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岳飛伝 十三 蒼波の章
北方謙三

   青湖の風

      一

 西への旅に、牛直はすっかり馴れた。
 そこの物品を買い、中華の物を売る。西の物品は旅で購い、中華の物品は轟交賈に註文を入れる。楡柳館から西への、交易隊の差配が、牛直の仕事だった。
 西の、さらに西へ行けば、海があるという。それは中華を東へ横断してぶつかる海より、遥かに近いようだった。交易隊という仕事がなければ、とうに行っているだろう。
 その海のむこうに、なにがあるのか、いやでも考える。東の海を見てもそう思うが、日本などの大きな島があることは、すでにわかっていた。
 この大地は、どんなふうになっているのか。それをきわめた者はいるのか。
 西では、金色の髪も碧眼も、めずらしくなかった。楡柳館にも、時折、そういう商人がやってくる。
「ただいま帰りました、牛直殿」
 書類に署名をしている時、部屋の入口に韓順が現われて言った。
 しばらく、土里緒の集落に行っていたのだ。
 韓成は、息子がひとりでこちらにやってくるようになってから、あまり父と子の時を作らない、と決めていると言った。理由は言わなかったが、冷たくあしらっているのではないことは、見ていてわかった。できるだけ多くのことを、体験させようとしているのだ。
 虎思斡耳朶(フスオルド)からこちらへ来ても、西部方面総監の営舎にいるのは一日だけで、すぐに楡柳館へやってくるのだった。
 土里緒の集落にかぎらず、楡柳館からいろいろなところへ出かけていく。
 韓順を見るたびに、自分が武松に拾われたころのことを、牛直は思い出す。
「毛皮は脱げ、韓順」
 到着してすぐに、報告に来たのだろう。毛皮を二枚、着こんでいる。
 冬になっていた。山なみの雪は、いつもの年と変らず、轟交賈の輸送隊も、しばしば難渋するようだった。
 山の雪ほどこちらはひどくないが、それでも膝が没するほどはある。
「土里緒殿は、お変りないか?」
「はい。白髪が増えたと嘆いておられますが、それは父も同じです」
 楡柳館の建物には、石炭を燃やす炉がいくつか作られていて、煙は床下を通って屋根へ出る。だからいつも、暖かかった。
 以前は薪を燃やしていたが、それほど遠くないところに、石炭の鉱脈が見つかったのだ。石炭を買うことで、鉱山の周辺の集落は、豊かになっている。ここで燃やすのは、ほんの一部だった。あとは骸炭(コークス)にして、湖の北側に船で運んでいる。
「金国の情勢を気にされていて、虎思斡耳朶に、しばしば人をやっておられます。私も、虎思斡耳朶に戻ったら、わかったことはすべて飛脚で知らせろ、と言われました」
「金国は、俺も気になる。ここでわかったことは、土里緒殿に知らせよう」
 帝が、海陵王になっている。先帝の崩御は、それほど大々的には告知されなかった。都も、会寧府から燕京(北京)に移っている。
「西から運んできた品物が、倉にある。明日、見に行こうか。今日、お父上に顔を見せてやれ」
「はい、そうします」
 自分に最初に挨拶に来たのは、韓成にそう言われているからだろう。供もつけず、ひとり旅をさせる。しかも、雪である。
「二日前に、お父上に会った。きわめてお元気であった」
「父は、あれで憎らしいほど強いのだ、と土里緒殿はいつも言っておられます」
「憎らしいほどか」
 牛直が笑うと、韓順も微笑んだ。
「馬は、大丈夫なのか?」
「はい。望天は私の友で、雪の中を進むことも知っています。危険なところでは、必ず停まるのですから」
 望天というのが、馬の名前だということは、聞いていた。それが、父親のあだ名だということも、この間、知った。
 友と言われても、牛直には、ただいい馬としか見えなかった。
「中華の物品も、見たいと言っていたな」
「見たいと思います、ぜひ」
「まあ、西の物の方が、目新しいだろう。はじめに、それを見てからだ」
 虎思斡耳朶の宮殿は、質素だが、それなりの品物は置いてあり、韓順はそれを見て育っている。それは、大きなことだった。
 どういうものが、儲かるのか。それを牛直に教えてくれたのは、盛栄だった。なぜ価値があり、人が欲しがるのかは、上青が教えてくれた。
 韓順が一礼して去っていくと、牛直はすぐには書類に戻らず、上青のことを思い浮かべた。昔は肥っていて、堂々とした体躯だったような気がするが、思い浮かぶのは痩せてしまってからの上青だった。
 病が篤くなった上青に、牛直は寝台のそばに立って、毎月、報告をした。この楡柳館の主は、長い間、上青だった。つまり、牛直にとっては、隊長だったのだ。
 死が近くなったころ、上青はいつも眠っている、というようにしか牛直には思えなかった。なんの反応がなくても、牛直は報告を続けた。
 あの報告を、上青はすべて聞いていたのだ。
 上青の死に際を思い出すと、涙が出てくる。
 牛直は、ようやく書類に眼を戻した。
 王貴を頂点にした、梁山泊交易隊が、轟交賈に替ったというだけで、楡柳館の仕事の質はそれほど変っていない。ただ、規模は大きくなった。さらに牛直自身が、西へ出かけるようになった。
 それまでは、碧眼の商人が、楡柳館に物を売りに来たりしていたのだ。
 旅をしてわかることだが、平和なところはどこにもない。一見、なに事も起きていなくても、裏には憎悪や反目や利害の対立が、底流のようにしてある。富んでいる国もあれば、貧しい国もある。
 果ての果てまでは、まだ行っていない、という気持がある。
 いま、韓順に頼まれているのが、西の旅へ同行させてくれ、ということだった。
 自分が望んだ旅ができて、さまざまな体験もできる。そういう星のもとに生まれてきた人間もいるのだと、韓順を見ているとしみじみ思った。牛直は、盛栄と旅ばかりしていたが、そこには必ず物品が伴っていた。
 行きたいと思っても、商いに関係がなければ、行くことはできなかった。
 だから、商いとは関係なく、韓順にはさまざまなものを見せたいと思う。そうやって見たことが、多分、国を造ったり変えたりする力になる。
 韓順に対して、羨ましいという思いはあったが、自分がなし得なかったことをやるだろう、という期待もあった。
 蕭R材という男がいる。商いを、商い以外のなにかにしている、という思いがあった。商いは生き方だと、蕭R材は自らなすことで、示しているのかもしれない。
 韓順は、蕭R材のもとへも、必ず行くことになるだろう。そして、蕭R材を超えるなにかを、身につけるかもしれないのだ。
 いまのところ、牛直は、蕭R材や、そのやり方を全面的に認めている梁山泊聚義庁に、どうしようもない気後れのようなものを感じている。蕭R材を超えるためなら、なんでもしてやろうという気持が、牛直にはあった。
 疲れているのかもしれない。人生で得たものを抱き、新しいものも、得続けていく。そのことに、いささか倦みはじめていると、牛直は、時々感じることがあった。
 軍人は、こんな時に、戦をやりたいと考えるのかもしれない、とふと思うこともあった。
 夕刻前に書類の仕事を切りあげ、牛直は毛皮の套衣を着て馬に乗った。
 楡柳館の北側の斜面には、小さいが街並みができている。商賈や食堂や宿屋などがあり、普通の家もある。
 その中の一軒が、牛直の家でもあった。
 庭に馬を入れて繋ぎ、家へ入った。
 肉を煮るいい匂いが、家の中に漂っている。
 張麗が、毛皮を受けとった。漢の名だが、それは牛直がつけたものだった。
 肌が白く、髪も眉も睫も陰毛も、すべて砂金の色をしていた。
「店は、もう閉められていた」
「今日は、品物を入れ替える日。朝からやっていて、さっき終ったところよ。だから、食事は、きのう作った煮こみ。それで我慢してね、牛直」
 瞳も、碧い。こういう人種は、船で何日か湖を北へ進んだところにある国に多い。
 張麗はここへ住みはじめて三年になるので、普段必要な漢語は、大抵話せた。
 湖のむこうの国から、父親と一緒にやってきて、壺や皿を売る店をはじめた。半年も経たないころ、父親が湖で溺れて死んだ。
「倉庫がまだ片づいていなくて、いまみんなでやっています」
「そうだったのか」
 店には、若い男が二人いる。家には下女がひとりだが、やはり倉庫を手伝っているのだろう。
 そういう時、張麗に食事の仕度などをさせることに、牛直はちょっと暗い喜びを感じる。この女は、俺だけのものだ、と思えるのだ。
 張麗が、鍋の中を掻き回している。
「酒をくれ」
 張麗が頷き、酒の瓶と器を持ってきた。それから、水の壺も運んでくる。
 梁山泊の一部が、南の土地へ行っている。そこでは甘蔗糖が作られていて、樽詰めのものが楡柳館もよく通過していく。甘蔗を搾った滓を腐らせて作った酒があり、甕に寝かせて二年ばかり置くと、色がついてきて、味はやわらかくなる。それも、西で人気がある。
 中華ではあまり見ない、強烈な酒だった。ふだん、牛直は水で割って飲んでいる。
 炙った牛棒が出てきた。
 水牛という動物の皮で、細く切ると棒になるほど厚い。水牛の角なども、交易品として運ばれてくるので、どういう動物かはおよそ見当がついた。
 水牛の皮そのものは、硬くて食えない。それを食えるようにするために、棒状に切って水に漬け、三日ほど置いてから、はらわたで作った袋に入れて寝かせる。やはり、少し腐らせるのかもしれない。そして陽に干すと、こんなふうになり、炙れば食えるようになるのだ。
 硬さは残っているが、一刻(三十分)ほど口に入れていると、やわらかくなり、噛める。
 牛や羊の皮で作ってみようと思ったが、薄すぎて駄目だった。水牛は、よほど分厚い皮を持っているのだろう。
 牛直は、酒を水で割って口に運んだ。
 張麗が売っているのは、湖のむこうの国で焼かれた、模様の美しい陶器だった。買うのは、中華から来た商人が多い。同じものを荷車一台分、という感じで買っていく。
 新しい陶器は、船で次々に運ばれてきた。国の中で、戦が起きては終熄するというのを、ここ何年もくり返しているので、焼いてもあまり売れないらしい。
 張麗の父娘も、戦塵を避けて湖を渡ってきたのだった。
 商いはうまくいっていて、牛直の力などなにも必要なかった。特別に庇護を与えるという気も、牛直にはない。
 不思議な結びつきだった。
 牛直が来る日、張麗は食事を作る。それを、二人でゆっくりと食う。それから、しばらく酒を飲む。
 張麗の眼が、熱を帯びたようになると、寝室へ行く。交合は最後で、長い時をかけて、牛直は張麗をいたぶるのである。
 死なせないし、できるかぎり傷痕も残さない。そういういたぶり方だが、痛みが張麗に快感を与える。
 牛直は、ただ自制の中にいる。責めている快感にとらわれると、殺すところまでやりかねないのだ。だから、自制と、殺してしまうかもしれない、という恐怖がないまぜになっていた。
 四肢を拘束する道具を、牛直は自分で作った。ほとんどが牛の革で、鎖でどんなふうにも繋げるようにした。肌を刺す針、全身を締めあげる縄。
 張麗は、いつも静止している。声ひとつあげない。時々、顔に朱がさす。やがて白い肌がすべて色づいてくる。それでも、張麗は静止したままで、声をあげない。痛みと同時に、動かないということが、張麗の快感になる。全身に朱がさした時は、息遣いさえも聞えなかった。
 最後に、お互いに身を絡め合い、のたうたせる交合だった。その時は、張麗は叫び声をあげる。牛直に馬乗りになって、顔を打つこともある。汗にまみれて、うめきながら牛直が果てるのを、張麗は眼を見開いて凝視している。
 はじめに会ったのは、馬で街の中を見て回っていた時だった。店を開いたばかりのころで、張麗は道端に立っていた。眼が合った。それだけで、惹かれ合った。
 二度目は、店へ行った。気づいた時は、寝台の上にいた。
 中華では、いつまた戦が起きるかわからない。自分がなにをなすべきかはわかっているが、月のうち二日か三日は、それも忘れてしまっていた。
 張麗が、銅の鍋を運んできた。
 羊の肉の煮こみで、野菜もたっぷり入っている。
 きのう作ったと言ったが、煮こみは作りたてより、ひと晩置いた方がうまい、と牛直は思っていた。
「今夜あたり、雪がひどくなるよ、牛直」
「湖の北じゃ、もっとすごい雪か」
「だから、みんなほっとする」
 雪で、戦もできなくなる、ということだろう。
 張麗の死んだ夫は、軍人ではなかったが、戦で死んだのだという。それ以上のことは、よくわからなかった。いまなら、詳しく説明できるぐらいに漢語が遣えるが、牛直には訊く気がなかった。
 牛直も、自分のことはあまり喋っていない。ほとんど言葉を必要としない男女なのだ、と時々思う。
 張麗が、むき合って座って酒を飲みはじめた。甘蔗の搾り滓から作ったこの酒を、張麗は気に入っていた。牛直のように水で割らず、生のまま飲む。酔うのだろうが、顔色が変ったことはない。
 肌の白さは、きれいだと言うより、薄気味悪いほどだった。すぐに傷がつきそうな気がするが、意外に強靭でもあった。
 牛棒を一本食ってから、牛直は煮こみにかかった。小麦の粉を水で練り、しばらく寝かせてから、焼いたものがある。かたちは饅頭に似ているが、ずいぶんとぱさぱさしたものだった。通りで、焼いて売っているところが、いくらでもある。
 それは、煮こみの汁を、よく吸った。
「牛直、西遼という国を知っている?」
「ああ」
「いい国だね。あそこの商人が、一番、間違いがない」
「そうなのか」
「値切らないし、誤魔化さないね」
 誤魔化さないのは当たり前でも、中華の商人は、すべて値切ろうとする。
「うまいな。一度、饅頭を焼いてみろ、脂で」
 煮こみを口に入れ、牛直は言った。饅頭にも、汁をしみこませて口に入れた。
 焼き饅頭というのは、饅頭を脂で焼いたものだと、武松から聞かされたことがある。牛直は中華の旅をずいぶんしたし、梁山泊聚義庁へも、何度か行っている。
 しかし、焼き饅頭を口にしたことは、一度もなかった。
 それを作っていたのは、塔不煙とか執政とか呼ばれているが、西遼先帝の后である顧大嫂だけだったという。
「牛直が働いているところは、西遼よりももっと東にある、梁山泊という国と、取引はあるの?」
「あるのだろうな、多分」
「あたしは、あの国も好きだよ。金国は嫌いだし、西夏もいやな国だと思っている」
 煮こみの中にある羊の肉は、すっかりやわらかくなっていた。牛棒もいいが、煮こんだ肉もうまいのだと、出会ったばかりのころ、張麗はそう言って鍋を牛直の前に置いた。
 牛棒が、中華よりずっと南の地域で作られたものだと、牛直は教える気にならなかった。ここにはここの、うまいものがある。
「一度、中華へ連れていってやろうか、張麗。梁山泊は無理だが」
「それでは、金国だね。あたしは、西遼と商いをする方がいいよ、牛直」
 牛直は、飲み干した器に酒を注ぎ、水で割った。
 これからは、どこでもない、二人だけの国へ行く。寝室の中という、わずかな広さしかないが、心の中では果てしなく拡がっている国だった。

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