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短編伝説 旅路はるか
集英社文庫編集部編

   顔
               川端康成

 六つ七つから十四五まで彼女は舞台で、泣いてばかりいた。その頃は、見物もまたよく泣いたものだ。
 自分が泣けば見物もまた泣くものという考えが、彼女の人生を見る最初の眼であった。人間の顔は皆、自分の芝居を見れば泣くにちがいない顔と見えた。彼女に分らない人間の顔は一つもなかった。してみれば、世のなかは彼女にたいへん分りやすい顔であった。
 一座のうちで、美しい子役の彼女ほど多くの見物を泣かせる役者はなかった。
 ところが、彼女は十六で子供を産んだ。
「おれにどこ一つとして似てやしない。おれの子じゃない。おれは知らん。」と、その子の父は言った。
「私にだってちっとも似てるところはありゃしないわ。」と、彼女も言った。
「でも私の子供なのね。」
 その女の子の顔が、彼女に分らない最初の人間の顔となった。そして子供を産むと同時に、彼女の子役としての命は滅んだと言ってよかった。そうすると、これまで自分が泣き見物を泣かせていた新派悲劇の舞台と、実際の世間との間には、大きい溝があることに気がついた。その溝は覗くと真暗であった。自分の子供の顔のように分らない人間の顔がたくさん、その暗さのなかから現われて来た。
 旅の空のどこかで、彼女は子供の父と別れてしまった。
 そうして年がたつにつれて、彼女はその子の顔が別れた男の顔に似ているように思われ出した。
 やがてその子の子役が、彼女の幼かった頃のように、見物を泣かせはじめた。
 旅の空のどこかで、彼女は子供ともまた別れてしまった。
 別れるとその子の顔が、彼女の顔と似ていたように思われて来た。


 田舎町の芝居小屋で彼女は十何年振りに、やはり旅役者の父とめぐりあった。そして母のいどころを教えられた。
 母に会いに行った彼女は、一目見るなり、
「ああ。」としがみついて泣いた。生れて初めて母を見て、生れて初めてほんとうに泣いた。
 なぜなら、彼女の別れた女の子の顔は、彼女の母の顔に生写しだったのだ。彼女が彼女の母と似ていなかったように、彼女と彼女の子供とは似ていなかったのだ。しかし、祖母と孫とは生写しなのだ。
 母の胸で泣いているうちにやはり子役としての彼女はほんとうに泣いていたのだと考えられて来た。
 今は聖地への巡礼のような心で、彼女の子供とその子の父にどこかでめぐりあって、顔のことを告げるために、彼女はまた旅役者の群へ帰って行った。


   エアポートは、雨
               森 瑤子

 ミクロネシアのその島の、柱と草葺きの天井だけでできている空港建物は、熱い、灰色の霧のような雨の中に煙っていた。
 週に一度しかない定期便の到着を待つ人々──現地の行商人、旅行者、税関の役人、そしてそれらの数をはるかに上まわる飛行機見物の島の黒い住人たちなど──で、吹きぬけの建物の中はごったがえしている。飛行機は、もう二十分もエアポートの上空を旋回して、雲の切れるチャンスをうかがっていた。
「もしも着陸できないということになったら、どうするの?」
 女は傍の若い男に訊ねる。「明日まで出発できなかったら、私困るわ」
「困るのはお互いさまだよ」男は憂鬱そうに雨雲をみつめた。
 その時、雑音の多い聞きとりにくいスピーカーから、飛行機は燃料切れのため、いったん最寄りのポナペヘ引き返すことになった、と早口の英語が流れた。失望の声や溜息、悪態などで、場内が騒然とする。
「今日中に帰らないと、夫はきっとあっちこっちに電話をしだすわ」
「こっちから先手を打って、一日予定を延ばすとでも電話を入れたらいいじゃないか」
「だって国際電話よ、日本にいないのがバレてしまう」女は薄い日焼けの下で青ざめる。
「だから初めから、ミクロネシアに行くって言って出て来ればよかったのさ。嘘などつくから、言い繕えやしない」
「あなたまで私を責めるの? 京都の女友だちのところヘ一週間遊びに行くってことで、ようやくなんとかOKになったんじゃないの、知っているくせに」
「よそうよ、口論したって始まらない。それにまだ今日中に帰れないときまったわけじゃないさ」男は慰めるように、女の肩に手を置いた。
「それにいざとなったら、僕が責任をとるよ」
「そんなわけにはいかないわ。前途有望なエリートに、子連れの年上の女を押しつけるわけには、いかないじゃないの」口では否定しながら、女は試すような、からかうような、期待するような、すがりつくような口調で言った。
「ところが僕は、その子連れの年上の女を愛しているからね」男は女の眼を見ずにそう答え、ポケットの煙草を探った。
「たとえ嘘でも、そう言ってもらえると、うれしいわ」女はしんみりと呟く。嘘じゃないさ、と男が言ってくれるのを心の中で願ったが、彼は煙草の煙ごしに、たえまなく降り注ぐエアポートの雨に眼をやったまま、何も言わない。
 航空会社のユニフォームを着た若い女が、そばを通りかかると、男は咄嵯に、
「大丈夫でしょうね、明日に延びるってことにはならないだろうね」と、わずかにとり乱した声で訊く。
「明日ということはないですよ」褐色の顔はニコリともせず答える。「今日がだめなら、次の週まで便はありません」
「なんだって!?」男の口から煙草が落ちる。「それは困る、断じて困る」今にも相手につかみかからんばかり。「あと一週間もこんな何もない孤島みたいなところに足止めをくらうなんて、冗談じゃない」航空会社の若い女は、自分の責任じゃないとばかり肩をすくめて、行ってしまう。
 女は、恋人の度を過ぎたとり乱し方を見ると、逆に少し白けたような気分に襲われた。
「まいったなぁ」男は茫然と、手を伸ばせば触れられそうに低くたれこめている雨雲を睨みつけた。「一週間だぜ、こんなつまらん未開の島に、なんと一週間も釘づけだぜ」
「昨日は、これほど美しい島はない、とあなた言ったわ」女は低いさめた声で言う。
「ラグーンの落日を眺めながら、一生こんな島で私と暮らせたらとも」いや一生とは言うまい、せめて一カ月、それもだめなら一週間でもいい。「あと一週間、ここでこうして太陽とミクロネシアの海と君の愛撫に身をゆだねることができるなら、一生思い残すことはないって……」
「確かにそう言ったし、本当にそう思った」男は眉を寄せた。霧状の雨は、建物の中にも容赦なく吹きこんでくる。湿った髪や、衣服や皮膚から立ちのぼる獣めいた匂い、雨そのものの匂い、熱帯産の花やフルーツや植物の匂い、汗の匂いなどが入り混って、どこか胸をしめつけるような混沌としたノスタルジーがある。
「二度と味わえないと思うと、つい惜しくなったんだ。昨日の言葉は、嘘じゃない」
「それなら、この雨は、私たちに特別に与えられた思いもかけないプレゼントだと思ったら?」
「プレゼントか」男は女を眺めた。湿った髪が顔や項に張りついて、彼女はセクシーに見える。「そうだな。じたばたしても始まらないものな」まだすっかりあきらめきれない声で、彼は言う。「君は、いいの? 覚悟はついている?」
「ええ、覚悟はできているわ」それもつい今しがた。男がうろたえるのを見た瞬間、何かがふっきれたような気がした。「だからこそ、余分に与えられたこの一週間を、大事にしたいの。そうでなければ、きっと後悔してもしきれないと思うの」
「それはそうだね」男は同意する。「君の言う通りだよ。そうときまったら、ホテルに部屋を取り直さなければな」
「気の早い人」女は笑う。
「またロックアイランドヘピクニックに行こう。そこで貝や魚を捕って、バーヴェキューだ。ラグーンに沈むサンセットがあと六回は見られるんだぞ」男は、自分自身の気持をひきたてるように、わざと明るく言った。
「ね、何もかも全部やり直せるなんて、素敵じゃない?」彼女も相手に調子を合わせて陽気に答える。
 二人はホテルにむけて、雨の中を歩きだす。ホテルはエアポートの先のなだらかな丘陵を越えた、椰子の林の途中にある。その背景に珊瑚礁が薄くもやって見える。
 雨に濡れると、再び男は憂鬱に見舞われ、表情をくもらせた。
「元気を出して」と女が慰める。
「この天気じゃ、マリーンスポーツもテニスも、ピクニックもだめだしな」
「でもひとつだけ、できるスポーツがあるじゃないの」女は湿った髪を揺すって喉をのけぞらして笑う。
「ベッドの中のスポーツよ」
 男は苦笑したが、あわてて女の白い喉から視線を剥した。両手に提げたスーツケースの重み以外に、何かが両方の肩にずっしりと重くのしかかるような気がするのだ。
 百メートルほどを、二人は無言で歩いた。彼らはそれぞれの思いにとりつかれていたので雨が急に小雨に変ったのに気がつかない。けれども、男の方が先に、自分の足元から斜めに伸びている彼自身の影に気づく。それは薄いスミのひとはけのように頼りなかったが、みるまに濃さと輪郭とが黒々と力をまし、ついに自分と相似形をとるのを、男は見たのだった。女も同時に彼女自身の影を見て、反射的に振り仰いで空を見る。雲に一条の亀裂が入り、そこから痛いばかりの光りと熱とが溢れて出ている。何かが胸の中でひどく痛んだ。
「ほらね、最初に、まだ帰れないときまったわけじゃないからって、そう言ったろう」
 男は急に自信をとり戻し、勝ちほこったように表情を輝かせた。その顔を見て、女は、危いところで自分が失おうとしていた夫との生活と、退屈ではあるが安定した家庭とを思って、深い溜息をついた。
 しかし彼女は安堵とは違う哀しみに似た思いに胸をしめつけられながら、今では本来のルリ色をとり戻した珊瑚礁の彼方を眺めた。
「どうしたのさ、君、行かないの?」男が訊く。
「いいえ、行くわ」女は無理矢理にその視線をルリ色の海から剥す。「もちろん、行くけど」
 再び、めくるめくような、打ちのめすような熱帯の太陽の下を、男の後からエアポートに戻る道のりを歩きながら、女は、彼女についに与えられなかったこの美しい島での余分の一週間について、痛切に惜しんでいる自分の心を、もてあますのだった。


   税関にて
               景山民夫

 三週間分の旅の重さを肩にくいこむショルダーバッグのストラップに感じながら、成田空港の妙に無機質な廊下をズンズンと大股で歩く。
 検疫カウンターの、テープで流れる発病申告のアナウンスが、最近、やや早口の、というよりは、まともな口調に変ったのに気づく。以前のもったりとした女性の声で「リョコーチューニ、ハツネツ、ホッシン、ゲリナドノショージョーヲ……」と喋りかけられる奴にくらべれば、はるかにましになっている。
 あのアナウンスはひどかった。特に“下痢”を英語で言う時の“DIARRHEA”の二つ重なったRを、さも嬉しそうに発音する口調には辟易とさせられたものである。あまり気持ちが悪いので、以前、ヤップ島の帰りに、偶然、機内で一緒になったCM撮影隊の一行六人と共に、全く同じ口調で検疫官をからかったことがあった。ちょうど、トラック島でコレラが発生した時期とあって、ミクロネシアから帰って来る便の乗客に対し神経質になっており、アナウンスだけでなく、一人一人に口頭で健康状態の質問がむけられていた。
「旅行中、体に異状はありませんでしたか? 病気の自覚症状は?」
 まず一人目はヒゲだらけの大男のCMプランナーで、ギョロリと目をむいて検疫官をにらんでから、ねばりつくような喋り方で言うのである。
「リンビョー」
 検疫官が言葉の意味に気づいて、あわてて彼を目で追う時には、もう二人目の童顔のカメラマンがカウンターの前に立っている。ニッコリ笑って、一音一音を区切るように言う。
「リ・ン・ビョー」
 これが僕を含めて六人続いた。六人目が通りすぎた時には、その係官は制帽を床に叩きつけたい衝動を必死でおさえていた。
 が、彼は次にやって来る人物を見て気をとり直す。今の一行とは関係なさそうな、妙齢の美女なのである。ほどよく小麦色に焼けた肌が、肩を全部露出した、真白なコットンのサマードレスと見事なまでの調和を見せている。驚く程目が大きい。瞳が鳶色をしていることに気づくまでもなく、170センチはある身長と、そのプロポーションから、白人と東洋人の混血であることが分る。
 一日に一万人を超える人間を見るのが商売の空港の検疫官でも、これだけの美女に出会うことは年に一度もあるまい。就職の面接試験の時からこっち押入れにしまいっぱなしで忘れていたような笑顔を顔に浮かべて精一杯、丁重な言葉づかいで、彼女の身体に異状がないかと質問する。
 すると、一瞬、質問の意味が分りかねるような表情をしてから、CM撮影隊のモデルであるその女性は、優雅に微笑んでゆっくりと言うのである。「リ・ン・ビョー」
 その気になれば、お役人ほど遊び相手として格好の存在はないのだが、図に乗って遊びすぎると頭が堅いだけに逆にしつこくいじめられる可能性があるから気をつけなければいけない。ロサンジェルス国際空港の税関で鞄の中味を聞かれた時に、「プラスティック爆弾が少々と、シャーマン戦車一台」と答えてウケたのをいいことに、成田の税関でも同じ答えをして別室に連れて行かれ、ポケットの中まで調べられた男もいるのだ。勿論、僕である。
 それ以降、税関だけはからかわないことにしている。おかげで、ここのところ連続十八回、ノーチェック、フリーパスの記録を保持している。
 バゲージ・クレームの機構を全く信用していないから、一人旅の時は荷物は一切預けずに、機内持ち込みが可能なショルダーバッグひとつで旅をすることに決めている。
 サンフランシスコから、どうしても所用で東京に二日間だけ戻らねばならなかった時など、荷物といえば、ペーパーバックのジャック・ヒギンズ一冊だけであった。この時は、さすがに税関が異常な興味を示した。
「別送便とか、そういう物はないんですか?」
「ありません。明後日にはサンフランシスコに帰るんですから」
「しかし、下着とか、そういった物はどうするんですか?」
 税関が他人の下着の心配までしてくれるとは思わなかった。
「大丈夫です。パンツを三枚、重ねて穿いているのです。二日に一枚ずつ、上の奴から脱いでいくから、六日間は清潔に暮らせるのです」
 よく考えれば、上から脱いでいくのだから、結局は一枚のパンツを、六日間穿きっぱなしとなる理屈だがそういったことまでは考えないらしく解放してくれた。
 とにかく、バゲージ・クレームで待つということをしないから、比較的、空いている間に税関のチェックをうけることが出来る。税関吏だって、何十個ものパイナップルのダンボール箱と格闘した後よりは、その前の方が愛想が良いに決っていて、これが十八回フリーパスの記録の原因であるといえるだろう。
 それでも、今日は、前の便が遅着したらしく、一番空いている列でも五、六人の乗客が並んでいた。列の最後尾について順番を待ちながら、ふと十数年前の羽田の税関での出来事を思い出した。

 あれは、まだ僕のパスポートの出入国のスタンプが二ページにおさまる程度の旅しかしていない頃だった。
 外国に旅行するということに対して、自分自身に気負うところがあったのだろう、日本に帰国する時には必ず、最後に出発した国の民族衣裳を着て帰るという、奇妙な癖があった。いま考えると噴飯ものだが、あれはあれで、結構、勇気のいることであったような気がする。真夏にエスキモーの毛皮を着て帰って来たり、粉雪の散る中を着陸した飛行機から上半身、鞣皮のべスト一枚で頭にインディアンの羽根飾りをかぶって降りて来たりするのだから、体力も必要であったようだ。
 その時は、ヨーロッパを車で三か月ほどかけて旅行し、最後に飛行機に乗り込んだのは、エジプトのカイロであったから、当然、アラブの民族衣裳に身をかためねばならない。南回りで、ドゥバイ、ボンベイ、マニラと各駅停車を繰り返している間は、さすがに着込む勇気はなく、香港を飛立ってからトイレで着替えて通路に出たら、数人の客が立ち上がって両手を上げた。アラブ・ゲリラのハイジャックが多発している頃であった。
 そのまま、ファーストクラスヘのこのこと入りこんで、ボンベイの空港で知り合いになったサウジアラビアの油田の持ち主だという本物のアラブ人に着つけの間違いを正してもらい、戻り際に鏡を見たら、夏場の長旅で陽に焼けた肌色といい、旅の間に生やした口髭といい、なかなか堂に入ったものであって、自分でも満足がいった。パリの露店で買った安物のサングラスも、効果的であるような気がした。
 当時の国際空港であった羽田に到着して、不思議なことに入国管理では一言も質問されずに通してもらい税関の日本人用のカウンターにむかったら、今迄聞いたうちで一番、下手くそな英語が背後からきこえた。
「パセンジャー、パセンジャー、ジス・ウェイ、プリーズ!」
 無視して、そのまま日本人用に足を進めると、中年の税関吏が額に汗の玉を一杯に溜めて走って来て袖をつかんだからサングラスを外して怒鳴りつけてみた。
「なんじゃあワレ、日本人が日本人の窓口行ったら、いかんちゅうのんか、おお?」
 大阪弁を喋ったつもりだったが、広島弁にきこえたのかもしれない。
 たちまち税関中の人間が、僕のいるカウンターに集って来てしまった。
「申告するものはあるんですか?」
「ああ、葉巻が一本じゃ。しかし説明書では葉巻は一本を紙巻十本に換算して二十本までは免税の筈じゃったのォ?」
 鞄から、ピレネー山脈の中にあるアンドラという巨大な土産物を売るので有名な小国で買った、長さ1メートル20センチ、直径18センチの葉巻を一本出したら、奥の部屋からも税関吏がゾロゾロ出てきて、また人数が増えてしまった。
 葉巻は、奇妙なことに一本とは認められず紙巻二百本分の税金をとられてしまった。
 仲間にかこまれて勇気づいた担当の税関吏が、やっと普通の旅行者に対する接し方を思い出したようで慇懃無礼な口調となった。
「他にそのう、変った写真とか印刷物、そういった物は、まさかお持ちじゃないでしょうね?」
 変った印刷物が見たいのかと思って、ネス湖で手に入れた、ネッシーの写真のポスターを数枚見せてやったが、さして興味を示さなかった。自然科学に関心がないのだろう。
「あとですね、この時期、特に、銃砲類、とりわけ拳銃などを重点的に取締っているわけですが、まさかそういったものは、ないですよね」
 パリで500フランもはたいて手に入れた、十九世紀中頃の、美しい彫刻のある、ピン・ファイアー・カートリッジ式のリヴォルヴァーを取り出して見せてやったら、空港警察の警官まで呼ばれてしまった。警官が鞄の中をひっくりかえしたら、スペインで、これは相当安く買った、パーカッション式の水平二連拳銃まで出てきたので、騒ぎが大きくなった。しかし、どちらも教育委員会の規準で古式銃として所持が許される物であって、税関吏に文句を言われるおぼえはない。が、担当官は、ここぞとばかりに僕を指して「拳銃を二挺も持っていたんですよ」とわめきたてるのである。いいかげん面倒になったので、電話を借りて神奈川県警本部へつないでもらい、相手が出たところで空港警察の巡査に受話器を渡した。話は30秒足らずで終って、僕は二挺の拳銃を鞄にしまいこんで、税関をあとにした。
 神奈川県警察本部長の息子がアラブの衣裳を着て日本に帰ってきてはいけないという法律はないのである。


   瓶詰の地獄
                夢野久作

 拝呈、時下益々御清栄、奉慶賀候、陳者、予てより御通達の、潮流研究用と覚しき、赤封蝋付き麦酒瓶、拾得次第届告仕る様、島民一般に申渡置候処、此程、本島南岸に、別小包の如き樹脂封蝋付きの麦酒瓶が三個漂着致し居るを発見、届出申候。右は何れも約半里、乃至、一里余を隔てたる個所に、或は砂に埋もれ、又は岩の隙間に固く挟まれ居りたるものにて、よほど以前に漂着致したるものらしく、中味も、御高示の如き、官製端書とは相見えず、雑記帳の破片様のものらしく候為め、御下命の如き漂着の時日等の記入は不可能と被為存候。然れ共尚何かの御参考と存じ、三個とも封瓶のまま、村費にて御送付申上候間、何卒御落手相願度、此段得貴意候 敬具
  月  日
                    ××島村役場(印)
 海洋研究所御中


     ◇第一の瓶の内容

 ああ……の離れ島に、救いの舟がとうとう来ました。
 大きな二本エントツの舟から、ボートが二艘、荒浪の上におろされました。舟の上から、それを見送っている人々の中にまじって、私達のお父さまや、お母さまと思われる、なつかしいお姿が見えます。そうして……おお……私達の方に向って、白いハンカチを振って下さるのが、ここからよくわかります。
 お父さまや、お母さまたちはきっと、私達が一番はじめに出した、ビール瓶の手紙を御覧になって、助けに来て下すったに違いありませぬ。
 大きな船から真白い煙が出て、今助けに行くぞ……と言うように、高い高い笛の音が聞こえて来ました。その音がこの小さな島の中の、禽鳥や昆虫を一時に飛び立たせて、遠い海中に消えて行きました。
 けれども、それは、私達二人に取って、最後の審判の日の菰よりも怖ろしい響でございました。私達の前で天と地が裂けて、神様のお眼の光りと、地獄の火焔が一時に閃めき出たように思われました。
 ああ、手が慄えて、心が倉皇て書かれませぬ。涙で眼が見えなくなります。
 私達二人は、今から、あの大きな船の真正面に在る高い崖の上に登って、お父様や、お母様や救いに来て下さる水夫さん達によく見えるように、シッカリと抱き合ったまま、深い淵の中へ身を投げて死にます。そうしたら、いつも、あそこに泳いでいるフカが、間もなく、私達を喰べてしまってくれるでしょう。そうして、あとには、この手紙を詰めたビール瓶が一本浮いているのを、ボートに乗っている人々が見つけて、拾い上げて下さるでしょう。
 ああ。お父様。お母様。すみません。すみません、すみません、すみません。私達は、初めから、あなた方の愛子でなかったと思って諦らめて下さいませ。
 また、せっかく遠い故郷から、私達二人を、わざわざ助けに来て下すった皆様の御親切に対しても、こんなことをすると私達二人はホントにホントにすみません。どうぞどうぞお赦し下さい。そうして、お父様と、お母様に懐かれて、人間の世界へ帰る喜びの時が来ると同時に、死んで行かねばならぬ不幸な私達の運命をお矜恤下さいませ。
 私達はこうして私達の肉体と霊魂を罰せねば、犯した罪の報償が出来ないのです。この離れ島の中で、私達二人が犯した、それはそれは恐ろしい悖戻の報償なのです。
 どうぞ、これより以上に懺悔することを、おゆるし下さい。私達二人はフカの餌食になる価打しかない、狂妄だったのですから……。
 ああ。さようなら。

                    神様からも人間からも救われ得ぬ
                            哀しき二人より
  お父様 お母様 皆々様

     ◇第二の瓶の内容

 ああ。隠微たるに鑒たまう神様よ。
 この困難から救われる道は、私が死ぬよりほかに、どうしてもないので御座いましょうか。
 私達が、神様の足だいと呼んでいる、あの高い崖の上に私がたった一人で登って、いつも二、三匹のフカが遊び泳いでいる、あの底なしの淵の中を、のぞいてみた事は、今までに何度あったかわかりませぬ。そこから今にも身を投げようと思ったことも、いく度であったか知れませぬ。けれどもそのたんびに、あの憐憫なアヤ子の事を思い出しては、霊魂を滅亡す深いため息をしいしい、岩の圭角を降りて来るのでした。私が死にましたならば、あとから、きっと、アヤ子も身を投げるであろうことが、わかり切っているからでした。
     ×
 私と、アヤ子の二人が、あのボートの上で付添いの乳母夫婦や、センチョーサンや、ウンテンシュさん達を波に浚われたまま、この小さな離れ島に漂れついてから、もう何年になりましょうか。この島は年中夏のようで、クリスマスもお正月も、よくわかりませぬが、もう十年ぐらい過っているように思います。
 その時に、私達が持っていたものは、一本のエンピツと、ナイフと、一冊のノートブックと、一個のムシメガネと、水を入れた三本のビール瓶と、小さな新約聖書が一冊と……それだけでした。
 けれども、私達は幸福でした。
 この小さな緑色に繁茂り栄えた島の中には、稀に居る大きな蟻のほかに、私達を憂患す禽、獣、昆虫は一匹も居ませんでした。そうして、その時、十一歳であった私と、七ツになったばかりのアヤ子と二人のために、余るほどの豊饒な食物が、みちみちて居りました。キュウカンチョウだの、鸚鵡だの、絵でしか見たことのないゴクラク鳥だの、見たことも聞いたこともない華麗な蝶だのが居りました。おいしいヤシの実だの、パイナプルだの、バナナだの、赤と紫の大きな花だの、香気のいい草だの、または、大きい小さい鳥の卵だのが、一年中、どこかにありました。鳥や魚なぞは、棒切れでたたくと、何ほどでも取れました。
 私達は、そんなものを集めて来ると、ムシメガネで、天日を枯れ草に取って、流れ木に燃やしつけて焼いて食べました。
 そのうちに島の東に在る岬と磐の間から、キレイな泉が潮の引いた時だけ湧いているのを見つけましたから、その近くの砂浜の岩の間に、壊れたボートで小舎を作って、柔らかい枯れ草を集めて、アヤ子と二人で寝られるようにしました。それから小舎のすぐ横の岩の横腹を、ボートの古釘で四角に掘って、小さな倉庫みたようなものを作りました。しまいには、外衣も裏衣も、雨や、風や、岩角に破られてしまって、二人ともホントのヤバン人のように裸体になってしまいましたが、それでも朝と晩には、キット二人で、あの神様の足だいの崖に登って、聖書を読んで、お父様やお母様のためにお祈りをしました。
 私達は、それから、お父様とお母様にお手紙を書いて大切なビール瓶の中の一本に入れて、シッカリと樹脂で封じて、二人で何遍も何遍も接吻をしてから海の中に投げ込みました。そのビール瓶は、この島のまわりを環る、潮の流れに連れられて、ズンズンと海中遠く出て行って、二度とこの島に帰って来ませんでした。私達はそれから、誰かが助けに来て下さる目標になるように、神様の足だいの一番高い所へ、長い棒切れを樹てて、いつも何かしら、青い木の葉を吊して置くようにしました。
 私達は時々争論をしました。けれどもすぐに和平をして、学校ゴッコや何かをするのでした。私はよくアヤ子を生徒にして、聖書の言葉や字の書き方を教えてやりました。そうして二人とも、聖書を、神様とも、お父様とも、お母様とも、先生とも思って、ムシメガネや、ビール瓶よりもズット大切にして、岩の穴の一番高い棚の上に上げて置きました。私達は、ホントに幸福で、平安でした。この島は天国のようでした。
     ×
 かような離れ島の中の、たった二人切りの幸福の中に、恐ろしい悪魔が忍び込んで来ようと、どうして思われましょう。
 けれども、それは、ホントウに忍び込んで来たに違いないのでした。
 それは何時からとも、わかりませんが、月日の経つのにつれて、アヤ子の肉体が、奇蹟のように美しく麗沢に育って行くのが、アリアリと私の眼に見えて来ました。ある時は花の精のようにまぶしく、またある時は悪魔のようになやましく……そうして私はそれを見ていると、何故かわからずに思念が曚昧く、哀しくなって来るのでした。
「お兄さま……」
 とアヤ子が叫びながら、何の罪穢れもない瞳を輝かして、私の肩へ飛びついて来るたんびに、私の胸が今までとはまるで違った気持でワクワクするのが、わかって来ました。そうして、その一度その一度ごとに、私の心は沈淪の患難に付されるかのように、畏懼れ、慄えるのでした。
 けれども、そのうちにアヤ子の方も、いつとなく態度がかわって来ました。やはり私と同じように、今までとはまるで違った……もっともっとなつかしい、涙にうるんだ眼で私を見るようになりました。そうして、それにつれて何となく私の身体に触るのが恥かしいような、悲しいような気持ちがするらしく見えて来ました。
 二人はちっとも争論をしなくなりました。その代り、何となし憂容をして、時々ソッと嘆息をするようになりました。それは二人切りでこの離れ島にいるのが、何ともいいようのないくらい、なやましく、嬉しく、淋しくなって来たからでした。そればかりでなく、お互いに顔を見合っているうちに、眼の前が見る見る死陰のように暗くなって来ます。そうして神様のお啓示か、悪魔の戯弄かわからないままに、ドキンと、胸が轟くと一緒にハット吾に帰るような事が、一日のうちに何度となくあるようになりました。
 二人は互いに、こうした二人の心をハッキリと知り合っていながら、神様の責罰を恐れて、口に出し得ずに居るのでした。万一、そんなことをし出かしたアトで、救いの舟が来たらどうしよう……という心配に打たれていることが、何にもいわないまんまに、二人同士の心によくわかっているのでした。
 けれども、ある静かな晴れ渡った午後の事、ウミガメの卵を焼いて食べたあとで、二人が砂原に足を投げ出して、はるかの海の上を辷って行く白い雲を見つめているうちにアヤ子はフイと、こんなことをいい出しました。
「ネエ。お兄様。あたし達二人のうち一人が、もし病気になって死んだら、あとは、どうしたらいいでしょうネエ」
 そういううちにアヤ子は、面を真赤にしてうつむきまして、涙をホロホロと焼け砂の上に落しながら、何ともいえない悲しい笑い顔をして見せました。
     ×
 その時に私が、どんな顔をしたか、私は知りませぬ。ただ死ぬほど息苦しくなって、張り裂けるほど胸が轟いて、唖のように何の返事もし得ないまま立ち上りますと、ソロソロとアヤ子から離れて行きました。そうしてあの神様の足だいの上に来て、頭を掻きむしり掻きむしりひれ伏しました。
「ああ。天にまします神様よ。アヤ子は何も知りませぬ。ですから、あんな事を私にいったのです。どうぞ、あの処女を罰しないで下さい。そうして、いつまでもいつまでも清浄にお守り下さいませ。そうして私も……。
 ああ。けれども……けれども……ああ。神様よ。私はどうしたら、いいのでしょう。どうしたら患難から救われるのでしょう。私が生きて居りますのは、アヤ子のためにこの上もない罪悪です。けれども私が死にましたならば、尚更深い、悲しみと、苦しみをアヤ子に与えることになります。ああ、どうしたらいいでしょう私は……。
 おお、神様よ……。
 私の髪毛は砂にまみれ、私の腹は岩に押しつけられて居ります。もし私の死にたいお願いが聖意にかないましたならば、ただ今すぐに私の生命を、燃ゆる閃電にお付し下さいませ。ああ、隠微たるに鑒たまう神様よ。どうぞどうぞ聖名を崇めさせたまえ。み体徴を地上にあらわしたまえ……」
 けれども神様は、何のお示しもなさいませんでした。藍色の空には、広く光る雲が、糸のように流れているばかり……崖の下には、真青く、真白く渦巻きどよめく波の間を、遊び戯れているフカの尻尾やヒレが、時々ヒラヒラと見えているだけです。
 その青澄んだ、底無しの深淵を、いつまでもいつまでも見つめているうちに、私の目は、いつになくグルグルと、眩暈めき始めました。思わずヨロヨロとよろめいて、漂い砕ける波の泡の中に落ち込みそうになりましたが、やっとの思いで崖の端に踏み止まりました。……と思う間もなく私は崖の上の一番高い処まで一跳びに引き返しました。その絶頂に立って居りました棒切れと、その尖端に結びつけてあるヤシの枯れ葉を、一思いに引きたおして、眼の下はるかの淵に投げ込んでしまいました。
「もう大丈夫だ。こうして置けば、救いの船が来ても通り過ぎて行くだろう」
 こう考えて、何かしらゲラゲラと嘲り笑いながら、残狼のように崖を馳け降りて、小舎の中へ馳け込みますと、詩篇の処を開いてあった聖書を取り上げて、ウミガメの卵を焼いた火の残りの上に載せ、上から枯れ草を投げかけて焔を吹き立てました。そうして声のある限り、アヤ子の名を呼びながら、砂浜の方へ馳け出して、そこいらを見まわしました……が……。
 見るとアヤ子は、はるかに海の中に突き出ている岬の大磐の上に跪いて、大空を仰ぎながらお祈りをしているようです。
     ×
 私は二足、三足うしろへ、よろめきました。荒浪に取り巻かれた紫色の大磐の上に、夕日を受けて血のように輝いている処女の背中の神々しさ……。
 ズンズンと潮が高まって来て、膝の下の海藻を洗い漂わしているのも気づかずに、黄金色の滝浪を浴びながら一心に祈っている、その姿の崇高さ……まぶしさ……。
 私は身体を石のように固ばらせながら、暫くの間、ボンヤリと眼をみはって居りました。けれども、そのうちにフイッと、そうしているアヤ子の決心がわかりますと、私はハッとして飛び上りました。夢中になって馳け出して、貝殼ばかりの岩の上を、傷だらけになって辷りながら、岬の大磐の上に這い上りました。キチガイのように暴れ狂い、哭き喚ぶアヤ子を、両腕にシッカリと抱えて身体中血だらけになって、やっとの思いで、小舎の処へ帰って来ました。
 けれども私達の小舎は、もうそこにはありませんでした。聖書や枯草と一緒に、白い煙となって、青空のはるか向うに消え失せてしまっているのでした。
     ×
 それから後の私達二人は、肉体も霊魂も、ホントウの幽暗に逐い出されて、夜となく昼となく哀哭み、切歯しなければならなくなりました。そうしてお互いに相抱き、慰さめ、励まし、祈り悲しみ合うことはおろか、同じ処に寝る事さえも出来ない気もちになってしまったのでした。
 それは、おおかた、私が聖書を焼いた罰なのでしょう。
 夜になると星の光りや、浪の音や、虫の声や、風の葉ずれや、木の実の落ちる音が、一ツ一ツに聖書の言葉を囁きながら、私達二人を取り巻いて、一歩一歩と近づいて来るように思われるのでした。そうして、身動き一つ出来ず、微睡むことも出来ないままに、離れ離れになって悶えている私達二人の心を、窺視に来るかのように物怖ろしいのでした。
 こうして長い長い夜が明けますと、今度は同じように長い長い昼が来ます。そうするとこの島の中に照る太陽も、唄う鸚鵡も、舞う極楽鳥も、玉虫も、蛾も、ヤシも、パイナプルも、花の色も、草の芳香も、海も、雲も、風も、虹も、みんなアヤ子の、まぶしい姿や、息苦しい肌の香とゴッチャになって、グルグルグルグルと渦巻き輝やきながら、四方八方から私を包み殺そうとして、襲いかかって来るように思われるのです。その中から、私とおんなじ苦しみに囚われているアヤ子の、なやましい瞳が、神様のような悲しみと悪魔のようなホホエミを別々に籠めて、いつまでもいつまでも私を、ジイッと見つめているのです。
     ×
 鉛筆がなくなりかけていますから、もうあまり長く書かれません。
 私はこれだけの虐遇と迫害に会いながら、なおも神様の禁責を恐れている私達のまごころをこの瓶に封じこめて、海に投げ込もうと思っているのです。
 明日にも悪魔の誘惑に負けるような事がありませぬうちに……。せめて二人の肉体だけでも清浄で居りますうちに……。
 ああ神様……私達二人は、こんな呵責に会いながら、病気一つせずに、日に増し丸々と肥って、康強に、美しく育って行くのです。この島の清らかな風と、水と、豊穣な食物と、美しい、楽しい、花と鳥とに護られて……。
 ああ。何という恐ろしい責め苦でしょう。この美しい、美しい島はもうスッカリ地獄です。
 神様。神様。
 あなたはなぜ私達二人を、一思いに虐殺して下さらないのですか……。
                         ──太郎記す……

     ◇第三の瓶の内容


 オ父サマ、オ母サマ。ボクタチ兄ダイハ、ナカヨク、タッシャニコノシマニ、クラシテイマス。ハヤク、タスケニ、キテクダサイ。
                            市 川 太 郎
                            イチカワアヤコ

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