書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
時限捜査
堂場瞬一

 第一部 占 拠

     0

 なんでこんなとこに家を買ったかなあ、と村井基樹は後悔の溜息を漏らした。大阪モノレールの万博記念公園駅の周辺には、広大な公園や商業施設が広がっているせいで、家までは歩いて十五分ほどかかる。普段は、歩くのも健康にいいと思うようにしているが、酔って帰って来た日や夏はしんどい……今日がまさにそういう日だった。暑いし酔っているし、二重の悪条件だ。
 ちょっと酔いを醒まして帰らないと。酒臭い息を吐きながら帰ると、女房にも中学二年生の長女にも嫌われるのだ。駅構内の自動販売機でスポーツドリンクを買い、万博記念公園に面した窓にあるカウンターについた。改札内にあるこの場所は、ちょっと一休みしていく時にありがたい。
 腰かけた途端、カウンターに単眼鏡があるのに気づいた。こんなもん、あったかな……細い紐でカウンターにつながれているが、ご自由にご覧下さい、いうことか。誰がやったんか知らんけど、結構なサービスやないか。
 スポーツドリンクを一口飲み、単眼鏡を目に当てる。最初は森が黒く見えているだけだったが、動かしているうちに太陽の塔が目に入る。かすかにライトアップされて、白くぼんやりと浮き上がっていた。見慣れているが、夜は一味違うもんやな。
 突然、視界が赤く染まった。
「あれ、何や」
「太陽の塔ちゃうか」
 誰かの声が聞こえた。太陽の塔がどうかしたか? もう一度、意識を集中して単眼鏡を覗きこむ。あれや。空中にぽっと灯りが灯っているような……それがゆらりと揺れている。
「火事ちゃうか?」
「アホか。太陽の塔が燃えるかいな」
 周囲の人の話を聴きながら、村井はさらに目を凝らした。そう、まさか、太陽の塔が燃えるはずがない……しかし、空中では間違いなく、ゆらゆらと小さな炎が揺れていた。あれ、二つの顔の真ん中あたりやないか?
「おいおい、誰か一一九番したれよ」
「ホンマに火事やで」
 村井は単眼鏡に目を当てたまま、スマートフォンを取り出していた。本当に火事なら……えらいこっちゃ。あれ、大阪のシンボルなんやで。

     1

 署長は酒が弱いとやっとれんな、と島村保はひそかに溜息をついた。署長という仕事では、外部──警察関係者以外とのつき合いも多い。ところが基本的には真面目な酒席ばかりで、くつろいで酒を楽しむわけにはいかないのだ。常に背筋をぴしりと伸ばしておかねばならないわけで、酔って暴言でも吐いたらアウトだ。
 しかし今夜は、素直に気持ちのいい呑み会だった。特に緊張することもない、署の幹部クラスによる自分の送別会だったから。島村は明日で大阪府警梅田署署長として二年の勤務を終え、明後日からは警察学校長に就任する。それが、警察におけるキャリアの終点になる予定だ。難関の試験を突破して警察官になったばかりの若者たちを鍛える仕事は、キャリアの仕上げとして悪くない。最後に、若者に自分のノウハウや夢を託せるなんて、勤め人の理想やないか。
「いやあ、今夜はええ酒やった。ありがとうな」島村は、横を歩く副署長の遠藤に礼を言った。
「とんでもないです。署長にはすっかりお世話になって、署員一同感謝、感謝ですわ」
 何をおためごかしを……自分より二歳若いこの男は、警察官としての能力は、それほど大したことはない。本当にできる人間なら、もっと若くして梅田署──府警の中では最重要のS級署だ──の副署長ぐらいは経験しているものだ。ただこいつは、人柄はいいからなあ。絶対に憎めない奴。人柄だけでも警視にまでなれるという、いい見本だ。
「明日もお忙しいですよね。引っ越し準備は大丈夫なんですか」
「問題ないよ。女房も慣れてるからね」
「これが最後の引っ越しですか。感慨深いでしょうな」
「いや、面倒なことが終わると思うとほっとするわ。いくら慣れてるいうても、歳取ると引っ越しはきついからな」
「仰る通りですな」
 二人は曽根崎新地から御堂筋に出て、署の方へ向かっていた。遠藤はこのまま、東梅田から地下鉄谷町線で守口まで帰る。島村は、梅田署の最上階にある官舎へ戻るだけだった。課長たちは三次会へ行ったようだが、自分は我慢、我慢。最近は呑み過ぎると翌朝がきついし、引っ越しの準備もあるからなあ……。
「明日は一日、挨拶回りと引き継ぎで潰れるから、署の方、よろしく頼むわ」
「署長の挨拶回りは大変ですからなあ」いかにも同情したように遠藤がうなずく。
「面倒やけど、こういうのをちゃんとしておかんと、後任が何を言われるか分からんからね。お仕事、お仕事や」
「お疲れ様です……あ、では、私はここで」
 東梅田駅の入り口で遠藤と別れ、島村は歩くスピードを一層落としてぶらぶらと署へ向かった。このまま帰ってもいいのだが、呑んだ後にはコーヒーを一杯やりたくなる。九月、夜でも歩いているだけで汗をかくような気温なのに、熱くて濃いコーヒーが飲みたい。とはいえ、署の付近には喫茶店がない……ごて地蔵通りもお初天神通りもこの時間でも賑わっているが、基本的には酒が主役の街なのだ。
 まあ、しゃあないな。官舎に戻ってコーヒーを用意するか……この時間でも引っ越し準備に追われている女房の手を煩わせるのは気が引けるから、自分で何とかしよう。どうしても女房が淹れるようにうまくはいかないのだが。
 一抹の寂しさ──忙しなさとも、もうお別れなんやな。
 梅田署は、府下でも最大の繁華街、キタを管轄に抱えているので、大きな事件がない日も何かと忙しい。特に酒のトラブルは毎晩のようにあるので、署の最上階にある官舎に住んでいる島村にとって、毎晩が当直のようなものだった。最初の頃は、ちょっとしたことでも階下に降りて直接指揮を執っていたのだが、さすがにそんなことが何日も続くと体がもたないと思い直し、よほどのことがない限りは部下に任せることにした。だいたい、事件の多い梅田署には優秀な署員が集まっているのだから、署長がいちいち口を出す必要などない。それこそ、「署員を信じていないのか」と陰口を叩かれかねない。
 しかし、この二年間はとにかく大変だった。急に歳を取ってしまったように感じることもある。警察学校校長としての勤務がリハビリになるのか、若い警官たちに苛々する日々になるのか……まあ、今はそんなことは考えんでもええやろ。
 明日一日、まだ署での仕事も残っている。異動するといっても、何か起きたら自分が責任を取らねばならないのだ。
 そういう時に限って、事件ちゅうのは飛びこんでくるんやけどなあ。

トップページへ戻る