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チャンミーグヮー
今野 敏

   1

「ミーグヮー、おまえ(ヤー)は父(ターリー)から手(ティー)を習っているだろう」
 喜屋武朝徳は、本部朝基にそう言われた。二人とも、生まれ年が明治三年(一八七〇年)で、同じ年だ。父親から武術を習っているだろうという問いかけだった。
 二人は、満で五歳だった。朝徳と朝基は親戚同士で年も同じとあって、幼い頃からよくいっしょに遊んでいた。この日も、二人は本部の屋敷の庭で遊んでいた。
 朝徳がこたえる。
「兄(ヤッチー)と角力(すもう)をやるだけだ」
「ヤーのターリーは、手の達人やっさー」
「俺(ワン)は、まだ子供だから、教えてはくれない。サンラーのほうこそ、本部家には代々、手が伝わっているんじゃないのか?」
 朝基はつまらなそうにつぶやいた。
「わが家の手は、長男にしか伝えない。だから、よそで習うしかないんだ」
「習ったら、ワンにも教えてくれ」
 朝基は笑った。
「ヤーも負けず嫌いだな」
 負けず嫌いはお互い様だと、朝徳は思った。
 朝徳は朝基を「真三良〈サンラー〉(三郎)」と幼名で呼んでいる。朝徳も朝基と同じく三男なので、「三郎」と呼ばれることがあった。だから、朝基は、あだ名で「ミーグヮー」と呼んでいた。
 目(ミー)が小さい(グヮー)から、ミーグヮーだ。
「この前見た、闘鶏を覚えているか?」
 朝基が尋ねた。朝徳はうなずいた。
「ワンが賭けた鶏が勝った」
 朝基は、顔をしかめた。
「どっちが勝ったか、なんてどうでもいい。ワンも、鶏を飼うつもりだ。ヤーもどうだ?」
 そう言われては引っ込みがつかない。
「ワンも飼おう」
「じゃあ、いつかヤーとワンの鶏で、闘鶏だ」
 朝基は勝負事が好きだ。
「おうさ。ワンの鶏は負けない」
 朝基は、ふんと鼻で笑う。
「弱いミーグヮーが育てた鶏も、弱いはずさ」
 朝徳は、朝基を睨み返した。
 朝基は体が大きくて、力も強く、なおかつすばしっこい。一方の朝徳は、体は小さいしひょろりと痩せている。幼い頃から病気がちで、親にずいぶんと心配をかけたものだ。
 そんな朝徳だから、朝基にはいつもばかにされていた。言い返したいが、何か言えば負け惜しみになる。それがわかっているから、朝徳はじっと我慢をしている。
「何だ? 何か言いたいことがあるのか?」
 朝基は、にやにやしながら朝徳を見ている。次に、何を言い出すかは明らかだった。朝徳はこたえた。
「別に何も言いたくはない」
「弱いと言われて腹を立てたか?」
「別に腹を立ててなどいない」
「顔を見ればわかるぞ。ヤーは、士族(サムレー)の子のくせに、言いたいことも言えないんだ」
「サムレーの子は、無駄なことは言わぬものだ」
「おう。よく言った。そのとおりだ。では、口ではなく腕でその気持ちを示してみろ」
「腕で……?」
「角力だ」
 案の定だ。朝基は、いつも自分の強さを誇示しようとする。彼とは何度立ち合ったかわからない。だが、体の大きさが違うし、力も違う。これまで、一度も勝ったことがない。負けるのがわかっていながら、朝徳は断ることができない。戦わないのは恥だと思うのだ。
 闘鶏でも闘牛でも、わざと弱い相手と戦わせて自信をつけさせることがあるのだという。朝基は、それと同じような気持ちで朝徳と角力を取るのかもしれない。
 朝基が言ったように、父の喜屋武朝扶は武術の名手として知られている。首里王府に仕える士族が身につけていた武術は、唐手(トウディー)あるいは手と呼ばれていた。
 ひ弱で病気がちだった朝徳は、兄の朝弼とともに、沖縄角力をさせられていた。朝弼も朝徳より体が大きい。庭で角力を取ると、簡単に地面に転がされた。
 体が小さいというのは、いかんともしがたい。年上の兄や、体の大きな朝基にはとうてい勝てない。朝徳は、幼くしてそれを思い知っていた。
「さあ、来い」
 朝基が構える。仕方なく、朝徳は相手の帯を両手で握った。
 お互いに帯を持って組み合う。沖縄角力はそこから始まる。強い相手は、組んだとたんにわかる。大地にしっかり根を張った大木にしがみついたように感じるのだ。
 押しても引いてもびくともしないような気がする。
「どうした、ミーグヮー。ヤーは、本に止まった蝉か?」
 朝基がばかにしたように言う。
 朝徳は、悔しくて足を踏ん張り、力一杯押した。だが、朝基は平気だ。
 ただ体が大きいだけではない。足腰が丈夫なのだ。朝基は足も速いし跳躍力もある。まるで猿のようだと言われていた。
 朝徳は、顔を真っ赤にして踏ん張った。それでも朝基を動かすことができない。体の小ささ、ひ弱さを悔しく思った。
 いきなり、体が左に振られた。同時に右側を引かれていた。捻りを加えられたのだ。腰が宙に浮いて、次の瞬間、したたかに地面に打ちつけられた。
 息が止まった。ひっくりかえったまま見ると、朝基が腰に両手をあてて笑っている。
「ヤーは弱い」
 朝徳は、唇を噛んだ。
 弱いことはよくわかっている。それを朝基に指摘されるのも、いつものことだ。
 生まれつき体の小さい者は、強くなることを諦めるしかないのか。
 朝徳は、そんなことを思いながら、自信たっぷりの朝基を見上げていた。
 朝基は、得意げな顔をしていたが、朝徳を見下ろしているうちに、次第に困ったような顔つきになった。
「そんなに睨むな」
 朝徳はこたえる。
「睨んではいない」
「睨んでるじゃないか。何だか、ワンが悪いことをしたみたいだ」
 朝基は手を差し出した。立ち上がるのに手を貸そうというのだ。意地っ張りの朝徳は、その手を無視して立ち上がった。
 朝基は、さらに当惑の表情だ。
 ヤーと角力を取ると、いつも後味が悪い」
「ならば、ワンを相手に角力など取らなければいい」
 朝徳の言葉を聞き、朝基が尋ねた。
「ワンにはとうてい勝てないと思っているのだろう」
 悔しいが認めるしかない。
「ああ、勝てない」
「そんなことはないんだ」
 朝徳は、思わず朝基の顔を見つめた。
「そんなことはないというのは、どういうことだ?」
「あっちへ行って座ろう」
 朝基は、濡れ縁を指さした。返事を聞かずに勝手に歩き出す。朝徳は、その後をついていくしかなかった。
 濡れ縁に、腰を下ろすと朝基は言った。
「今はワンのほうが大きくてヤーは小さい。だが、いつまでもそのままとは限らない」
 朝徳は、朝基の隣に座った。
「ワンは、生まれたときから背丈も小さいし、ずっとひょろひょろのままだ。この先、ヤーよりも大きくなることなんて考えられない」
 朝基は、真面目な顔で言う。
「それでも、いつかはワンに勝てるかもしれない」
「ヤーは何を言ってるんだ?」
「それが手というものだと、ターリーが言っていた」
 朝徳は、正直に言って手などに興味はなかった。
 士族の家に生まれたからには、手を学ばなければならない。まだ、本格的に習うには早いが、その準備として角力を稽古しろ。父の朝扶からはそう言われていた。
「手をやれば、ワンがヤーに勝てるというのか?」
 朝基は、ふんと鼻で笑って言った。
「勝てるかもしれないと言ってるんだ。小さな者も、大きなやつに勝てる」
「ヤーのように大きなやつが手をやるとどうなるんだ?」
「もっと大きなやつにも勝てるようになる」
 そんなうまい話があるものか、と朝徳は思っていた。ひ弱なやつは、常に朝基のような大きくて力が強いやつにいじめられるのだ。
「まあ、どうせ、もう少し大きくなったら、手をやらされることになるんだけど……」
 たちまち朝基が目を輝かせる。
「そうしたら、どんなことを習ったのか、ワンにも教えてくれ」
 朝基の言葉に、朝徳は思わず苦笑してしまった。朝基は、大人が遊びにくると、決まって「手をやりましょう」とせがむのだと聞いたことがある。
「そんなに手をやりたいのか?」
「そうだ。ワンにはそれしかないんだ」
 朝徳は思わず眉をひそめた。
「それしかないって、どういうことだ?」
「ワンは、ターリーや母が話しているのを聞いた。近々サムレーの多くは、禄をもらえなくなるそうだ。もう、サムレーの世ではなくなる」
 朝徳も士族の世でなくなるという話は知っていた。なにせ、父の朝扶は「王政一新慶賀」使節団に賛議官として参加したのだ。それが三年前のことだ。
 だが、士族が禄をもらえなくなるという話は初めて聞いた。
「まさか……。ヤーの家は御殿(ウドウン)じゃないか。禄がなくなるはずがない」
 御殿は、王子や按司が住む屋敷のことで、その屋敷に住む人の尊称でもある。朝徳は、沖縄が今までのような国ではなくヤマトの藩になったということは知っていたし、世の中がそのことで騒然としていることも知っていた。だが、それがどういうことなのか、まだ実感がなかった。
 朝基が言った。
「ワンの本部家やヤーの喜屋武家は、これからも禄がもらえるらしい。だが、そういう家はごく一部で、多くのサムレーは、禄がなくなる」
「どうやって暮らしていけばいいんだ?」
「だからよ」
 朝基が身を乗り出した。「みんなたいへんなんだ。俺たち(ワッター)も安心してはいられない。ヤーもワンも三男坊だからな。家を継げるわけじゃない」
 朝徳はまだ五歳だ。そんなことを考えたこともない。世の中がたいへんなことになってはいるが、なんとなく今までどおりに暮らしていけるように思っていた。
 朝基の言葉を聞いて、急に不安になってきた。
「ヤーはどうするつもりだ?」
「ワンは手がやりたい。それで偉くなるんだ」
「そんなことができるのか?」
 手、あるいは唐手は、士族の義務だった。朝徳にとって、それ以上の意味はなかった。
 朝基は、その手で身を立てると言う。それが、どういうことなのか、朝徳には理解できなかった。おそらく、朝基にもわかっていないのではないかと、朝徳は思った。
 どうせ、誰か大人の受け売りなのだろう。
「ヤーが、手が好きなのはわかる。だけど、手はサムレーのたしなみだ。それを身につけたからといって、偉くなれるわけじゃない」
「なれるさ」
 朝基はそう言ったきり、押し黙ってしまった。彼も、どうやったら手で身を立てられるか、実はわかっていないに違いない。ただ自分には手しかないと考えているに過ぎない。それでも、朝基が自分の将来のことを考えていることは確かだ。ワンは何も考えていなかった。朝徳の不安は募った。
 喜屋武家は、殿内(トゥンチ)と呼ばれる名家で、喜屋武間切(現在の糸満市喜屋武)を領地とする大名だ。だから、どんな世になっても、不自由のない生活が約束されているものと、朝徳は信じていた。
 だが、本部御殿の朝基ですら、これからの生活がたいへんだと言っている。ならば、喜屋武家はもっとたいへんだろう。
 いや、朝基は、きっとワンを脅しているだけなんだ。嘘を言って、ワンを怖がらせているんだ。
 朝徳はそう考えようとした。そんな朝徳の思いをよそに、朝基は言った。
「手はいいぞ。何より、はっきりしている。強いか弱いかだ」
 そんなに単純なものだろうか。
 朝徳は疑問に思う。だが、朝基の口調は自信に満ちている。
「ミーグヮー、ヤーだって強くなれるんだぞ」
「いや、ワンは、いつまでたってもヤーには勝てない」
 朝基が真剣な眼差しを向けた。
「そうじゃないんだ。角力なら力勝負になる。だが、手は力だけじゃないと、ターリーやヤッチーも言っていた」
「手をやれば、ワンもヤーに勝てるかもしれないと言ったな?」
「おう」
「ならば、やってみてもいいな」
 朝徳は言った。一時でも将来への不安を忘れたかった。

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