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うずら大名
畠中 恵

     序

 若い頃、きっぱり金がなかった。
 江戸に近い村の、名主の家に生まれたが、三男であったので、先々耕す田畑もなかった。
 親はどこかへ養子に行って欲しいと願っていたが、何かを期待されてはいなかった。
 明日が不安であったので、とにかく何でもやれる事はしておこうと、道場へ通った。分かった事は、やっとうの才は、欠片もないという事であった。
 だが。
 それでも道場へ行って良かったと、心底思った。情けなくも、泣きたくなる程の不安は、自分一人が抱えているものではないと分かったからだ。
 道場に集っていたのは、同じような思いを持っていた継ぐ家のない者達だった。
 皆、明日が見えないのは、見事に同じだった。
 武家でも、町人でも、百姓でも、笑えるくらい同じであった。
 継ぐ家がない者は、養子先を見つけるか、己の力で家を興し、主にならねばならない。そうでなければ、嫁を貰う事すら出来ないのだ。
 一生を一人で過ごさねばならなくなる。
 子を持てず、己が入る墓の心配を、せねばならなくなる。
 この太平の世、変わりなく続いてゆく盤石の世から、己だけはじき出されてしまう。
 家にも、村にも……この世にも、居場所がないように思えてしまう訳だ。
 ある日思わず……己は思わず、道場の庭でそうつぶやいて、涙をこぼしてしまった。
 そんな己が、嫌であった。
 でも、何とかなるような気がしなかった。
 すると。
 つぶやきが聞こえたのか、庭から、何とも明るい笑い声が返ってきたのだ。
 顔馴染みのお武家が二人、木の下にいて、笑っていた。そして笑いの訳は、思いも掛けないものであったのだ。
 世は、変わってゆくものだと、お武家は言った。
 大きくうねり、日々嫌と言うほど変わっていく。それは確かだと、お武家は道場近くの景色を見つつ言葉を続けた。
 だが自分がそこに見たのは、のんびりとした、田舎の田畑であった。
 広い茄子の畑と、その奥に広がる大根の畑、そして田んぼだ。
 昨日までと同じであった。
 何か変わっているのですかと聞いたら、見た目では分からぬこともあると、自信を持った声で言われた。
 正直な話、訳が分からなかった。
 ただ。
 お武家が言った言葉は、希望であった。
 明日になれば、二人のお武家達は変わっているのかもしれない。自分も今とは別の者になれるかもしれない。そう思えたのだ。
 だが、全てが変わってゆく中で、もし自分だけが取り残されたら、大層悲しくなるに違いない。泣けてくるに違いない。
 そう言ったら、お武家達がまた笑い声を上げ、気恥ずかしかった。
 だが二人は、すぐにその言葉にうなずき、取り残されたら己も、涙も出ぬほど悲しく、情けないだろうと言ってくれた。
 お武家の一人はかつて、無謀と無分別を相棒にするほど、怒りに取り付かれていたと言った。
 もう片方は、この世をひっくり返したかったと口にした。
 二人とも、自分と同じく、日々辛い思いを抱えていたのだと分かった。
 だが……お武家達が今、道場の外に広がる村へ向ける目は、静かなものだ。
 それを見ていると、明日を怖がっていては、いけない気がしてきた。
 お武家の言葉は、思わぬ明日をもたらす言霊かもしれないと、言ってみた。考えもしなかったものと、己は出会う事になる。そう思ってみた方が嬉しかった。
 後十年、二十年経ったら、一体何が変わっているのだろうか。
 自分はどういう者になっているのか。
 顔を上げた。
 この世を、ひっくり返せますかね。
 嫁さん、もらえるようになりますかね?
 そう言ってみたら、光の差す庭から、また柔らかい笑い声が聞こえてきた。


   一 うずら大名

     1

 吉也は、己の運命を動かす御仁と、十何年かの時を越え出会う事になった。青い空には、ふかりとした雲が浮かんでいる、暖かい日の事であった。
 ただし四半時程前は、そういう時が来る事など、思い浮かべる余裕もなかった。江戸は上野の寛永寺近くで、吉也と連れは、辻斬りに追われていたのだ。
(斬られる……ああ辻斬りはもう、刀を抜いてるじゃないか)
 剣呑な様子の侍に、尾けられていると気づいたのは一時程前だ。外せぬ所用があり、同じ東豊島村の村組頭六郎と、江戸は神田へ向かっている時の事だ。
 駆け出して、一度は付いてきていた者を、撒けたと思っていた。だが辻斬りは、寺近くの道へまた現れ、今度は躊躇なく二人を狙ってきたのだ。再び逃げたものの、二度目の遁走に、余裕は欠片もなかった。
「ひええ、吉さん、後ろの奴、もう……すぐそこまで来てますよぅっ」
「六郎、話す間に走れっ」
 東豊島村から江戸市中へ向かうのに、寺脇の道を歩んだ事が悔やまれた。
(武家地を行くんだった。大名屋敷の脇だったら、長屋塀の内には侍達が住んでるのに)
 声を上げれば、誰かが気がついてくれたかもしれない。武家地ならば、道に辻番とてあった筈だ。
(でもここには……あたし達しかいない)
 いつものように涙が浮かんできて、吉也は恥ずかしさに唇を噛む。その時「わっ」と短い声が聞こえ、横で六郎がよろけた。蹴躓いたのか、そのままひっくり返ってしまう。
「六郎っ」
 まだ若い友を、置いて逃げる訳にはいかない。足が止まってしまうと、後ろにいた辻斬りが、抜き身の刃と共に、二人へ突っ込んでくるのが見えた。
「ひいっ」
 気圧され地べたにひっくり返ると、迫りくる人の姿が、目の内でぶわっと大きく化けた。逃げられない。声すら出ない。死ぬ。
(こ、こんなにあっさり、一生が終わるのか)
 涙があふれ、もう止まってくれなかった。
 ところが、まさに斬られようとした、その時。
「御吉兆ーっ」
 他には人通りもない筈の道に、思いがけない声が響き渡ったのだ。
「は? 吉兆?」
 何が目出度いのかと、涙でぼやけた目で、声の聞こえた先を見た。すると眼前の青空から、真っ白な雲が一片ふわりと離れ、吉也達の方へ落ちてくる。
「な、何だ?」
 辻斬りに襲われているというのに、思わずその雲に見入ってしまった。雲は吉也達の頭上を過ぎると、何と辻斬りへ真っ直ぐ向かったのだ。
 途端。
「うおっ」
 顔が雲の一片で白く覆われると、辻斬りは仰け反っている。思わぬ成り行きに吉也がただ驚いていた時、そこへ本当に、道に響いた言葉通りの吉兆が現れた。
 塀が途切れた辺りに、細い横道があったようで、そこから一人の武家が湧いて出たのだ。
「おおっ」
 おまけにその武家は、辻斬りの抜き身を見てもためらいもせず、真っ直ぐ吉也達の方へ駆け寄ってくる。辻斬りは足音を聞いたのか、急ぎ顔から白い塊をはぎ取って捨てると、刀を構えなおした。武家も柄へ手を掛け、寸の間、辺りの気が張り詰める。
 吉也はへたり込んで動けぬまま、道端から二人を、ただ見つめていた。立てなかった。逃げる事も出来なかった。
 そこにまた、声が響き渡る。
「ご、きっちょうーっ」
 すると、辻斬りの方が身を引いたのだ。きびすを返すと刀を素早く鞘に納め、来た道を遠ざかってゆく。対峙していた武家は後を追おうとしたが、新たな声がそれを押し止
めた。
「有君、追わないで下さい。無茶はご免です」
 首を巡らせると連れなのか、もう一人、がっしりとした体つきの武家が道に現れていた。辻斬りは、二対一では不利とみて逃げ出したのだと分かった。
 六郎は無事で、呆然として尻餅をついている。つまり……吉也達は助かったらしい。
「あ、あ、ありがとうございました。命を拾いました」
 ほっとし、道に両の手を突いて武家らへ頭を下げると、今度は安堵の涙がこぼれ落ちる。正に御吉兆という声のおかげで、吉也と六郎は命を永らえたのだ。立ち上がろうとしたが、膝に力が入らなかった。
(あたしはそりゃ百姓だけどね。道場に通った事もあるのに、情けない)
 だがそう思っても、涙すら止まらなかった。するとその時羽音が聞こえ、真っ白な塊が、また目の前に現れる。それは先に現れた武家の肩へ、ふわりと降り立ったのだ。
「さっきの雲……何と、鳥だったのか」
 丸っこく、ふかりとした姿であったから、それで雲に見えたのだろう。ひたすら驚いていたら、鳥は器用に武家の腕を伝い降り、腰に下げられた巾着へ、すぽりと己から入ってしまった。
「へっ……一体、どういう手妻なんだろうか」
 しかし当の武家は鳥に構いもせず、辻斬りの去った道へ目を向けている。
「物騒な事だ。最近は上野の寺社近くで、白昼堂々辻斬りが出るのか」
 すると後から現れた武家が、顰め面で小言を言い始めた。
「有君、鶉は辻斬りへ、投げつけるものではございません。そんな扱いをしているから、佐久夜の気性が荒くなるのですよ」
 有君と呼ばれた男は、背を見せたまま言葉を返す。
「あのな、佐久夜は雛の頃から、そりゃ気の強い性格だぞ。だから屋敷で、大名うずらなどと呼ばれているのだ」
 おかげで他の雛のように、売る事も、進物用の鶉として、差し上げる事も出来なんだと言う声に、苦笑が混じっている。武家は腰の巾着を、優しく撫でた。
「佐久夜の働きで、斬り合う事もなく辻斬りを追い払えた。良かったではないか」
「良くはありませぬ。有君、いきなり辻斬りへ突っ込んで行った事も、あり得ぬ行いかと」
「あー、お主は相変わらず、堅いな」
 とにかく死人が出なかったのだから、これでいいと言い切り、有君と呼ばれた武家が吉也の側へ来る。そして突然、驚くような事を言い出したのだ。
「ところで、怪我はしておらぬだろうな。無事でなければ困る。お主を捜していたのだ」
「えっ、あ、あたしをでございますか? たまたま助けて頂いたのでは、なかったので?」
 思わず武家の顔を見上げると、吉也と似た年頃で、三十路くらいに見える。着物は新しく継ぎもなかったが、木綿だから裕福とは思えない。しかし有君は、貧乏な武家には似つかわしくない程、妙に涼やかな面であった。
 すると吉也の頭の奥で、何かが弾ける。
「あれ、この見目の良いお方、どこかで会った事があるような……」
 その言葉を聞いた途端、目の前の武家も、一瞬顔を顰めた。
「そういえばこの泣き虫、どこかで見たような。大きな泣きぼくろがあるな……」
 二人はしばし見つめ合う格好になり、武家が首を傾げる。その時、先に「あっ」と声を上げたのは、吉也の方であった。
「有月様。お前様は不動下道場におられた、有月様でございましょう」
 これはなんと、本当に久方ぶりでございますと、吉也が頭を下げる。すると有月の方も、吉也が誰か分かった様子であった。
「お主は確か……豊島辺りから同じ道場へ来ていた、百姓の“吉也”か!」
 十何年ぶりかと言った後、有月は再び大きく顔を顰めた。それから連れを見ると、情けなさそうに溜息をついたのだ。
「左源太、大外れだ。辻斬りからわざわざ助けたというのに、人違いだった!」
 その呼び名を聞き、吉也はもう一人の武家へも、急ぎ挨拶をする。
「つまりこちらは、以前有月様と一緒に道場におられた、左源太様で。大分がっしりされて見違えました。あたしを覚えておいでですか」
「ああ思い出した。お主、歳より随分若く見えるが、あの涙もろい吉也だな」
 左源太は少しばかり戸惑った様子で、また有月へ目を向ける。
「やれやれ。豪農の名主、高田吉之助だと思ったのですが」
 知り合いの商人から、豪農が江戸へ通っていると聞き追ってきたのに、吉の名違いだったかとこぼしている。吉也は首を傾げ、急ぎ有月達の事を思い浮かべてみた。何しろ道場にいたのは随分前の話だから、二人の事も直ぐには思い浮かばない。
(ご両人は武家だが、後は大して知らん。有月様の方が、格上の出だったと思うが。左源太様が、いつも丁寧な口をきいていたしな)
 だがどういう生まれにしても、二人は跡取り息子ではなく、次男以下の部屋住みであった筈だ。貧乏武家の部屋住みとは、嫁すら貰えぬ身であった。
(まあ、あたしも百姓の三男だけどね)
 そして有月ら二人は十何年後の今も、暇なのか、日中からこうして連れだっている。
(どちらも未だ、養子に行き損ねているのかね。という事は、用件は……)
 だが用件という言葉を思いついた途端、吉也は二人への詮索を止め、大急ぎで立ち上がった。六郎も急かし、渋い顔で道の先を見る。
「拙い、辻斬りに追われてたんで、約束の刻限に随分と遅れちまってる。大事な用なのに、これじゃまとまる話も流れそうだ」
 お奈々に叱られてしまうとこぼしてから、吉也はとにかく先を急ぎましょうと、有月達に声を掛け、南へ歩を向けた。二人へは歩きつつ、重ねて礼を言うつもりであった。
 だが直ぐに、塀脇で足を止める事になる。有月達が、共に歩き出さなかったのだ。
「あのぉ、こちらは神田に、大事な用件が待っております。そろそろ向かいたいのですが」
 そう言うと、有月の綺麗な顔が微笑む。
「おや、忙しそうだの。ならば早く行きなさい。吉也、久々に会えて嬉しかったぞ。いい歳なのだから、余り泣くなよ」
 有月達のつれない言葉に、吉也は慌てた。今の今、殺されかけたばかりで、恐ろしさは身から抜けていない。
「あの、今の辻斬りが、まだ近くにいるやも。一緒に神田まで行って頂けませんか」
「付き合えぬなぁ。我らも暇ではない」
 吉也は唇を噛んだ。本当は村へ帰りたいが、しかし今日は、どうしても神田へ行かねばならない。それで、何となく嫌な虫の知らせはあったが、腹を決め高田吉之助の事を問うた。
「有月様、その人に何用がおありなので?」
 背を向け、左源太と話をしている有月から、声だけが返ってくる。
「手元不如意なのでな、金を借りたいのだ」
 まあ、他に用もあるがと、有月はついでのように付け加える。
「あ、やっぱりお金ですか」
 すると左源太が笑って、高田吉之助は、江戸近郊に住まう豪農の一人なのだと、教えてきた。昨今、金持ちには様々な身分の者がいると、少しばかり皮肉っぽい声が続く。
 吉也は両の肩をすくめ、ならばと言った。
「送って頂けたら、お二人にはお礼をいたします。神田にあたしの店、日暮屋がありまして。そこなら、少々まとまった金子が置いてありますから」
「吉也が、店を持っている?」
 左源太が片眉を上げた。
「お主は百姓の三男であったろうが。百姓を止め、江戸の町人になったのか?」
「これは左源太様、よく覚えておいでで」
「あの頃不動下道場には、次男以下の厄介者が多く来ていた。色々な身分の者がおった」
 皆、どこかの家へ養子に入ろうと、己に箔を付ける為、剣術を習っていたのだ。同じ境遇故、身分を越え結構仲は良かったと言われ、吉也は頷く。左源太は武家だからと威張る事をしない男で、その上結構強かった。
「しかし、人の立場は変わるものです。実は次兄が養子に行った後、跡を取っていた長兄が、女の子を残して身罷りまして」
 それで思いがけず、三男の吉也が家を継ぐ事になったのだ。
「吉也の名は俳号にしましたから。そこにいる友人の六郎などは、今もその名で呼びます。ですが跡を取りましたので、新たな名を先祖から受け継ぎました」
 村の百姓達は当主となると、親から名を引き継ぐか、一字を貰うのだ。白い土塀と板塀に挟まれた道で、吉也は旧知であった武家達に、今の名を告げる事になった。
「あたしは今、東豊島村の名主、高田吉之助を名のっております」
「何と、お主が吉之助、その人だというのか」
 その声と共に、やっと有月が吉也の方へ身を向けた。それからにやりと笑うと、そういえば立場と共に名は変わるものであったと、しみじみとした口調で言う。
「なあ佐久夜。そうだな?」
 巾着へ声を掛けると、丸く白い鶉が、ひょこりと首を出す。そして道にまた、美しい鳴き声を響かせた。
「御吉兆ーっ」
 その目出度い鳴き声故に、鶉は多くの武家が愛でている鳥なのだ。その事を吉也ならぬ吉之助は、やっと思い出していた。

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