書籍試し読み
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アポロンの嘲笑
岩城けい

   一 脱走

     1

「まったく、何だってこんな間の悪い時に……」
 普段の半分ほどしか人のいない刑事部屋で仁科忠臣は一人愚痴った。
 福島県警石川警察署刑事課に〈管内に殺人事件発生〉の報が飛び込んできたのは三月十六日午後十一時四十五分のことだった。現場は石川郡平田村、殺害されたのは世帯主金城和明の長男純一、三十歳。近隣住民の報せを聞いて駆けつけた平田駐在所の巡査によって、既に被疑者は確保されているという。
 本来ならば刑事課から何人かを派遣して被疑者を引っ張ってくる手筈なのだが、ここ数日の署内は異常事態であり、日常業務どころか人員の確保すら困難な状況だった。中には未だ連絡の取れない署員もおり、相次ぐ出動要請と相俟ってまるで野戦病院のような混乱が続いていたのだ。
 その端緒は五日前に遡る。
 平成二十三年三月十一日午後二時四十六分。
 この時、宮城県牡鹿半島東南東沖百三十キロ、深さ二十四キロ地点を震源とするマグニチュード9・〇の地震が東日本一帯を直撃した。かつて経験したことのない激しい横揺れ、そして地の底から突き上げてくるような縦揺れ。
 庁舎内にいた仁科は咄嗟に机の下に潜ったが揺れは一向に収まらず、そのうちに机上の備品が落ちスチール棚が倒れてきた。やがて揺れは収まったものの、部屋の散乱具合と壁に走った罅割れで、これが尋常ならざる天災であることは容易に見当がついた。
 一時間後、テレビモニターに映し出された東北各地の中継を見た署員一同は言葉を失った。倒壊した建物、陥没した道路、崩壊した山の斜面。それぞれに衝撃的な映像だったが、続く映像の前ではものの数ではなかった。
 突如として盛り上がる海面。
 港町一帯が津波に呑み込まれ、家が、道が、人が姿を消す。怒濤としか表現できない流れが全てのものを押し潰し、汚し、奪って行った。
 あまりに非現実的な光景に、仁科たちは呆けたように口を開けているしかなかった。ついさっきまで浸っていた日常は意識の彼方に吹き飛び、警察官たちは自分たちが護るべき市民の生命と財産がこうも呆気なく消滅したことに茫然自失となった。沿岸部の町に実家がある女性署員はその場にへたり込んでしまった。
 だが、その直後に更なる驚愕が控えていた。沿岸部を襲った高さ十五メートルの津波は大熊町と双葉町にあった福島第一原子力発電所も直撃し、地震と浸水によって電源を失ったシステムは核燃料プールに送水できなくなり、核燃料の溶解(メルトダウン)が始まったのだ。
 一号機から四号機までの非常用炉心冷却装置が続けざまに作動不能となり、翌十二日には一号機が水素爆発、十四日には三号機が、十五日には四号機が爆発し一号機から三号機までの燃料棒が露出した。露出した燃料棒は自らの熱で溶け出し、放射性物質を撒き散らしていく。事故の発生した十一日、首相は半径三キロ以内の住民に避難指示を出したが、翌日夜には範囲を二十キロに拡大させた。
 こうした未曽有の災害時に警察が安穏としていられる訳もなく、石川署の署員は二十四時間態勢で被災地域への出動を余儀なくされた。停電が復旧しない中、信号機の代行をするだけでもかなりの人員が必要だった。救助活動のみならず各重要施設の警戒任務もある。かくして庁舎内からはいきなり人影が消え、混乱状況が五日も続いている。殺人事件発生の報が飛び込んできたのはちょうどそういう時だった。
 現場に派遣できる刑事は現状城田しかいない。だが城田一人を遣る訳にもいかない。駐在からの報告には未詳の部分が多く、そうでなくとも被疑者の移送に運転手のみを派遣するなど非常時でも許されることではない。
 刑事部屋では小室刑事課長が各地に指示を飛ばしている。二年前に課長に昇進した男だが、捜査畑を歩き続けて現場にも目が利く一方、事務処理能力にも長けているので上からも下からも信頼が厚い。更に仕事が増えてもまだ許容範囲だろう。
 事情を説明すると小室は一瞬だけ天井を仰いだ。この非常事態にベテラン一人を現場に派遣することのデメリットを計算している様子だが、結論はすぐに出た。
「悪いが同行してやってくれ。仁科係長」
 振り向いた顔に、普段は見せることのない疲労の色があった。
「被疑者の移送要員なんて係長には役不足もいいところだ。それにあんた自身も……」
 そこまで言われては返す言葉もない。相変わらず人使いの上手い上司だと舌を巻きながら、仁科は城田を連れて部屋を出た。
 石川町から現場の平田村までは直線距離で十キロ程度、通常なら十分もあれば到着するのだが地震発生からこの方、事情はずいぶんと様変わりしている。幹線道路は至る場所で陥没や土砂崩れによって寸断され、迂回路を行く必要があった。
 ヘッドライトは解けきらない雪溜まりと斜めに傾いだ電柱を浮かび上がらせる。ここが真っ当な姿を取り戻すのはいつになるのか。それを考えると寒さが胸奥まで押し寄せてくる。すると自然に思考は沿岸部の悲惨な光景に移ろうとし、寸前で仁科は頭から振り払う。
 街灯のまばらな迂回路は幅員が狭く、それでなくとも度重なる余震を警戒して警察車両といえども徐行を余儀なくされる。そして平田村に向かうまでの間、何度も対向車と擦れ違ったが、この時間帯には有り得ないほど多い数だった。
「これ、みんな避難組なんですかね」
 運転席の城田がぼそりと呟いた。
「そうだろうな。日を追う毎に政府の指示する避難区域が拡がっている。身軽な人間は逃げ出して当然だ」
 誰しもが土地に愛着を持っている。故郷には父母や友人との絆もある。しかし幼い子供を持つ者なら、迫りくる放射能が怖くないはずがない。仁科も彼らを責める気には到底なれない。
「あの、係長……ご家族はご無事だったんですか」
 遠慮がちに城田が訊いてきた。考えてみればそれを訊かれたのは小室に続いてまだ二人目だ。犠牲者の中に同僚の家族が含まれている可能性は決して小さくなく、誰も彼もその話題を口にするのを避けている。
「女房は官舎にいて難を逃れたが子供は女川町の実家へ遊びに行っていた」
 ひと息吐いてから仁科は口を開いた。今はまだそういう準備が必要だった。
 町名を聞いた途端、城田の表情が後悔の色に染まる。宮城県女川町は今回の津波で最も被害が甚大だった地域の一つだ。
「まだ、行方が分からん」
 実家のあった辺りは全て更地のような有様だった。津波発生の直後、仁科は女房を伴って女川町まで息子を捜しに行ったが、見渡す限りの瓦礫が拡がるばかりで実家は基礎部分からなくなっていた。屋外に出ていた者たちは例外なく波に呑まれただろう。二人で懸命に息子を捜したが手掛かり一つ得られず、そのうち危険地域だからと立ち入りを制限され、後ろ髪を引かれる思いで帰ってきた。震災から五日が経過した。生存は絶望的であり捜しているのは息子の遺体に他ならない。だが遺体であろうが、そこが危険地域であろうが、もう一度捜しに行きたい。警察官などという仕事にさえ就いていなかったら、今すぐ何もかも放り出して駆けつけたい。
 だが、仁科は敢えて息子のことを意識の外に置こうと努めた。
「お前は?」
「俺の実家、喜多方市の方なんでまだ被害が少なくて済んだんですけど……」
 ですけど、の後に消えた言葉の続きはおそらくひどく苦い。仁科のみならず署員で家族が災禍に見舞われた者は少なくない。しかしその職業柄、家族の捜索や弔いのために休暇を願い出る者は少なく、不眠不休に近い状態で任務に没頭している。そうでもしていなければ自分が絶望と喪失感で半狂乱になることを知っているからだろう。仁科自身、ともすれば仕事中に息子の顔が浮かび、じっとしていられなくなる。決壊寸前の激情を押し留めているのは警察官としての使命感でしかない。そして、周囲の人間はそれを我がことのように察している。すると妙なもので、家族が無事な者が却って罪悪感を抱くようになった。
 警察官、消防隊員、自衛官、役所職員──公僕と称される職業人の矜持が今回ほど試されたことはない。公と私、仕事と家庭。その二つで八つ裂きになりながらも彼らは己の戦場に踏みとどまっている。
 全く東北人というのは、どうしてこう揃いも揃って強情っ張りなのだろう。
〈非常時だからといって己の日常業務を放棄していいはずがありません。いや、非常時だからこそ日常業務を継続する意義がある。こうした積み重ねが、いま被災民の願う日常生活に回帰する最初の一歩なんです〉
 テレビで家族を亡くした消防署員が嗚咽を堪えながらインタビューに答えていたが、それを思い出す度に胸が張り裂けそうになる。
 やがて二人を乗せたパトカーは金城宅に到着した。家の前には既に鑑識の車両が横付けになっている。当然のことながら玄関先は真っ暗だが、非常灯でも灯しているのか家の中から仄かな明かりが洩れている。
 家の中に入るとやはりランタンが置いてあり、見知った鑑識課員の田所と廊下で鉢合わせになった。
「おや。係長直々のお出ましですか」
「現状、どこも人手不足でしょう」
「……そうですな」
 それだけのやり取りで鑑識課の状況も透けて見える。懐中電灯に照らされた田所の口元は無精髭がそのままだ。
「鑑識作業は継続中ですが、被疑者の着衣については終わっていますので」
 田所に先導される形で奥の方に進むと、そこに人だかりがあった。鑑識の持参した四本のライトで部屋の四隅が照らし出されている。駐在と思しき制服警官を除けば、中には男が二人と女性が二人、そして床に突っ伏している死体が一つ。警官が手錠を掛けている二十代前半、作業着姿の青年が被疑者なのだろう。
「平田駐在所の友井巡査です」
「隣家からの通報で駆けつけたんだって?」
「はい。通報は午後十一時三十分。隣宅の住民が、何か言い争うような大きな声がすると連絡を寄越しました。本官が現場に急行したところ、この男、加瀬邦彦が長男純一さんに覆い被さっており、その純一さんは既に絶命しておりました。そこで被疑者として確保しました」
 友井巡査から簡単に家族を紹介されて、主人の和明から話を訊くと詳細はこうだ。
 金城一家は和明と宏美夫婦、そして長男純一と長女裕未の四人家族で、十六年前に神戸からこの地に越して来た。和明と純一は長らく福島第一原発の従業員として働いていたのだが、そこで知り合ったのが後に来た加瀬邦彦だ。
 金城一家は何故か加瀬邦彦を甚く気に入り、邦彦が金城宅で夕食を共にすることは半ば日常となった。家族ぐるみの付き合いを続けるうちに邦彦と裕未が親しくなったのは自然な流れともいえた。
 そして今晩、邦彦は裕未と結婚させてくれと正式に申し出た。ところがこれに純一が激しく異を唱えた。諸手を挙げて賛成してくれるとばかり思っていた邦彦は逆上し、純一と掴み合いになった。和明と裕未が止めに入ったが喧嘩は収まらず、そのうち純一が台所にあった包丁を手にした。
「本官が報せを受けたのは、ちょうどその時のようでした。本官宅と金城さん宅はごく近所でして」
 成る程。金城宅から駐在所への通報が十一時三十分、駐在から石川署への通報が同四十五分。その差が十五分しかないのはそういう理由か。
「現場に到着した時には既に絶命していた、と。しかし万が一蘇生する可能性もある。石川署以外に、救急にも通報はしなかったのかね」
「通報はしましたが……」
 そう言って友井巡査は口籠る。
「したがどうした?」
「近隣の病院はどこも満杯状態でその……死体を安置する場所にも事欠いていると」
 その場の空気に別の重みが加わる。
 収容限度をとうに超えた病院。
 通常の手続きが機能しなくなった病院。
 つまり絶命したのが分かっているのなら、わざわざ救急隊を呼ぶなという理屈だ。平時ではとても通用するものではないが、現状では頷かざるを得ない。今は戦時中なのだ。少なくとも東北の医療機関にとっては。
「凶器となった包丁からは被疑者と被害者両方の指紋が検出されました。双方が凶器を取り合ったという証言を裏づけています」
 田所の説明を聞きながら、はや仁科は邦彦の罪状について考えていた。過失致死傷罪かそれとも正当防衛か。いずれにしても邦彦を石川署に連行した上で、家族全員から改めて事情聴取する必要がある。
「なにぶん、この暗がりですから作業が遅々として進みませんが、二人が縺れあった場所はそのまま確保してあります。結果が出次第報告しますよ」
 仁科は俯いていた邦彦の顎に手をやり、こちらを向かせた。若いのに精悍な面構えをしている。迷ったような視線で仁科を一瞥するが、すぐに逸らしてしまう。迷う理由は動揺か、それとも後悔か。
 試しに鼻を近づけてみるが酒の臭いはしない。もちろん検査を受けさせるが、双方、酒が入った上での争いということではなさそうだ。
「今、友井巡査の言ったことでいいんだな。この家の金城純一さんと口論になり、揉み合っている最中に包丁で刺してしまった。それで間違いないんだな?」
 念を押す意味で尋ねると、邦彦は一度だけ頷いた。
「よし。詳しい話は署の方で訊こう」
 友井から手錠ごと受け取って部屋を出ようとすると、邦彦は何の抵抗もなくついて来る。ずいぶん素直だなと思っていると、その背中に声が掛かった。
「邦ちゃん!」
 声の主は今までひと言も発しなかった裕未だった。
 邦彦は足を止めて彫像のように動かなくなった。だが振り向きはしない。
 こんな時に愁嘆場かよ──仁科は内心で舌打ちするが、最前まで恋人だった男が今や兄の仇となっているのだ。色々と胸に迫るものがあるだろうと思い、しばらく見守ることにした。
「邦ちゃん。本当に……?」
 切実な声だった。だが、それでも邦彦は振り向きもせず、静かに口を開く。
「ケジメは、つける」
 ひどく感情を押し殺したような声だ。その潔さに仁科もほっとする。こんな時期に凶悪犯を相手にするのは、いささか荷が重い。
 そのひと言で全て通じたのだろう。裕未は両手で顔を覆うと母親の胸に飛び込んだ。
「行こうか、刑事さん」
「言われるまでもない」
 邦彦を連れて部屋を出る時、今度は別の声が上がった。
「邦彦」
 息子を殺された和明だった。さては最後に恨み言の一つでも浴びせるつもりかと振り向いてみたが、その目に憎悪の色は窺えない。これもきっと邦彦を息子のように思っていたからだろうと、仁科は勝手に解釈した。
「……すまない」
 すまないだと?
 聞きとがめて仁科が問い質そうとしたが、邦彦の力で引っ張られる。
「おい。今の、すまないってのは何のことだ」
「真面目に罪を償ってこいってことだろ。ふん、仰々しいこった」
 邦彦は吐き捨てるように言う。まだ罪の軽重を問うのは時期尚早とも思えるが、息子を奪われた父親の立場を考えれば当然かも知れない。
 邦彦の身体を確保しながらパトカーの後部座席に向かう。手錠は掛けているが被疑者の隣に座るのは仁科だけになる。移送する距離が短いとはいえ、注意するに越したことはないので手錠の鎖を握る。
「駄目だよ、裕未ちゃん」
 玄関が騒がしいので再度振り返ると、裕未が表に出て来ようとするのを、友井巡査が押し留めているところだった。
「邦ちゃん、邦ちゃん。行かないで!」
 やはり愁嘆場か。
 だが若い被疑者は妙に禁欲的だった。裕未の方に顔を向けることさえせず、自分から進んでパトカーの中に乗り込む。
「おい。いいのか、彼女」
 思わずそう訊くが、邦彦はやはり裕未を見ようとしない。
「さっさと出してくれ」
「こら、タクシーじゃねえぞ」
 手錠が掛かっているかを再確認し、仁科も邦彦の隣に乗り込む。
「連絡しておいてくれ」
「はい……こちら城田。現場にて被疑者確保。これより署に戻ります」
『了解』
 その時、パトカーが横にぐらりと揺れた。発車したのではない。今日何回目かの余震だった。
「……長いな」
 正味十秒。それで揺れは収まった。おそらく震度は2。城田はゆっくりとパトカーを出す。裕未の声が後方へと消えていく。
 心なしか城田は来る時よりもスピードを落としているようだった。
「不安か」
「いや、不安っていうより身体の調子が変なんですよ。何だか余震がない時でもどこかしら揺れているような気がして」
 仁科もそれは感じていた。最近、座っている時や横になっている時に身体の芯から震動が伝わってくることが頻繁にあるのだ。よく考えれば心臓の鼓動を拾っているだけなのだが、相次ぐ余震で感覚が麻痺しているのだろうと想像する。
「余震といえば、さっき金城の話を聞いていて気づかなかったか」
「何をですか?」
「あの一家が十六年前に神戸から越して来たってことさ。十六年前の神戸と言ったら……」
「ああ。阪神・淡路大震災」
「そうだ。きっと被災してここに移り住んだんだろうな」
「それでまた被災して、その上に殺人事件ですか。よくよく運のない家族ですね」
 運、という言葉に少し反感を覚える。それでは今回の震災に見舞われた東北の人々は全員運がなかったことになる。そんな要因で済ませていい話ではない。
 ふと気になって隣の邦彦に訊いてみた。
「お前、親兄弟はいるのか」
 返事はない。
「おい」
「それが何か関係あるのか」
「親兄弟がいるのなら、お前が逮捕されて心配するだろう」
「なら安心しろよ。親兄弟なんていない……あの金城さんたちが俺の家族みたいなものだった」
「その齢で親兄弟がいないのか」
「今度の震災でそういうヤツは多くなるんだろうな。だから俺だって珍しくなくなる」
 普段であれば憎まれ口に聞こえただろう。
 しかし、今この状況下では一笑に付すこともできなかった。
「家はどこだ」
「石川町に会社の寮があるよ」
「被害者とは親しかったのか」
「最後は半分殺し合いみたいになったんだ。仲が良かった訳ないじゃないか」
「仲が良かったのは親父さんだったというのか。しかし息子とも同僚だったんだろ」
「……正確には違う」
「違うって?」
「刑事さん。まさか福島の原発で働いてるのが全員東電の社員だとは思ってないよな」
 それは今回の事故を伝えるニュースで聞き知っていた。
「要は下請け孫請けってことだろう」
 仁科がそう答えると、邦彦は唇の端を上げて笑った。
「孫請けどころか。俺や純一さんは五次会社、つまり玄孫請けだよ」
 玄孫請けという言葉は初めてなので少し驚いた。曽孫のそのまた下ということか。
「現場にはそういう玄孫請けの社員が方々から集まっている。だから同じ建屋で作業していても、給料をもらっている会社は別々だ。俺と純一さんも違う会社だった」
 危険が渦巻く現場で働く孫請け曽孫請け、そして玄孫請け。つまりエリートと称される人間は離れた安全地帯から指示だけ出している図式だ。何やら警察組織と酷似した構図に、仁科は暗澹たる気持ちになる。
 ならば自分と邦彦は同じような立場ではないか。
 仁科はこの男に親近感を覚え始めた。
「本当によかったのか、彼女。ずいぶんと名残惜しそうだったが」
「いくら名残を惜しんだって一緒だ。それであんたたちが俺を見逃してくれる訳でもないだろ」
 若いのに悟ったようなことを言う。
 その時だった。
 またも車体が大きく横に揺れた。
「停めろ! 結構デカいぞ」
 城田が咄嗟にブレーキを掛け、後ろの二人は前方につんのめる。
 しかし揺れは収まらない。仁科は堪らずシートの上へ横倒しになった。
 一瞬、警戒心が途切れる。
 あっという間の出来事だった。邦彦は手錠を掛けられたまま助手席を乗り越えると、ドアを蹴り開けて外に飛び出した。
「この野郎!」
 仁科が追いかけようとするが、揺れの続く中で身体を思うように動かせない。だが一方、邦彦は敏捷だった。外に転がったかと思うと低い姿勢のまま舗道から外れ、闇の中へと駆け出す。
「待てえっ」
 ようやく仁科も車外に出るが、揺れ続けているので四つん這いの形になってしまう。既に邦彦の背中は闇の中に溶け込もうとしている。
「逃げたら、罪が重くなるぞおっ」
 半ば脅しのつもりで叫んだが、邦彦が止まる気配はない。
 揺れが収まる。
 仁科はすぐその後を追おうとする。だが舗道を挟むように広がる田畑は脇に雪溜まりがあるせいで容易に足を運べない。威嚇射撃を考えたが、生憎仁科も城田も拳銃は携帯していなかった。
 とにかく追跡するしかない。
「城田。署に被疑者の逃亡を報告してから金城宅へ引き返せ。あいつが舞い戻るか、娘に連絡を寄越す可能性がある」
 そうだ。邦彦には手錠を掛けただけで、まだ何も押収していない。財布も、免許証も、携帯電話もパトカーの中で取り上げるつもりだった。
「それから娘にあいつが住んでいる寮の住所を訊いて、署から誰か人を遣らせろ」
「仁科さんは」
「ヤツを追う」
 雪溜まりを蹴り崩しながら、最悪の事態を想定してみる。深夜でしかも停電、土地鑑のある邦彦には好条件が揃っている。このまま逃げられたら通常は検問と広域捜査が展開されるはずだが、非常事態の中でいったいどれだけの人員と時間が確保できるのか。
 思わず、くそと呟いた。それが邦彦に対してのものなのか、油断していた自分に対してのものなのかは判然としない。
 停電続きで懐中電灯を携行していたのは幸いだった。仁科は闇に向かって光を投ずる。
「加瀬ーっ、逃げられんぞおっ」
 声が夜のしじまを破る。だが当然邦彦からの反応はない。
 雪溜まりには邦彦の足跡も残っていた。一瞬しめたと思ったが、雪溜まりは数メートル先で消滅していた。最端に残った足跡は北東に向いている。
 北東なら今来た道を引き返していることになる。邦彦が金城の家に向かっている可能性は高い。連行される際には冷淡な態度をとっていたが、やはり未練があったのかも知れない。
 雪溜まりの先には田畑が続く。凍てついた土で足がめり込むことはないが、それでも邦彦の逃走経路くらいは目視できる。
 仁科は猟犬のようにその足跡を追う。残された歩幅はかなり大きく、邦彦が脇目も振らずに逃走したことを物語っている。しかし全力疾走はできないはずだ。硬いといってもアスファルトのような足場ではなく、しかも両手には手錠が掛かっている。
 仁科は足を取られながらも懸命に走る。吸い込む息が肺を凍らせる。零下での追跡は外気温との闘いでもある。ともすれば縮もうとする筋肉を叱咤し、冷気に硬直する皮膚を無理に伸ばしながら前に進む。邦彦より十ほど齢を食っているが、痩せ我慢には自信がある。この寒中マラソンを続けていれば、必ず勝機は見えてくるはずだった。
 絶対にこの場で捕まえてみせる。
 だが、しばらく走り続けると光の輪の中で田畑が急に途切れた。
 川だ。平田村を南北に流れる北須川が目の前に横たわり、足跡はその手前で消えていた。
 堤防沿いを行くのではなく、川原に下りたのか? しかし川沿いに進めば金城宅からは次第に離れていくことになる。
 南か、それとも北か。
 電灯をそれぞれの方角に向けてみるが、邦彦の姿は捉えられない。
 二者択一。仁科は北上して金城宅に近づく方を選んだ。今までよりも更に冷たい風が川面を渡って吹きつけてくる。
 ようやく思い出した。自分はセーターの上にジャケット、そのまた上に厚手のコートを羽織っているが、邦彦は作業着姿のままだった。この、骨の髄まで達するような冷気は間違いなく邦彦の体力を奪っているはずだ。
 仁科は足場の悪い川原を這うようにして進み出した。

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