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ネオ・ゼロ
鳴海 章

   プロローグ

 一九八七年十月、東京・六本木、防衛庁西舎。
 西に面した窓から強烈な夕陽が差し、コの字に並んだテーブルを囲んでいる男たちの顔をオレンジ色に染めていた。彼らは『新零戦計画(ニュー・ゼロ・ファイター・プロジェクト)』のメンバーである。
「それは最終決定なのですか?」ふやけた顔をした男が訊いた。髪が乱れ、妙に脂ぎって見える。電子戦装置開発担当の技術者、楠海裕基。
「何も開発そのものを中止しろ、ということではないのです」内閣調査室の主任調査官、田代鋭二が答えた。現在は、防衛庁に出向し、次期支援戦闘機開発グループ付きとなっている。
「でも、日米で共同開発ということになれば、我々は一体今まで何のために苦労してきたのですか」楠海がいう。
「防衛庁としては」鼻の下に噴き出した汗を感じながら、田代はなぜ自分がこんな説明をしなければならないのだ、と思った。ちらりとテーブルの奥に目をやる。航空自衛隊の制服を着た男が腕組みをしている。田代は言葉を継いだ。「『国内開発』という方針から、『開発』に切り換えただけのことで、一部はアメリカとの共同開発になるとしても、ここで取り組んできた内容が雲散霧消してしまうわけではないんです」
「話になりませんね、田代さん」機体設計を担当する佐木伸三が口をはさんだ。太い眉の下で大きな目が光を放つ。「私たちは国産戦闘機を飛ばすためにこうして集まっているんですよ。それを何もアメリカに持っていかれることはない」
 残暑の季節でもなかろうに──田代はズボンの尻ポケットから引っ張り出したハンカチで汗を拭いながら、また、奥の男にちらりと視線を送った。
 その男は目を閉じ、眉一つ動かさない。
 左胸に桜の紋章を抱いて両翼を広げた鷲、ウィングマークが光っている。六十を超えた年齢ながら、贅肉の一片すらない。顔は深い皺に覆われ、短く刈った髪が半ば白くなっていたが、今でも現役のパイロットとして戦闘機の操縦桿を握っている。襟に金色、五弁の桜が二つ、棒章はない。航空自衛隊幕僚部空将補、川崎三郎。FSX開発グループの責任者だった。
「それにエンジンはいずれにしても国産化は無理だという結論に達したはずです」田代は川崎から視線を外し、声をはげました。
 その途端、まともに西日を浴びていたエンジン担当技術者、鈴木徹がオレンジ色の空気の中でもはっきりとわかるほど赤面して、うつむいた。
「待って下さいよ」主翼構造を設計した岡本武志が助け船を出す。「セラミック・タービンを使った新型エンジンの開発を進めているじゃありませんか。世界の先端を行くものだし、その技術力こそ、これからの日本の航空宇宙産業になくてはならないものだ」
 鈴木が勤務する会社はジェットエンジン開発に長い歴史がある。太平洋戦争末期、日本初のジェット爆撃機に搭載されたエンジンを開発。当時、十二分間の飛行に成功した。だが、第二次世界大戦後の航空禁止令により、日本の航空界は飛ぶことだけでなく、航空機そのものの開発まで禁止されてしまった。ジェットエンジンは、基本的に構造が同じガス・タービンエンジンの研究を継続できたが、いくら構造の研究を進めても、肝心の金属材料を供給する産業基盤が弱体化しており、結果的にジェットエンジン開発の足を引っ張った。防衛庁が国産戦闘機開発にあたりエンジンの自国開発を断念したのは、こうした背景によって日本が世界的レベルから見て、著しくたち遅れていたからだった。
「自主開発が不可能だといわれるのなら、それも仕方ないかも知れない。しかし、共同開発ということになれば、我々が開発した独自のアビオニクス技術がアメリカ側に流出することも考えられるわけですよね。憲法第九条を持ち出すまでもなく──」楠海が食い下がった。
「一言、よろしいですか?」通産省から出向している技官、窪田忠宏が強引に口をはさむ。頭頂部の髪の毛が少なくなっている分、鼻の下に立派な髭をたくわえていた。「国産化とはそもそも何でしょうか? 皆さん方には釈迦に説法になりかねないが、あえていわせてもらうなら、先端兵器産業は日米技術力に相互依存しているのが現状だということです。今も昔も変わりません。かつて零戦はアメリカの工作機械を使用しないと作れないといわれましたが、現在ではアメリカの戦闘機の大半は日本製の半導体なしには生産不可能な状態にあります」
「何をおっしゃりたいんですか?」岡本がメタルフレームの眼鏡の奥から鋭い視線を送った。
「つまり、エンジンは国産化できない、しかも現状の我が国の航空産業がアメリカからの技術導入を前提にしている中で、国産機など存在しないのではないか、ということですよ」窪田はまっすぐ岡本を見返しながらいう。「逆にいえば、アメリカの戦闘機をベースに共同開発をしても、主要部品のほとんどを日本の技術力で改造していくことができれば、それは立派な国産機と呼んでもいいのではないか、ということです」
「違う」佐木が吐き出すようにいった。「窪田さん、それは違うよ。確かに我々の技術は米国産を基盤にしていますが、我々が自分の手で開発するのと、アメリカの顔色をうかがいながら開発するのではまるで意味が違います」
「ほう」窪田は椅子に背をあずけ、口許をゆがめて佐木を見た。
 佐木は動じることなく、窪田を見返す。やがて窪田が口を切った。
「佐木さん、それに皆さんも私のいい分に不承知であることは認めます。しかし、これは昨年十二月二十六日に開かれた日米安全保障会議で防衛庁長官が外国との共同開発を表明した時からの既定路線として決まっていたことなんです。あなたたちもそれを知らないわけじゃない」
 沈黙。
 一九八〇年代に入ってからアメリカでは、CTAやペンタゴンが日本の戦闘機独自開発に対するさまざまな警告を流していた。一方、日本側の事情にも微妙な変化が表れる。中曽根政権下、八三年には対米武器技術供与協定を締結、八五年にはアメリカの戦略防衛構想『SDI』への研究参加を検討しはじめている。日本のハイテクノロジーをアメリカが求めたところから、日米安保の性格がアメリカの庇護から日米共同防衛へと変化した。その中で、次期支援戦闘機FSX開発計画も見直しを要求されるようになった。
 通産省は八六年、航空機工業振興法の目的を『国産化』から『国際共同開発促進』へと切り換えた。本来は民間航空機のための法規だったが、FSX開発においても通産省の行動基盤となっている。
「皆さん」川崎がゆっくりと眼を開いた。「ご意向は承りました」
 川崎は眼を転じていった。楠海、佐木、岡本、そして各メーカーから派遣されている技術者たち。窪田は横を向き、窓の外を見ている。田代はうつむいていた。九名のエンジニアは、まっすぐに川崎の口許を見つめていた。誰もが三十歳から四十歳までの若い人間ばかりだった。
「FSXは日米で共同開発することになりました」川崎の声が低く、会議室の中に響いた。「これは政治的な決定でもあり、我々がどうかできるものではありません。多分、F-16ファイティングファルコンをベースにすることになるでしょう。ただ、共同開発に向けての最終決定までには、あと一、二年あると思います。この間に今までの研究成果を、形あるものにしてみませんか?」
 会議室の空気が一変した。窪田の顔色が変わる。
「川崎空将補、あなたは自分のいっていることがわかっているのですか?」
「ああ」川崎はニヤリと笑った。「我々は実際に戦闘機を試作するといっているのさ」
「そんなことが許されるとでも?」赤黒く変色した顔を強張らせ、窪田が絶句する。
「心配ご無用だよ、通産省さん」川崎の顔が引き締まった。「実際に組み立てはしない。ただ、八八年度の開発予算でふり当てられる分を試作品製作に回そうといっているだけだ。実際に日米共同開発ともなれば、いつも我々がアメリカの後塵を拝するというわけにもいかないんでね。まあ、いってみれば相手様に失礼のないようにせいぜい腕を磨いておこうと、そういうわけさ。満足かな?」
 川崎は通産省の技官を正面から見つめた。それだけだった。口を開きかけた窪田が不承不承うなずく。エンジニアたちの顔に精気が戻り、川崎の表情が再び柔和になった。
「開発期限は、最長三年。とりあえず一九九〇年の試作完成を目指して、FSX-90と呼ぶことにしましょう。どなたか、ご意見はありますか?」川崎は出席者の顔を一人ひとり見ていった。誰も声を発しない。川崎は満足そうにうなずくと会議をしめくくった。
「それでは、皆さんの健闘を祈ります」
 三年後、一九九〇年か。
 川崎は偶然のいたずらに苦笑した。

   1

  一九八九年七月、アメリカ合衆国、ワシントンDC。
 液晶マルチビジョンの一〇〇インチスクリーンには、モノクロームの衛星写真が大写しにされていた。説明を受けなければ筋肉の断面写真とも思えそうだった。山岳部は黒く、道路や川は白く映っていて、それが筋肉の中を走る脂肪層に見える。
「ここが実験用原子炉です」暗い室内に太いバリトンが響く。ブルーの制服を着た、大柄な黒人が白い棒で衛星写真の中央部、やや上側を指した。斑点が点在している辺りに目をこらすと四角い建物に囲まれた円形の建造物が見える。「そしてここが中央原子炉」白い棒が写真の上をすべる。中央部に白く、かなり大きな建造物が映っている。白い棒がさらに下がり、横に長い長方形の建物で止まった。「ここが核燃料再処理施設。いずれも平和利用、つまり原子力発電所だと説明されています」
「それが発電所ではない、と君はいうのかね、将軍」暗がりの中から声がかかる。
 ホワイトハウスのイーストウィング三一一号会議室、通称緊急対策室には十名足らずの男たちが詰めていた。声をかけたのは、ホワイトハウスの主だった。
「原子力発電所なら、当然あるべき施設がないのです」将軍が答えた。
「送電線かね?」質問を発したのは大統領特別補佐官だった。
「そうです」将軍が答えた。
「地下ケーブルということも考えられる」ややカン高い声は国家安全保障局・NSAの長官だ。
「次の写真を」将軍はNSA長官の発言にとりあわず、部屋の隅でコンピューターのキイボードを前にしている職員に声をかけた。マルチビジョンに投影される画像は、国防総省のホスト・コンピューターに蓄積されているもので、その会議室にあるIBMの小型機で引き出すようになっていた。キイボードを打ち込む音が響き、部屋の中が一瞬真っ暗になる。次の衛星写真が映し出された。前の写真とほとんど変わりがなかった。「一年前、同じ場所を撮影したものです。もちろん、偵察衛星は同じ、高度も撮影時の気象条件もほとんど変わりありません。次を」
 暗転。そして、写真。将軍のバリトンが響く。
「一年半前……二年前……二年半前」
 目をこらすとわずかながら道路上の斑点が識別できる。将軍が建築資材を運ぶトラック群だと説明する。写真はわずかな間に次々に入れ換えられた。半年ごとの写真が十数枚映し出される間、誰一人として口を開こうとする者はない。右側の山岳と左側の畑が徐々に接近して来る。最後の一枚。山と畑。白く見える道路も細々と通じているに過ぎない。田園風景。
「この間、一度として地下ケーブルを通すために地面を掘り起こすこともなければ、地上ケーブルをつなぐ工事もなかった。つまり、この施設は原子力発電所であるはずがないのです」フランクリン・F・バーンズ米空軍准将は立ち上がっていった。
「すでに原子炉は稼働中かね?」大統領が訊いた。
「はい、閣下」バーンズが答える。「基礎実験用の設備は稼働中です。南にある主原子炉は一九九四年に稼働を開始する見通しです」
「最初の写真をもう一度見たいな」大統領はシガリロをくわえ、ライターで火を点ける。有権者が一度も目にしたことがない姿だった。
「はい、閣下」バーンズはコンピューターについている職員に向かってうなずいた。
 再びスクリーンに最初の衛星写真が映し出される。
「場所は?」と大統領。
「首都から北へ約九〇キロほど上ったところにあります」バーンズがすらすらと答えた。
「実験用の原子炉はすでに稼働中だといったね」
「はい、閣下。我々の推定によりますと実験用原子炉が完成したのは八七年のことです。原子炉としては小型のものですが、それでも年間七キロのプルトニウムを生成する能力があります」
 会議室の中で一斉に溜め息が漏れた。七キロのプルトニウムがあれば、ナガサキ級にほぼ匹敵する原子爆弾を製造することができる。
「現在建設中の原子炉が完成した場合のプルトニウム生成能力は?」大統領の声にシガリロの煙がからんだ。
「約一八キロから五〇キロ。朝鮮民主主義人民共和国が核クラブの仲間入りをすることは、ほぼ確実といえるでしょう」民主主義と人民を強調したバーンズのアクセントは、やや皮肉に響いた。
「かの国も国際原子力機関に加盟したのではなかったか。それに昨年は査察官を受け入れてるはずだ」特別補佐官が口をはさんだ。
「確かに」バーンズは落ち着き払って答えた。「受け入れられた査察官は、たったの一人で、立ち入りが許可されたのは日没後でした。しかも、到着した直後に、偶発事故が起きています」
「事故だって?」特別補佐官が訊き返す。
「停電です。国際原子力機関の査察官は真っ暗闇に三十分立っていましたよ。彼は自分の手すら見ることができなかった」
「フランキー」大統領は右手に持ったシガリロを宙に止め、背筋を伸ばして立っている将軍に向かって微笑んで見せた。口調がぐっとくだける。「なぜ今になって、この衛星写真を緊急対策会議で見せる気になったのかね」
「それは──」バーンズは言葉を切ると、さきほどから一度も発言していないCIA長官に目をやった。
 CIA長官は空軍准将の視線を受け、頬骨がはっきりと見えるほど口許を引き締めた。黒人の空軍准将を睨み返す。並みの政治力でここまで登って来られるものではない。ジョーカーを他人に引かせる潮時を心得ているのだ。CIA長官は口を切った。
「それは私からご説明いたしましょう。バーンズ将軍がいいたいのは、その国の代表がかなりの高齢であることに関係していると思います。引退もそう遠いことではありません」
 バーンズは満足そうに大きくうなずいた。
「ところが、その息子は外交の経験をまったく持たない、いわば国際政治社会においては未知数の人物です」CIA長官は早口でまくしたてた。「しかも軍部の人気がない。代表は息子への権限委譲を進めていますが、軍部と外交、それに半島統一問題に関しては、がっちり自分の手で握ったまま、まるで放そうとしません」
「そんなことはわかってるよ」大統領はうんざりしたように鼻を鳴らし、クリスタルの灰皿でシガリロを潰した。
 CIA長官はバーンズに視線を据えたまま、さらに言葉を継いだ。「最近、代表の孫にあたる人物が統合参謀本部長に就任しました。問題はここから生じます」
「孫が?」大統領の視線が鋭くなった。「いくつだね?」
「十五歳」CIA長官の声はほとんど聞き取れないほど、か細くなった。
 大統領は天を仰ぎ、大袈裟に息を吐いた。「我々は十五歳の子供に翻弄されようとしているのか?」
「いいえ、大統領閣下」バーンズが割って入った。「その国の指導者が亡き後、強大な権力を手中にしようと軍部がクーデターを画策し、その頂点に問題の孫をいただこうとしていても、急を要する案件とはなりません。問題は覇権を完全に手にしようとしている息子が実験用原子炉で得られたプルトニウムとソ連製のスカッドミサイル改良型を組み合わせ、いち早く核ミサイルを手に入れようとしている点にあるのです」
「スカッドでどこを攻撃するのかね。君たち軍人の考えていることは万国共通だな。より威力のある兵器を手にして、それから攻撃目標を捜す。一体、何を攻撃しようというんだ」大統領が首を振った拍子に、縁のない眼鏡にマルチビジョンの淡い光が反射した。
「どこも攻撃はしません、大統領」バーンズは表情一つ変えずにいった。「肝心なのは、一番攻撃力のある兵器を誰が握っているか、ということです。世界中を相手にブラフをかけることができる。その中には自国の軍部も含まれます」
「息子が後を継ぐと、その危険性が高まる。そういいたいんだね」大統領はCIA長官に目をやった。「君なら、どうする?」
「現時点で指導者親子の排除は、どちらも不可能であります、サー」CIA長官は胃がキリキリ痛むのを感じた。
「それならKGBにでも頼んでみるか?」大統領は天井に向かってつぶやいた。
「KGBの暗殺チームになら、不可能ではないかも知れません」CIA長官がややほっとしながら答えた。
 CIA長官の言葉が終わらないうちに大統領が怒鳴った。
「国内の民族問題を抱えて、書記長自身が日々暗殺の恐怖の中にある国に、我々が他国の指導者を排除してくれと頼むのか?」
「あるいは原子炉を叩くか、であります」バーンズは平然といった。
 緊急対策室の誰もが動きを止めた。メンバーの誰の脳裏にも同じ記憶が去来する。一九八三年、イスラエル空軍がイラクのオシラク原子炉を爆撃、核武装を望んだ独裁者、サダム・フセインの野望を挫いたことだ。ダークイエローとブラウンの砂漠戦用迷彩塗装をほどこした四機のF-15イーグルと九機のF-16ファイティングファルコンがイラク国境を越え、原爆用のプルトニウムを生成する施設──イラクはあくまでも平和利用の発電所であることを強調したが──を徹底的に破壊したのだった。
「将軍、空軍自慢のステルス爆撃機を使うつもりかね。確かペンタゴンの報告によれば、本来必要ではないはずの低空性能を付与するようにメーカーに命じたはずじゃないのか? レーダーに映らないから悠々と高空から侵入できるはずの爆撃機に、低空性能だと? レーダーに映るんだろう、あの金食いムシの、役立たずは?」
「我々が作戦を実行するわけにはいきません。空軍でも、海軍でもダメです」バーンズはコンピューターの前にいる職員に再び合図を送った。部屋の照明のスイッチが入れられ、蛍光灯の白けた光に部屋にいる全員が顔をしかめた。
「ソ連に頼むわけにはいかないぞ、将軍。中国は天安門以来、まったく信用が置けなくなった。そして、たとえ核兵器の可能性を排除するためとはいえ、韓国軍が手を出すのは論外だ」大統領はその時になってはじめて、バーンズ准将が顔面いっぱいに玉の汗を浮かべ、極度に緊張していることを知った。「いいたまえ、将軍。君の胸のうちに抱えている作戦とやらを。北朝鮮の原子炉を爆撃できる国の名前を」
「日本」バーンズは短く答えた。
 大統領はぽかんと口を開け、空軍准将を見つめた。

 一九八九年九月、朝鮮民主主義人民共和国、平壌。
 強い日差しが日に焼けた額に光る汗をきらめかせていた。眉部にベッコウを盛った眼鏡の厚いレンズが、頬に光を集めていた。腫れぼったい瞼の下にある瞳は中空の一点にすえられ、微動だにしない。横に広がった鼻の頭にも点々と汗が噴き出していたが、分厚い唇は一文字に引き結ばれ、九月だというのに異様に高い気温をまるで感じていないかのようだった。
 白い布で覆われた演壇。林立する大きなマイクロフォン。そこから発する声は、ラウドスピーカーを通じて、遠い雷鳴のようにしか聞こえない。それはどうでも良かった。演壇の向こう側、すり鉢状の競技場には十五万人の観衆が詰めかけ、その男が言葉を発するのを待っていた。観衆にとって、この国の人民のすべてにとって、彼の言葉が意味するところより、彼の肉声そのものが何より大事だったからだ。
 今、彼は緊張した面持ちで、ソ連書記長から届いた祝福のメッセージに耳をかたむけていた。駐在ソ連大使が代読している。
 二年前の第四十回創建記念日に寄せられた祝電は、深刻な衝撃を彼に与えた。利益のバランス、新思考──祝電の中にはっきりと伝えられた二つのメッセージは、ソ連指導部が韓国の利益をも視野に入れたことを表していた。その二週間後、ソ連代表は韓国との経済関係を修復し、北西太平洋での軍事的な多国間協議に加えることを明言した。
 一九八〇年代後半から、ソ連は、衛星諸国への原油輸出量を削減しはじめただけでなく、一部輸入を開始した。ソ連経済の破綻は時間の問題だった。そこにペレストロイカとグラスノスチが登場する。思想より国益を重視する危険思想。ソ連も結局は金、金、金なのだ──半ば以上白くなりかけた男の眉がほんのわずか震える。
 ソ連は韓国が提案する経済施策を受け入れようとしていた。その次は、日本。アジアで唯一金にまみれ、汚れきった国、祖国の歴史において最も憎むべき日帝と手を組もうとしている。
 ソ連大使による、同国書記長のメッセージ代読が終わり、十五万人の拍手に大気が歪む。その男も立ち上がり、両手を熱心に叩き合わせた。唇の両端を持ち上げた表情には、誰の目にも満足げな微笑が浮かんでいるとしか見えなかった。しかし、奥歯はぎりぎりと噛みしめられている。
 あと三年──男は演壇に近寄りながら思い浮かべる。欧州共同体(EC)が市場統合される一九九二年こそ、祖国にとっても大きな意味がある。自身が八十回目、息子が五十回目の誕生日を迎える年にソ連が模索するアジア・デタントを吹っ飛ばし、朝鮮半島を中心とする新秩序をもたらすのだ。そのためには──男は演壇のマイクロフォンの前で勢いよく右手を突き上げた。口を開きかける直前、ほんの一瞬、男はすぐ横にいる側近たちに視線を飛ばした。息子が背を伸ばすのがわかった。彼が見たのは、その隣で焦げ茶色の制服に身をつつみ、制帽を膝にのせた孫だった。肩章はすでに大将を表している。男は正面に向き直るとゆっくりと張りのある声で話しはじめた。

 父が振り返ったその瞬間、心臓がおかしな拍動をした。背中からどっと噴き出した汗が脇腹を伝って下りていくのを不快に感じる。まるで胸のうちを見透かされたような気がした。息子は表情を変えないように気をつけながら、溜め息と一緒に胸にたまったしこりを吐き出した。
 半年前、息子は、国家政治保衛部の報告によって、父が屈辱的にも南の認知をした上で半島統一をはかり、その上、日本を含めたアジア圏の共存共栄を求めていることを知った。一部の不穏分子が国家に不満を抱いていることは知っていたが、父が打ち立てた主体思想がしっかりしている以上、不安を抱くことはないと自分にいい聞かせてきた。それが根底から崩れようとしている。
 強き者よ、強くあれ──父の声に耳をかたむけながら、胸のうちでつぶやいた。
 父の周辺にいる党幹部の中に腐ったリンゴが混じり、そこから這い出したウジ虫が神聖な父を不敬にも侵そうとしている。すでに保衛部幹部の手によって、粛清リストは完成していた。創建記念日を祝した後は、血の嵐を呼び起こすだけのことだ。祖国のため、あえて嵐を呼ぶ竜にならなければならない──悲愴な決意をこめて父親の背を見つめていた。党幹部の粛清が終了する今年の終わりには、もう一つ、贈り物をすることができる。
 祖国初の核兵器。
 弾頭部の製作に必要なプルトニウムは、あと二カ月ほどで生成を終える。推進装置となるスカッドミサイルの改造も順調に進んでいた。南を力でねじ伏せる切り札を間もなく掌中におさめられる。強き者が再び強くなるのだ。

 朝鮮民主主義人民共和国、寧辺。
「ただいま」散歩を終えて帰って来た男は家の中に声をかけた。
 舗装された通りを右に折れ、それから未舗装の狭い路地を五〇メートルほど歩いて、もう一度右に曲がると十軒長屋がある。奥から二番目の一軒が男の住まいだった。
「あなた」台所の隣の部屋にいた、妻が顔を見せた。
 痩せている。頬骨の上に直接青白い皮膚を貼りつけているような顔だといった方が近いな、と男は思った。栄養失調から来る肝臓病に喘息を患っている妻はほとんど寝たきりだった。妻の表情を見て、男は顔が強張るのを感じたが、無理に笑みを浮かべていった。
「寝てなきゃ、ダメじゃないか」
 妻も弱々しく微笑み返した。満足に家具らしい家具もない部屋。やたらに立派なのは、玄関に近い方の部屋にあるラウドスピーカーとピカピカに磨き上げられた指導者の肖像だけだった。男は肖像に一瞥をくれると部屋に上がりこんだ。写真を飾るのは、窓のない場所か、家の出入り口に限られている。毎日、肖像の入っている額のガラスを磨く保衛事業を行うことが義務づけられていた。抜き打ちで検査に回ってくる検閲班の目にホコリまみれの肖像がとまり、一家離散、強制労働へ追いやられた人々は少なくない。
「あのね」病弱の妻はゆっくりと話す。「実は──」
 男は笑みを浮かべて、妻の話を聞こうとした。その時、ふいに扉が開き、焦げ茶色の制服に身を固めた姿が目に入った。男は冷たい手で心臓をつかまれたような気がした。
 政治保衛部。
 朝鮮民主主義人民共和国では、朝鮮労働党、警察機構に当たる社会安全部、そして一九七三年に創設された政治保衛部の三つの組織が住民の監視を行っていた。政治保衛部は、各市町村に人口対比一割に相当する本部要員を配し、その下に七十名から八十名の区部要員を配置している。一名の保衛部員が三十名以上の密告者を従えており、全土にわたって完璧な体制を敷いていた。
 市民は、誰が密告者か知るすべはない。
 我が家での何げない会話──帝国主義者どもが『大韓民国』と呼ぶ共和国南部のこと、外国にいる親戚の消息、政治や経済に対する不満、職場への批判──ある日、突然保衛部員が訪ねてきて、職場を変えられ、遠くへ追いやられることも珍しくはない。最悪の場合は、処刑。
 男は流し台がほとんどの空間を占領している狭い台所で、半ば玄関に身を向けて保衛部員を見返した。
「同志チェ・ペクス、だな」保衛部員はいった。
 男はうなずいた。
「四月の件で訊きたいことがある。今すぐ、市の保衛部本部に出頭してもらいたい」保衛部員は静かに話した。
 目深にかぶった制帽の下にある目がじっと睨んでいる。
「すぐ支度をします。ほんの少しお待ち願えませんか?」チェは声を震わせないように努力しながら答えた。
「支度?」保衛部員の唇が歪む。「一体、何の支度だ」
 チェはあわてて玄関に脱いだ靴に両足を突っ込んだ。
「すぐにおともします」
 四月の件といえば、思い当たることはたった一つだった。朝鮮民主主義人民共和国国民にとって、四月は地獄の季節でもあった。毎年、指導者に誕生日のプレゼントを用意する月であるからだ。生きたヤマメの血を飲むと身体に良いということから、専従捕獲班が組織され、まだ氷の厚い川に採りにいく。貴重な献上品とするためだった。チェはヤマメ捕獲班の一人として、今年は一千匹の採取に加わっていた。
 ヤマメの他には、山人参や麝香鹿を捕獲する。どれも重労働だが、ヤマメはその中では比較的楽な方だった。麝香鹿の捕獲班は銃器の扱いを許される社会安全部の管轄で一般の住民には手が出せなかったし、山人参は、その道の名人といわれる人で年に数本しか採れないところを、素人が山に入ってその数十倍に当たる量を採取してくるように強制される。『山人参が人を殺す』と住民はいいかわしていた。
 ヤマメ捕獲班には、別の意味で恩恵もあった。指導者に献上されるのは、生きたヤマメに限られるため、死んだ魚はその場でチリ鍋にして食べることができる。もちろん、監視員に発覚すれば首領不敬罪七号に問われ、処罰される。だが、監視員にもヤマメを贈ることで見逃してもらうこともできた。
 それが五カ月経過してから、突然の保衛部員の来訪。密告以外には考えられなかった。
 チェは四十六歳。未来はこの時点で絶たれた。

     2

 一九四五年四月、ラバウル。
「もし、零戦の威力がもっと劣ったものだったら、日本はこれほどまでにみじめな思いをしないで済んだかも知れないな」帝国海軍中尉、西河勲は静かにいった。
「それは逆ではないのですか、中尉?」川崎三郎一飛曹が反論する。「零戦が世界でもっとも優れた戦闘機だからこそ、我々海軍は米軍になめられることなく戦闘を繰り広げて来られたのではないですか?」
「問題はまさしくそこにあるんだよ、川崎」西河の口調は優しい。
 ラバウルの南東一二キロに位置する周囲五キロにも及ばない小さな島で、独立防衛隊に所属する二人のパイロットは雑草の茎をくわえて座り込んでいた。滑走路──といっても踏みならした草地だが──をはさんで向こう側には隊舎の明かりがチラチラとまたたいている。大気はじっとりと湿っていたが、かすかに吹く風はほんのりとした冷気を帯び、半袖の剥き出しになった腕に心地好い。川崎は十九歳、西河は二十三歳だった。背が高く、筋肉質の身体つきをした川崎。華奢にさえ見える西河。
「問題って何ですか?」川崎の口振りはまだ不満そうだ。
「昭和十五年、零戦がデビューした時にはその上昇力、航続力、二〇ミリ機関砲の打撃力とどれをとっても世界で並ぶ戦闘機はなかった。それだけに、しなくても良い快進撃をしてしまったんだ」
 川崎は、西河が真珠湾攻撃から生き残っている数少ないパイロットの一人であることをチラリと思った。以来四年間、西河の撃墜した米軍機の数は四十八にのぼる。川崎の愛機には桜のマークがまだ二つしかなかった。西河は続けた。
「日本は零戦だけに頼り、たった一つの兵器に一国の運命を託した」
「イギリスにだってまともな戦闘機といえばスピットファイアぐらいしかありません。何も日本だけが無謀な戦争をしているということにはならないでしょう?」
「ジョンブルにはアンクル・サムがついている」西河は溜め息をついた。「米軍がこのところ太平洋で飛ばしている飛行機を知っているだろう?」
 零戦の倍の馬力を出すエンジンを積んだボートF-4UコルセアやグラマンF-6Fヘルキャット。高速で追尾してくるロッキードP-38ライトニング。軽快なノースアメリカンP-51ムスタング。リパブリックP-47サンダーボルトが急降下をはじめると、追いつくことはおろか追尾することすら不可能だった。川崎の脳裏を様々な敵戦闘機が駆け抜けていった。どの機体にも一二・七ミリ機関砲が四門から六門搭載されている。こちらの急旋回がとぎれた時に襲いかかってくる六条の曳光弾の束。恐怖。
「零戦では、もう勝てないというのですか?」川崎の言葉は不自然にかすれていた。
「そうはいわないさ」西河は無理に笑った。「オレも帝国海軍パイロットのはしくれだ。しかも旋回したり、上昇したり、太陽の中から襲いかかったりするのが誰よりうまい。自分の腕を十分に活かしてくれる零戦以外に乗る気はないよ。オレはこれでも今の状態が好きなんだ」
「それで大学を辞めたんですか?」
「えっ?」西河はちょっとびっくりして年下の飛行兵の顔を見た。真剣な眼差しが淡い月の光にキラキラとしている。「いいや、勉強に飽きたんだ。それほど優等生でもなかったしな」
 西河は早稲田の法学部を中退して海軍飛行隊に入った変わり種だった。九州の農家の三男に生まれた川崎には、わからなかった。畑は二人の兄貴が分けてしまえば、自分にまでまわってこない。それより海軍に入れば、好きな飛行機を飛ばして腹いっぱいメシを食うことができる。
「わかりませんねぇ」川崎はつぶやくようにいった。「大学まで行った人が勉強嫌いだなんて」
「オレの親父は神田で法律事務所を開いていた。オレにも同じ道を歩かせたがったが、出来の悪い息子は親父の期待を裏切った。少なくとも飛行機乗りは二番目になりたかった。自分の力で生きることだし、後悔してないよ」
「一番なりたかったのは──」
 川崎が訊きかけた時に隊舎から通信兵が駆けてきた。大声で西河中尉と呼んでいる。
「何だ」西河は尻についた雑草を手で払いながら立ち上がった。
「ラバウルの本部から通信です」通信兵は、そういって敬礼すると黄色っぽくなった紙を差し出した。古くなった書類の裏側を、通信文を書き取る用紙に使っている。茶色に変色したマル秘の判が見える。機密より節約が優先されるようになってしばらくになる。
「ご苦労」西河は答礼した手を下ろして用紙を受け取った。じっと目を落とす。直立したまま西河の手元をのぞきこんでいる通信兵に声をかけた。「確かに受領した、ありがとう」
 通信兵は再び敬礼すると駆け足で隊舎に戻っていった。
「どうやら貴様の悪運もここまでだな、川崎」月光に白い歯がきらめいた。
「何といってきたんでありますか?」川崎も立ち上がりながら訊いた。
 西河は、ラバウルから南ヘ一五〇キロ下ったところにある島に米陸軍航空部隊が集結していることを教えた。口調は淡々としており、気象通報を隊員に知らせる時と変わらなかった。
「ラバウルが落ちるのでありますか?」川崎は何げなく訊いた。
「貴様、いつからラバウルを心配できるほど偉くなった?」西河の表情が厳しく引き締まる。
「はっ?」
「明朝○六〇〇時に出撃だ。自分のケツに食いついて来るアメ公だけを心配しろ。多分、米陸軍が相手だからメザシが飛んでくるぞ」
 心臓がキュンと鳴る。川崎は思わず顔をしかめた。メザシ──二基の強力なエンジンをつけたロッキードP-38ライトニングにつけたアダ名だ。より有利な攻撃ポジションをとるために高空へ昇るのが空中戦の常道だが、零戦の高空性能ではライトニングにまったく太刀打ちできない。低空での格闘戦に持ち込む以外に活路はなかった。頭の中をP-38が飛びまわる。息を詰める。恐怖は薄らいできた。撃たれれば、死ぬだけだ。死ぬことを恐れてはいない。航空練習生だった頃から仲間が死んでいくのを見てきた。死ぬのが当たり前で、生き残ることはありえない。
「ようやく川崎らしい顔つきになったな」西河が笑っていった。
「お国のために戦って死ぬんですから、両親も喜んで──」
「バカ」西河は乱暴に遮った。「子が死んで喜ぶ親など何処にいるか。申し訳ないという気持ちでいっぱいでいろ」
「はい」川崎には西河の叱責が不満だった。偽りのない気持ちを口にしたまでだ。しかし母親の泣き顔がチラリと浮かんだ。
「中尉、一つお訊きしてもよろしいですか?」川崎は直立不動の姿勢をとってわざと堅苦しい言葉づかいをした。
「よし」隊舎に向かいかけた西河が歩を止めて振り返る。
「中尉が一番なりたかったものは何でありますか?」
 西河は闇の中でもはっきりとわかるほど大きくニヤリと笑った。
「お前、笑わんと誓うことができるか?」
 川崎がうなずく。
「小説家だよ」
 怪訝そうな顔をして突っ立っている川崎を残したまま、西河は高笑いしながら、隊舎に戻っていった。

 翌朝。午前四時に起床した川崎は、輝くばかりの白米で朝食をすませた。最後の食事になるかも知れないのに味はよくわからない。午前五時半には搭乗していた。
 この島から出撃するのは、たったの二機だった。周辺に散在する島々から友軍機が何機上がって来るか、川崎は心もとない。消耗戦は末期にさしかかっていた。
「ペラ前異物なし」川崎機の前で整備兵が叫んだ。
 操縦席から伸びあがるようにして前を見た川崎は右手を突き出して親指を立てた。シートの左側にある燃料コックを三つとも開き、計器パネル左側、時計の下にある点火スイッチを押し下げる。座席灯がぼんやりと灯った。さらに前にかがみ、左手を伸ばすと燃料注射ポンプを引きながら怒鳴った。
「回せーっ」
 右翼の上に乗った、もう一人の整備兵が大きなクランクを両手で勢いよく回し始める。零戦は排気管から黒い煙の塊を吐き出して身を震わせた。プロペラがゆっくりと回転した。最初は不安定だったエンジンが目覚め、短い時間で調子を上げる。プロペラは一瞬、逆回転をはじめたように見え、それから半透明の円板になった。川崎は計器盤右側に配置されているエンジン回転計が二〇〇〇回転を指しているのを確認してから、左手をのせていたスロットルレバーを後退させ、一二○○回転まで絞った。尻の下に敷いている落下傘を叩いて座りをよくすると、シートについている負い帯を身体の前に持ってきて金具を留めた。上下つなぎ、焦げ茶色の飛行服の上に小さな袋をいっぱいつけた救命胴衣をつけているために汗が噴き出してくる。飛行帽の両端を持ち上げ、頭の上で結んである。二重ガラスの間にゼラチンを入れた飛行眼鏡は、額のあたりにハネ上げてあった。
 川崎は、左側に並んでいるもう一機の零戦を見た。エンジンをかけた西河がこちらを見ていた。右手の親指を突き出し、異常なしを告げる。無線機は先週の空中戦で被弾したので外した。西河機のはもっと前から調子が悪かったらしく、川崎が外したのを好機に積むのをやめた。どの道、あまり聞こえない。戦争がはじまってから調子のいい無線機にお目にかかったことはなかった。
「じゃ、気をつけて」操縦席を見下ろしている整備兵がいった。面長、一重瞼、不器用そうな男だった。川崎は心配そうな顔をしている整備兵に笑って見せた。年は、その整備兵の方が五つほど上だったが、パイロットは誰に対しても上位に立つ。整備兵はほっとしたように翼の上から降りていった。川崎は西河機を見た。いっぱいに下げた風防から、西河の胸から上が見える。西河は両手を頭の上で結ぶと力強く両側に開き、車輪止メ外セの合図をする。
 発進。
 エンジン音を高めた西河機に続いて、川崎もスロットルレバーを前進させた。機体が面倒臭そうにゆるゆると前進する。川崎はスロットルレバーを開いたり、閉じたりしてエンジン音がバラつかないのを確認した。燃料と空気の混合比はもっとも濃くしてある。燃料の消費効率は落ちるが、離陸時に燃料をケチってエンジン停止の目に遭いたくはない。滑走路の南端で西河機がターンした。川崎はブレーキをかけて、西河が離陸するのを待った。いったん、静止した西河機はほどなくエンジンを全開にして滑走路を走りは
じめ、あっという間に空中に浮いた。隊舎の正面には、この基地の総勢二十名が帽子を精一杯振っている。
 川崎はスロットルを少し開いて機体を前進させ、滑走路端に停めた。尾輪が地面についている間はエンジンの覆いが前方視界を恐ろしく制限する。計器盤の上に二挺並んだ七・七ミリ機銃の間からは抜けるような青い空しか見えない。日本で見るよりも深い青だった。
「よーし」川崎は自分に声をかけた。
 飛行眼鏡を下ろして目を覆い、左手をスロットルレバーに、右手を操縦桿に置く。スロットルレバーを前進させるにつれてエンジンの吼え声が高まる。ブレーキをかけられた機体が武者振いをする。ブレーキを放すと機体は弾かれたように飛び出した。スロットルをさらに前へ。身体がシートに押し付けられる。
 一〇ノット──方向舵や昇降舵が風を噛み、ケーブルでつながっているラダーペダルと操縦桿に感じる。
 二〇ノット──川崎は一気に操縦桿を前へ倒した。滑走路の凹凸を拾っていた尾輪がふわりと浮く。
 間髪を入れず中立に戻した操縦桿を今度はじわりと引いた。
 主輪が滑走路を蹴る。三回、機体が震えて、浮いた。

 高度四〇〇〇メートルで水平飛行に移った途端、西河機が翼を振るのが見えた。イヤな予感。西河をうかがう。開け放した風防から西河が天空を指差してニコニコしているのがわかった。高度をとる機体とは逆に気持ちは急降下した。上空を見る。イヤな予感は的中していた。はるか高空に白い飛行機雲が見える。約一万メートル。B-29の大編隊がラバウルを目指して飛んでいる。川崎と西河が上がっていく方向とB-29の進路が交差する。
 川崎はたった一つだけ西河の性癖で好きになれないものがある。それは大型爆撃機の撃墜に異様な執念を燃やすことだった。
 西河は華奢で小柄だったが、負けん気だけは人一倍強かった。自分より一尺も背が高い相手でも、喧嘩となれば一歩も引かない。
『オレは、人から無理だといわれるとどうしてもやって見せたくなるんだ』
 少しばかり常軌を逸していると川崎は思う。川崎は操縦席の右側に備えてある酸素供給装置をチラリと見た。無線機はさっさと取り外した西河だったが、決して重い酸素ボンベだけは下ろさせなかった。零戦にとって高度一万メートルはきつい。乗っているパイロットにとってはもっときつい。酸素が無ければ不可能だった。川崎は思いっきり顔をしかめたが、西河に見えるはずはない。西河は大きくうなずいてニッコリ笑った。操縦桿を引いて上昇しはじめる。こういう時の西河は恐ろしいほど気が早い。川崎はスロットルの内側についている二連装になった過給器のレバーを引いて作動させた。それから酸素マスクを取り出し、ゴム臭いのに閉口しながら飛行帽に固定する。
 高度計の針は回転を続け、すでに八〇〇〇メートルを超えたことを告げる。
 一万メートル上空までありそうな積乱雲の陰を選んでラセン上昇を続ける。零戦でB-29を攻撃するには、たった一度のチャンスしかない。一万メートル以上の高空から降下し、一撃をかませる。B-29のわきをスリ抜けたあとはそのまま降下を続ける。たとえ通り過ぎたあとで操縦桿を引き、再び巨大な爆撃機を追っても無駄なことだ。零戦のエンジンは、高空では著しく性能が低下する。時折エンジンが息をつく。そのたびに機体はブレーキをかけられたようにつんのめり、負い帯が身体にくいこむ。気温が急速に下がって、潤滑油が凍る。薄い大気。呼吸が苦しい。零戦もパイロットもあえぎながら飛ぶのだ。
 一万二〇〇〇メートルでようやく水平飛行にうつった。正面から見て、やや右側にポツンと見える大空の染み。目標。前を行く西河機を見る。西河は左手を突き出して見せるとぴしゃりと風防を閉じた。川崎は溜め息を一つついてから、同じように風防を閉じ、開閉レバーをぐっと上げて固定した。スロットルレバーにかけていた左手を放し、そのすぐ後ろ下にある機外タンクの投下ハンドルにのせた。
 間もなく、だ。
 マスクの中を流れる呼吸音がやけに耳についた。心臓の鼓動が胸全体を震わせている。胴体下の予備燃料タンクを投下する。余分な重量から解き放たれた零戦は一瞬ふわりと浮き上がる。高々度と過重量にあえいでいた零戦が蘇った。二機の零戦は腹を上にして雲上に大ループを描く。川崎はスロットルレバーをいっぱいに前進させ、回転計の針がレッドゾーンにかかるのも気にせずにエンジンを回した。面白いように加速する。さきほどまでのあえぎが嘘のようだ。
 川崎は目を見張った。眼下にB-29の大編隊が広がっている。総数、二十四機。爆撃機の周辺には高速戦闘機のP-38が飛んでいる。ざっと六十機。身震いした。付近に友軍機の姿はない。西河とたった二人で戦争することになる。まだ敵機から発砲はない。気がついていないのだ。彼らの常識からすればラバウルには、この高空まで昇って来られる日本軍機はないし、油断をするなという方が無理だ。その油断が、西河と川崎にとっては唯一のチャンスだった。川崎はふっと息を吐き、スロットルレバーの上部についている二〇ミリ機関砲の発射レバーに人差し指と中指をかける。B-29編隊の一番左端に位置する機に狙いをつけた。
 急降下。身体が浮き上がる。胃袋が転げる。心臓は必死になって血液と活力を送り出しているが、緊張感から下腹が冷えてくる。
 火蓋を切ったのは先行する西河だった。B-29の主翼の付け根に砲弾を集中させる。西河の機がB-29の左横をかすめる。まばたきする間もない。細かいアルミの破片が陽光にキラキラ輝きながらプロペラ後流のために渦を巻いて落ちていく。霧のように見えるのは燃料だ。
「クソッ」川崎は唇を噛んだ。
 零戦が装備している二〇ミリ機関砲ではB-29のタンクに火を噴かせることができない。ゴム張りの防火装置のために、砲弾は豆鉄砲ほどの威力しかない。川崎は電影照準装置にぼんやりと浮かぶオレンジ色の環に意識を集中させた。やがて照準器いっぱいにB-29が広がる。左手に力をこめ、機関砲の引き金を絞る。激しい震動に視界はかすみ、小便が漏れた。食いしばった歯の間から獣のような叫び声があふれ出る。五発に一発の割合で混合されている曳光弾がライトグリーンの輝線となって両翼と機首から延びていき、さきほど西河が銃弾を撃ち込んだのとほぼ同じ場所に吸い込まれていく。
 B-29胴体上部の回転銃座がオレンジ色の束を吐き出す。飛行している戦闘機を爆撃機の機関銃で撃墜するのはほとんど不可能だといわれるが、実際に射撃されると、そうは楽観できない。川崎はフットバアを踏み、操縦桿を左にちょいと倒して機体をひねった。機銃は発射したままだ。一秒が長い。B-29の機体に急速に接近する。胴体の数字がはっきりと見える。読んでいるヒマはない。主翼が大写しになる。太陽光線を乱反射しながらB-29の破片が飛ぶ。透明な燃料が白い帯となって流れていく。ついに左翼外側のエンジンが火を噴いた。
 だが、そこまでだった。
 ハラワタをねじ切られるような思いを噛みしめながら、川崎は操縦桿を素早く入れ換え、機体を滑らせた。B-29の左主翼から、わずか一〇メートルほどのところを高速で駆け抜けていく。西河と川崎が決死の攻撃を敢行したB-29はエンジンをやられて引き返すかも知れない。ただ、それだけのことだ。撃墜にはほど遠い。降下を続けながら川崎は後ろを振り返った。たった今、目の前にあって翼の一部を大空にバラまいていた巨大な爆撃機が、太陽の輝く空間で身動ぎもしない一点となっている。翼からは黒い煙を吐いていた。自動消火装置が作動したのだ。川崎は顔をしかめた。虚しさだけが胸に去来する。
 だが、落ち着いてB-29を眺めていることはできなかった。敵に気付かれることなく上昇し、高空から高速を活かして一撃をくわえられた。幸運もこれまでだった。この後は二人の日本人パイロットが米軍機になぶり殺しの目に遭うのだ。
 川崎は暑くるしい酸素マスクを引きちぎるようにして外すとシートの上に座り直した。P-38の編隊がきれいに降下してくる。十機を超えている。二機の零戦を追うのに一個飛行中隊が追尾してくるのだ。川崎は無理にツバを飲み込んだ。口の中がカラカラに渇いている。
「敵さんは楽しむつもりか、クソッ」罵り声を発しながら川崎は操縦桿を乱暴に左へ倒した。右翼が上がり、そのすぐ下を一二・七ミリ弾が通過していく。射撃したP-38は右下方へ逃れた。川崎はすかさずフットバアを蹴るとそのP-38を追ったが、上空から新たな一機が襲いかかってくる。風防越しに『メザシ』と呼ばれるP-38特有の機首が見えた。その先端からオレンジ色の炎がほとばしる。川崎はあわてて操縦桿を腹に引きつけた。零戦が悲鳴を上げながら上昇する。オレンジ色に燃える銃弾が大気を引き裂いた。
「川崎一飛曹、南海の大空に死す、か」川崎はつぶやいた。声が震えていた。
 弾丸を避けて左旋回を続けているために腕がジーンとしびれてきた。真っ直ぐに飛ぶことは速度で優るライトニングのパイロットの思うツボだった。小刻みな旋回を続けることだけが活路を見出す唯一の方法だった。エンジン、全開。燃料はあと何分もつだろうか? 見上げると五〇〇メートルも離れた空間から射撃してくるのがいた。多分、今日が初めての戦闘なのだろう。ああいうのばかりなら、気は楽だ。
 腹の底を突きあげるような弾着。川崎は歯を食いしばって操縦桿を倒し、ペダルを蹴った。二度横転する。すぐ下を別のP-38が上昇していく。気をとられた隙をつかれたのがくやしかった。
 額から流れる汗が目に突きささるように痛い。拭っているひまもない。P-38は編隊を解いて四方八方から襲いかかってくる。
 急旋回、降下、上昇。敵機の攻撃を避けるうちにだんだんと高度が下がってくる。操縦桿を左に倒す。右翼が持ち上がる。その下を曳光弾の帯がかすめていく。海と空が風防の向こう側で入れ替わる。水平線がぐるぐる回る。敵機の青と赤のマークばかりが見える。西河機を捜すが、その姿はどこにも見えなかった。何げなく後ろを振り向いて、肝を冷やした。一〇〇メートルほど間隔をおいて二機のP-38が迫ってくる。左右から挟み撃ちにしようというのだ。迷わず操縦桿を倒し、垂直降下に入る。機銃弾が頭上を通り抜けていく。間髪を入れずにフットバアを蹴り、横転してから機体を滑らせ、たった今、攻撃をしかけてきた二機のうち、後方にいた一機を追尾する。腕のしびれが限界に近い。足も他人のをつけているような感じがした。それでも相手を引き裂きたいという思いだけが身体を動かす。もう少し、もう少し。照準器の丸い環の中でP-38が震動している。P-38が右旋回を切った。続く。ほぼ真後ろにつけた。機銃の発射レバーをひいた。砲弾が吐き出される。外した。機体を滑らせた分の補正が十分ではないのだ。砲弾が大きいために初速が遅い二〇ミリ弾は、命中率が低い。川崎の放った砲弾は弧を描いてP-38の左側にそれていった。気を取り直してフットバアを踏み、修正する。再び引き金にかけた指に力をこめた途端激しい震動に襲われた。右翼。ミシンをかけられたようにきれいに弾跡が並んでいて、そこから透明な燃料が漏れていた。声にならないうめきを上げて、さらに二転。パラシュートと身体を結びつけているベルトを外し、操縦席の中で自由に動けるようにした。後方を見やるとまた新手。機銃弾が飛んできた。操縦桿を腹につくまでいっぱいに引いた。宙返り。敵機の後ろにまわりこむ。今度は慎重に後ろを見て、追尾してくる敵機のないことを確認してから、照準器をのぞきこむ。その時には敵機は旋回して左下方へ逃れていた。舌打ちすることもできなかった。今度は左から二機。機体を滑らせて逃げる。スピードブレーキを展開し、空中で停止するように機動するとうまい具合に左から来た敵機の腹が照準環に飛び込んだ。ためらわず二〇ミリ砲を発射する。爆発。P-38が火の玉になった。
 ほとんど同時に操縦席のすぐ後ろを吹っ飛ばされ、シート後部の金具が鳴った。油断も隙もあったものじゃない。反射的に操縦桿を倒して降下をしかけ、悲鳴を上げた。目の前はもう海面だった。操縦桿を急激に引き起こし、同時に左のペダルを蹴って、水平に旋回する。翼を下げすぎると海面を叩きそうだった。海面に水柱がたつ。素早くS字ターンを繰り返して、からくも銃撃をさけた。高度、ゼロ。いつの間にこんなに低く降りてきたのだろう。西河を捜した。だが、どこにも見あたらなかった。すでに落とされたのだろうか? 不吉な疑問が胸にわきあがる。右から敵機。僚機を思うこともままならない。何度かのS字ターンの後、川崎はいよいよ最期が来たことを感じた。後方から二機、前からも二機。左右からそれぞれ一機ずつがほぼ同時に襲いかかってきた。それぞれの機首からオレンジ色の炎を閃かせている。恐怖に目を閉じようとした刹那、西河機を発見した。空中で横転しながら、ゆっくりと川崎の機体を掩護するように覆いかぶさってきたのだ。風防を開いていた。見上げた川崎の目に西河の姿が映った。白い絹の
マフラーは血を吸って真っ赤に染まっている。川崎と西河の視線が交わった。西河が手を振った。四方八方から発射された無数の一二・七ミリ機銃弾が西河の乗機を引き裂いた。
 西河機はさらに横転を続け、海面に突っ込んだ。川崎はまっすぐ全速力で逃げた。

 一九八九年九月、東京・六本木、防衛庁。
 日が暮れようとしている。大きな窓からは斜めに光が差し込んでいた。西河中尉──忘れかけていた若き海軍中尉の顔を今日はすんなりと思い出すことができた──お迎えが近いということですか。川崎はうっすらと笑い、いつの間にかしっかりと握りしめていた一挺の古ぼけた自動拳銃に目をやった。南部十四年式乙型。油紙に丁寧に包んでデスクの引き出しの奥深くにしまってある。銃も弾丸も五十年前に生産されたものだった。
 川崎の手に残った、西河の思い出。
 ドアがノックされ、川崎は現実に引き戻された。銃をデスクの引き出しにしまう。
「入りたまえ」ドアに向かって声をかける。
 黒縁のボストン眼鏡をかけた痩身の男が入ってきた。鼻の下に細い髭。内閣調査室の田代だった。
「閣下、お客様がお見えになりました」
「そうか」川崎はゆっくりと立ち上がった。
 田代の案内で大柄な黒人が川崎の執務室に入ってくる。アメリカ空軍准将、フランクリン・F・バーンズだった。
「お久し振りです、ジェネラル・カワサキ」バーンズが分厚い手を差し出した。
「お元気でしたか、ジェネラル・バーンズ」
 川崎は口許には笑みを浮かべながら、鋭い視線でバーンズの表情を探っていた。

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