書籍試し読み
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オネスティ
石田衣良

   プロローグ

 最初に一本の木があった。
 幼い男の子にとって、その木は世界そのもののようにおおきかった。
 春から夏にかけて、鮮やかな緑の葉で木は空の半分を覆った。秋の終わりには緑の衣を脱ぎ捨て、命の秘密を探るように裸の枝先を空に伸ばした。どうしてせっかく生やしたたくさんの葉をあんなふうにかんたんに落とせるのか、秋になるたびにダンプカー一台分くらい脱いでしまうのだ。男の子はそれがいつも不思議だった。
 そのケヤキは何百年も昔から、海の見える丘のうえにあった。
 男の子の家は、その木に隠れるように建てられた切妻屋根の二階建てである。屋根は赤で、壁は白。男の子が気にいっていたのは、窓枠がアルミではなく木製だったことで、木枠の窓から吹きこんでくる風は、どこか丸くてやわらかだった。嵐のまえには、ほのかに潮の香りもする。
 ケヤキの巨木をはさんで、もう一軒の家があった。男の子の家の家主である老夫婦が住んでいる、まったく同じ形をした家だった。屋根は赤で、壁は白。ひとつだけ違っていたのは、窓枠が明るい茶色で塗られていたことだ。窓枠の色が変わるだけで、家の印象はずいぶんと変わるものだ。男の子の家の窓枠は限りなく白に近い水色である。それだけで家はずっと若く見えた。
 海風が吹き寄せる丘のうえに建つふたつの家は「風の丘の双子ハウス」と、近所の人たちから呼ばれていた。男の子が幼稚園にあがるころ、家主の老夫婦の夫が急な病気で亡くなった。双子の家のかたわれは、冬には無人になった。

 男の子の父と母は折りあいが悪かった。
 休みの日にはだいたいけんかをしている。父親は市役所で働いていたが、心の半分は家においていた。二階の北側にあるアトリエが父の心がある場所で、そこには売れない油絵が壁際にたくさん立てかけられていた。父はひどく大人しい人で、市役所では出世コースをはずれているらしい。男の子は母親から、そうきかされていた。あの人は絵を描くのに夢中で、家のことも、わたしのことも、将来の生活のことも、もちろんあなたのこともぜんぜん考えてくれない。冷たい男で、父親失格よ。
 そういう母親は、万事派手好きだった。身体のバランスがよく、顔立ちも美しい人だったので、父は絵のモデルになってくれないかと、若いころ声をかけたという。そのころのお母さんは、あんなふうではなかった。ぼくの出世や、自分のコートや、手にさげたバッグのブランドを、他人と競うような女ではなかった。まったく女というものは浅はかだ。
 ひとり息子の男の子は父と母の不平不満のはけ口になった。
 長いながい週末の終わり、双方からたっぷりと毒を吹きこまれた男の子は、そっと家をでるとケヤキの大樹のところにいった。その木のそばにいると、なぜか安心するのだった。木は雨にも風にも揺らがなかった。太平洋岸のあたたかな気候でめったに降らない雪にも、地震や雷鳴や、男の子の両親の際限のない悪口合戦にも文句はいわなかった。ただすっくりと丘のうえに背を伸ばし、無数の腕を伸びのび広げ、海を見おろし立ち続けるだけだ。

     1

 季節は浅い春だった。
 つぎの年度から、男の子は年長さんになる。幼稚園も最後の一年だ。見あげると、枝先にはちいさなつぼみが数えきれないほどついていた。ほころびかけたつぼみは、てのひらにだした黄緑の絵の具をにぎり潰したようだ。緑の命が硬い殼を破り、春にむかって、あふれだそうとしている。
「あなた、誰?」
 男の子の目のまえにいきなり女の子があらわれた。片手をケヤキの荒れた幹にかけている。白いワンピースはすこしおおきめだが、袖や裾の縁につけられた白いレースが爽やかで可憐だった。ケヤキの木の妖精みたいだ。男の子は驚いて目を丸くした。
「……ぼくは……佐久真開」
「ふーん、そっちの家に住んでるんだ」
「そう」
「カイくんね。わたしは中塚美野里、今日からあっちの家に住むの」
 女の子は双子の家のもう一軒を指さした。
「わたしたち、おとなりさんだね。よろしく」
 挨拶はきちんと礼儀正しくおこなわなければならない。両親から厳しくしつけられたカイは、背をまっすぐに伸ばし、お辞儀をした。
「ミノリさん、よろしくお願いします」
「いいよ」
 もしかしたら、この子は年上で小学生なのかもしれない。背もすこし自分より高いようだ。カイが警戒して見つめていると、女の子がいった。
「この木すごいね。東京のマンションにはこんなおおきな木はなかった」
 なぜミノリはこんなふうに初めて会ったぼくに話せるのだろうか。カイは気おくれして、自分の運動靴のつま先を見ていた。このまえ浜にいったときの砂がななめにつかった鉛筆のように淡く灰色の線で残っている。
「……そうだね」
「こっちの子はみんな、なにして遊んでるの?」
 小学校で流行っている遊びはわからなかった。カイは困った。声がちいさくなる。
「ぼくは絵を描いたり、折り紙で遊んでるけど」
 カイの絵はうまくはないけれど、本気の絵だった。ていねいに見て、ていねいに形をとり、ていねいに塗っていく。折り紙は鶴や兜ばかりでなく、狼や龍や麒麟を折ることもできた。カイは手をつかうのが好きだ。
「そうなんだ、今度描いた絵見せて」
 人に見せられるような絵はまだ一枚もなかった。だいたい絵を見せるというのは、お尻を見せるようなものじゃないか。カイはミノリの無神経に、すこし腹が立ってきた。
「いつか」
「いつかって、いつ?」
 驚いた。そんなに人の絵を見たいものだろうか。
「いつかは、いつか」
「だから、いつかって、いつ?」
 このままではけんかになってしまいそうだ。なんだかうちのお父さんとお母さんの会話に似ている。そのとき背後から声がきこえた。すこしいらだった母の声だった。
「カイ、テーブルのノートや鉛筆かたしなさい」
 母の冴子が裏の勝手口から顔をのぞかせている。
「あら、おとなりに引っ越してきたうちの子かしら。かわいいわね。うちのカイをよろしく」
 家の外では愛想のいい母だった。ミノリが恥ずかしげな表情で笑っている。女の子の圧力が弱まった。カイは口のなかでさよならというと、さっと身を翻して、安全な自分の家に駆けこんだ。

 カイがかよっているのは、風の丘のなかほどにあるおしどり幼稚園だった。
 おしどりというのはなと、父の忍はいっていた。確かに夫婦仲がすごくいいんだが、実は毎年ペアを組む相手が違っているんだよ。一年限りなら誰でも相手にやさしくできるからね。カイには父の言葉の意味がよくわからなかった。ただなんとなくいつものように、お母さんの悪口をいっているなと思うだけだ。
 年長のクラスが始まった朝だった。若い先生が手をたたいて、遊戯室に園児を集めた。
「東京からきた新しいお友達を紹介します。さあ、中塚美野里さん、ごあいさつをどうぞ」
 先生の背中から、ミノリがあらわれた。この子は同じ年だったのか。見たことのない青と赤とオレンジのチェック柄のスモックを着ている。カイの幼稚園ではスモックは母親の手づくりで、だいたいは薄い青や紺のデニムの汚れが目立たない簡素なものだ。
「中塚ミノリです。仲よく遊んでください……あっ、カイ」
 ほかの園児のいるまえで、いきなり呼び捨てにされた。カイは顔から火がでるようだった。ポニーテールの先生がいった。
「カイくんをしってるの?」
「はい、おとなりさんなんです。家と家のあいだにすごくおおきな木があるんですけど、このまえそこで会いました」
 頭が悪くて、駆け足の遅いヨシキがいった。
「カイとミノリはカップルだね」
 カップルの意味はとうのヨシキにも、そこにいた三十人を超える園児の誰にもわかっていないようだったが、幼い子どもたちは何度もカップル、カップルとはやしたてた。カップルというのは、うちのお父さんとお母さんのように結婚しているのではなく、その一歩手前のものらしい。カイはそう見当をつけると叫んだ。
「違う。カップルなんかじゃない」
 ミノリは涼しい顔で、騒ぎたてる子猿の群れでも観察するように立っている。
「はいはい、カップルはおしまい。ヨシキくん、お友達が嫌がることをいってはいけませんよ。わかりましたか」
 ヨシキはカイを見て、にやりと笑った。
「はーい」
 カイはヨシキをにらみつけた。

 カイは最初のひと月ほど、ミノリと口をきかなかった。目があってもすぐにそらしてしまう。送迎のバスも、幼稚園の組も同じで、となりに住んでいるので、それはかなり困難なことだった。始終ミノリを意識していなければならない。いつもの通園の倍は疲れるのだった。
 季節は五月になった。
 双子ハウスのまんなかに立つケヤキはみずみずしい若葉を海風にそよがせていた。一枚ちぎって手ににぎれば、てのひらがびっしょり濡れそうな浅緑の葉が小魚のように枝先に群れている。カイは新緑の屋根を見あげながら、ゆっくりとちいさな家ほどある幹の周囲をまわっていた。
「痛い」
 本の根にでもつまずいたかと思い、視線をさげるとミノリだった。幹の裏側に座っていたのだ。日曜の夕方になにをしているのだろう。まっすぐに見あげてくるミノリの目は恐ろしいほど深く澄んで、カイはあわてて顔をそらした。いまミノリは泣いていなかっただろうか。
「カイのうちも同じだよね」
 ミノリがぽつりといった。ミノリの家からは、海風に流されてときに男の怒鳴り声や女の泣き声がきこえることがあった。
「そんなに嫌なら、結婚しなければよかったのに。子どもはたまんないよ」
 ミノリはカイの父と母のことをしっているのだ。カイは恥ずかしさに硬直した。
「いいから、ここに座ってよ」
 カイはかくかくとあやつり人形のようにミノリのとなりに腰をおろした。すぐ近くに同い年の女の子の体温を感じる。カイの身体半分がくすぐったくなった。
「カイはどう思うの?」
 丘のうえから見おろす海はおおきな皿のような形をしていた。西の果ての海と空の境に日が沈もうとしている。
「最初はうちのお父さんもお母さんも、相手のことが好きだったんだと思う。でも、ずっといっしょにいるうちにだんだん好きではなくなっちゃった」
 海はくしゃくしゃに丸めたアルミフォイルをもう一度伸ばし、オレンジの光をあてたようだった。この海の熱のないきらめきをどう絵に描いたらいいのだろうか。動くものを描くのは、すごくむずかしい。
「うちも似てるよ。だんだん仲が悪くなってきた」
 カイはためらうようにいった。
「きっと男の人と女の人は、ほんとに好きならいっしょに暮らさないほうがいいんだ」
「どういうこと?」
「好きなら離れていたほうがいい。遠くから大切に思う。それくらいがちょうどいい」
「ねえ、カイ」
 強い声で呼びかけられ、カイはとなりをむいた。鎖でつながれたように、男の子と女の子の視線が結ばれた。カイは夕日で真っ赤に染まったミノリの瞳から目をそらせなくなった。
「わたしたちはお父さんやお母さんみたいな大人になるのはやめよう。ずっと仲よしでいようね」
 そのときミノリの目は海よりも深く見えた。ミノリの目はあんなにちいさくて、海や空やこのケヤキがはいるはずがないのに、その全部よりもおおきく深く見えるのだ。カイのなかに不思議な感情が湧きおこった。生きている限りこの人を守りたい。無理やり言葉にすれば、そんな気もちだ。
「うん、わかった」
 ミノリが手を伸ばしてきて、強くカイの手をにぎった。
「でさ、いつカイの絵を見せてくれるの?」
 カイはまだ自分の絵をミノリに見せてはいなかった。
「いつか」
「いつかって、いつ?」
 ふたりは春の夕べが暗くなり、双子の家から双方の親が迎えにくるまで、新緑のケヤキのテントのしたで手をつないでいた。

 翌日から送迎バスにのるときは、いつもカイとミノリはとなり同士に座った。園のちいさな鉄製の門にはいるときも、でるときも、手をつないでいる。ふたりにはそれはとても自然なことだったので、周囲の園児からカップルとはやされても、もう気にはならなかった。幼い子どもなど勝手に騒がせておけばいい。自分たちは双子ハウスに住む魂の双子で、生まれるまえはほんとうに兄弟や親子や恋人だったかもしれない。幽霊と前世と占い師がでてくるファンタジーに夢中になったミノリはそんなふうに考えていた。
 双子ハウスのふたりの時間は渓流のように流れた。週と月を追うごとに、とどまることなく、岩にあたってはうれしげに砕け、また合流しては時の河口をめざしていく。おしどり幼稚園のつぎは、風の丘小学校だった。ミノリは赤いランドセル、カイは鮮やかなウルトラマリンのランドセルを背負い、毎朝仲よく登校した。六年間もつかうのだ、汚れが目立たない黒がいいとカイの母はいったけれど、父がなんとかとりなしてくれたのだ。日曜画家の父は、色のもつ重要性がわかっていた。ひとつの色のつかいかたで、
そのもの自体が生きたり死んだりする。カイにとって毎日つかうランドセルの色は致命的に大切だった。
 小学校でもカイとミノリは同じクラスである。もっともこの街でも少子化はよそと変わらず、クラスは一学年に二組しかなかった。学校ではもう誰もふたりをカップルと呼んだりしなかった。いつもいっしょにいるのがあたりまえすぎて、からかいの対象にもならなくなったのである。

 ミノリが初めてカイの絵をきちんと見たのは、二年生の秋のことだった。
 三、四時間目は図画工作の時間で、校門のわきにあるソメイヨシノを写生し、水彩で色を塗る課題である。秋もふけていたので、サクラの葉は黄色だったり茶色だったりした。幹はケヤキより荒々しい木肌で、ところどころ裂けて深い傷のように開いている。
 ほかの生徒たちはさっさと自分の場所を決めるのに、カイは画板をもってサクラの木のまわりを何周もした。ミノリはそのあとをしぶしぶついていった。早く場所を決めなければ、いいところをとられてしまうし、自分も絵を描かなければいけない。カイが腰を落ち着けたのは、クラス委員の高瀬弘明のとなりだった。ミノリはふたりのあいだに自分の場所を決めた。
 ヒロアキは勉強がよくできて、身長が高く、足の速い子どもだった。クラスの女子人気は当然一番である。ミノリはそんなことは普通でつまらないと思っていた。ヒロアキは塾にかよっているし、サッカークラブにも、絵画教室にもいっているという。
「あっ、カイとミノリがきたんだ」
 カイは半分枯れ葉になったソメイヨシノをくいいるように見つめて返事をしなかった。ミノリがいった。
「うん、変なやつでごめんね」
 ヒロアキの返事は爽やかだった。
「だいじょうぶ。ほかの女子がくるより、ミノリとカイのほうがいい」
 ミノリはさっさとデッサンをすすめるヒロアキの手の速さに驚いていた。まだ始まって十分にもならないのに、全体のバランスを4Bの鉛筆で描き、細かな枝を加えていく。
「絵画教室の先生に習ったんだ。木を描くときは、こうするといいって」
 ヒロアキはあまりモデルの木を見ずにさらさらとサクラの枝ぶりの雰囲気だけ紙上に再現していく。うまいものだった。カイはヒロアキのほうを一切見なかった。一本の木に集中している。ヒロアキが鉛筆のデッサンを終えて、水彩絵の具の準備を始めたころ、ようやくすこしずつていねいに線を引き始めた。
 ミノリは自分の絵を描きながら、ふたりの男子の仕事を観察した。小学校の図工に仕事という言葉はふさわしくないかもしれない。けれど、ヒロアキの流れ作業のようなやりかたも、カイの息がつまるほど真剣なとり組みも、仕事というほうがぴったりときた。
 カイは長い前髪のあいだから鋭い視線を放って、もうすぐ裸になるソメイヨシノの命をつかもうとしていた。よく見て、すこし線を引く。またよく見て、さらに線を延ばす。それは不器用だが味わいのある線で、上手ではないけれど、つい目を奪われる不思議なごつごつとした力があった。
 それに対して、ヒロアキは誰よりも早く水彩絵の具を画用紙にのせていた。水彩の特徴を活かした淡いトーンで、全体をきれいな絵葉書のようにぼかしていく。色の対比や配置も鮮やかだ。絵にはほんとうにいろいろな描きかたがある。ヒロアキは上手で、大人が描いたみたいだった。カイは上手じゃない、でもこの絵には見る者の心をしーんと静かにさせる力がある。どちらがいいのか、ミノリにはわからなかった。そうしているうちに、自分の絵にとりかからなければ、間にあわなくなってくる。さあ、集中だ。
 ミノリはふたりの男の子にはかなわないが、なんとか一枚のサクラを仕あげた。

 教室にもどると、生徒は五十音順に名前を呼ばれた。
 自分の絵を胸にかかげ、先生や生徒から講評を受けるのだ。ふたりの男子のあいだで、絵ができあがっていくのを見ていたミノリには、ヒロアキとカイの絵がどんなふうに先生から評価されるのか、ひどく楽しみだった。
 先に黒板のまえに立ったのはカイだった。胸の高さにあげた画用紙は三分の一ほどしか、色が塗られていない。絵の具の乗りは厚く、なんとか実物と同じ色をだそうと苦労した跡がうかがえる。色のない木のデッサンは枝が奇妙にからみあい、魔女の首つりにでもつかわれそうな不気味な形だった。けれど確かにミノリとカイの位置からは、あのサクラはこんなふうに見えていた。あれはただきれいなだけの木ではなかった。
「うーん、ちょっとバランスが崩れているかな。まじめなのはわかるけど、時間の配分をちゃんと考えて色を塗りましょう。水彩絵の具はもとのままを混ぜるんじゃなくて、もっと水で溶いて透明な感じを活かすといい絵になりますよ。みんなはどう思うかしら」
 気もち悪い、なんだか怖い、悪魔の木みたい。みな不安になったせいか、からかうような声があがった。ヒロアキが手をあげていった。
「あの木には気もち悪いところもありました。ぼくは佐久真くんの絵、いいと思います」
 ミノリはヒロアキを見直した。ただの絵がうまいクラス委員ではないのだ。ヒロアキの番がまわってきた。ヒロアキの絵は白い画用紙の余白を活かし、そこに鉛筆でローマ字のサインまではいっていた。画面の中央にはバランスよく秋の日を浴びたソメイヨシノがおかれている。日があたっている側と翳った側の色づかいが見事だった。大人が描いたようだ。すごーい、うまい、カレンダーみたい。子どもたちは歓声をあげた。この絵なら安心してほめられる。クラスのみんながそう思っているのがわかる。
「さすがに高瀬くんは上手ねえ。水彩絵の具のつかいかたはお手本です。あと細かな葉の描きかたと色の配分をよく見てね。バランスがとてもうまくとれています」
 おーすげえと男子が叫び、別な男子がいやーん結婚してと声をあげた。笑い声が湧きおこる。ミノリはいっしょに笑いながら考えていた。この絵のきれいさは、あのサクラのきれいさとは別なものだ。絵としてはとてもきれいで上手だけれど、あの木とはなんの関係もない。すくなくともミノリにはカイの絵のほうが、秋の終わりのソメイヨシノの淋しい命に迫っているような気がした。
 ミノリはカイの顔をそっとうかがった。
 かすかに頬が赤いようだ。唇は一文字に結ばれている。カイはいつもの穏やかな表情ではなかった。

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