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五色の虹
満州建国大学卒業生たちの戦後
三浦英之

     序章 最後の同窓会


 最後の同窓会と呼ばれたその会合は二〇一〇年六月、東京・竹橋のKKRホテル東京で開かれた。
 開宴時間は正午ちょうど。私は会場入り口のすぐそばに脚立を組んで、彼らの到着を待ちわびていた。
 時計の針が午前一一時半を回ったあたりから、彼らはぽつりぽつりと集まってきた。清楚なスーツに身を包み、多くが片手に杖をついている。
 私はその一人ひとりにレンズを向けて、脚立の上から慎重にシャッターを切っていった。焦点距離五〇ミリ、F値一・八の明るい単焦点レンズは、彼らの表情を克明に写し取っている。
 恥ずかしそうに照れ笑いする者、顔を伏せたまま通り過ぎる者、私に一瞥をくれる者、軍隊式の敬礼をして子どものようにおちゃらける者……。
 そんな表情や仕草の一つひとつは、私に彼らがこれまで歩んできた幾つもの「道」を連想させた。「道」とはすなわち、「呼び名」の数と一致している。彼らは半世紀もの間、実に様々な場所で、実に様々な「呼び名」を与えられてきた。
「神童」「秀才」「皇民」「開拓者」「棟梁」「皇軍」「将校」「侵略者」「東洋鬼子」「逃亡者」「投降兵」「捕虜」「抑留者」「裏切り者」「アカ」「共産主義者」「アクティブ」……。

 彼らは日中戦争当時、日本が満州国に設立した最高学府「建国大学」の卒業生たちである。中国東北部がまだ満州国という名前で呼ばれていた時代、日本政府がその傀儡国家における将来の国家運営を担わせようと、日本全土や満州全域から選抜した、いわば戦前戦中の「スーパーエリート」たちである。

 彼らには当時、極めて実験的な教育が施されていた。日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの各民族から選び抜かれた若者たちが満州国の首都・新京(現・長春)に集められ、約六年間、異民族と共同生活を送るよう強制されていたのである。
 それは今で言う「国際交流」とはかなり次元が異なるものだった。
 異民族の学生たちは「塾」と呼ばれる二十数人単位の寮に振り分けられ、授業はもちろん、食事も、睡眠も、運動も、生活のすべてを異民族と共に実施するよう求められていたのだ。塾内では一人一畳のスペースが与えられ、就寝時には枕木のように十数人が一列になって眠るよう定められていた。その順番においても同じ民族がなるべく隣同士にならぬよう、異民族を交互に配して眠らせるほどの徹底ぶりだった。
 そこまでして、彼らが目指そうとしていたものは何だったのか──。
 答えはもちろん、満州国が当時国是として掲げていた「五族協和」の実践である。
 満州国には当時、漢民族、満州族、朝鮮族、モンゴル族などの民族がモザイクのように入り交じって暮らしていた。日本政府は満州国建国の早い時期から、総人口のわずか二%にすぎない日本人が圧倒的多数の異民族を支配することは極めて困難だと判断し、結果、国の実権は事実上すべて握りながらも、「五つの民族が共に手を取り合いながら、新しい国を作り上げよう」という「五族協和」のスローガンを意図的かつ戦略的に国内外へと掲げたのである。満州国の最高学府として設立された建国大学は、そのスローガンを実践するための「実験場」であり、その成果を国際社会へと発信するための「広告塔」でもあった。
 そしてそれは皮肉なことに、日本が独自に創設した初の「国際大学」でもあった。
 国際化をうたいながらも実質的には在校生の大多数を日本人が独占していた各地の帝国大学とは一線を画し、建国大学では日本人学生は定員の半分に制限され、残りの半数は中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの各民族の学生たちにきちんと割り当てられていた。カリキュラムも語学が授業の三分の一を占めており、学生たちは公用語である日本語や中国語のほか、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、モンゴル語などの言語を自由に選択することが許されていた。
 そして驚くべきことに、建国大学の学生たちには当時、戦前戦中の風潮からはちょっと想像もつかないような、ある特権が付与されていた。
 言論の自由である。
 五族協和を実践するためには、異なる生活習慣や歴史認識の違いだけでなく、互いの内面下にある感情さえをも正しく理解する必要があるとして、建国大学は開学当初から中国人学生や朝鮮人学生を含むすべての学生に言論の自由を──つまり日本政府を公然と批判する自由を──認めていたのである。
 その特権は彼らのなかに独自の文化を生み出した。塾内では毎晩のように言論の自由が保障された「座談会」が開催され、朝鮮人学生や中国人学生たちとの議論のなかで、日本政府に対する激しい非難が連日のように日本人学生へと向けられたのだ。
 同世代の若者同士が一定期間、対等な立場で生活を送れば、民族の間に優劣の差などないことは誰もが簡単に見抜けてしまう。彼らは、日本は優越民族の国であるという選民思想に踊らされていた当時の大多数の日本人のなかで、政府が掲げる理想がいかに矛盾に満ちたものであるのかを身をもって知り抜いていた、極めて希有な日本人でもあった。
 そんな彼らの複雑な思いを内包したまま、建国大学は一九四五年八月、満州国の崩壊とともに歴史の深い闇へ姿を消した。開学わずか八年しか存在し得なかった大学の名を今記憶している人はほとんどいない。それは日本が敗戦時に建国大学に関する資料の多くを焼却したためであり、戦後、それぞれの祖国へと散った卒業生たちが、後世に記録として残されることをひどく嫌ったせいでもあるといわれている。

 最後の同窓会は穏やかな雰囲気のなかで幕を開けた。
 参加者は約一二〇人。ホテルの大広間には八つの円卓が並び、一期生から八期生までの卒業生たちがそれぞれの入学期に分かれて腰掛けていた。
 開会の挨拶は一期生の村上和夫。司会から名前を呼ばれると、村上は会場の奥から「ハイ」と小学生のように声を上げて立ち上がり、杖をつきながら壇上に上がった。
「これから最後の同窓会を、はじめま────────す」
 新人議員が国会開会の進行動議でやるようないささか滑稽な開会宣言に、会場のあちこちから笑い声が漏れた。それが村上のキャラクターなのだろう、会場からは「他没有改変」(あの人は変わらないな)というつぶやきが上がり、誰かがそれにロシア語で応えた。
 村上に次いで壇上に上がったのは、同窓会長を務める二期生の藤森孝一だった。在学中から指折りの成績優秀者であり、戦後長らく同窓会の顔として全国の卒業生たちを束ねる役割を務めてきた藤森は、最後の同窓会を無事開催できたことを関係各位に感謝するとともに、最後に少しだけ時間を与えていただきたい、と列席者に乞うた。
「姚峻峰、閻鳳文、王積禄、靳文芳、傅振東、彭秀、李文鶴、呉寛用、崔在ム、チムトルヂ、トガルジャッブ、コルニーロフ……」
 静かだった会場にざわめきが走った。藤森はそんな会場の反応を無視するように、両目を閉じながらかつて同塾で暮らした二二人の氏名を訥々と諳んじ続けた。
「一丸充一、柴田久蔵、瀬尾博一、田中俊夫、寺島利鏡、寺本澄夫、中俣友美、水野潔、山石敏人、湯治万蔵……」
 二二人全員の氏名の朗読を終えたとき、藤森の声がかすかに震えた。
「今でもはっきりと思い出します……。寝室では私の左隣が傅振東、右隣は彭秀でした。名前を呼ぶと………、面影や話し方など……」
 藤森の慟哭に会場の空気が波打った。列席者たちは知っている。藤森が読み上げた二二人はもう誰一人、この世には生存していないのだ。建国大学の出身者である約一四〇〇人のうち、現在生存が確認されているのはわずかに約三五〇人。病死や老衰だけではない。戦後、建国大学出身者を見舞った悲劇によって、今でも多くの同窓生がその安否さえ掴めていないのである。
 建国大学で学んだ学生たちは戦後、その大学が有していた特殊性を理由に自国で激しく迫害され、弾圧された。日本人学生の多くは敗戦直後のソ連の不法行為によってシベリアに送られ、帰国後も傀儡国家の最高学府出身者というレッテルにより、高い学力と語学力を有しながらも多くの学生が相応の職種に就くことができなかった。
 もちろん、日本人学生たちはまだ良い方だった。建国大学に在籍した中国人やロシア人、モンゴル人の学生たちの多くは戦後、「日本の帝国主義への協力者」とみなされ、自国の政府によって逮捕されたり、拷問を受けたり、自己批判を強要されたりした。ある学生は殺され、ある学生は自殺し、ある学生は極北の僻地に隔離されて、馬や牛と同じような環境で何十年間も強制労働を強いられた。
 それゆえに、多くの建国大学の卒業生たちはこれまで、自らの過去を記録として残すことを好まなかった。自分たちのためだけではない。記憶を文字として刻むことがやがて証拠となり、後に他国の為政者によって共に暮らした異民族の学生やその家族への弾圧の材料に使われることを極度に恐れたからである。
 そのなかで唯一、彼らが書き継いできたものがある。いつの日か卒業生たちが互いに連絡を取りあえるようにと、秘かに編み続けてきた同窓会名簿である。
 彼らは戦後、戦地や抑留先から戻ると真っ先に、各国に散らばった同期生や同塾生の連絡先を探り始めた。六年もの間、同じ釜の飯を食い、深夜まで青い議論をぶつけ合った仲間たちが今、どこでどんな暮らしを送っているのか。激しい戦闘や過酷な労働によって体や精神を傷めてはいないか、国家権力から弾圧を受けてはいないか、金銭的に苦しい生活を強いられてはいないか──。
 彼らはたとえ国家間の国交が断絶している期間であっても、特殊なルートを使って連絡先をたどり、運良く連絡先が判明すると、手製の名簿に住所や電話番号を書き足していった。二〇〇九年に完成した最終版である『建国大学同窓会名簿』には、約一四〇〇人分の氏名や当時在籍した塾番号に加え、現在暮らしている住所や電話番号、戦後所属した組織やその役職などがひっそりと記録されている。
 私は厚さ一センチあまりのその名簿を見開いた瞬間、職業記者の性として、そこに記載されている卒業生や出身者一人ひとりを訪ね歩き、自らの目と耳によって彼らの半生を記録してみたいという衝動に駆られた。いかなる野心を抱いて大陸へと渡ったのか。「五族協和」を掲げる大学で夢見たものとは。どのような「戦後」を生き、今、当時からはあまりに変わってしまった日本という国をどのような視線で見つめているのか──。
 二〇一〇年秋、私は各国に散らばっている卒業生たちの「過去」と「現在」を集めるため、日本、中国、韓国、モンゴル、台湾、カザフスタンの各地を訪ね歩いていく「旅」に出た。

 日中戦争の最中、日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの各民族から選抜され、約六年間、共同生活を送った若者たちがいた──。
 これは日中戦争当時、日本が植民地的な支配を進めるために満州国に造り出したある国策大学に関する記録であり、そこで学んだ学生たちが戦後、どのような人生を送ったのかを綴ったドキュメントである。そして、それは紛れもなく、平和とは何かという認識ですらうまく持てなくなってしまっている、私たち「日本人」の物語である。



   第一章 新潟

     1

 立川は不思議な街である。JR立川駅の改札口前に立つとよくわかる。有名デパートが林立する北口と地元商店街が密集する南口をつなぐ南北通路は、平日休日を問わず色とりどりの服で着飾った老若男女が激しく交錯し、そのあまりのカオスに時折めまいを覚えそうになる。中央、南武、青梅の主要各線が連結し、その上空を多摩モノレールがかすめ飛ぶ多摩地区最大の「モンスター・ステーション」。新宿ほどの派手さはない。池袋ほどのいかがわしさもない。ただただ人が濁流のようになって目の前を通り過ぎていくのだ。
 かつて、ここは「空」の街だった。一九二二年、立川駅北口の広大な土地を利用して帝都防衛のための「立川飛行場」が完成すると、一九二九年には立川と大阪を約三時間でつなぐ国内初の民間定期便が就航し、人々は新しい産業がもたらす高揚感のなかで空を見上げた。
 しかし、そんな輝かしい街の歴史は決して長くは続かなかった。戦時中、軍専用の飛行場へと用途を変えていた立川飛行場は戦後、アメリカ軍に接収され、朝鮮戦争の勃発時には極東最大の輸送基地としての役割を担った。基地周辺には米兵や娼婦が住み着くようになり、暴力と売春、いかがわしいネオンライトとフライドポテトがこの街の代名詞になっていった。
 一九七七年、ようやく基地が返還されると、そこに忍び込んできたのは「大量消費社会」という名の化け物だった。庶民にマイホームを提供するという政府の怪しげなスローガンのもと、土木業界が立川を含む多摩地区全体を徹底的に宅地に変えると、そこにニュージーランドの総人口にも匹敵する約四〇〇万人もの人々が住み着いたのだ。かつて基地が存在していた広大な空き地やその周辺には大型ショッピングセンターが次々と進出し、週末になる度に街は数十万の買い物客であふれかえった。高度経済成長の熱風は日本人の風景を劇的に変えた。人々は競い合うようにして目新しい商品を買い求め、ひとたび流行が過ぎ去るとそれらを惜しみなく買い換えた。誰もが子どもの教育に熱心で、人目を気にせずによく笑い、貧しささえも恨まなくなった。

 そんな現代日本の縮図のような街に、私が所属新聞社の都内版担当記者として赴任したのは二〇一〇年の春だった。
 直後、一本の面会希望の電話を受けた。
「新潟から着任なされた記者さんですよね。実はお話ししたいことがありまして。一度お会いさせていただけませんでしょうか」
 電話口の男性は事前に前任者から私の引き継ぎを受けているらしく、私が新潟県から赴任したことや、その直前に一年間の育児休業を取得していたことなどをかなり詳細に把握していた。「電話ではダメでしょうか」と私が電話口で申し出ると、男性は「できれば、お会いしてお話ししたいのですが」となぜか執拗に食い下がった。
 私はひとまず連絡先を聞き、回答を留保した上で電話を切った。
 困ったな、と正直思った。この手の引き継ぎには昔からどうも気乗りがしない。捜査機関や行政官庁における業務的な引き継ぎならばいざしらず、自由に取材ができる環境で前任者の個人的な興味を押しつけられてはたまらない。一度書かれたネタを再度紙面で取り上げることは難しいし、会って話を聞いたとしても、「前任者はこんな風に取り上げてくれたのに」と相手に不愉快な思いをさせて関係を終わらせてしまうことが少なくないのだ。
 私は電話はしないだろうなと考えながら、靴を履いたまま職場のソファーに横たわった。
 ところが次の瞬間、私は胸の奥に何か予感のようなものを感じ、気がつくとソファーから跳び起きて男性の連絡先をダイヤルしていた。
 男性が最後に告げた一言が心のどこかに引っ掛かっていた。
 彼は確かにこう言っていたのだ。
「誰でも良いわけではないのです。新潟に勤務経験のある記者さんしか書けない記事だと思うのですが……」

 翌日、待ち合わせ場所の国立市役所に現れたのは、アウトドアウェアーに身を包んだ痩身の中年男性だった。挨拶をするなり、財布の中から名刺を取り出し、「自転車でシルクロードを横断している団体の者です」と自己紹介した。名刺には『シルクロード雑学大学(歴史探検隊)代表・長澤法隆』と記されていた。
「シルクロード?」
「ええ」と長澤は笑顔で言った。「今、中高年にはシルクロードが結構な人気なんです。『絹の道を辿る旅』とか『シルクロード夢紀行』とか、旅行雑誌で見かけませんか? 僕らはただそこに行くだけじゃなくて、いっそのこと自転車でそのシルクロードを駆け抜けてみませんか、と定年退職した世代に呼びかけて会員を募っているんです。年に数回、飛行機で中国の奥地や中央アジアに渡り、自転車を使ってシルクロードを走破する。そんな冒険と旅行の中間のようなことをやっています」
「すごいですね」と私はいささか社交辞令的に驚いて会話を進めた。「でも、随分と時間がかかりそうですね。シルクロードを自転車で横断するにはどれくらい時間がかかるんですか」
「だいたい二〇年ぐらいですかね」と長澤はこともなげに言った。
「二〇年?」と私は今度は本当に驚いて聞いた。「二〇年もやっているんですか」
「ええ、実はそうなんです」と長澤は少し照れながら言った。「年に数週間だけ現地に行って尺取り虫のように距離を稼いでいるから、どうしても二〇年はかかっちゃうんです。あらかじめその年のスタート地点とゴール地点を決めておき、次の年はそのゴール地点から新たなゴール地点へと自転車を進める。もうだいぶ進んできたので、このままのペースで行けば再来年までには最終目的地のローマまで辿り着けると思うのですが……」
 長澤の話は確かに興味深いものではあったが、詳細を尋ねてみると予想通り、一連の企画は前任者によってすでに紙面化されていた。私が「新聞では同じ内容を重複して掲載できないんです」と新聞社の事情を遠回しに説明すると、長澤は「いや、いいんです。今回はこっちが主題じゃありませんから」とまったく気にする素振りを見せず、「それよりも、三浦さんは日本の近現代史に興味をお持ちではありませんか」と簡単に話題を変えた。
「近現代史?」
「そう、近現代史」と長澤は続けた。「正確に言うと、戦後間もない混乱期の話です。僕がやっているシルクロードにちょっと関係するテーマなんですが、実は最近、キルギスという旧ソ連邦の山奥にかつて多くの日本人が抑留されていた事実が僕らの調査で明らかになってきたんです。現地を自転車で旅していたときに、『ここでは昔、日本人がたくさん働いていたんだ』というような話を耳にしたので、日本に帰ってから調べてみたところ、どうも敗戦後、ソ連軍の捕虜になった元日本兵たちが中央アジアにまで運ばれてきて、そこで強制労働をさせられていたらしいということがわかったんです。そこで先日、あるメディアを通じて情報提供を呼びかけてみたところ、なんと、当時キルギスに抑留されていたというその元日本兵が自ら名乗り出てくれたんですよ」
 へえ、と私は思わず頷いていた。
「ね、面白そうな話でしょう」と長澤は私の顔をのぞき込むようにして話を続けた。「まだ実現するかどうかは未定なのですが、できれば今年、その元日本兵の協力を得てキルギスに抑留記念館を造れないかと考えているんです」
「例えば……」と私は思わず身を乗り出して長澤に尋ねた。「その抑留記念館の設立の際に、私が同行取材させていただくことは可能なのでしょうか」
「もちろんです」と長澤は言った。「でもその前に、その抑留経験者の方に直接インタビューなさってはいかがですか? その方が概要を掴めると思うし、いわゆる『前うち記事』なんかも書けるんじゃないかと──」
「よろしくお願いします」と私は完全に仕事モードになって長澤に頭を下げた。「その方は今どこにお住まいなのですか」
「新潟ですよ」
「新潟?」
「そう、新潟です」と長澤は少し笑ったように見えた。「だから、電話で言ったじゃないですか。新潟に勤務経験のある記者さんしか書けない記事だって。新潟に勤務経験のある記者さんなら、彼の新潟弁も難なく理解できるんじゃないかと思って──」

     2

 数日後、私は上越新幹線に乗って残雪の光る新緑の新潟へと向かった。長澤には「電話取材でも構いませんよ」と言われたが、私は本人との面会取材にこだわった。過去、特に戦時中に起きた出来事については、その事実の裏付けの難しさからどうしても誇張やフィクションが紛れ込んでしまう。私は長澤から聞いた話がどこまで事実に基づくものなのか、時間や距離といった制約をできるだけなくした状態で元抑留者と呼ばれる人物を取材したかった。
 キルギスに抑留されていたという元日本兵は、新発田という新潟県北部の小さな町で農業を営んでいた。JR新潟駅から四〇分ほどローカル線に揺られ、JR新発田駅から小型タクシーで二〇分ほど行くと、古くて簡素な民家の前で小柄な老人が私の到着を待ち受けていた。
「宮野泰です」と老人は私がタクシーを降りるなりいきなり頭を下げてフルネームを名乗った。幾重にも刻まれた深い皺。人なつっこそうな大きな瞳。元兵士という肩書にはあまりにもそぐわない、農業というよりは、むしろ元教師や元僧侶といった形容がぴったりとくるような老人だった。
 私が自己紹介をして手土産を渡すと、宮野は目を細めて私を民家の中へと導いてくれた。玄関の引き戸を開けると、雪国独特の湿度を含んだ土や木の匂いがした。建てられてから年月が経っているのだろう、廊下は歩くたびに床板がきしんで大きな音をたてた。
 通された客間には中国製と見られる木彫りや石造りの彫像が並び、壁には大きな漢詩の掛け軸が掛けられていた。
「中国の装飾がお好きなのですね」と私が挨拶代わりに切り出すと、「ええ、戦時中は満州におりましたから」と宮野は淡々とした口調で答えた。
「中国語もお話しになる」
「ほんの少しですが」と宮野は今度は少し恥ずかしそうな表情で言葉を返した。「でも、もうだいぶお返ししてしまいました。当時はかなりしゃべることができたんですが……。戦争に負けて、こちらに引き揚げてきまして、以来まともには使っていません。でもなんというか、中国のことはその後もどこかに引っ掛かっていて、今でもちょくちょく新潟の日中友好団体などで中国から来た留学生なんかにつたない日本語を教えたりしとるんです。でもまあこの通り、私は新潟なまりがひどいもんで、彼らに間違った日本語を植え付けてないかと若干心配ではあるのですが……」
 宮野は一通り自己紹介を終えると、台所からお茶の入った湯飲みを二つ、客間のテーブルに運んできてくれた。片足が不自由らしく、途中で何度もお茶をこぼしそうになる。私は両手で湯飲みを受け取ると、それを一息に飲み干してからICレコーダーの電源を入れた。
「今、おいくつですか」
「八五歳になりました」と宮野はわざと背筋を伸ばして笑いながら言った。「恥ずかしながら、最近少しずつ体が動かんようになってきています。これでもまあ、昔は戦争に行き、長い間、抑留生活も経験したんですが、やはり歳には勝てません。情けないことです……」
 最初に会話を交わした限りでは、宮野は若干耳が遠くなっているものの、思考は極めて明瞭であり、取材については何一つ問題ないように思われた。
 ところが、実際に質問を始めてみると、取材はまったくと言っていいほどうまく前には進まなかった。宮野は優れた記憶力の持ち主らしく、抑留中に訪れた地名や共に過ごした抑留者の名前をほぼ正確に記憶しているのだが、どうもいい加減なことが許せない性格らしく、私が質問をする度に自分の記憶が過去の事実と間違っていないか、その裏付けを取るために何度も客間のふすまの奥へと姿を消してしまうのである。ふすまの奥には二階へと続く階段があり、そこには過去の資料が置かれている彼の「勉強部屋」があるらしかった。私はいっそのこと資料が置かれているその「勉強部屋」で話を聞かせてもらえないかと彼に提案をしてみたが、彼は「随分と散らかっておりますもので」と頑として私の申し出を受け付けなかった。
 それでも何度目かの往来の際、私がふとした隙をついて二階へと続く急な階段へと足を運ぶと、宮野がちょうど階段を下りてくるところだった。宮野は私の再度の申し出に多分に困惑しながらも、最後には渋々、私を二階の部屋へと案内してくれた。
「たいした部屋じゃないんですが……」と宮野が両手で部屋のふすまを引き開けた瞬間、私は目にした光景に一瞬動けなくなってしまった。
 私の目の前に広がっていたもの。それは壁一面に積み上げられた、NHKラジオ・ロシア語講座の教材だった。
「お恥ずかしい限りです」と宮野は下を向きながら私に言った。「この歳になっても、まだ細々と続けておるんです……」
 壁を覆っている薄汚れたカセットの背面には、小さな文字でそれらを録音した日付のようなものが書き込まれていた。目を凝らして見てみると、二〇年以上も前の日付のものも含まれている。私は霞のような沈黙のなかで、このテープの持ち主がこの部屋でこれまで過ごしてきた無限の時間を想像せずにはいられなかった。
 何のために──。
 私の胸には当然とも言える幾多もの疑問が浮かんだ。今の時代、言語の習得を趣味のように楽しむ人々は珍しくない。だがしかし、彼らの多くにはその習得の先に旅行や留学という確固たる目標が存在しており、新潟県の片田舎で暮らす農家の宮野の姿からは、類似の目標を想像することが難しかった。
 もしかすると──。
 そのときになってようやく、私は自分がこれまで何か大切なことを見落としているのではないかということに気づいた。私はそれまで、宮野が「話せる」と言っていた中国語について、彼が一時期満州で暮らしていたために自然に身についたものなのだと思い込んでいた。しかし今、民家の壁を埋めているカセットテープの山々は、それらの事実を明確に否定していた。宮野はきっとそれをどこかで習得したのだ。今も学び続けているロシア語と同じように──。
「中国語も勉強したのですね。こんな風にして」と私は声を低くして宮野に尋ねた。
「ええ」と宮野は小さく頷いて質問に答えた。「方法はだいぶ異なりますが、私なりに一生懸命勉強をしたつもりです………」
「一つ、質問してもいいですか」
「どうぞ」
「なぜ、ロシア語なのでしょうか」
 宮野の背中が一瞬微笑んだように見えた。
「それは……、ロシアは非常に大きくて強い国ですからね。中国がどんなに力をつけても、日本にとっては脅威にはなり得ないんです。それは依然としてロシアです。今も昔もそれだけは変わっておりません……」
 宮野は私の方を振り向いて話を続けた。
「中国と日本は所詮、遠い親戚のようなものでね。外交上はそれほど難しい国ではないのです。今でもちょくちょく諍いはありますが、なに、所詮は同じ黄色人種の国ですし、古くから文化的なつながりも強い。お互いなんとなく意思の疎通ができるんですよ。でも、ロシアとなるとそうはいかない。相手は白色人種の国ですからね。文化や生活習慣はもちろん、価値観というか、考え方がもうまるで違うんです。互いが互いを理解し合うことが本当に難しい。そこのところをしっかりと認識しておかないと、日本はいつか必ず痛い目に遭います。そんなことを考えていると、いつの日かロシア語が必要になる日が来るのではないかと……」
 私は目の前にいる八五歳の老人と向き合えるだけの言葉が自分のなかに見つからなかった。内包している世界の大きさが違う。言語習得の先に見据えている、到達点としての地平が違う。
「凄いですね」と私はあまりに稚拙な言葉で宮野を褒めた。
「いや、たいしたことはありません」と宮野は笑いながら謙虚に言った。「私はこれでも建大生の端くれですから」
「ケンダイセイ?」
「ええ、そうです」と宮野は繰り返した。「私は当時満州国に設立されていた建国大学の出身者なのです」
 満州国の建国大学──。
 それが「幻の大学」と呼ばれた大学の名を、私が初めて耳にした瞬間だった。

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