書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
 
岳飛伝 十四 撃撞の章
北方謙三

   豹兄の風

     一

 米が、わずかだが手に入るようになった。値も、たいして上がっていない。
 どこから米が出ているのか、王清には見えるようだった。
 竜岩の城郭の市場には、米だけでなく、肉などもあった。金国の軍が徴発していった牛や豚は、その軍が通り過ぎた線上のものだけで、ほかでは当たり前のように、家畜はいたのだ。
 じっと座っていて、痺れてしまった脚が、急速に回復してくる。国そのものが、そういう状態になっている、と王清は思った。
 孫家村から、五人が竜岩の城郭へ行って、村が十日間、粥を食べていけるだけの米を買ってきた。購うための銭は、村のためという名目で蓄えられたものだった。
 その米が到着した時、村は祭りのようになった。孫興が笛を吹き続けるので、なおさらだった。
 粥が炊き出され、塩と一緒に配られた。みんな、雑穀と草しか口にしていない。干して蓄えてあった魚も、全部出された。
「王清さんは、よく魚を獲ってくれたが、もうやめるかね?」
 笛を吹き疲れたような表情で、孫興が言った。袋に入れた笛は、腰に差している。
「十日に一度ぐらい、獲りに行きます。河や沼の魚は、干すよりも、じっくり煮た方がよさそうなので、妻にやらせてみようと思っています」
「いいね。うまいものが欲しい、と思うようになった。この間までは、一粒でもいいから米が欲しいなどと言っていたのに。人というのは、浅ましいものだ」
 十人を方々へやって、牛、豚、鶏を手に入れようとしていた。米がない時は、それを手に入れようとは、誰も言わなかった。
 牛や豚は、運んできたら、食うのではない。飼うのだ。そうすることで、みんな安心できるようだった。
「それにしても、いまごろになって、市場に米が出てくるとはね」
「戦の嫌いな米なのでしょう、きっと」
 王清が言うと、孫興は声をあげて笑った。
「孫興殿、戦がこれで終ってしまった、と思っておられますか?」
「なんだか、いやな気分はあるのだよ。金国が、懲りずにまた攻めてくるかもしれないし、全然別な戦が起きることも、あると思っているよ」
「多分、あるのでしょうね」
「また、市場から米が消えるのか」
「それも、多分ですね」
「私は、今年の収穫があったら、米をいくらかでも隠匿しようか、などと考えていた。作柄はまだわからないが、私にできることはそれぐらいだろうから」
「いい考えだと思います、孫興殿。みんな、雑穀や草だけを食って、生きていたくはないでしょうし」
「家畜に与えるもので、飢えを凌いだ。凶作というわけでもないのにだ。心を尽して稲を育てた村人たちの腹に、ひと粒の米も入らないというのは、もうたくさんだ」
「密かにやることです、孫興殿。たとえ村人たりとも、知られないように」
「あんただけは、知っていてくれるかな、王清さん」
「私が、ですか?」
「ふん、いやだと言っても、教えてしまうよ。あんたは息子だ、といつか思うようになってしまった。臨安府へ行った息子が、帰ってきている。そう思いたい」
「でも、私は息子ではありません」
「わかっているさ。でもね、あんたと私は、笛の音で結ばれてしまった父子だよ」
「笛の音ですか。孫興殿の笛には、気持がよく出るようになりました」
「笛はそれでいいのだろう?」
「はい」
「笛は思いだ。学ぶ必要などない。そう言ったのは、王清さんだ」
「食べるものがある、というのは大事なことですね」
 その食べるものの真中にある米を、自在に制限している梁山泊のやり方は、正しいのか。人が絶対に必要としているものだから、戦などをやめさせるために遣える。その理屈も、わからないではない。
 しかし、人々のこの喜びを、奪っていることにもならないか。
 梁山泊の米の買い集めには、王清自身も関った。北では、麦が買い集められたのだという。そして、屍が野を覆うような戦は、なくなりつつある。
 梁山泊は、多分、正しいのだろう。少なくとも、税を取り立てるばかりの国より、正しい。民、ということを考えても、正しい。しかし、村にとって正しいのか。ひとりの村人にとって、正しいのか。
 正しさなど、いくつもあるに違いない。そして自分が考えられるのは、せいぜい村にとってなにが正しいかぐらいだ。
 米が出回るようになってから、しばしば蔡豹を思い出した。雑穀を食らっていた時はそんなことがなかったので、やはり米は蔡豹と結びついているのだろう。
 王清が、ちょっとした動機で、喬道清の米集めを手助けした時、蔡豹は、立派な志を持って同じことをやっていた。
 内をむいていたものを、外にむかせるためには、志というものが必要だったのだ、と王清は考えてみる。それでも、どこかに気後れに似たものが滲み出してくるのだ。
 子午山を思い出すと、心の底がふるえた。なにもなかった。しかし、かぎりなく豊かだった。
 公母が亡くなった時の、蔡豹の慟哭は、よく憶えている。失うことの悲しみを、王清はあまり知らなかった。蔡豹は、幼いころから大事なものを失い続けてきたのだ。そして、失いたくないものを守り抜いて、死んだ。
 村に、最初にやってきたのは、四頭の牛だった。徴発を受けなかった村を調べあげて、購ってきたのだ。たった四頭でも、牛がいると豊かな気分になった。放しておけば、牛は草を食む。
 それから、豚が六頭、連れてこられた。豚は、子沢山だった。最後に、鶏が二十羽着いたが、こちらはわずかの間に増える。
 村のために蓄えられた銭は、それでかなり消えたようだ。
 充分ではないが、必要なだけの米は、手に入るようになった。孫興は自分の銭も出して、村のために米を購っているのだろう。
 王清は沼で草魚を獲り、それを干して、魚肉を粥に入れられるようにした。田で、稲は育っていた。それが刈り入れられるまでの数カ月は、保正(名主)の屋敷で粥を配ることになったのだ。
 しょう州から、笛の註文に来た者がいた。城郭へ行って売るので、それまで待ってくれ、と王清は言った。すでにできあがっている笛が何本かあったが、この村で売るのはやめたかった。
 中年の商人で、囲っている女が欲しがっているのだと、正直に言った。はじめ、保正の屋敷を訪ねたので、孫興の笛を見ることになった。ああいう笛が欲しいと男は二日言い続けたが、漆で仕上げたものしか売れない、と王清は答えた。
 なにかしら、日々が穏やかに動きはじめている。
 王清は、湖にいた。いつも草魚を獲るところとは違い、村から十里(約五キロ)ほど離れた丸いかたちの湖だった。水が澄んでいたので、桂魚がいるかもしれない、と思ったのだ。村の近くの沼には、草魚と鯉しかいない。
 三度潜って、桂魚らしい姿を捉えた。
 やはり、釣るのがいいのか。海の魚の習性はわかるが、河や湖はわからない。そして、海ほど網が効果をあげなかった。
 釣るための竹の竿と、突くための銛は持ってきていた。両方とも、自分で作ったものだ。草魚の場合は、突く方がよかった。
「釣るのだな。その方がいい」
 声だけだった。気配もない。王清は、銛を構えた。木立の中から、人影が出てきた。
「草魚ほど、図体がでかくない」
「どうやって獲るかは、俺が決めるよ、羅辰」
「それはそうだろう。獲るのはおまえなんだから」
「いつも、いやな現われ方をするな。俺に用か?」
「好きで現われているわけではないとは、いままでも言ってきたはずだが」
「用なら、さっさと済ませてくれるか」
「のどかに暮らしているおまえの前に、ことさら出たいとは、思っていないのだが」
「ならば、消えろよ」
「喋りたいことを喋ったら、俺は消えるさ。しかしおまえ、なぜ梁山泊に反撥してばかりなのだ」
 王清は、着物を着た。羅辰は、どこかの村の農夫といった恰好だった。
「言っておくが、反撥するほど重いものが、梁山泊に対してないんだよ」
「そうとは思わないやつらが、いるのさ」
 羅辰は、当たり前のように、王清が作っていた焚火のそばに腰を降ろした。
「食いものは、ないぞ」
「おまえ、着物を着てしまったのか。桂魚を一匹突いてくれば、香料はいろいろ持っているのだが。李逵という人が、いつも腰にぶらさげていた、と言われている香料だぜ」
「俺は関心がないな、李逵殿にも香料にも」
「孫家村で、のどかにやりたいか。孫興という保正は、そこそこ銀を溜めこんでいたのだな。牛も豚も鶏も、買いつけたそうではないか」
「おまえ、孫興殿を調べて、なにか面白いのか?」
「俺ではなく、ほかの者が調べあげた。そうするべきだと、そいつは考えたのさ」
 好きな人間ではないが、嫌いになりきれないところが、羅辰にはあった。
 王清は、湖の対岸の方に眼をやった。木立の緑が、鮮やかに見える季節になっている。
「王清、おまえは、臨安府が狙う人間になっているのだぞ」
「臨安府だと。俺が、そんな出鱈目を信じると思ったか?」
「小さな男に成り下がったな、王清。南宋の陰にいる者たちが、同安から、ずっと追い続けてきたのだ」
 話を聞きたくはなかった。
 しかし、南宋の陰。どういう者たちなのか。喬嫋を、殺した。孟康を追いつめ、結果としては死なせた。
「宰相の秦檜を甘く見るなよ。戦は軍人に任せ、民政は文官にやらせる。しかし、なにひとつ見落としていない、と俺には思える。その秦檜が、不足しがちな米のことを、放置すると思うか。収穫の量より、出回るものはずっと少ない。重大な問題と捉えていて、解明させるために投入している人員も多い」
「米の行方を、捜しているのだな」
「同時に、その米を集めた者は誰か、ということまでな。むしろ、そっちに力を注いでいる、と言えるだろう。米は、今年の収穫期に、また手に入る。それまでに、買い集めの仕組みは、全部叩き潰しておきたいさ」
 羅辰が、勝手に集めてきた薪を、火の中に放りこんだ。すぐに、炎が大きくなる。
 腰にぶら下げた袋から、羅辰は鶉を一羽出した。すでに羽は毟ってあり、香料をすりこまれ、枝に刺して、炎に翳される。
「これは、俺が今夜、食おうと思っていたものだ。おまえに、半分食わせてやる」
 孫家村に居続けるのが、どういうことなのか、王清は考えはじめた。いやでも、岳州陳家村の、皆殺しを思い出す。
「孫興殿が、米の隠匿に関係していると思われるだろうか?」
 しばらくして、王清は呟いた。
「追う身になってみろ」
「俺は、米の買い集めからは、ずっと前に手を引いている」
 それでも、喬道清と孟康を守って、逃げた。その時には、追ってきた者たちと闘っている。
 考えてみれば、不用意だった。鄭涼と二人きりで、目立つこともない、と思った。どこかでひっそりと暮らす。それが、孫家村でははじめられたではないか。
 このままじっと息を潜めていても、なにも起きないかもしれない。
 しかし、虫が良すぎるのか。しょう州や竜岩の城郭では、笛を売り、笛を吹いた。
「なあ、おい。何日か前に、ありそうな理由で、よそ者が村へ来なかったか?」
 確かに、笛を註文に来た。熱心に笛について語っていたが、あの男は臨安府の陰の者たちのひとりだったのか。
 しょう州や竜岩の城郭では、近づいてきた羅辰の手の者から、情報も貰っていた。
 子午山を金の国主が攻めようとし、それを史進が追い払ったことも、そうやって知ったのだ。洞宮山がいまだ無事であることも、教えられた。
「どこかへ行けば、孫家村は難を逃れられるか?」
「わからんよ。陳家村でも、蔡豹と陳麗華を殺すだけでよかったのに、皆殺しだった」
 王清は、膝を抱えた。羅辰が、鶉のむきを変えている。香料が焼け、いい匂いが漂っていた。
「はっきり言うが、おまえには行くところがない。女房殿もだ」
「俺は、手を引いている」
「つまらんことを言うなよ。手を引こうと引くまいと、一度は米の買い集めをやったことは、間違いない」
「そうだな」
「おまえが、どの程度の人間と、むこうに見えているかはわからん。しかし、慎重に網を絞ってきている、とは思えるな」
 このまま村に居続ければ、陳家村の二の舞いだった。村が皆殺しになるなど、耐えられることではなかった。
 出ていくしかない、と思った。なんでもない日々を、あそこで過ごせると思ったのは、甘すぎることだったのだ。そんな日々を、求めてはならないのだ。
「なにかあるたびに、俺が現われる、と思っているかもしれんが、探らなければならないものを探り、手繰っていくと、そこにおまえがいる。俺は、いやになってきたよ」
 羅辰は、ほんとうに鬱陶しそうな表情をした。
「戦は、どんなふうになるんだろう、羅辰?」
「どうなるかな。梁山泊軍は、総帥のもとでひとつにまとまっている。金国が三十万の兵を一年動員しようと、あそこは守り抜かれる。現実には、三十万の兵など動員できるわけがない。戦はあっても、大きく乱れることはない。梁山泊は、いつでも金国を干あがらせることができるしな」
 麦の流通を、抑えることができる、ということだろう。金国領における麦の買い集めは、南宋よりもずっと徹底していたという。
 自分は、どこへ行くべきなのか。いくら考えても、同じところを巡っているだけだった。つまりは、行くところはない。
 鶉が焼きあがったようで、羅辰は見事にそれを小刀で二つにした。差し出してきたひとつを、王清は受け取った。口に運ぶ。味は、よくわからなかった。
 羅辰は、黙って鶉の肉を咀嚼していた。王清は、細い骨も一緒に噛み砕いて、呑みこんだ。
「俺は思うんだが」
 骨を火の中に吐き出し、指先の脂を舐めて、羅辰が言った。
「おまえは、聚義庁の王貴殿を頼れよ。梁山泊ならば安全だし、やることもある」
 梁山泊に行くのなら、とうに行っている。子午山を降り、流浪の道を選んだのは、自分のような人間が、梁山泊でほんとうに生きることはできない、と感じたからだ。
 王貴は、幼いころから、梁山泊に入ることになんの疑問も抱いていなかった。いや、入るというのは、違うだろう。梁山泊に生まれ、梁山泊で育った、という気持を持っていた。それは、王清が思いこむことはできない、揺るぎのない確信だと感じていた。
「王貴殿に、頼りたくないのか?」
「頼る頼らないではない。梁山泊を、故郷だと俺には思えない。嫌いなところではないのにな」
 羅辰は、しばらく黙って火を見つめていた。
「なんとなく、わかる」
 羅辰は、大きく息をついた。
「しかし、どこへ行くのだ、王清?」
「南」
「そうか、秦容殿のところか。しかしな」
「秦容殿が、北進してくるのだろう、ということはわかっている。それから、岳家軍もな。しかし、南宋を倒してくれればいい、という思いは俺にはない。そういう戦と、無縁の場所というのは、どこかにないのだろうか」
「ないな。しかし、遠い場所はある。確かに、南はそうだ」
「では、南へむかうよ」
「ずいぶんと、あっさり決めるじゃないか」
「行くところが、どこにもない。だから、どこへでも行ける」
「わかったよ」
 羅辰が、口もとだけで笑った。
 それからしばらく黙りこんだ。王清は、湖に眼をやっていた。また、長い旅になる。鄭涼を、落ち着いた暮らしの中に置いてやれない。情ない男だ、と王清は思う。
「広州へむかえ、王清」
「俺は、もっと南へ」
「だから、広州から南へ行くのだ。梁山泊水軍の、便船がある。それに乗れるように、手配をしておこう」
「船で?」
「その船は、最初はび公河(メコン川)に入る。それからさらに航海を続け、象の河まで行く。どちらか、好きな方で降りればいい」
「それを手配してくれるのか。ありがたい」
「早く行け。もう、時の猶予はほとんどないと思う。おまえが村を出るまで、致死軍がやつらを近づけないようにする」
「そこまで、世話をかけるわけにはいかない」
「俺は、詫びたいのだ」
「自分が思うことをやっただけだ。詫びられることなど、なにもないぞ」
「当たり前だ。誰がおまえに詫びると言った。俺が詫びたいのは、蔡豹にだ。守りきれなかった。だから蔡豹の代りに、おまえを守る」
 羅辰は、火を見続けていた。
 王清は、眼を閉じた。いやでも、蔡豹の顔が思い浮かぶ。再会した蔡豹より、子午山にいたころのあの男だった。
「すまん。しばらく、俺は蔡豹になる」
 静止した羅辰の頭が、かすかに動いたような気がした。

トップページへ戻る