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はぐれ馬借
武内 涼

        壱

 鳰の海は闇をうつす鏡となっている。
 広漠たる黒い湖を夜風が泡立てる。
 鳰の海に吹く風だから、鳰の浦風という。
 鳰の海──琵琶湖のことだ。
 黒色化した鳰の浦風が獅子若のぼさぼさ髪を愛撫し、叩かんとする。
 ──凄まじい男であった。
 身の丈六尺強(一尺は約三十センチ)。二十歳にはなるまい。
 筋骨が全身でふくれ上がり、体中に野蛮な傷がある。
 面差しはなかなか凛々しい。
 顎は太く、目は艶やか。今、着ているボロをぬがせ、洒落た小袖をまとわせれば、人目を引く若武者に生れかわりそうな男だった。だが瞳には剣呑たる気が湛えられていた。人がよりつくのを拒む、殺伐とした気だ。
 正長元年(一四二八)、六月二十二日。
 獅子若は琵琶湖に面した湊町──東坂本の船着き場、三津浜に立っていた。荒れた若者どもが印地をし合う様を眺めている。
 印地とは、石合戦だ。
 室町時代、若者たち、子供たちを夢中にさせた、雪合戦の雪を石に代えた危ない遊戯だ。
 村ごと、町ごとに組をつくり、隣村や隣町の連中と、石を投げ合う。石に飽き足らず木刀で殴り合ったり弓を射たりする者もいる。
 五月五日、端午の節句には、日本各地で印地がおこなわれ、星の数ほどの怪我人と死者が出た。
 今宵は東坂本の祭りであった。
 祭りが終っても熱狂を引きずった荒ぶる若者たちが湖畔の砂浜に集結し、印地をしていた。毎年、くり広げられる光景だ。
 東坂本の若者たちは、十間(一間は約一・八メートル)をへだて、一対一で向かい合う。見物人、順番をまっている男たちが、戦う二人をぐるりとかこみ、見守る。そうやって勝ちのこった男同士が戦い──もっとも強い男を、決める。
 男たちがにぎっているのは、金礫だ。
 石、ではない。
 一握りできる大きさの鉄塊で、致死率は大幅にます。
 室町時代に成立した御伽草子には「かなつぶて」という名の妖怪が奈良北部の丘陵地に現れ、金属球を投げて人々を困らせた話がつたわる。金礫が武器としてつかわれていたことがわかる。
 若者たちは胸や腹を板や牛革で防御し、試合にのぞんでいる。
 敵の胴部に当てて勝ち負けをきそうわけだが、打ち所が悪ければ死んでしまう。
 現に、ここまでに二人の死者が出、怪我人は数知れずという有様だった。
 闘技場となった三津浜には大松明が立てられている。
 赤い火明りが、さざめく湖水と夜の砂浜に立つ男たちの双眼を照らしていた。男たちの瞳には、軽率なる粗暴、引きつったような緊張、仲間をやられた憎しみ、酒と踊りが起す歓喜など、様々な感情が火となって灯っていた。
 行司をつとめる小男が、
「東ィ、若宮の松十!」
「うわぁぁぁ!」
 松十の仲間たちが跳ねる。乱舞するように、足で砂を叩く。
(若宮の松十……)
 獅子若が初めて見る顔だった。が、松十の仲間の顔触れで判断するに、材木宿ではたらく男らしい。
 材木宿とは琵琶湖を舟ではこばれてくる材木を、都でさばく材木問屋だ。砂浜に立つ大松明は、湖近くにずらりと並ぶ材木宿を朱色に照らしている。
「西ィ、富ヶ崎の孫十郎!」
 孫十郎は、獅子若がよく知る男である。水夫をしていた。彼の仲間は船頭や水夫など「湖の男」が多い。
 褌一丁の、湖の男どもは、野太い腕をくみ、無言で松十の仲間たちを恫喝する。
 ギョロリとした目の松十と狐目の孫十郎が、十間をへだてて睨み合った。
 都で買った、辻が花の小袖を着た松十が、ざわめきをつらぬく声で、
「おい、孫十郎!」
「おう」
「お前のその格好は、何だ? 東坂本の印地打ちは懐から礫を出す。うぬは、懐がないではないか?」
「…………」
 孫十郎は褌しかつけていない。
「何処から礫を出す? え」
 松十の仲間たちが、げたげたと哄笑した。
 すると引き締まった胸をピクリと動かした孫十郎は静かに頭を振り真顔で褌を指す。
「お主、このふくらみが見えぬか?……わしは、己の金玉の隣に、金礫を一つ仕込んでおる!」
「汚ねえ!」
 子供が叫び、近くにいた母親が頭を叩く。叩かれたのは、獅子若がいつも買う土器屋の倅である。垢じみた子で、粗衣を着ている。
 松十が、
「のう行司、褌から出すのは?」
「出せればよし。上手く出せれば、それでよし」
 かなりとぼけた行司の言い方だった。
 孫十郎の手が、褌のふくらみをさする。
「上手く引きずり出してみせましょうぞっ」
 生真面目な顔で叫んだのがおかしく、群衆がどっと笑う。
 獅子若も、笑う。
 あんた、笑っているけど、去年や一昨年のように一番になれるのかよ、という、ずるさと尊敬、そして子供っぽい挑発がまじった目で、土器屋の悴が見てくる。獅子若が、ふんと、表情を歪める。
 東坂本で毎夏おこなわれる印地。
 巌が如き肉体をもつ獅子若は、二年連続、王者に輝いている。
 今年は一回戦から出ず、二回戦から出る。
 孫十郎、松十の次が獅子若の出番である。はま道の金剛丸というのが彼の相手だ。元は牛飼いで、今はあぶれ者をしている若者だ。
 金剛丸と不穏な仲間どもを獅子若が睨みつける。
 荒削りの殺気の氷塊が、獅子若に叩き返される。
 ──ふと、獅子若の視線が止った。
 顔の下半分を艶やかな扇で隠した娘が、金剛丸から少しはなれた所に立っていた。青い花柄が絞り染された品のよい単衣を着た娘で、市女笠から垂れた枲の垂布が、いかにも涼しげである。
 侍女と若党が二人、傍を固めている。
 初めて見る娘だ。その潤んだ視線は、獅子若にそそがれている気がする。
(石の鳥居の西側に住む娘か……。所詮、俺には縁がねえ、姫君よ)
 近江坂本では石の鳥居の東側──すなわち湖側に獅子若の階層の者たち、西側──すなわち山側に、異なる階層の者たちが暮していた。
 試合を前に自分を掻き乱した余計な雑念を振り払う。
 砂浜でむき合う二人に、意識をむけた。
 刹那、
「はじめ!」
 軍配が、振り下される。

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