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鳥たち
よしもとばなな

 秋の光が並木道のささやかな木立を抜けて舗道を照らしていた。
 大学通りから駅前のにぎやかな本通りまで、アメリカ松の並木は続く。
 この町の町長がどうしてもこの木を植えたいと私財で寄付したという話は有名で、このそんなに高くはない木ばかりだが豊かな並木道は町のシンボルになっている。
 濃い緑の葉が深い茶色の幹によく合っている。
 少し気温が低くからっとしていて、夏の最高気温もさほどではない、日本にしては比較的乾燥したこの土地では、このような松もなんとか育つ。
 その松の実からは貴重なオイルが採れることを、昔アリゾナに住んでいたことがある私は知っている。その気絶しそうなくらいいい香りもねっとりとした質感もみんな覚えている。
 セドナのいろいろなお店で、そのオイルから作られたクリームは売っていた。傷にも肌の手入れにも水仕事や紫外線で荒れた手や唇にも、とにかくなんにでも私たちは好んで塗っていたし、実際にすごく効く、松のいい香りがするクリームだった。
 この話を誰かとしたい、あの懐かしい香りの話も。
 そして、その相手は嵯峨しかいない。そう思う。ぱちぱちと火がはぜる熱い暖炉の前で昔みたいにえんえん話したい。
 あの頃のことの中でも、この世で私たちだけが抱いている、よかったことだけを。
 あと、町中の人に、ほんとうはこの並木道は宝の山なんですよ、と言いたい。
 ここで採れた松の実からこつこつとオイルを取り出して、クリームを作って、嵯峨といっしょに町から町へと売り歩いて、ただそれだけで生きていけたらいいのに。
 そんなふうに思う。
 こんな空のきれいな秋の日には、松の匂いと透明な光がその夢を可能にするような気さえする。
 私たちの親たちは彼らの血をこの木の生えていた大地に全て捧げた。だからこの木に対する私たちの思いは特別だ。その魔法は今も私と嵯峨を不思議と温かく包んでいる。
 この美しい並木道がある町に住むことを、私たちは気に入っていた。
 ひんやりした空気に包まれた木々のトンネルを抜けたら、肺の中の空気が少し冷たくなった。温かい紅茶を飲んで、もっと空想しよう、そんなことを。今日を生きていくために力をくれる空想を。
 みんなは私のことを考えすぎるとか気難しいとか言うけれど、そんなことはない。ほんとうはみんながこうやって少しずつ魂を充電しながら生きていくのがいいと思う。
 それが私をどういう原理で動かしているか、いつでもきちんと説明できるから。

 私の空想の中の嵯峨はいつも、ほんものの嵯峨みたいにむつかしくない。
 ほんものの嵯峨みたいにかんしゃくを起こして壁を蹴破ったり、大きなけんかをしたからと言って一ケ月もむっつりしたりしない。油っこいものを食べるとすぐ下痢したりもしないし、靴下も臭くないし、ひげも生えてこない。
 言い換えれば、ほんものの嵯峨はいつも予想外に生々しくて会うたびにびっくりする。
 私の頭の中の嵯峨は基本的には幼いときのつるりとした姿のままだ。
 私の弟がわりだった嵯峨。笑顔がかわいい、世界でいちばん愛おしい男の子。大人になったら嵯峨を産むと言って、大人たちを笑わせた私だった。
 でも、不思議なことにほんもののむつかしい嵯峨の中には、空想の中の嵯峨のいちばん濃いエッセンスがちゃんと含まれている。なにに関しても果てしなく鷹揚だった幼い頃の彼の姿を、私は彼の瞳をのぞき込むときいつも見つけることができる。

「ねえ、あの人、またつけてきてるよ。」
 美紗子が私の袖を引っ張って言った。
 この女子大で私と美紗子が属しているのは、作家活動をしていて世間的にも有名な少しボヘミアン風の末長という教授が持っているアメリカ文学と詩のゼミだった。
 私はそのゼミでの勉強が好きだったので、好きなものが共通している友だちらしきものも何人か作ることができた。
 毎年教授が脚本を書いた演劇を末長ゼミの学生が演じて発表するのが学園祭の名物なのだが、私はそれに去年と今年、二回も主役で出ることになった。
 それに関してはなにも恥じるところがない。
 自分に演じる才能が少しだけ多くあることは、なんとなくわかっていた。役が自分の中に入ってきて私の人格を脇にのける、その瞬間を知っていたからだ。
 私はセドナにいるときにも、知り合いが教会でやっていたお芝居の主役を数回したことがあった。今思うと英語だというだけで冷や汗が出る思いだけれど、そのときは子どもだったから度胸があり、なんとも思わずに堂々とやった。天才子役と呼ばれて鼻高々だった時代もある。私は鼻も丸くさほどの美人ではないが、そこそこ背が高くてスタイルがいいし、フォトジェニックなのだと舞台監督によく言われた。
 人を大きいくくりで分けたとしたら、ケイト・モスとかヴァネッサ・パラディ系だと自分では思っているのだが、嵯峨はそれを言うと腹を抱えて大笑いするし、未だにジョニー・デップにも出会わないから、悔しいけれど自称にすぎないのだろう。
 主役を二回なんて、と女子大なのでさんざんねたまれもしたが、何人かファンみたいな人たちもできた。手紙やお菓子をもらったり、学外の人なのにこっそり練習を観に来てくれたり。
 私は末長教授のお友だちが主宰している、同じく彼が脚本を書いている東京の小劇団の舞台で一度演技をしてみないか、と誘われている。去年の舞台を観て、そのお友だちが私に演じてほしい役があると言ってくれたそうだ。
 そんな私を外から見たら、きっと才能を活かし将来への希望に燃える普通の女子大生に見えるだろう、そのことがとても不思議だったし、嬉しかった。
 舞台に立ったことが、なにごともおざなりで嵯峨のことばかり心配している私を、日本に帰ってきたもののなじまなくてほとんど引きこもりだった私を、少しだけ外向きにしてくれたから。
 アリゾナのセドナに住んでいたことが末長教授と私の縁をつないでくれたことを思うと、あの乾燥した空気や、透けていきそうな青空や、きれいに焼けたチョコレートケーキみたいに連なる山々にも燃えるような感謝を覚えずにはいられない。

 その午後は美紗子と学祭の下準備のミーティングに出た。
 その後台本のコピーを人数分まとめてとってとじたりしていて帰りがいっしょになった。今回の台本は末長教授が監修して出版した詩の本を下敷きにしていたから、ストーリー性はあまりない。
 ほとんど私と美紗子だけが登場人物の朗読劇みたいなものだった。
 出演者も後はたった数人。
 ゼミの残りの人たちの中に美術学科から転部してきた人がいるせいで、他の人は登場人物が少ない分舞台美術にかかりきりで、ものすごく凝ったセットを毎日校舎の裏で作っていた。それをのぞきに行くのもこのところの日々の楽しみだった。
「大丈夫、つけてきてるんじゃない。あの人は守ってくれているつもりみたいだから。」
 私は言った。
「まこちゃんのそういうところ、わからない。いつもこんなふうに男にこっそりと、でも露骨につけられて平気でいられるなんて。だって、そんなに親しいなら、声をかけてくれればいい。並んで歩いたらいいじゃないの。私だって全然普通に挨拶したり話したりするのに。でもまこちゃんは優しいんだと思う。あんなふうに内気な彼を、そのままにしておいてあげているところが。普通、彼女ならもっと彼の性格をいじるよ。」
 美紗子は言った。
「それにあの人、ほんとうに彼氏? 単なる幼なじみなの? だれかにそう聞いたけど。」
 学校帰りの並木道で、私がだれかといるかぎり嵯峨は声をかけてこない。
 新しい人と話すのが面倒なんだと言う。だから、私がひとりになるまで少し離れて後ろをついてくる。
 私はそんなとき、嵯峨のためにいっしょにいるだれかをふりきることがどうしてもできない。たまに顔見知りの男の人や目上の人と歩いていて嵯峨を見ない時間が長かったりすると、とても胸が痛む。
 息ができないくらいに痛むのに、どうしてもふりきれない。
 そんな気持ちになることがあるのを、だれからも教わっていないし、嵯峨だけに集中したらもう可能性が全く閉ざされてしまうような、そんな絶望的な気持ちになる。
 嵯峨は仕事を終えてかけつけてきたのだろうから、早くねぎらいの言葉をかけてあげたいと思う。でも、ただ遠くに彼の姿を認めながら歩いていくしかできなかった。
「まこちゃんって、天使のような見た目なだけじゃなくて、天使なんだよ、きっと。そのきれいな天然パーマ、少女マンガの主人公みたいだもの。そしてあの人はまこちゃんにとても憧れているんだね。ストーカーのようでないことは、彼がいつもせっぱつまった表情なのになぜかよくわかる。ただ、あれだけ存在が濃い人とおつきあいするのはちょっとむつかしそうだよね。だって、彼の見た目、とても変わっている。けっこうハンサムだけど、発散してるものが濃厚すぎる。」
 美紗子は言った。
 私の顔色を見ながら、傷つけないように言葉を選び、いろいろな状況に対応できる表現を選ぶ。そんなデリカシーのあるところが、最近親しくなりつつある美紗子の好きなところだった。
 だれかと親しくなると、だんだんもやみたいなものが生じてくる。そのもやが私の考えや行動を少しだけしばるように思う。だから私は人づきあいにはかなり慎重だった。
「私は天使なんかじゃないよ。この天パーも朝は大爆発で、よく髪の毛を濡らしたまま学校に来るくらいだもん。かっこわるいったらない。
 それに、嵯峨はきょうだいみたいなものだから。それでもね、血がつながってないのを幸いに、私は彼といつか結婚するつもりでいる。素直に言うと。今はね、彼の赤ちゃんができて、できちゃった結婚を彼が納得してくれるのをこっそり願ってるところ。最近いちばん関心があるのはそこなの。そのくらい、彼を愛してる。」
 私は言った。
 十月に入ったばかりというのに、雪が降りそうなくらい空気が冷たく、空はしっとりと曇っていた。何層もの色違いのグレーがグラデーションになってカーテンみたいに空を覆っている。
「つまりあなたは彼と婚約してるっていうことなの?」
 美紗子は言った。私はまだ空を見ていた。
「いつか、ゆっくり話すね。単にそういうことだけじゃないの。少しは話したけれど、私たち、とにかく複雑な環境で子ども時代を過ごしていて、お互いしかいないときがあったから、切っても切れない関係なの。
 そして悲しいけどお互いにきっとできれば忘れたいようなことを土台にいっしょにいるの。それでね、日本に来てから私はうまく嵯峨に接することができなくて、嵯峨は私をあんなふうに変な気配で守るような感じにふるまうしかできなくなっちゃったの。」

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