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池上彰の講義の時間
高校生からわかる原子力
池上 彰

はじめに

 二〇一一年三月一一日に発生した東日本大震災は、一度に多数の人命を奪ったばかりでなく、原子力に対する私たちの「安全神話」をも打ちくだきました。
 原発は安全。多くの人が、原爆に代表される原子力エネルギーに恐れを抱きながらも、「原子力の平和利用」としての原子力発電に対しては、安全で必要不可欠なものという思いを持ち続けてきました。
 しかし、その結果が、このありさまです。多くの人が故郷を追われ、避難所暮らしを強いられています。事故を起こした原子炉は廃炉になります。それには四〇年以上もかかることが明らかになりました。
 二○一一年一二月、政府は、東京電力福島第一原子力発電所の事故対策について、「冷温停止状態」になったと発表しました。ところが、当初の政府の計画案(四月一七日発表)では「冷温停止」を目標としていました。それがいつしか、「冷温停止状態」との表現にすり替えられ、「事故は収束した」という印象が広がりました。それが政府の狙いだったのでしょう。
 そもそも「冷温停止」とは、通常の原子炉の運転で使われる言葉です。原子炉に制御棒が入って核分裂を抑え、原子炉の水温が一〇〇度未満になった状態を指します。
 それなのに今回は、原子炉の圧力容器の底部の温度がおおむね一〇〇度以下に下がり、原子炉から外部への放射性物質の飛散を大幅に抑えたという新しい条件を設けて、これを「冷温停止状態」と表現しました。「状態」という曖昧な表現を付加することで、実際には事故の処理が終わっていないのに、「事故は収束した」とのイメージを世界に伝えたのです。
 放射性物質は、事故直後よりは拡散が減ったことは確かですが、いまも微量の拡散が続いています。
 厳しい現実を直視することなく、都合のいいメッセージだけを世の中に送る。これまでも、こんなやり方で、日本に原子力発電所が次々に建設されてきました。その体質が、いまも変わってはいないのです。
 日本は、広島、長崎への二度の原爆投下を受け、世界で唯一の被爆国となりました。
「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ナガサキ」をスローガンに、核兵器禁止への取り組みが続けられてきました。
 しかし、今度は「ノーモア・フクシマ」とも叫ばなければならなくなりました。
 被爆国が、なぜまた被曝国にならざるをえなかったのか。原爆で解き放たれた原子力エネルギーが、なぜ発電にも使われることになったのか。それを検証すると、第二次世界大戦後の世界と日本の様子が見えてきます。実は日本も戦前戦後を通して、核兵器の保有を検討していました。その動きはいまも消えてはいません。原子力をキーワードに、戦後世界を見てまいりましょう。
 この本もまた、ホーム社の木葉篤さんと長澤潔さんとの共同作業の結果、誕生しました。感謝しています。

 二〇一二年 五月
               池上 彰


   第1講 爆弾に使われた原子力

錬金術から始まった

 人々は、いつの世にも富を求めてきました。富といえば金でしょう。しかし、金を探し出すのは至難の業です。それなら自然界に普通に存在する鉱物類を、他の鉱物と合金にしたりすることで、金を生みだすことができるのではないか。
 かくして誕生したのが「錬金術」です。
 錬金術師たちは、その時代の最新科学を使い、数々の実験を繰り返してきました。万有引力の法則を発見したアイザック・ニュートンも、実は錬金術の研究に熱中し、膨大な資料を残しています。
 最初の動機は金のためであっても、次第に研究自体に魅せられる人たちも出てきます。その結果、学問としての「化学」が独自に発達します。錬金術師たちの中には、化学者になる人たちも生まれました。
 ところが、錬金術でいくら鉱物類を溶かしたり合わせたりしていても、新しい性質の物質は生まれてきません。そのうちに、物質を構成する原子や原子核の存在が判明してきます。化学反応は原子の組み合わせを変えるだけ。原子を変えるには、原子核に手を加えないと、まったく新しい物質は生まれないことがわかってきます。
 その事実がわかってくると、原子レベルで物質を変化させようと試みる学者たちが現れました。こうして原子核の分裂を発見する科学者たちが出現するのです。
 発見された技術は、やがて原子爆弾や原子力発電所へと発展し、莫大な富を生み出します。つまりは「現代版錬金術」が成功することになるのです。

核分裂が発見された

 すべての原子核は陽子と中性子から成り立っています。このうち陽子の数によって、原子の種類が決まっています。たとえば陽子が一個なら水素、二個ならヘリウムです。
 陽子の数の小さい方から順番に並べて番号をつけたのが原子番号です。これが周期表になります。自然界で原子番号が一番大きいのはウランの九二。つまり陽子の数が九二個です。
 これより大きい元素は自然界には存在しません。となると、学者たちは、錬金術師のように、自然界にはない元素を作り出したくなります。ウランの原子核に中性子をぶつけると、まったく新しい元素が生まれるかもしれない。こう考えた学者たちが、原子核に中性子を衝突させる実験を行うようになりました。
 一九三四年、イタリアの科学者エンリコ・フェルミは、ウランに中性子を当てると、いくつもの放射性元素が生まれることを発見しました。当初彼は、中性子が当たったことで、ウランよりも原子番号が上の元素が生まれたのだろうと考えましたが、実際には、ウランの原子核が分裂していたのです。
 それに気づいたのは、ドイツのカイゼル・ウイルヘルム研究所のオットー・ハーンという科学者でした。かつての共同研究者で、ユダヤ人であるためナチスから逃れてスウェーデンに亡命していた女性科学者のリーゼ・マイトナーに、この現象に関する科学的アドバイスを求めます。そのマイトナーが、核分裂を理論的に立証しました。一九三八年一二月のことです。
 ウランの原子核に中性子が当たることで原子核は分裂。二〇〇メガボルトという膨大なエネルギーが発生し、二ないし三個の中性子が飛び出すことがわかったのです。これによりハーンはノーベル化学賞を受賞しますが、マイトナーの研究に言及することがなかったため、彼女は受賞を逃します。
 ちなみにフェルミは、一九三八年にノーベル物理学賞を受賞しますが、ファシズムが進む祖国イタリアにいたたまれず、アメリカに亡命。やがて原爆開発のマンハッタン計画に加わります。
 彼らの発見が、原子力開発の始まりでした。
 ウランの原子核に中性子を当てると、原子核が分裂して二ないし三個の中性子が発生する。これらの中性子が、近くの原子核に衝突・吸収されると、そこからまた二ないし三個の中性子が放出される。これを繰り返せば、ネズミ算式に核分裂が発生します。これが連鎖反応です。核分裂のたびに膨大なエネルギーが発生しますから、これを瞬時に引き起こせば、きわめて威力の強い爆弾を製造することが可能です。これが原子爆弾の原理です。
 一方、このエネルギーを少しずつ取り出すことで湯を沸かし、発電ができます。この原理をもとにしているのが原子力発電所です。
 原理はひとつ、原子力発電も原子爆弾も仕組みはまったく同じです。核分裂で発生させた高熱で人の命を奪うのが原子爆弾。湯を沸かし、水蒸気でタービンを回すのが原子力発電です。

核分裂から原子爆弾ヘ

 その後、原子力は、原爆を製造するという軍事目的で研究が進められ、発電など平和利用に使われるより先に、原子爆弾が完成してしまいます。
 人類初の原子爆弾実験は、一九四五年七月でしたが、アメリカが原子力発電の運転を開始させるのは、それに遅れること一二年。一九五七年一二月のことでした。
 オットー・ハーンたちの研究は、一九三〇年代半ばから一九四〇年初頭にかけて進んだ物理学の成果を踏まえたものです。純粋に科学的なものでした。
 それがなぜ、人を殺すための爆弾の製造に結びついてしまったのか。ハーンとマイトナーが原理に気づいた時期が、ドイツがポーランドに攻め込んで第二次世界大戦が勃発する九か月前だったからです。時代が悪かったというべきでしょうか。
 一九三〇年代、ドイツではナチス・ドイツが勢力を伸ばしていました。ナチスは人種的偏見を持っていました。自分たちアーリア人こそが優れた民族であり、ユダヤ人のような「劣等民族」は根絶やしにする必要がある。この恐るべき理論により、ユダヤ人の迫害に乗り出します。一九三三年には、ユダヤ人の公職追放まで実施しました。これを恐れたユダヤ人の科学者たちは、こぞって国外逃亡を始めます。
 アメリカに亡命していたユダヤ人の物理学者たちは、ハーンたちの研究の成果を知り、自分たちがこれまで研究を重ねてきた原子物理学の成果がドイツの手に渡れば、世界制覇のために使われるのではないかと恐れました。それこそまさしく悪夢でした。
 ドイツが核分裂爆弾を開発すれば、間違いなくヨーロッパ戦線で使用するだろう。そうなれば、大戦の戦局は一挙に変わり、ドイツの勝利に終わる。亡命物理学者たちは、このように考え、危機感を募らせたのです。

ドイツに先を越されるなと開発


 当時のドイツは、すでにチェコスロバキアにあるウラン鉱山を支配していましたし、ウランの対外輸出禁止に踏み切ってもいました。ウランが毎週のように国内に運び込まれているという情報もあって、ドイツが核兵器の開発を進めていることは確実とみられたのです。
 こうした危機感を持った学者の代表として、アメリカに移住していたドイツ生まれの物理学者アルバート・アインシュタインは、一九三九年八月二日、ルーズベルト大統領に「ドイツに先を越されてはならない」という主旨の手紙を送りました。世界的物理学者レオ・シラードと連名でした。「アインシュタイン=シラード書簡」です。
 手紙の中でアインシュタインは、核分裂に関する科学が発展し、原子爆弾を製造することが可能になってきたこと、爆弾を船で運び込み、どこかの港で爆発させれば、たった一発で港湾施設もろともあたりを破壊できてしまうことなどを指摘しています。
 そして、もし仮にドイツが先に開発に成功したら、連合国にとっても大変な被害をもたらすことになると警告し、アメリカが原爆の開発を進めるように求めました。
 それに動かされて、アメリカは、国家プロジェクトとして大規模な核開発計画に踏み切ったのです。

アメリカにしかつくれなかった爆弾

 核分裂爆弾の製造が理論上可能になったことは、「ネイチャー」や、「フィジカル・レビュー」など国際的な科学雑誌に発表された研究成果を専門家が読めば、すぐにわかることでした。これらの雑誌は、世界の主な科学者たちが読んでいました。船便なので日本への到着は少し遅れましたが、日本の科学者も読んでいたので、一九四五年八月、「広島に新型爆弾」という新聞の見出しを見て、それが核分裂爆弾であるとピンときた人々が、少なからずいたのです。
 しかし、ドイツに先を越されてはいけないということで、アメリカは情報管理に乗り出します。一九三九年九月に第二次世界大戦がヨーロッパで始まると、アメリカ政府は核分裂の研究成果の発表を一切禁止します。科学誌などにも出なくなります。一九四〇年になると、プルトニウムが発見されるのですが、これも一切秘密にされました。原爆が広島、長崎に投下されるまで情報は封印されたのです。
 理論上では核分裂爆弾の製造が可能であっても、実際に製造するとなると、そこには天と地ほどの隔たりがあることもわかってきていました。
 ウランを核分裂するまで濃縮するには、高度な技術と莫大なエネルギーが必要とされ、実験を繰り返さなければなりません。当時それだけの人材と技術、資金を持ち合わせた国はアメリカしかありませんでした。
 さらに、開発を急がなければ戦争に負けてしまうという危機感が、開発を推進させます。その結果、世界で最初にアメリカが原子爆弾を作ってしまうことになったのです。
 その後、ドイツの核兵器製造計画は、実は進んでいなかったことが判明します。一九四四年一一月、アメリカ軍の特殊部隊がドイツに潜入。ドイツで核分裂を研究していたシュトラースブルク大学の研究者を拉致し、自宅や研究室から押収した資料を分析しました。その結果、核兵器を製造できる可能性についてヒトラーに報告は上がっていたものの、まだ研究段階にとどまっていたことが判明したのです。ドイツの研究は、アメリカより少なくとも二年近く遅れていたことがわかりました。
 アメリカは、半ば幻影に追い立てられたことで、後に悪魔の兵器と呼ばれる「魔物」を地上に送り出してしまったのです。

アインシュタインの苦しみ

 第二次世界大戦の欧州戦線でドイツの敗色が濃くなった一九四五年三月、アインシュタインは、ルーズベルト大統領に対して、「原子爆弾についてのすべての作業を即時に中止する命令を出して欲しい」という手紙を出しています。
 ドイツが先に原子核分裂爆弾を作り出したら大変だとの危機感から核開発を進言したアインシュタインですが、ドイツの核開発が進んでいなかったこと、まもなくドイツが敗北する情勢であることを見て、もはや原子爆弾を作り出すべきではないと考えたのです。
「世界の状況は変わり、以前は当然であると思われた多くのことが、もはや適切ではなくなった。核兵器を使用することによって、アメリカの威信に汚点がつく」と、アインシュタインは正反対のことを訴えました。
 しかし、翌四月、ルーズベルト大統領の突然の死によって、アインシュタインの懇願の手紙は、大統領の目に触れることはありませんでした。原子爆弾の開発は進み、次のトルーマン大統領は、日本への原爆投下を決断します。

日本も原爆を研究していた

 このようにアメリカは、ドイツが核分裂爆弾を開発することを恐れていましたが、実は日本も、独自に開発を進めようとしていたのです。
 フェルミやハーンたちの研究成果は、日本の学界にも届いていました。日本の科学者たちばかりでなく、軍人たちも、この研究が何を意味するか理解しました。
 一九四〇年四月、陸軍航空技術研究所所長の安田武雄中将は、部下の鈴木辰三郎中佐に対して、原爆製造が可能かどうか調査するように命じています。鈴木中佐は、東京帝国大学の学者に相談しながら調査を進め、この年の一〇月になって、原爆は理論的に製造することが可能であるとの報告書を提出しています。日本の科学技術の水準も、このレベルには達していたのです。
 これを受けて安田中将は、当時の陸軍大臣東条英機の同意を得た上で、一九四一年四月、理化学研究所に対し、原爆製造に関する研究を依頼します。
 理化学研究所は、当時の日本の原子核物理学の研究の中心になっていました。
 理化学研究所の仁科芳雄は一九四三年一月、原爆製造は可能であり、ウラン235を濃縮すればいいと報告しています。研究依頼から報告まで二年もかかっていました。この間にアメリカでは、大規模な開発が進んでいました。研究開始時期には日米にそれはどの差があったわけではありませんが、この時点で、日米の差は決定的になっていました。
 この報告にもとづき、日本でも原爆製造に向けた準備が、陸軍航空本部の直轄研究として開始されます。これが一九四三年五月から始まった「ニ号研究」です。この秘密コードのカタカナの「ニ」は仁科の頭文字でした。
 一九四四年七月からは、六フッ化ウランを用いてのウラン濃縮実験が始まっていました。
 しかし、一九四五年四月の空襲で実験施設が焼失。実験は中止になりました。
 一方、日本政府は、やはり原爆研究を開始していたドイツに対して、ウラン鉱石を送るように依頼しています。依頼を受け、ウランを積んで日本に向かっていたドイツの潜水艦は、途中で攻撃を受けて沈没し、日本にウランは届きませんでした。
 原爆の研究を進めていたのは陸軍ばかりではありませんでした。
 一九四二年の秋、海軍艦政本部が、京都帝国大学の荒勝文策教授を中心とするグループに研究を依頼。一九四五年になって「F研究」として本格化します。Fは fission(分裂)の頭文字からとりました。
 陸軍は理化学研究所、海軍は京都帝国大学。それぞれが別個に研究をしていました。大規模な国家プロジェクトとして推進されたアメリカとは、大きな差がありました。
 海軍の研究は、ウラン濃縮の設計段階で敗戦を迎えます。
 戦後、日本を占領した連合国軍は、占頷下の日本に対して、原子力研究の全面的な禁止を命じます。日本の原子力研究が解禁されるのは、一九五二年四月に発効したサンフランシスコ講和条約で日本が独立を果たしてからのことでした。
 この歴史をみて、私は、さて、と考え込みます。
 日本は唯一の被爆国です。でも、その日本も、原爆の開発を密かに進めていたことを知ると、私たちの歴史へのイメージは変わってくるのではないでしょうか。
 日本は原爆開発を本格化させる前に敗戦を迎えましたが、もしいち早く原爆を製造していたら、日本は果たして戦争で使用したのでしょうか。製造して保有していることと、使用することの間には大きな隔たりがあります。とはいえ、敗色濃くなっていた日本は、「起死回生の兵器」として、これを使ったかもしれません。
 日本が原爆開発を進めていたからといって、アメリカの原爆投下を免罪できるわけではありませんが、日本はどうしたであろうかと考えると、なんだか恐ろしい気持ちになってきます。

マンハッタン計画発動

 ドイツに負けるな。これを合言葉に、アメリカは「原子核分裂爆弾」の開発に乗り出します。
 それが「マンハッタン計画」です。一九四二年八月にスタートしました。
 マンハッタンは暗号のコード・ネームです。計画の直接の管理責任者に任命された人物が、アメリカ陸軍マンハッタン地区担当の技術将校だったためで、後にプロジェクト全体の呼び名になりました。
 原子爆弾の設計と製造の総責任者には、カリフォルニア大学教授だったロバート・オッペンハイマーが就任しました。彼は後に、「原爆の父」と呼ばれます。
 ニュー・メキシコ州のロスアラモス研究所に大勢の科学者が集められ、原爆開発が急ピッチで進められました。研究所の面積は一万ヘクタールという広大なものでした。
 この計画に携わったのは、全部で五万四〇〇〇人。資金は、当時の金額で二〇億ドル。現在の日本円に換算すると、およそ一〇〇兆円にも達します。日本の国家予算を超える金額が注ぎ込まれたということです。
 なぜそんなことが可能になったのか。アメリカは、多数の兵士を戦地に送り出しながらも、国内は好況を謳歌していたからです。
 一九三九年の国民総生産は、九一〇億ドルでしたが、一九四五年には、それが、たちまち二一五〇億ドルにはね上がります。悩みの種の失業問題すら、戦争のおかげですっかり消え失せていました。
 当時アメリカは、「戦争が始まって以来、生活水準を向上させた唯一の国」と、自賛するゆとりさえありました。
 ロスアラモス研究所の隔離されたこの場所は、監視体制が敷かれ、通信の自由もなく、手紙も、私書箱(「合衆国陸軍私書箱1663号」)だけが頼りでした。莫大な資金は、当然のことながらアメリカ国民が納めた税金でしたが、議会にも国民にも一切秘密のうちに進められました。情報公開が進む先進民主主義国でさえも、軍事目的となると、国民に知らされないまま事態が進行するのです。
 原爆は、ウランの濃縮によるウラン型原爆と、プルトニウムによるプルトニウム型原爆の双方の開発・製造が進められました。
 材料となるウランは、アフリカのベルギー領コンゴ(現在のコンゴ民主共和国)から輸入されました。さらに、カナダやアメリカ国内のコロラド州の鉱山からのウランも使われました。
 ウラン235の濃縮工場はテネシー州オークリッジに、プルトニウム製造工場はワシントン州ハンフォードに、原爆製造工場は、ロスアラモスに、それぞれ建設されました。原爆製造の関連施設は、アメリカの一九の州とカナダにまたがる計三七か所にものぼりました。
 国家プロジェクトとなると、人材と資金を惜しげもなく注ぎ込む。「NASA」(航空宇宙局)による宇宙開発でもそうでしたが、いかにもアメリカらしいやりかたです。
 これは戦争でも同じで、いったん戦略を立てると、大量の人員と物資をいっぺんに送り込み、戦場を制圧。敵を叩きつぶすというやり方をとります。ちょっと予算をつけてやってみて、うまくいきそうなら、さらに予算を増やそうという「逐次投入」という方式を好む日本とは好対照です。
 たとえば第二次世界大戦中の日本軍では、米軍に占領された南太平洋の島を攻略する際、千人単位の兵士を少しずつ送り込み、次々に全滅していくというケースもありました。
 第二次世界大戦で、日本はアメリカの物量作戦に負けたとよくいわれますが、負けたのは物量ではなく、そもそも戦略の問題だったのです。
 その体質は、戦後も続きます。東京電力福島第一原子力発電所の事故の際にも、原子炉を冷やすため、自衛隊のヘリコプターで上空から水を投下し、効果がないとわかると警視庁機動隊の放水車を投入。水が届かないとわかると、東京消防庁のポンプ車を派遣……という要員の「逐次投入」を繰り返しました。現場の人たちは決死の思いで任務を遂行しましたが、戦争中と、発想がまったく変わっていなかったのです。
 マンハッタン計画は急ピッチで進められましたが、それでも核実験成功まで三年を費やすことになりました。その過程では事故も起きましたが、外に洩れることはありませんでした。少なくとも二人のスタッフが、不慮の爆発事故で大量の放射線を浴び、苦しみぬいた末、数日で死んでいったという記録が残されています。
 つまりアメリカは、少なくとも現場の科学者は、この時点で放射能と被曝の恐ろしさを知っていたということになります。
 膨大な資金がつぎ込まれたプロジェクトには、軍だけでなく、さまざまな産業が協力しました。
 このプロジェクトは、アメリカに「軍産複合体」(産軍複合体とも)が形成されるきっかけともなりました。「軍産複合体」とは、軍と産業界が密接な協力関係を持ち、軍需産業が発展することで、やがては軍需産業を維持させるために、軍備の拡張が進められるようになるという逆転現象のことを言います。

「我々はすべて、悪魔の子になった」

 一九四五年七月一六日。実験の日がやってきました。暗号名「トリニティ(三位一体)」とされた世界初の核実験です。
 アメリカ南部ニューメキシコ州アラモゴードの砂漠には、高さ三〇メートルの鉄塔が建てられ、この上にプルトニウム型原爆が設置されました。
 午前五時半、夜明けの砂漠に強烈な閃光が走ります。巨大なキノコ雲が立ち上りました。二九〇キロも離れた都市ですら、住宅の窓ガラスが割れる被害が出て、大騒ぎになりました。自国民にも極秘の開発プロジェクトですから、アメリカ軍は、「アラモゴード航空基地で弾薬庫が爆発した」と虚偽の発表を流しました。
 この実験に成功したとき、開発プロジェクトにいたゲオルグ・キスタコフスキーは、「地球が滅亡する最後の瞬間、最後の人類が目にするのはこんな光景なのだろう」と、
そのありさまをふりかえっています。また、実験責任者のケネス・ベインブリッジは、「これで我々はすべて、悪魔の子になってしまった」と語りました。
 総責任者であったオッペンハイマーの脳裏に浮かんだのは、彼がサンスクリット語で読んでいたヒンズー教の教典『マハーバーラタ』の中の詩編「バガヴァット・ギーター」の一節でした。
「もしも、千の太陽の煌きが天空に飛び散ることあらば、全能なる神の燦然たる輝きのごとくにならん……我は死となり、世界の抹殺者となれり」
 遂に「世界の抹殺者」の力を得てしまったのです。日本の降伏まで、後一か月に迫っていました。

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