアから分かれて独立したカザフスタンやウズベキスタン、タジキスタン、キルギスなどの国民の多数はイスラム教徒です。そういう影響を受けて、ロシア国内でもイスラム教の信者が増えてきているということがあります。
 あるいは、オーストラリアも世界のいろんな国から移民を受け入れていますから、イスラム教徒が多く住むようになってきています。
 日本では、まだイスラム教徒の数はそんなに多くはありませんが、イランやパキスタン、バングラデシュなどイスラム圏の国から移り住んで来た人が増えています。イスラムに対する関心が高まるにつれ、イスラム教徒になる日本人もいます。
 その結果、日本には日本人のイスラム教徒が一万人、外国人のイスラム教徒が一〇万人ほど住んでいると言われるようになりました。これからも増え続けることでしょう。

オバマ大統領の父親はイスラム教徒だった

 アメリカのオバマ大統領は、バラク・オバマですね。でも、実はミドルネームがあって、フルネームは、バラク・フセイン・オバマです。
 フセインといえば、すぐ思い出すのはイラクの独裁者だったフセイン大統領です。フセインというのは、イスラム教の創始者ムハンマドの孫のフセイン・アリーに由来し、イスラム教徒に多い名前です。
 オバマの父親はケニア人でイスラム教徒でした。アメリカに留学してアメリカ人の女性と知り合って結婚。オバマが生まれました。父親の名前をそのまま引き継いだので、フセインの名前が入っているのです。
 オバマ大統領本人はキリスト教徒ですが、父親はイスラム教徒だったものですから、「イスラム教徒の息子がアメリカの大統領になった」と言うことも可能です。父親がイスラム教徒の場合、生まれた子どもは自動的にイスラム教徒になりますので、若きオバマはイスラム教徒だったはずなのです。
 アメリカは以前、フセイン大統領のイラクと戦いましたから、フセインという名前を聞くと、多くのアメリカ人が、「イスラム教徒じゃないか」というイメージを持ちます。キリスト教徒が多いアメリカでは不利になるものですから、オバマは、大統領選挙中、ミドルネームを自分からは公言しませんでした。バラク・オバマという言い方で通していたのです。
 一方で、民主党のオバマに反対する共和党の人たちは、オバマを当選させたくないものだから、「オバマはキリスト教徒と自称しているけど、本当はイスラム教徒らしい」という説を流したりしました。あるいは、大統領選挙のときに、わざとフルネームでバラク・フセイン・オバマという呼び方をしました。
 オバマが大統領になった後、エジプトに行って、カイロ大学の学生を前に講演をしたとき、「私にはフセインという名前が入っている。イスラム教の家系であった」と言っています。エジプトのカイロ大学の学生は、ほぼ全員イスラム教徒ですから、その前で、私はイスラムのことがわかるんだよという言い方をして、フセインという名前をアピールしたんですね。そうしたら、すかさず、『ニューズウィーク』というアメリカのニュース週刊誌に風刺画が載りました。大統領がバラク・フセイン・オバマと名乗るとき、アメリカ国内では、フセインという字が読めないくらい小文字だったのが、エジプトに行った途端、フセインの文字が極端に大きくなっている。自分の名前を使い分けしているということを風刺したんです。
 こんなところにも、イスラムが大きな存在になってきていることがよくわかります。
 イスラム教徒は、中東だけにいるわけではありません。アジアでもヨーロッパでもアメリカでも激増しています。それによって社会的な摩擦が起きている地域もあります。
 その一方で、ドイツでもフランスでも、オランダでもデンマークでも、イスラム教徒の姿は、日常の風景に溶け込んでいます。イスラム教徒が集団でお祈りをするモスクはミナレットと呼ばれる高い尖塔があるのが特徴です。このミナレットが、ヨーロッパの各地で見られるようになりました。
 このイスラム教徒が、各地で経済的に強い立場に立つようになっています。世界経済を大きく動かすようになってきたのです。
 もはや世界の政治や経済は、イスラム抜きというわけにはいかなくなりました。まさに「イスラムが世界を動かす」のです。
 イスラム教の教えにもとづく金融も広がっています。世界経済にイスラム教の影響が大きくなっているのです。
 世界を動かすイスラム教。どんな宗教なのか、教えを詳しく見ていきましょう。

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