書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
迷い子の櫛
むすめ髪結い夢暦
倉本由布

   一 迷い子の櫛

       一

 朱塗りの櫛。雪輪に桜文様。
 我知らずに卯野は、それを声に出して読み上げていたものらしい。
「雪に桜か」
 ふいに、武井虎之介の声がした。
 江戸橋のたもとである。下を流れる日本橋川には猪牙舟や漁船がにぎやかに行き交う。大きな屋形船の姿もあり、あれはきっと大川へ船遊びに出かけようというものなのだろう。
 八月のあたま、江戸の町には夏の名残りの気だるい熱が溜まっていた。
 卯野は広小路の喧騒を背にし、親柱のそばに建つ石標を見ていた。
 振り向くと、すぐ後ろから虎之介が、おなじものをのぞき込んでいる。
 意外な出会いに驚き、そして、卯野はとても嬉しくなった。虎之介と会うのは長屋への引っ越しの日以来だ。
「髪結いの帰りか」
 訊ねられ、卯野は苦笑した。残念ながら、そうではなかった。
 女髪結いになるのだと、名乗りを上げはしたものの、つい最近まで八丁堀に住まう武家の娘だった卯野にはなんの伝手もない。簡単に仕事をもらえるわけはない。
「だったら、何をしている」
 卯野は、昔からよくしていたように、橋を渡る女たちの髪をながめに来たのである。
「虎之介さまは、なぜここに」
 卯野が訊ね返しても、虎之介は、くちびるの端を上げてにやりとしてみせるだけだった。
 訊くのは野暮、そう言われたのだと思った。ならばと、こちらも笑ってみる。
 ともあれ、虎之介は下の船着場から上がってきたところのようだ。
「雪に桜」
 虎之介が言った。
「なんのことだ」
「ああ、これです」
 卯野は背後の石標を指さした。
 迷子石、迷子しらせ石などと呼ばれるものである。迷子になった子どもを捜す親、あるいは、迷子を預かりその親を捜す者が、子どもの特徴など書いた紙を貼っておく。うまく情報が行きあえば、子どもは無事、親元に戻れるというわけだ。
 四角い柱で、向かって右側の面に“知らする方”とあり、左側には“たずぬる方”。卯野が見ていたのは“たずぬる方”のほうで、こちらにあるのは迷子を捜す親が貼ったものである。
「雪輪に桜文様のある、朱塗りの櫛を持った子を捜しているんですって」
 それは、どんな櫛だろう。
 卯野は思い描いてみた。
 象牙だろうか、柘植だろうか。文様は蒔絵で描かれているのか。螺鈿かもしれない。雪の結晶を表した輪のなかに、桜。雪のなかの桜。きっと、きれいに違いない。
「迷子になるような小さな子どもが、そんな櫛を持ってるものかな」
 虎之介が首をかしげた。
 卯野は、貼られた紙を改めて読み直してみた。そして「あら」と声を上げる。
「この迷子さんのお歳……」
「なにやら奇妙な迷子だな」
 迷子は女の子で、今年、十六歳だというのだ。

 卯野の住まいは、日本橋南、呉服町にある長屋である。
 千代田のお城の堀に面した通りの奥、路地を入ってすぐにある二階家で、卯野は母の八重とふたり暮らしをしている。
 代々、北町奉行所の吟味方与力をつとめてきた浅岡家の娘であった卯野が、武家の身分を捨て、母と八丁堀を出てからまだ日は浅い。
 当主である兄・周太郎が、つけ火の濡れ衣を着せられた末、身の証を立てるために腹を切るという思いがけない出来事が起きたのをきっかけに、八重は浅岡家を終わらせると決めた。
 子どものころから髪結いが得意だったため、女髪結いとして身を立てるべく奮闘中というのが卯野の今の身の上なのだ。
「どうだ、今の暮らしは。少しは慣れたか」
 虎之介は卯野に訊ね、八重のご機嫌うかがいもしたいからと送ってくれることになった。
「慣れた、とはまだ言えません」
 卯野は、肩をすくめながら笑った。
「お母さまとふたりきりの暮らしというのには、さすがにもう慣れたのですけれど」
 長屋で暮らすことには、なかなか慣れない。
「困っているとか悩んでいるとか、そういうわけではないんですよ」
 そんな話をしながら表通りの八百屋や魚屋といった店をのぞき、ぶらぶらと歩く。
 長屋木戸をくぐろうとしたところ、中から男の子がふたり、飛び出してきた。
 向かいに住む豆腐売りの、幼い息子たちだ。ぶつかりそうになったのを、危ういところで飛びのいて立ち止まり、こちらを見上げた。
「ごめんよ」
 威勢よく謝ってきたものの、相手が卯野とわかると、ふたりは気まずげに目をそらす。そのまま走り去ったので、
「あら、いいのよ」
 答えた卯野の声は宙に浮いてしまった。
 虎之介が、男の子たちの背を呆れたように見送った。
 その子たちの母親が、子どもたちを追って走り出てくる。卯野に気づくと愛想笑いを浮かべ、ちいさく頭を下げはするのだが、声をかけてはこなかった。
「さっきの迷子石だが」
 虎之介は、またその話を口にした。
「なんだろうな、十六歳の迷子。ちょっと調べてみるかなあ」
「そんなに気になりますか」
「おまえは気にならないのか」
「何かわかったら教えていただきたいくらいには、気になります」
「よし。じゃあ教えてやる」
 そのとき、
「やだねえ、岩三さん、こんな時間にどこで呑んできたのよ」
 木戸を出て行った母親が、大きな声を上げた。千鳥足でやって来るのは、豆腐売り一家の隣家に住む男だ。娘とふたり暮らしだというが、何で生計を立てているのか、卯野は知らない。
 岩三というその男は、卯野と虎之介に目をくれないどころか気づいている様子もなく、卯野の肩にどすんとぶつかってゆく。
「おい、謝れ」
 よろけた卯野を、虎之介がすかさず、かたわらに引き寄せて抗議した。しかし、岩三は振り向きもしなかった。足元とおなじく手にも力が入らないのか、住まいの腰高障子を開けることが出来なくて何度も大きく震わせている。結局、中にいた娘が戸を開き、
「おかえり、お父つぁん」
 と、やさしく父親を引き入れた。卯野と似たような歳に見える少女だった。
 そんな様子を見るともなしに見守ってしまったあと、虎之介はぽつりと呟く。
「おまえ、ここでいじめられてるとか言わねえよな」
「まさか。違います」
 卯野は苦笑し、寄せてくれたままの虎之介の手からそっと離れた。
「単に、まだ互いに馴染めていないというだけのことだと思うんです」
「確かに、こんなところにいきなり八丁堀生まれの母娘が住み着いたら、どうしたらいいものやら向こうもわかんねぇだろうな」
 納得は、したようだ。
 正直、もう少し環境のよい住まいを借りる蓄えがないわけではない。しかし、こうして何度も暮らしが変わる不安定さを味わってしまうと先々を楽観視することは出来なくなる。なるべく手堅く生きてゆかなければとの警戒心が、やはり生まれるものなのだ。
 卯野の住まいの軒下には、
『女髪結いうけたまわります』
 虎之介が書いてくれた看板が吊るされている。それを横目に見ながら、卯野は腰高障子を開けた。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
 驚いたことに、応じたのは花絵であった。
 八重は奥の障子を背に縫いものをしており、火鉢をはさみ向かい合って座る花絵がにこにこと卯野を見上げていた。
「花絵さん、どうしてここに」
「千鶴お嬢さんのお使いでまいりました。お卯野さんに会えると思って楽しみに来たのよ。なのに、どこに行っていらしたの」
「千鶴がなんだって」
 卯野のあとから、虎之介がひょいと顔を出す。すると、花絵の目がまんまるに見開かれた。
「虎之介さまこそ、どうしてこちらに」
「江戸橋で卯野を拾った」
「橋のたもとですか」
 花絵には、卯野が何をしに出かけたのかがすぐ、わかったようだ。
 花絵は、袋物を扱う大店・叶屋の次女である。今は行儀見習いとして武井家の奉公に出ている。卯野も周太郎の死後しばらく武井家で奉公人として世話になっており、そのときに知り合った。
 見た目は清楚で美しい娘だが、中身は少々、わがまま。おそらくそのため家の者たちが手を焼き、武井家に預けたのだろう。卯野はそのように見ているのだが、実際の理由は知らない。
 ともあれ、常にきれいでありたいと望む花絵と、きれいなものが好きな卯野とは次第に気が合うようになり、今では仲のよい友だちだ。
 花絵とも、武井家を出て以来、会っていなかった。久しぶりに、にぎやかな花絵の声を聞き、卯野の心は浮き立った。
「髪結いの仕事で出かけているのかと思っていたわ」
「残念ながら」
 ため息をついてみせつつ、卯野は土間を上がる。
「白屋の娘さんたちの髪結いを頼まれるほか、さっぱり仕事はいただけないの」

トップページへ戻る