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今夜、ロマンス劇場で
宇山佳佑

   プロローグ

 ここに書きかけの脚本がある。
 時代の流れによって風化した原稿用紙。日の光で黄ばんでしまったその紙の上には、繊細な文字で物語が紡がれている。所々に開いた虫食いのあと。変色した万年筆の黒いインク。鼻孔をくすぐる埃とカビの匂い。
 五十枚ほどのその原稿は決して重くはない。しかし、ずっしりと重く感じてしまうのは、それが彼にとってかけがえのない宝物だからなのだろう。
 この物語を想うとき、牧野健司はいつでもあの頃に戻ることができた。
 貧しくも夢溢れていた忘れがたき青春時代。毎日毎日監督や先輩たちにこき使われて、夜遅くまで懸命に働いていた。怒鳴られたこともある。殴られたこともある。不眠不休の日々だったけど、それでもいつか映画監督になれると、心からそう信じていた。
 仕事終わりに通った映画館──ロマンス劇場。
 ロビーを埋め尽くす観客たち。辺りに漂う紫煙。映画がはじまるのを誰もが心待ちにしていた。開場すると我先にと駆け込んで、劇場内はあっという間に喧騒に包まれる。やがて照明が静かに落ちて、カタカタカタと小気味よい音が劇場上の映写室から聞こえてくる。映写機がフィルムを巻き取っている音だ。座席から振り返って見上げると、映写室の窓ガラスが光り輝いている。そして大音量の音楽と共に映像が銀幕に照射され、誰もが前のめりになった。劇場を包む笑い声、興奮、熱狂、ラストシーンに頬を濡らした熱い涙。映画はいつでも観客たちを知らない世界へ連れて行ってくれた。
 閉館後のロマンス劇場。さっきまでの喧騒が嘘のように、しんと静まり返ったあの空間が好きだった。そして、映写室の小窓から古い白黒映画を観ることが、彼のかけがえのない楽しみだった。
 観る映画はいつも決まっている。彼女の映画だ。
 その人は、スクリーンの中で輝いていた。色を持つことのできない白黒のヒロインだったけど、その笑顔はどんな色より輝いて見えた。
 本当に、本当に、美しい人だった。
 何度見ても飽きることなど決してない。
 幸せを与えてくれる、眩しい笑顔を持つ女性だ。
 誰かがこんなことを言っていた。
『映画には、たくさんの喜びと感動をくれる奇跡のような力がある』と。
 その言葉を借りるなら、彼女はまさに健司にとっての奇跡の人だ。
 平凡で単調な毎日を、夢が叶わずくすぶっていた灰色の日々を、その笑顔が色鮮やかに染めてくれる。そんな素敵な人だった。
 でも、あの日々は遠い昔……。

 時が経つのは早いものだな。
 健司は皺に覆われた大きな手で、古びた原稿用紙を撫でながら思った。
 あれから六十年の時が流れて、あらゆるものは変わってしまった。時代も、人も、文化も、そして自分自身の見てくれも。
 失ったものはたくさんある。そのひとつが健康だ。
 長い入院生活。時間だけは有り余っている。大部屋と違って個室というのは退屈なものだ。話し相手が誰もいないから、対話をするのはもっぱら自分だ。そのためか、ずっと読み返すことのなかったこの古い原稿を引っ張り出して過去への郷愁に浸っている。きっともう未来に大きな期待ができないから、過去ばかりを見ているのかもしれない。そう思うとただただ寂しい。
 老いを痛感する毎日。身体にはガタがきている。体力は衰え、背中は曲がり、誰かの支えがなければしっかりと歩くことができなくなってしまった。病魔に侵された肉体は痛み、悲鳴を上げている。老いるということは残酷なものだ。あの青春時代の溌剌とした自分がまるで別人のように思えてしまう。
 本当に時が経つのは早いものだと、健司はため息を漏らしてもう一度思った。
 しかしながら今朝はすこぶる体調が良い。昨日まであんなに身体が痛かったのが嘘のようだ。全身が綿毛のように軽かった。
 こんな日は自分の足で歩きたくなる。健康でいられることを噛みしめたいのだ。
 だから健司はベッドを降りてトイレまで歩くことにした。
 ここ慶明大学附属第三病院に入院してかれこれ半年近くが経つ。もはや第二の家のような場所だ。目を閉じてでも目的地へ行くことができる。
 顔見知りもたくさんできた。すれ違う患者仲間、ナース、先生たち、誰もが気さくに挨拶をしてくれる。ありがたいことではあるが、やっぱり家に帰りたい。病院は嫌いだ。ここにいると、どうしても死というものを身近に感じてしまうから。
 用を足して再び病室に戻ろうと、今来た廊下を手すりを頼りに歩いていると、スタッフステーションから若くて華やかな女性の声が聞こえた。
「あー、またここでスマホ使ってる。怒られますよ」
 この声は看護師の佐多栄子だ。そして注意されたのは恐らく、
「新しいカレがチョー心配性でさぁ。一時間に一回定時連絡しなきゃすんごい怒るんだよねぇ。師長には内緒ね」
「もぉ、天音さんすぐサボるからなぁ」
 吉川天音──。孫のように懐いてくれている可愛らしい看護師だ。
 どうやら今日も仕事をサボっているようだ。
 彼女のサボり癖は患者たちの間でも有名だ。毎日どこかの病室に長居しては、他愛ない世間話に花を咲かせている。彼女にとって大切なのはナースとしての成長ではなく、彼氏と過ごす甘美な日々のようだ。三歳年上の彼氏とののろけ話をのべつ幕なしに語られると、聞いているこちらが疲れてしまう。患者たちは皆そう言って辟易していた。とはいえ退屈な入院生活。時間は掃いて捨ててもまだ余っている。だから健司は彼女の話し相手になってやっている。若者の趣味嗜好や恋愛観にはついていけないところも多々あるものの、それでも若い子との交流は気持ちを幾分若返らせてくれる薬のような効果があるのだ。
「吉川さん!」
 看護師長の怒鳴り声が病棟に響いた。
 やれやれ、やはり三好師長に怒られてしまったか。
 可哀想に、と手すりを掴んで一歩一歩慎重に病室に向かって歩いて行く──と、
「牧野さんの検温、終わったの?」
 自分の名前が出たので思わず立ち止まった。
「牧野さんの検温……。あ、やば! 忘れてた!」
「やば、じゃないわよ。早く行ってきなさい」
 仕方ない。こうして近くにいるわけだし、こっちから行ってあげようか。
 健司は踵を返してスタッフステーションに向かう。
「でも、あのおじいちゃんって可哀想ですよねぇ」
 可哀想? 天音の言葉に眉を顰めて足を止めた。
「牧野さんっていかにも孤独なおじいちゃんって感じじゃないですか」
「え? でもお孫さん毎日お見舞い来てますよね?」と栄子が訊ねた。
「その孫ってのがひどいみたいでさぁ。散歩中に牧野さんが転んでも手すら貸さないんだって」
 胸に微かな痛みが奔って、健司は壁に肩を預けた。
「えー、おじいさんもう永くないのに?」
「絶対遺産目当てだよ。わたし虐げられてる老人見ると切なくなるんだよねぇ」
 孤独なおじいちゃんか。そう見えるのも仕方ない。
 健司は苦笑いを浮かべると、そのまま病室へ帰ることにした。さっきまで綿のように軽かった身体は重く、背中に鉛を乗せられたような気分だ。

 窓から吹き込んだ春風が床頭台の上の原稿をふわりと宙に浮かせ、何枚かがひらひらと床に落ちた。若くて張りのある指先がそれをひょいっと拾い上げると、
「なんですか? これ」
 天音がベッドを起こして座っている健司の方に目をやった。
 それから彼女は再び原稿に視線を戻し、まじまじと見つめて表紙に書かれたタイトルをぽつりと読み上げる。カールのかかった長いまつげがぱちぱちと動く。
「ああ、すまない。それは映画の脚本でね」
「脚本? へぇ〜。牧野さんって脚本家さんだったんですか?」
「いや、助監督だよ」
「ジョカントク?」
「監督に付いて撮影の準備なんかをする人のことだ。まあ、雑用係だね」
「あ! ADさんのこと!? ねぇねぇ牧野さん、ADさんって人間以下の扱いされてるって本当ですか!? 機嫌悪い監督に急に殴られたり、プロデューサーに精神的に追い詰められたりするってネットにそう書いてあった!」
「最近のことはよく分からないよ。でもまぁ、当時はなかなか大変だったよ。毎日走り回ってばかりだったな」
「やっぱりそうなんだぁ。ブラック〜」天音は鼻の頭に皺を作った。
「吉川さんは、映画は好きかい?」
「ん〜、まぁまぁ。彼氏が好きだから時々一緒に観ますけど」
 まぁまぁか……。健司は少し寂しげに笑った。
 自分の青春時代に比べて、今の映画人口は十分の一以下にまで減ってしまったと、いつかの新聞記事にそう書いてあった。映画が娯楽の王様と言われていた時代はとうの昔に終わってしまったのだ。なんと悲しいことなのだろうか。今や彼らの娯楽の中心は映画でなければテレビですらない。あの小さなスマートフォンという機械なのだ。
「これってどんなお話なんですか?」
 天音が原稿の一枚を太陽の光に翳した。東向きの窓から差し込んだ朝の光が古びた原稿用紙を透かしている。
「今の若い子が楽しめるようなものじゃないよ」と健司は苦笑して首を振った。
「えー、聞かせてくださいよ。今戻ったら師長に怒られちゃうんです。あとで話あるって睨まれたんですよぉ。ね、だからお願い! サボるの手伝ってください!」
 天音は懇願するような面持ちで原稿をこちらに差し出す。
 健司は少し薄くなった髪の毛を後ろに撫でつけながら、参ったな、と思った。
 今までこの物語を他人に話したことなどない。普段ならきっと断るだろう。
 しかし、この日はなぜだか違った。
 少しだけ話してみようと思ったのだ。体調が良かったこともあるだろう。もしかしたらさっき“孤独なおじいちゃん”と言われたことが悔しかったのかもしれない。自分にも輝かしい青春時代があったんだぞと、この若者に伝えたいと思ったのだろうか? それとも元映画人の端くれとして、若い彼女に映画の素晴らしさを伝えられたら、なんて使命感のようなものを僭越ながら抱いたのかもしれない。はっきりとした理由は分からない。しかし伝えてみたいと健司は思った。
 だから天音の手から原稿を受け取ると、「じゃあ少しだけ」と薄く微笑み、ベッドサイドの丸椅子に座るよう手で促した。
 天音の表情がパッと明るくなる。そして小走りで椅子にちょこんと腰を下ろすと、ワクワクした笑顔をこちらに向けた。
 健司は薄く微笑み返すと、すぅっと息を吸い込み、静かにそっと目を閉じた。
 この物語を思うとき、僕はいつでもあの頃に戻ることができる……。
 貧しくも夢溢れていた忘れがたき青春時代。
 いつか映画監督になれると、心から信じていたあの頃。
 僕の人生を鮮やかに染めてくれた日々を。
 昨日のように思い出すことができるんだ。
 そして、健司は話しはじめた。
「これはね、ある青年の身に起きた不思議な物語だ──」

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