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動物翻訳家
心の声をキャッチする、飼育員のリアルストーリー
片野ゆか

   プロローグ

     〜動物と人間、ふたつの世界をつなぐ人々の仕事〜

 動物園、と聞いて、あなたは何を思い浮かべるでしょうか?
 ゾウやライオン、キリンなど、世界各地に生息する動物が飼育されている場所。動物たちの独特のしぐさに心癒されたり、迫力のある姿や声に圧倒されたり、ユニークな生態に知的好奇心を刺激されたり……。初めて見る動物に心躍らせた、幼い頃の記憶と結びつける人も多いと思います。
 かつて動物園は、この国で絶大な人気を集めるスポットのひとつでした。おそらく誰もが出かけたことがあって、機会があれば二度、三度くりかえし訪れるところ。さらに話題の動物がやってくれば、それを見ようとする人々が長蛇の列をつくりました。
 そんな動物園に転機が訪れたのは、一九九〇年頃のことです。
 動物を檻に入れて並べるという昔ながらの展示スタイルが続いてきたことで、施設としての魅力が大幅に色あせていったのです。せっかく動物園に足を運んでも、動物たちは眠っているかボンヤリとたたずむばかり。退屈そうな彼らの姿は、来園者にとってもまた退屈です。
 動いている動物たちも同じ場所を何度も行ったり来たり、首を上下に振り続けるなど、なにやら奇妙な行動をくりかえしています。なぜ彼らはそんなことをしているのか? 詳しい理由はわからないけれど、少なくともそこにいる動物たちから幸せな空気を感じることは難しい。そんなチクリとした想いを抱く人が増えていったことも、人気の低迷に深く関係していたのでしょう。
 一方で、各地に新しいレジャー施設がオープンするなど、世の中の多様化がすすみます。それにともない全国の動物園の来園者は減少の一途をたどり、それに歯止めをかけるすべもなく時代は二十一世紀へと移ります。すでに動物園は慢性的な予算不足で、動物たちが暮らす施設や展示スペースのメンテナンス、新設などはますます難しい状況。こうして老朽化が進むことによって、いっそう人々の足が遠のくという悪循環へとおち
いっていきました。
 最初に打撃を受けたのは、民間動物園です。集客が落ちればそのまま経営難になり、動物の飼料代を確保することさえ難しい。地方の小規模な園をはじめ、有名な動物園のいくつかが閉鎖されることになりました。市などの予算で運営されている行政の動物園は、なんとか存続していましたが、それでも議会で新たな予算を確保することは認められず、結果的に閉園を余儀なくされるところも少なくありませんでした。
 このような危機的状況のなか、関係者のあいだでは動物園の存在意義について議論がくりかえされました。動物園の役割とは何なのか? 多くの動物を集めたこの場所から、何を発信していくべきなのか? そもそも動物園に何ができるのか?
 飼育動物のなかには、絶滅が危惧されているものが数多くふくまれています。そのことから“種の保存”つまり繁殖は、昔から動物園に与えられた使命のひとつといわれてきましたが、目立った成果につながるケースは限られていました。
 このままでは動物園は不用のものになり、やがて世間から忘れ去られてしまう。多くの人に「行ってみたい」「また来たい」と思ってもらうためには、どうすればいいのだろう? 動物園関係者のなかには、その答えを求めて北米など海外の情報に注目する動きもありました。しかし、現地と日本では資源やスペース、人材、予算、動物に対する考え方など、あらゆるものが違いすぎ、そのままのスタイルを取り入れるのは、現実的とはいえませんでした。
 それでも注目すべきものはありました。それは“環境エンリッチメント”という概念で、動物園の飼育環境を充実させて動物たちの精神的・身体的な健康を向上させる取り組みのことです。
 近年、野生動物の生態研究がすすみ、動物園では健康で長生きをする動物が増えています。しかし、解決できない問題も数多くあります。繁殖行動ができない、正常に発育しない、けんかが多い、執拗に攻撃をくりかえす、意味もなく同じ場所を行き来するなど、動物園で飼育される動物特有の問題行動です。
 原因は複合的ですが、ひとつ大きな理由として指摘されることがあります。それは、動物園の生活があまりに単調だということです。
 動物が受ける苦痛をできるだけ少なくして、心身ともに健全な生活ができるようにすることを動物福祉と呼び、ここ数年は日本国内でも認知されるようになってきました。環境エンリッチメントは、動物福祉の立場から、飼育動物たちの“幸福な暮らし”を実現するための具体的な方策のこと。限られたスペースで長い時間を過ごす動物たちの日々に、刺激や楽しめる時間を少しでも増やしていこうというものなのです。
 とはいえ動物園の飼育現場で働く人々にとって、こうした取り組みは特別に目新しいことではありませんでした。自分が担当する動物が少しでも快適に暮らせるように創意工夫することは、意欲と向上心のある飼育員にとっては、あたりまえのことだったからです。でも今までは、動物たちを幸せにする創意工夫について、特定の呼び名はありませんでした。それが決まることで日本の動物園は大きく変わりました。飼育の現場に何が必要なのか、多くの人が共通認識を持てるようになったことによって、職場のなかで意義のある仕事として評価されるようになったのです。

 環境エンリッチメントのいいところは、たとえスペースや予算が限られていても、飼育員の努力と工夫しだいでかならず実践できることがあるという点です。エサの時間を一日複数回に分ける、木材やタイヤなど好みそうなものを置く、簡易プールや氷などをイベント的に与える、遊び道具を手作りする、見晴らし台や隠れ場所など安心スポットを増やす──。
 本来の行動や生態、個体の好みなどに合わせて創意工夫を重ねることで、動物たちはあきらかに変わっていきました。これまでにないイキイキとした表情やダイナミックな行動、ユーモアたっぷりのしぐさを見せはじめたのです。ストレスから解放されたことで見た目にも健康的になり、さらに行ったり来たりをくりかえすといった常同行動が緩和され、繁殖や育児に関する問題の解決にもつながっていきました。日本の動物園は、少しずつ新しい時代へと動いていったのです。
「最近、動物園が面白い」
 そんな声が聞こえはじめたのは、今から十年ほど前のことです。
 ムーブメントの発端は、日本最北端の動物園で知られる北海道旭川市の旭山動物園。動物たちの行動生態を理解した施設を新しくつくり、動物がみずから活発に動く様子を来園者の目の前で見せるという展示方法が、多くの人の心をつかみました。親子連れはもちろん、大人の来園者がリピーターとなり、さらに観光スポットとしても注目され、国内外から多くの人が訪れるようになったのです。
 これは環境エンリッチメントを基盤にした“行動展示”と呼ばれるスタイルで、再建をめざす全国の動物園に大きな影響を与え、やがて日本の動物園が得意とする展示手法になりました。
 しかし施設のデザインや展示方法をそのまま真似ても、魅力的な動物園はつくれません。もっとも大切なのは、目の前の動物たちの快適さを追求し続けようとする、現場で働く人々の総合的な仕事力。現在、「面白い」といわれる動物施設のすべては、この力にささえられているといっても大げさではないのです。
 楽しい、嬉しい、気分がいい──。
 動物たちがそう感じる環境をつくるためには、彼らの気持ちや本音を理解しなければなりません。もちろん言葉で伝えてくれるわけではないので、人間は使えるかぎりの能力と感覚を総動員して動物たちによりそいます。そこでは鋭い観察力や豊かな想像力、深い感受性、失敗を恐れない勇気と行動力が求められます。こうして数々のプロセスを経て、ようやく動物たちの本音や気持ちがわかってくるのです。
 しかし動物に向き合っているだけでは、物事は動きません。動物の気持ちを反映した施設づくりや展示方法を実現させるためには、動物園という組織のなかで多くの人間を説得する必要があります。運営や経営に関わる問題をクリアすることも大切で、そこを訪れる来園者の満足につながることもはずせないポイントになります。
 つまり魅力的な動物園をつくることは、動物の世界と人間の世界をつなぐ、大胆にして緻密な翻訳作業といえるのです。
 “翻訳家”である主人公の職業は飼育員です。彼らは、動物たちとどのようにつきあい、その想いを理解するのでしょう? それを人間の言葉に置き換え、組織を動かすことによって、どのように動物たちの幸せを追求していったのでしょうか?
 これから始まるのは、誰もが知る場所でおこっている、今まで誰も知らなかった本当の話。

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