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鼻に挟み撃ち
いとうせいこう

 第一章 今井さん

 今井さん、私は日々顔を洗いヒゲを剃り、髪と体を湯水で濡らしてはタオルで拭きとるのと同じように、毎日テープ起こしをして暮らしているのです。ご存知のように、今井さんのような出版社や新聞社の担当者の方から届けられる、かつてはカセットテープ、続いてそのおもちゃ版のようなマイクロカセット、そして今ではインターネット経由でダウンロードした音声ファイルから言葉を聴き取って、白壁にノミでくっきりと刻んでいくように少しずつ確実に文字へと打ち換える仕事です。
 私になじみ深いのはやはり長い期間付き合ってきたカセットテープで、この世界に入った時に先輩たちに教わった仕組、足踏みミシンに似たパネルがつながった特殊なレコーダーでテープを再生し、中に吹き込まれたインタビューや対談を小刻みに聴いてキーボードを叩き、車のブレーキを踏むように停止ボタン部分を足で押しては、キュルキュルと雪山の小動物の悲鳴みたいな音を鳴らして時を少し戻し、確認のために再度同じ箇所を聴くとそのまま聴き込んでしまって文字起こしを忘れてしまう自分を抑えながらまた先に進み、時には再生の速度を二段階にわたって落とすことで低まった音声に耳を傾け、聴き取りを確実にします。そうやって片足で自在にテープの動きを操ることで、新種の耳飾りを思わせるほど長時間装着しているイヤホンからの声に集中し、キーボードに両手で素早く文字を打っていくわけです。かつてはカセットをレコーダーに差し込む時処刑前の首切り役人がそうだったろうように緊張したものですが、今ではすっかり慣れてしまって、むしろ新しい贈り物の包みを開けるくらいの軽々とした期待に胸を躍らせます。
 こうしたカセットテープの作業は完全になくなったわけではなく、やはり今井さんなどがよく知っておられる通り、今でも古参の編集者などはテープの実際の回転が目に見える小型レコーダー、蝉の目めいた赤ランプの点滅が音声の受信の具合を示してくれるアナクロな機械に安心するようなのですが、しかし実体の物質化しない音声ファイルの、つまりICレコーダーや最近ではまことに薄い形状のスマートフォンを使用しての録音ファイルのやりとりが、豪雨のあとの地滑り的な勢いで増え続けているのも事実です。
 とはいえ、私の仕事の形態はほぼ変わりません。音声データをパソコン画面上の横長の小窓に映し出して、旗が風にたなびくようにゆっくり動くそれを、私はやっぱり足踏みミシンに似た、知らない人が見たら健康器具と間違いかねない黒いパネルで操作します。パネルの動きを逐一拾ってコンピュータヘの指示に変換するソフトを使っているのですが、そのソフトが出るまでの期間、音声データを一度再生してカセットに録り直すというばかばかしい面倒を余儀なくされ、その間じっと雑音をさせないように座り込み、対談なりインタビューなりを丸々一度拝聴しなければならなかったものでした。ありがたいことにそんな二度手間も長くは続きませんでしたが。
 さて、以下は決して今井さんへのなんらかの思惑があって言うのではなく、出来るだけ正確に実情を話したいだけなのですが、私たちの仕事のギャラは当然、専門用語や人名の正確性に対するレベルによって変わるわけです。もちろん私はかなりいただいている方です。とはいえここだけの話、どんなに見事な文字起こしをしたとしても、値段は一時間の録音を再現して一万数千円程度であとは腕前を評価して幾ら足してもらえるかというところであり、一時間の内容を起こすには最低でもその三倍の時間がかかるのですから、決して時給のいい仕事とはいえません。
 しかも価格破壊的に素人の学生が仕事を引き受けることもあって、むろん精度は低いのですがプロとしてはやっかいです。一度など、足踏みパネルさえ持っていない数人の集団がさかんに文字起こしの仕事を引き受けていると噂された時期があって、東南アジアの窃盗団のイメージで語られる彼らはマイクロカセットのレコーダーをキーボードの左に固定する台を自らホームセンターでみつくろった部品で作り、左手の小指だけでレコーダーの小さなボタンを操作するコツを覚えたというのでした。本当のことかどうかはわかりません。私の同業者との付き合いは長く途絶えており、唯一依頼主の編集者の方々などから時々、廃村の伝承めいた古めかしい業界の話を聞かされるだけだからです。
 彼らは残り九本の指で文字を打つというのでした。この技術を彼ら自身「893」と符牒めかして呼んでいたともいわれ、確かにキーボードからすれば彼らは左の小指を無くしたヤクザのごとき存在だからで、それは驚嘆すべき特殊な技術には違いなかったのでしたが、その集団の影はすぐに消えていきました。やはり私どもプロの速さと聴き取りの正確さ、多少の編集の有無は経験に裏打ちされており、そうでない仕事は訂正や確認といった二度手間を結果必要としますから、どんなに安いギャラでも利点は少ないのです。比べて私どもの仕事の出来は十二分に信頼出来たのに違いありません。これは是非今井さんにもご賛同いただきたいところであります。
 ちなみに最近では劇的な変化も起きていて、音声データをいったんコンピュータのソフトに通して書字化する場合もあり、私も試してみたことがあります。データはまず、知能の低い翻訳ソフトから出て来たような意味の通らない、解読以前の古代文字群を連想させる記号、通常の意識では思いもつかないカタカナと平仮名とアルファベットの連なり、一文字ずつが小骨の集合にしか見えなくなるような美しくも奇怪な文になります。統一された視点を欠いたその文字群から、私はイヤホンの奥に響く声にしたがってあちらを拾いこちらを捨て、文節の切り間違いを正して意味をつなぎ直し、あたかも全身美容整形を施すようにひとつの文の流れを作り出すわけです。が、それはもはや文字起こしとは別な作業に近くなりますから、私はもう使わないでしょう。と言いますか、私は数年前に一度だけそれを試したきりで以後は一切無縁なのです。ですから、今回今井さんから留守電でご指摘のあった件と、この技術の使用はまったく無関係であること、どうぞご承知おき下さい。
 もしもし、鵜殿さん、放牧社の今井秀雄です。お疲れさまです。あー、先日上げていただきました『詩人ビッグ対談・真冬の陣』の中で、ですね。あ、その節はありがとうございました。で、中にですね、幾つか実際の現場では出なかったように思われる文言がですね、えー、見受けられまして。まとめの際に鵜殿さん、付け加えられたのかなあ、と。穂積一徳さんが細かい方なんでゲラで疑念を呈しておられて、私もどうにも細かい人間ですんで確認の電話をいただきたいと思っておりまして。すいません。またかけます。
 私自身のことをご理解いただくためにもう少しくわしく付け加えさせていただきますと、四半世紀ほど前、つまりこの仕事を始める以前、私はまだ大学三年生でホテル内の喫茶店でアルバイトをしていたのでした。ある日、打ち合わせなどにも使う広めの部屋から、熱いコーヒーと冷たいコーヒーをそれぞれ五つずつという、飲む側の好みは何も考えていないだろうような大ざっぱな注文が入りました。黒い蝶ネクタイをしめ直し、氷入りのピッチャーに水をたっぷり調えて部屋まで上がっていくと、中にカメラマンやスタイリストやメイクアップアーティストらしき人が立ち働いていて、その奥の丸テーブルに著名な女性作家と男性タレントが座っていました。女性作家は濃淡の違う緑色の布をたくさん重ね着していて、樹齢の深まった丈低い樹木にそっくりで、男性タレントは上下ともにワンサイズ小さなスーツとシャツを着ており、はちきれそうなハムのようでした。さらに、飲み物の受け取りのサインをするために席を立った編集者とは別にテーブルには薄い灰色のジャケットを着た中年男性がいて、背を丸めて一点を見つめているその人が、私には白いフクロウそのものに見えたのでした。そして、その男性の手元を見た途端、私は目が離せなくなったのです。大判のノートの上に、奇怪な、しかし簡素な絵のようなものが描いてありました。謎めいていました。男性の目の前には小さな銀の箱も置かれてあり、それが白フクロウの秘密のエサ箱であるかに感じられましたが、なんということもない、あとでそれが小型カセットレコーダーだったとわかりました。
 席に着いている人たちの分だけコーヒーの種類を聞き、それを私がサーブしているうちに、樹木とハムは話を始めてしまいました。編集者があわてて席に着く中、黙って背を丸めていた中年男性があのノートに悠揚迫らぬ態度ですらすらと変わった線を、まるでデッサンのように、あるいは常に右横に伸びていく鉛筆の力をわずかずつ放出するように描き出しました。私は思わず立ち尽くし、背後からその線の舞踊めいたものを見つめました。促されて退出する十数秒の間、この世で一番抽象的で孤独な行為を見たと思いました。喫茶店に戻りながら、あれが速記というものなのだろうと夢から醒めるような感覚で認識したものです。
 一時間半ほどのち、ホテルの一階にある店にあの白フクロウが一人で現れました。私が彼の魔術に魅入られたことを、その人が一番よく知っていました。彼は私を見つけて話しかけてくると、名刺を胸の内ポケットから出し、興味があるなら一度事務所に来るといいと太い指で名刺をまだ持ったまま言い、両目を閉じたものです。そのまま冬眠してしまうのではないかと思いました。それが私がこの仕事をする始まりです。
 三日も経たないうちに私は招かれた場所に足を運びました。黙ったきりの三人ほどの男女が、それぞれパーテーションで区切られたデスクの前で旧式の足踏みパネルを踏み、ワープロに文字を打ち込んでいたのをよく覚えています。その奥にまた幾つかの小さなデスクがあり、ひからびた柿の実に似た顔の一人の小柄な老女がノートに記された細い線虫のような記号から、原稿用紙に見慣れた日本語を書き起こしている最中でした。
 私の白フクロウ、甘木さんの席はその隣にありました。歓迎してくれた甘木さんはそこが基本的に速記者の所属する事務所であること、新聞社や出版社などから依頼されて出かける場合が多いことなどを話し、君も速記を習ってみればいいじゃないかと小さな炎を吐くような情熱で言いましたが、私は甘木さんが描くあの絵画のパーツのような文字の軌跡が好きなのであって自分がそれを描けるとはなぜかまるで思いませんでした。むしろ私は、誰もがほとんどしゃべっていない職場自体をことのほか気に入りました。それぞれが自分の持ち分に集中し、互いに騒音を出さないこと以外にはなんの頓着もしていない。ワープロの画面に釘づけになっている数人の姿は何年も宇宙に行ったきりの飛行士のようでした。したがって甘木さんが何かアルバイトをする気はあるかと聞いてくれた時、彼に紹介してもらったのがつまり今も続けているこのテープ起こしという仕事だったわけです。まだ学生でしたし、知識もないし、その分仕上がりも悪いから安いと言われましたが、私は是非ともやってみたいと答えました。と申しますか、私はイヤホンをして周囲からの雑音を遮り、自分の内奥だけに意識を集めて暮らしたいと思ったのです。

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