書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
内通と破滅と僕の恋人
珈琲店ブラックスノウのサイバー事件簿
一田和樹

   第一話 初夏 監視アプリ 〜文中より抜粋〜

       一

 その時、小さな看板が目に入った。道に面して置かれた看板の横には、地下へと続く階段がある。どことなく人を寄せ付けない雰囲気だ。素っ気ない古びた看板には、「珈琲店ブラックスノウ」と太い文字で書かれている。
「なに?」
「こんなとこに喫茶店なんかあったかなと思ってさ。今度、入ってみない?」
 凪はそう言うと、看板を指さす。霧香は、あまり興味なさそうに看板に目をやり、
「講義に遅れる」
 と凪を急かした。

 講義が終わり、学食で昼食をとっていると、「さっきの喫茶店に行ってみようか?」と霧香が突然言い出した。さきほどはあまり関心を持っていない様子だったので凪はいささか面食らった。
「興味あるんでしょ。行ってみよう。よく考えると、あたしも行ってみたい」
 霧香は、そう言うと頬を赤らめた。どういう風の吹き回しだろうと思ったが、気になっていたので反対する理由はない。
「次の講義まで七十三分あるから行ってみよう」
 霧香の提案に凪も同意し、昼食の後で行くことになった。
「ダンジョンみたい」
 霧香は凪を先導して地下へと続く仄暗い階段を下りてゆく。
 階段を下りきったところにある入り口の扉は真っ黒だった。店名すら書かれていない。本当に入り口なのか迷うが、この扉しかないから間違いようがない。ひるんだが、ままよとばかりに凪が扉を引くと、渋い声の「いらっしゃいませ」が耳に入った。その響きに拒絶はなく、むしろあたたかい歓迎を感じて凪はほっとした。
 開いた扉の向こうは、くすんだ光に包まれていた。まるで別世界みたいだ、と凪は思う。ファンタジー映画の異世界への入り口の店の雰囲気に似ている。偏屈だが人のよさそうな老人が店番をしている骨董品屋や古書店。壁に貼られた古い映画や演劇のポスターや抑えた照明が時間の感覚を失わせ、時を経た意匠が時代を錯覚させる。ふたりはその場に立ちすくんだ。
「ダークファンタジーだ」
 霧香に腕を突かれて彼女が指さす方に目をやると、道化師の仮面がかかっていた。
「なんだか骨董品店みたいだね」
 凪がつぶやくと、かすかな笑い声が聞こえた。声のした方にふたりが目をやると、奥の席に腰掛けていた女性が、こちらを見ていた。三十歳前後に見える大人の女性だ。短く刈った赤い髪、黒のワンピース、魔女を彷彿とさせる。身体は細くて華奢だが、強い意志を感じさせる目をしていた。
 なんとなくふたりともその女性から目が離せなくなった。
「お好きな席にどうぞ」
 さきほどの渋い声でふたりは我に返った。ふたりが立っている入り口の正面にカウンターがあり、その向こうにマスターらしい男性が立っていた。がっちりした身体は白いシャツとカフェエプロンに包まれ、周囲から立ち上る湯気が、幻想的にその姿をかすませる。頑固そうな顔はいかにも珈琲職人といった風情だ。
 あらためて見ると、レトロな雰囲気の落ち着いた店だ。大きな一枚板のカウンターテーブルが中央に鎮座している。奥にテーブル席がひとつあるが、テーブルの上には平べったい黒い機械が重ねて置かれていて、使用不可らしい。
「座ろうか」
 店内を見回している霧香に声をかけ、凪はカウンターの端の席に腰掛けた。霧香も、その隣に腰掛ける。
「どうぞ」
 マスターが、分厚いグラスに入ったお冷やとメニューを置いた。
「きれいな、ぎやまん」
 凪がメニューを手に取ると、霧香はグラスを持ち上げてつぶやいた。肉厚のガラスにほんのりと昔風の朱や藍の色がまざっている。まるで子供のように目を輝かせる霧香の横顔がひどくかわいく見える。つるんとした頬を突きたくなるのを我慢した。
「雰囲気のいい店だね。外からは想像できない」
 凪の言葉にマスターがカウンターの向こうからちらりと視線を向けてきた。
「こういう店だったんだ」
 注文をしなくてはとメニューを開くと、たくさんの種類の豆の名前がずらりと並んでいた。珈琲豆の種類は少し知っていたが、そのどれにも当てはまらない名前が手書きで綴られており、さらに浅煎り、中煎り、深煎りと分かれている。とどめに淹れ方まで選べるようになっていた。しかし、どう注文すればよいのかわからない。
「なにこれ?」
 霧香はメニューをのぞきこんで驚く。大きな目がくりくりと動いた。最初は奇妙に思えたが、今は小動物のように愛らしい仕草に見える。
「わかる?」
「いや、難易度高い」
 凪が困った様子で頭をかくと、マスターが近づいてきた。背はそれほど高くない。肩幅が広く、猛禽類を思わせる、険しいがどことなく愛嬌のある顔だ。
「よろしければ当店オリジナルのスノウブレンドはいかがでしょう? お好みの味があれば、それに合ったものをご紹介しますが」
 低く通る声で助け船を出してくれた。見かけはいかついが、いい人なのかもしれないと凪は思う。
「じゃあ、それで」
 ふたりともスノウブレンドを頼んだ。安直だと思うが、ここで他のものを選ぶだけの知識はない。
「ありがとうございます」
 注文してしまうと、妙な沈黙が訪れた。かすかな水の音が聞こえる。手持ちぶさたになった凪は、ポケットからスマホを取り出した。
「まだ、アンドロイド使ってるの? 危ないって教えたのに」
 霧香がめざとく見とがめた。以前から、何度もアイフォーンに変えるよう言われているのだが、経済的なこともあってまだ変えていない。霧香に言わせると、アンドロイドよりもアイフォーンの方が安全なのだそうだ。
「だって、お金もかかるしさ。バイトの金が入ったら機種変するよ」
 凪は言い訳がましく答える。霧香は腕組みして、まじまじと凪のスマホをにらむ。
「……そのスマホにアンチウイルスソフト入れてる?」
 意外な言葉が霧香の口から出た。凪はなんのことかわからずに首をひねった。
「スマホにもマルウェアが感染するから気をつけなきゃいけないんだよ」
 霧香は続ける。
「マルウェア? コンピュータウイルスみたいなもの?」
 感染という言葉から、なんとなくコンピュータウイルスを連想した。しかし、スマホにコンピュータウイルスが感染するのだろうか?
「最近は、コンピュータウイルスのことをマルウェアって呼ぶの。どうやら、そのスマホにはアンチウイルスソフトを入れていないみたいね」
 スマホにアンチウイルスソフトを入れるなんて考えたことのなかった凪は、首をかしげた。
「アンドロイドに感染するマルウェアが増えていて危ないから気をつけた方がいい。というか、セキュリティアプリを早く入れた方がいいよ」
 アンドロイドは危ないと何度か霧香から聞いたことはあったが、具体的な説明を受けたのは今日が初めてだ。パソコンにはアンチウイルスソフトが不可欠だと知っていたが、スマホにまで必要とは知らなかった。
「ほんとだよ。しょうがないなあ。ここのサイトでウイルスにかかっているかどうかチェックしてくれるからやってみよう。四十六秒で終わるから」
 霧香は自分のスマホに、「スマホ安全チェック」と書かれたサイトを表示させて凪に見せた。それにしても四十六秒という半端な数字はどこから出てきたのだろう? 霧香は時々根拠があるのかないのかよくわからない数字を引き合いに出すが、凪はあまり突っ込まないようにしている。
「ありがと。ええと」
 凪はそのサイトの二次元バーコードをスマホで読みとってサイトにアクセスし、「あなたのスマホが安全かチェックします」と書かれたボタンをタップする。すぐに「調査中です」という表示に変わり、画面上に、カウンターのような数字が現れて、めまぐるしく動き出した。
 霧香が身体を寄せてきて、その画面をのぞき込む。
「感染しているかもしれない」
 霧香の声音が妙に楽しそうなのが気になったが、そう言われると不安になる。
「ほんと? 困ったなあ。個人情報とか盗まれたのかなあ」
 スマホには家族や知人の連絡先やLINEやツイッターのやりとりが入っている。自分の個人情報が漏れるのも怖いが、他の人の連絡先などが漏れて迷惑をかけるのも申し訳ない。
 やがて数字が止まると同時に、「マルウェアに感染しています。駆除しますか?」という表示に変わった。血の気が引き、不測の事態に出くわしたように思考が止まる。感染の話は噂やニュースでよく耳にするが、実際に自分の身に降りかかったのは初めてだ。スマホのアドレス帳に登録してある知り合いのことが頭をかすめる。これが原因で迷惑をかけてしまうかもしれない。
「どうしよう?」
 落ち着けと自分に言い聞かせながらも、凪はうろたえて霧香に問いかける。
「大丈夫。このアプリをインストールすれば駆除されるし、その後も守ってくれる。無料アプリだからお金の心配もない。八十二秒でできる」
 霧香は諭すように言って、画面に表示されている「駆除と対策アプリのインストール」という文字を指さした。
「うん、やってみる」
 凪は画面に表示されたボタンをタップしようとした。
「マスター!」
 突然奥にいた女性客が声をあげ、凪は一瞬手を止めた。
「はい」
 マスターは、そちらに目を向け、それから横目で凪を見てから首を横に振った。なんだろうと思った時、霧香が、「ほら、ここ」と言いながら身体を寄せてきた。柔らかい肩と胸が腕に押し当てられ、どきりとする。考えてみると、今までで一番接近しているかもしれない。
「ほらほら」
 霧香はさらに身体を押しつけて、凪を促した。凪は自分のスマホに再び目を向けて、指示に従ってメールアドレスと電話番号を登録し、インストールを始めた。「マルウェアを駆除しました」という表示の後、インストールの許諾画面に移った。
「ブレンドお代わり。ネルドリップでね」
 女性客は、少し甘えたような声音をマスターにかける。
「はいよ」
「やっぱ、男の人が真剣な眼差しでドリップしてくれるのを見るのだけでも喫茶店に来た甲斐があるってものよね。少年もそう思わない?」
 女性客は凪たちに同意を求めてきた。少年と呼ばれて凪の頬が赤くなった。もうすぐ二十歳になろうとしているのだが、童顔のせいで子供扱いされることが多い。どう返したものか戸惑う。常連客が一見さんをからかっているのだろうが、凪はマルウェアのことで頭がいっぱいで、それどころではない。
「インストール、終わったみたい」
 霧香の声でスマホを見ると、「一個のアプリケーションをインストールしました」と表示されていた。安心すると、掌にじっとり汗をかいていたことに気がついた。横を見ると自分を見つめている霧香と目が合う。キスしそうなくらいの近距離で、はっとした。ほのかに甘い香りがした。
「ありがとう。助かった」
 凪が言うと、霧香は顔を赤らめてはにかむような笑みを見せた。
 その後、凪と霧香はちょっと話をしてからブラックスノウを出て、残りの講義に出席するために学校に戻った。マルウェアは駆除したものの、凪はまだ心配だった。
「アンチウイルスソフトを入れたから大丈夫だよ」
 霧香ははげますようにそう言ってくれたが、落ち着かない感じは消えなかった。マルウェアに感染していたということは、スマホの個人情報などが盗まれた可能性がある。それがどういう危険に結びつくかわからないのが気持ち悪い。銀行口座から多額の現金を引き出されたり、個人情報を転売されたりしたというテレビニュースが頭をよぎる。他人事と思っていたトラブルが、自分の身にふりかかるとは思わなかった。被害を防ぐ術があるなら、やっておきたいが、なにをすればよいかわからないし、どこで調べればいいかもわからない。霧香に相談してもよいのだが、心配いらないと言われたばかりだ。
 講義の後、霧香と別れて家路についた。一緒に帰ろうと誘ったが、調べものがあるといって霧香はキャンパスに残った。ひとりで図書館に行ったり、コンピュータルームに入り浸っているようだ。
 マルウェアの対処方法をネットで調べようと考えながら歩いていると、スマホの着メロが響いた。しばらく前に流行った『千本桜』という曲だ。聞く度に他の曲に替えようと思いつつそのままになっている。
 見たことのない番号からの着信だ。いぶかしく思いながら出る。
「月島凪くんだね」
 聞き覚えのない低い声が聞こえてきた。どきりとした。さっそく個人情報が悪用されたのかと不安になる。
「はい。そうですけど?」
「知らない相手から電話がかかってきたら、不用意に、はいと答えない方がいいよ。ブラックスノウの店主の加村です。さきほどはご来店いただき、ありがとうございました」
 ブラックスノウの店主と聞いて、どうして電話番号がわかったのか不思議になる。
「突然の電話で申し訳ない。うちの店に忘れ物をしただろう? 大事なものだと思うので、できればすぐに取りに来てもらえるかな」
「え? 忘れ物?」
 なにを忘れたのかと心配になるが、思い当たるものはない。財布、学生証……とりあえずないと困るものは全部持っている。なにを忘れたんでしょう? と訊ねようとした矢先、マスターの声がした。
「ところで、さっきの彼女とは一緒かな?」
「いえ」
「そうか。いや、なんでもない。じゃあ待っている」
 電話はすぐに切れた。ブラックスノウは帰り道だから手間はかからないが、なにを忘れたのか訊けなかった。このスマホの番号にかけてきたということは、電話番号が書いてあるものに違いないのだが、思い当たるものがない。凪は、言いようのない不安に襲われた。

トップページへ戻る