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2.43清陰高校男子バレー部
代表決定戦編2
壁井ユカコ

 第五話 英雄と天才 〜文中より抜粋〜

「嘘だろ……」
 まだ薄暗い十一月二十九日の早朝。寝間着姿のまま縁側に突っ立って灰島は呆然と呟いた。自分が吐いた白い息が青みがかった外気に丸く浮かびあがった。
 昨夜からかなり冷え込んだと思ったら、起きたら庭が真っ白になっていた。
 雨戸を一枚だけあけた縁側に冷気が沁み入ってくる。板の間に裸足で立っているとあっという間に足先が凍えてきた。
 十一月だぞ? まだ秋だろ?………と信じられなかったが、ここは東京ではない。雪国の十一月末といえば冬がはじまっているのだ。
 庭の垣根の向こうで雪を掻く音が聞こえ、あっ、と白い息のかけらをひとひら空中に残して家の中にとって返した。
 ジャージに着替え、ベンチコートをはおって外にでた。雪はやんでいたが頭上にはブルーグレーの分厚い雪雲が立ちこめ、低い空が町を押し潰していた。玄関先の雪はもうどけられて門までの細い道ができていた。除雪がされていないところは足首が埋まるくらいの高さまで積もっている。
 冬装備に身を包んだ祖父の丸まった背中が門の外に見えた。
「じいちゃん。おれやるよ」
 駐車場前の雪を掻いていた祖父が「ああ、おはようさん」と振り返った。「おまえはせんでいい。はよ支度しなさい」
「まだ時間あるよ」
 祖父が持っているスコップの柄に手を伸ばす。体格からして厳つくて威厳がある黒羽の祖父に比べたら灰島の祖父は存在感そのものがこぢんまりしていて、背も自分よりずっと低い。綿入りのジャケットで着ぶくれして毛糸の帽子をすっぽりかぶっていると中身が余計に小さいように思える。
 祖母のほうが二ヶ月前に腰をやったばかりだった。祖父までどこか痛められてはたまらないと思ったのだが「ああもう、手袋もせんとでてきて……」と逆に心配され、祖父が嵌めていたスノーグローブを押しつけられた。
「今日はチャリンコじゃ行けんやろ。駅まで車で送ってやるで」
「だったら余計におれが……ていうか、駅行っても電車動いてんのかな」
「こんぐらいの雪で福井の電車はとまらんて」
 祖父が笑って請けあった。
「ほやけどじいちゃんたち、会場まで行くんはひょっとしたら難しいかもしれん。ばあちゃんが行けそうやったらっちゅうことでいいけ。すまんの」
「無理して来ないでいいよ」
「公誓が初めて呼んでくれたっちゅうて、ばあちゃんひっで楽しみにしてたんやけどの」
「いいって、来なくて」
 つい強い語調で言ってしまって祖父をちょっと戸惑わせる。「……来れたらで、いいから。試合またあるし……二年になってからも、ずっとあるし」と、どうにかやわらかい言い方で言いなおした。
 祖母に声をかけたのは一昨日のことだ。黒羽の親に誘われて一緒に来たことはあったが、灰島自身が誘ったのは初めてだった。──“あさっての決勝見にくる? 腰、平気だったら……”
 応援に来て欲しいという意味ではなかった。応援の多少と試合の出来不出来は関係ないと思っているのは今も昔も同じだし、どっちにしても勝つつもりでいる。
“東京までは来れないだろ。県で一番になるとこ見せるから……来る?”
 九月に一週間入院した祖母だが、無事退院して今はもう不自由なく家の中を歩きまわっている。しかし一度腰を痛めると癖になるというのはスポーツの世界でもよく言われている。歳も歳なんだからもうちょっとおとなしくしててくれないかなと灰島としては苦々しく思っている。
 小さい目がなくなるくらいに祖母が目尻をくしゃっと下げた。
“ばあちゃんはのぉ、一番にならんでも、公誓が頑張ってるんはなんやったかって見にいきたいんやざ。ほうするとおかあちゃんとこ行くときに持ってける土産話が一つずつ増えるでの”
 意味を掴むのにすこしかかってから、そういうこと言うのやめろよ、と灰島は不機嫌になった。まだ大往生するような歳じゃあるまいし。だいたいおふくろをおかあちゃんなんて呼んでたの幼稚園のときじゃん……。
 みしみしと雪を軋ませてタイヤの音が近づいてきた。
 まだ除雪されていない道の先に目をやると、青暗い景色の向こうから白っぽい車体のワゴンが現れた。助手席に黒羽の顔を認めた──と思ったら、黒羽がドアをあけて徐行運転のワゴンから飛びおりた。「おはよーございま」スノーシューズで新雪にずぼずぼと穴をあけて走りだした矢先に「ぉえー!?」足を取られてひっくり返った。
「おまっ……!」
「坊ちゃん!」
 祖父とともに息を呑んだが、雪の中から黒い頭がすぐにひょこっと突きだした。
「うひゃ、冷てー」
 何事もなかったように立ちあがり、犬みたいに身体を振って首に入り込んだ雪を払う。一瞬とまった息を灰島は大きく吐きだした。
「おっ……まえ、無駄に丈夫だからって気ぃ抜いてんじゃねえぞ。今日どっかちょっとでも故障しやがったら絞め殺すぞ」
「下凍ってるで気ぃつけね、坊ちゃん」
 自分の尻の形の大穴をあけた場所から黒羽は今度は慎重に新雪を踏みしめて歩いてくる。ワゴンがその横を徐行してきて門前に停まった。
「慌ててがぼる(雪に嵌まる)んでねぇぞ、ボンー」黒羽の親戚と思しき年配の男が運転席から顔をだした。「すんませんの、大江さん。タイヤ履き替えてたでちょっと遅なってまいましたわ」
「はい?」
 祖父が首をかしげたとき、「おはようさんです。手伝いに来ました」と後部座席からもうすこし若い男が二人おりてきた。ワゴンの後ろにまわってリアゲートをあけ、担ぎだしたのは雪掻き用のスコップやダンプだ。灰島にはもう誰が誰だかわからないがこれも黒羽の親戚だろう。「あ、あのぉ……?」「あとはこっちでやってまいますで」驚く祖父の前で男たちがさっそく作業に取りかかった。
「こんでおまえんちの雪掻きは大丈夫やろ」
 なにやら偉そうに黒羽が胸を張ると頭の上から雪の塊が滑り落ちた。
「おれらは先行こっせ。おんちゃんが駅まで乗せてってくれるって。ばあちゃんたちもあとでうちの車で拾ってくっちゅうし。おまえもう行けるんけ? 飯食ったか?」
 ちょっとぽかんとして灰島は黒羽の顔を見つめていたが、「……あ、まだ。食って用意してくる」と門の中にきびすを返した。「自分がコケんなやー?」黒羽の声が背中にかかったとき、まさしく玄関の前で足を滑らせかけた。
 家にあがるとちょうど茶の間から祖母がでてきた。
「ああ公誓、東京のお父さんから電話あったとこやよ。雪大丈夫なんかって」
「親父から? 今?」急いで茶の間に足を向けたが「今切ってもたわ。かけなおさんくていいって」と言われて「あ……そう」と足をとめた。
「東京からもこっちのお天気心配してくれてたんやの。一月の東京には応援行けるで、東京で待ってるって、お父さん」
 電話越しにそう言う父の声が想像できた。それはほとんど自分の声でもあるんだろう。電話を介すると余計に自分と父の喋り方がよく似ていることを思い知らされていつも変な気分にさせられる。
 東京で待ってる──来ることを信じてる、っていうことだと解釈する。当然行くよ、と心の中で答えて頷いた。


 二列ある後部座席の二列目のシートを倒して荷物置き場にしてあったのでそこにバッグや大会の荷物を放り込み、灰島と黒羽は後部座席の一列目に乗り込んだ。朝っぱらからワゴンの車内いっぱいに大音量で落語が流れていた。夏合宿のときに乗せてもらった軽トラでは演歌がやかましく流れてたし、黒羽家の年配者は運転中になにかしらでかい音を垂れ流さないと調子がでないのか?
「おんちゃーん、落語はいいで天気予報聞かしてや」
 黒羽が前部座席に上半身を突っ込み、ダッシュボードのチューナーをいじった。
 ラジオの気象情報によれば県内全域で降雪が観測されたそうだ。県営体育館がある福井市で十センチの積雪。平年より三日ほど早い初雪になるという。
 灰島にとって、そして清陰高校男子バレー部にとって大勝負の日となる今日、春高バレー福井県代表決定戦──は、県内で普通に暮らす人々にとっては早い初雪が降った日として記憶されることになった。

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