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寄席品川清洲亭
奥山景布子

 第一話 寄席はいつ開く?

     一

 泰平の眠りを覚ますじょうきせん
 たった四はいで 夜も寝られず

「物見高いは江戸の常、ってか」
 金槌を丁寧に道具箱へ収めた秀八は、残った釘の数も改め終えて、海藏寺の庫裏の屋根から海を見下ろした。
 日頃から人馬往来の激しい品川だが、この六月のはじめ、浦賀に黒船が来てからというもの、お天道さまが照っている間は、異国の大船を一目見ようという人々で、街道はまるで祭りのようなにぎわいである。
 正直に言うと秀八もその蒸気船とやらいう大きな大きな船を見てみたいと思うのだが、残念ながら今は、そんなことにかけている手間も暇もない。
「おっと、良い風だ」
 海からの風に思わずふうっと息を吐く。梅雨の明けた空からお天道さまが容赦なく照りつけ、秀八の首筋にも腋にも、汗が滴っていた。
 ──しかしまあ、どこもかしこもだいぶ年季が入っているな。
 寺の格で言えば海藏寺は相当上等の方だと聞いたことがあるが、金儲けの方はあまりうまくないのか、建物は古くて傷みも激しく、頻繁に修繕を頼まれる。景気よく新普請とはなかなかいかないようで、嵐の季節になる前にどうにかせめて、雨風しのげる程度に直してくれというのが、住職の昴勝からの注文だった。
 本当は屋根をぜんぶ取っ替えてやりたいところだが、そこまですると、材木代もこちらの手間賃も、かなりの額になってしまう。秀八は寺の懐具合を酌んで、どうにか、現状精一杯の手入れを尽くした。
「珍念さん。もうこれで当分、漏ることはなかろうよ。和尚さんによろしくな」
 はしごを下り、小坊主の珍念に声をかけながら、道具箱を肩に担ぎ上げる。
「良かった。じゃあもう雨のたんびに、桶やらお椀やら持って、走り回らなくてもいいんですね。梅雨の間はそれはそれはたいへんだったんですから」
 いかにも大事であったかのように嘆息する珍念の顔を見て、秀八は軽く吹き出しそうになった。
「なんだい珍念さん、その眉間のしわは。おまえさんまだ十にもなっていないだろうに、おれのしわより深ぇじゃねぇか」
 え、としきりに手で眉間のあたりをごしごしとこする珍念を尻目に、秀八は寺を後にした。
 参道を抜ける途中に、あまり様子の良くない松の木がひょろっと伸びていて、その脇にはいくつもの供養塔がある。
「片手で、ごめんなさいよ」
 道具箱を抱えていない右の手指を胸のあたりにそろえて、秀八はかろうじて拝む形を作った。
「南無阿弥陀仏……」
 ここで供養されているのは主に、死んだ時に引き取り手のなかった品川の女郎や、鈴ヶ森でお仕置きになった者たちだ。海藏寺は時宗の寺で、そうした無縁仏を受け入れている。
 特に信心深い性分というのでもないのだが、秀八はどうにもここを素通りすることができない。
 酒も博打もやらない秀八のたったひとつの道楽は、寄席へ行って噺を聞くことだ。落噺や芝居噺など、うまい噺家の高座だと、頭の中にいろんな光景が浮かんできて、存分に泣いたり笑ったりできる。
 辻斬りに斬られた男の腰から上と下とが別々になって、上は湯屋の番台をつとめ、下はこんにゃく屋の踏み職人として働く、なんていうどうしようもなくばかばかしい噺を聞くのも楽しいが、一方で、真に迫った噺もある。中でも怪談噺なんてのは、人の悪事と恨みの深さがとびきりで、肝の冷えることこの上ない。
「世に恐ろしき、執念かなぁ……」
 お約束の決め台詞とともに、寄席の灯りがふっと消えると、架空事だと分かっていても、背筋がぞっとする。
 主人に横恋慕されたあげくに手討ちにされてしまう腰元や、信じていた亭主に毒を盛られる貞女のお内儀など、いかにも恨みの深そうな女の幽霊が、髪を振り乱して本当にそこにいそうな気がしてしまう。
 そういったあれやこれやの恨みを呑んだまま、語り継がれることもなく亡くなった人が、実際にはもっと大勢いるんだろうな。ここを通るたび、そんな想像で秀八の頭はいっぱいになってしまうのだ。
 ──浮かんでおくんなさいよ、みなさん。
 ちょっとだけ立ち止まってこうして拝むのが、この寺へ来た時の“お約束”だった。
 寺の白く古ぼけた塀が途切れると、目の前がいっぺんに青く開ける。
 海沿いの街道へ入ると、あたりは生きている人間の気配でいっぱいになった。気の早い宿の客引きたちの顔が幾人か見える。
「お宿、お決まりですかぁ」
「お泊まり、いかがですかぁ。良い妓もおりますよぉ」
 日本橋までは二里、江戸への旅ならば、もはや足を止めずに行き過ぎることも無理ではない道のりだが、百軒近い旅籠が建ち並び、遊里としても“北の吉原、南の品川”と並び称される風情に惹かれ、ここに一晩足を止める者は数知れない。むしろ吉原より気取りがなくて良いと、旅ではなくとも品川で遊ぶことを楽しみに、そこここから集まる者も多いらしい。
「よう、秀さん。今日は早仕舞いかい」
「いや、これからもう一仕事で」
「もう一仕事ったって、あれだろ」
 客引きの一人がにやにやと笑った。
「あれ。……でも、ほんとにできんのかい、秀さん」
 何言ってやんでぃ、と言いたいところだが、ここはぐっと我慢だ。おまえさんは何かって言うとけんかっ早くていけない、それじゃあ気まぐれな客相手の寄席なんかできないよ、というおえいの言葉を思い出す。
「まあ、そうさなぁ。細工は流々、仕上げを御覧じろってことで、今は勘弁しておくんなさいよ。できあがったら必ず、引き札持って、ここへもごあいさつに来やすから」
 さらっと受け流して歩き出す。
 秀八は今年三十五歳になった。大工の棟梁としては若い方だろうが、品川ではそれなりにお得意さんもでき、信用もある。
 品川へ来て今年で十年。一昔とも言われる歳まわりを機に、とうとう、念願だった寄席開きにかかることにしたのだ。
 お江戸の町は八百八町といわれるが、ならばきっと、寄席も八百は大げさとしても、二百近くはあるだろう。それくらい江戸の者にとって、寄席は身近な楽しみだ。一日がかりで金も相応にかかる芝居と違い、町内で気軽に安く、毎日でも行ける。
 噺の他にも、講釈、音曲、声色、手妻、太神楽などなど、寄席で披露される芸は様々ある。席亭と呼ばれてそうした芸人を招いているのはだいたい、町火消しの組頭や大工の棟梁、お店の旦那衆といった人たちで、生業というよりは道楽、とは言わないまでも、副業に近いところがほとんどだ。
 いつか自分も、自分で自分の寄席を普請して、自分の気に入った芸人を呼びたい──そんな夢みたいなことを、秀八は、この品川で本気で考えていた。
「留……いるかい」
 普請場は静まりかえっている。
 ──なんだ。あのやろう、どこ行きやがった。
 海藏寺の修繕は自分ひとりで行くから、おまえはこっちをやってくれって言っておいたのに。
 寄席の普請の方は、大勢の人手のいる作業はだいたい済んで、今は秀八と留吉、二人でおおよそのことをやっている。
 秀八が常時抱えている大工は三人だが、上の二人はいつ一本立ちしてもおかしくない一人前の職人だ。普請の依頼が重なって秀八が行けないときなど、代わりに行かせても十分用事の足りる、ありがたい助っ人たちである。
 一方留吉は、秀八が品川へ来てから入ってきた、いわば子飼いの弟子だ。腕はずいぶん上がってきたが、まだまだ一人でお得意先に行かせたりはできないので、だいたい秀八と行動を共にすることになっている。近頃では秀八の寄席の普請場が留吉の主な仕事場だ。
 しかし、あたりをぐるっと見渡してみても、どうやら今日は、ここで仕事をした跡がない。
「留」
 返事はない。秀八はちぇっと舌打ちをした。
 ──また酒かな。
 腕だけでなく人も悪くない留吉だが、酒好きなのが玉に瑕だ。時折酒を過ごしては、お天道さまが高くなってから赤い目とむくんだ頰で申し訳なさそうに仕事場に現れ、秀八にこっぴどく灸を据えられることがある。
 ただ今日のように、まったく姿を見せないというのは、これまでにないことだ。一緒に住むおっ母さんの言いつけなのか、どんなに怒られると分かっていても、必ず顔は見せてわびを言う律儀さが、留吉の良いところなのだが。
「やあ棟梁。ご精が出ますな」
 ふと振り返ると、ごま塩頭の隠居がこちらをのぞき込んでいた。留吉が住む長屋の大家、幸兵衛であった。
「あ、これはどうも、幸兵衛さん。何かご用で」
 幸兵衛は口のあたりを少しもごもごとさせてから、ゆっくりと言った。
「ご自分の普請にご精が出るのはたいそうけっこうだが、配下の者のことも、もうちょっと面倒見てやったらどうでしょうねえ。仮にも棟梁と呼ばれていなさる御仁なら」
 ──なんだ、いやな言い方をするな。
「留吉が、何かご迷惑でも……」
「さあて。ま、ご迷惑といえばご迷惑かな。しかし、困るのはどっちでしょうかね」
 そりゃあいったいなんのことで、と聞き返そうとすると、幸兵衛はくるっと背を向けて行ってしまった。
 ──なんなんだ。
「ちぇ。気になるじゃねえか」
 このままでは落ち着いて仕事ができない。秀八は諦めて、留吉の様子を見に行くことにした。
「おい、おれだ。いるかい」
 長屋の戸を開けると、留吉は膝を抱えてつくねんと座っていた。
「なんだ。いるんじゃねえか。なんで仕事に来ない」
「親方……面目ねぇ」
「どうしたってんだ。その顔色なら、深酒ってこともなさそうだ。すぐ仕事に来い」
「それが……行かれねぇ」
「なんで」
「道具箱、とられちまった」
「なんだってぇ。泥棒か。まさかこんなぼろ長屋に入る間抜けなヤツが」
「や、あの、ちがうんだ……その」
「じゃあなんだ。もごもごしてねぇでさっさと言え」
 ついついまくしたてて怒鳴ってしまう。秀八の声に驚いたのか、近所のおかみさんの一人が開いた戸口からちらっと顔をのぞかせて、行き過ぎた。きっと今頃聞き耳を立てているのだろう。
「その……店賃のカタに」
 ──店賃のカタ?
 そうか。だから幸兵衛が来たのか。
 そうならそうと言やぁいいのに、もったいぶりやがって。何が「ご精が出ますな」だ。
「いくら」
「一両二分と八百……」
 すぐ肩代わりしてやるつもりで尋ねて、金額の存外な大きさに、ぐっと唾を呑む。
「ず、ずいぶん溜めたな」
 秀八は腹掛けのどんぶりを探った。なんとか、ありそうだ。
「よし。すぐ行くぞ。ついてこい」
 留吉の背中をどやしつけるようにして立たせると、秀八は長屋の路地へ出た。
 ……ぴん、こん、からんこん、ぴん、こん、からんこん……
 ごく小さい音だが、高く澄み切った、金っ気の強い音がする。刀についている、小柄や笄をうちあわせるような音だ。
「ああ、お袋さま、どうも。いつもお世話になっておりやす」
 留吉の母親が何かを抱えて前のめりで歩いてきた。
「お袋、ちょっと親方のお供で行ってくるから。留守を頼むよ」
「はいはい。はいよー、お留守番」
 母親が唄うように言いながら家の中へ入ると、音は止んだ。
 ──何の音だろう?
 不思議に思ったが、ともかく今はまず道具箱だ。
 ──しかし、これじゃあまるで〈大工調べ〉だ。
 口の悪い大工の棟梁が、店賃と道具箱をめぐって大家と口論になり、後にはお白州へ持ち込まれて……というおなじみの噺だ。
 きれいな啖呵の切れる、口跡さわやかな噺家で聞いていると、たいそう胸のすく噺だが、あとからよく考えるといささか大家が気の毒になる噺でもある。おえいからは「おまえさんはついあんなふうになるんだから。実際には噺みたいにこっちに味方してくれるお奉行さまなんていやしないんだから、気をつけるんだよ」とよくたしなめられる。
 ──よし。気をつけよう。
 幸兵衛の家まで来ると、二人は裏口ヘ回った。
「ごめんくだせぇ。先ほどはどうも」
「おやおや。これはこれは、棟梁。表の玄関からおいでくださればいいのに」
 ──何が「これはこれは」だ。
 幸兵衛のこうした慇懃な物腰が、秀八はどうしても苦手だ。溜めた店賃を返すのに、玄関からじゃ入りづらいに決まっているじゃないか。
 ──いやいや、ここで腹を立てちゃいけねぇ。
 丁寧に。穏やかに。
「こいつがご面倒をおかけしたそうで。申し訳ねぇ。すぐに払いやす」
「ほう。それはご奇特な。ありがたい。留吉さん、良い親方をお持ちなすったな」
 幸兵衛がにやにやと両の目尻を下げた。まるで出来損ないの信楽焼の狸だ。
 ──何かご奇特なだ。
 秀八はどんぶりに入っている銭をつかみ出し、座っている幸兵衛の膝の前へと並べた。
「ひぃふぅみぃよ、ひぃふぅみぃよ……すいやせん、ここに一両二分と四百文、ございやす。これをどうかお納めいただいて」
 ──しまった。
 どんぶりをひっくり返してみても、どうしても四百文足りない。
 しかし、どうしても道具箱は返してもらいたい。ともかく秀八は頭を下げた。
「四百文、足りませんな」
 狸の口の端が見事にひんまがった。
 ──くっそ。なんとか、言い訳を。
「面目ねぇ。どうぞここはひとつ」
「そう言われてもねえ」
「そこを曲げて、どうぞお願い申しやす。あっしも一応棟梁と呼ばれる立場だ、責めはこのとおり」
 秀八は改めて畳に手をついた。
「四百くらいなら、いつでも持ってこられやすから。ついでのときに、ささっと、入れさしていただきやす」
 ──もういいじゃねえか。ここまで頼んでるんだ。
「じゃあ、あっしらはこれで」
 秀八は立ち上がると、棚の上に載っていた留吉の道具箱に手をかけた。
「お待ちなさい。誰が持ってって良いと言ったね」
 狸がよっこいしょ、と立ち上がって、秀八の前に立ち塞がった。
「溜まった店賃は一両二分と八百。今いただいたのは一両二分と四百文。さっきも言ったが、四百足りませんよ。それを、ついでのときにとは、なんていう言い草だ」
「だからそれは、いつでも……」
「いつでもだろうとなんだろうと、今ここにまだ払っていただいていない以上、道具箱をお返しするわけにはいきませんよ」
 ──な、なんだとぉ。
「おまえさんも、ご自分で言いなさったとおり、棟梁と呼ばれるお人だ。ものの道理は分かるでしょう」
「ですが、そちらも大家さんでしょう。大家と言えば親も同然。たかが四百くらいで」
「たかがとはなんですか。四百だって百だって、何にもしないで出てくるおあしなんてないことくらい、お職人衆を束ねるお人なら言われなくたって分かるはずだ。おまえさんが仕事に使う釘の一本だって、百足りなくて買えますか。そんなことで、よく棟梁でございなどと言えたものだ」
「なにを」
 頭がくらくらっとした。
「なんだとお。さっきから黙って聞いてりゃぱあぱあぱあぱあ言いやがって。てめえみたいに、人様の銭かき集めるだけの仕事してるヤツに、どうこう言われる筋合いはねぇ。だいたいいくら店賃溜めたからって、大工から道具箱取り上げちまったら、おあしを稼ぐ算段なんかできやしねえじゃないか」
「それはそちらのご都合でしょう。あたしはあたしで、人様のお金をきちんと集めて、納めるところへ納めるのが仕事です。さ、どうしても四百出ないなら、今日はまずあきらめてお帰りなさい……でないと、出るとこへ出ますよ。理はこちらにあるんだ」
 幸兵衛がつかんだ箒の柄で床をとん、と突いた。本当に掃き出されそうだ。
「ち、ちきしょう……覚えてやがれ」
 ──くそったれ大家め。
 表へ出て毒づいてしまって、はっとした。
 ──しまった……。これじゃあ本当に。
〈大工調べ〉になっちまったじゃないか。
「あ、あのね、親方」
「なんだ」
「すまねぇ」
「うるせぇ。今てめぇにわび入れられたって、しょうがねえよ」
 うちへ帰ると、女房のおえいが店から帰っていた。夕餉の支度を始めるところだったのだろう、袖にたすきをかけようと口にひもをきりっとくわえていたが、秀八の顔を見るとひもを手に戻し、間髪入れずに言った。
「おまえさん。なんかしくじったね」
「うわ、さすがおかみさん地獄耳、あのね……」
「うるさい、留、おまえは黙ってろ。それにこういうのは地獄耳ってんじゃねえ」
 ──お見通し、ってんだろう。
 お天道さま、仏さま、おえいさまだ。
 そんなにいつでも機嫌を顔に出しているつもりはないのに、どういうものだか、秀八のその日のしくじりやけんかが、おえいには手に取るように分かるらしい。
 秀八はしかたなく、幸兵衛とのいきさつをおえいに洗いざらいしゃべって聞かせた。うん、うん、と聞いていたおえいは、途中で一度「あらやっちまった」とつぶやいて、あとは二度ほど、深々とため息をついた。
 ──おまえさんが悪い、って言うんだろうな。
 だんだん落ち着いてきた秀八は、しまいまでしゃべる前に、おえいが言いそうなことが見えてきた。まちがいなく秀八にはぐうの音も出ない。
「あのねおまえさん。もうきっと自分でも分かっているんだろうけど、でもあえて言うよ。おまえさんが悪い」
 留吉が脇でにやにやしている。
「おあしを払うのに、“ついで”なんて。なんで、今すぐとって返してあと四百持ってきます、どうぞこのままお待ちを、って言わなかったの。そしたらきっと幸兵衛さんのほうが“ああ、ついでのある時でいいよ”って言ってくれたろうに。あの人は、口うるさいけど、その分、下手に出る人間には“よしよし”って言う人なんだから」
 そうなのだ。そう言ってくれるだろう、と相手に甘える気持ちが、つい、先に口に出ちまったのだ。秀八はよく、この手の舌の間違いをしてしまう。
 おえいは手早く四百文を半紙に包み、さらに戸棚にあったもらいものの羊羹を一本出すと、風呂敷に包んで秀八に押しつけた。
「さ、善は急げ、思い立ったが吉日。すぐに行っておいでよ」
「うん……でもこんな羊羹より、おまえの店の団子の方が、幸兵衛さんの好みなんじゃないか。店のお得意さんなんだろ」
「何言ってんの。こういう時はね、形が大事なの。ああいう人だもの、普段はそうでも、こういう時だよ、待ち構えてまた小言言おう言おうと思っているにちがいないでしょ。あたしの店のお団子じゃ、“商売ものの売れ残りを持ってきたのか”ってまた小言の種にならないとも限らない。そしたら、またおまえさん、かっとなっちまって、けんかになる」
 なるほど。それもそうだ。
「ほら、行っておいで。くれぐれも言葉には気をつけて。あ、待って、その前に」
 おえいは改めて、留吉に向き直った。
「留さん。うちの人は、おまえさんにきちんと手間賃を渡しているよね? よそよりたくさんあげているとまでは言えないけど、おっ母さんと二人暮らし、困るような思いはさせてないはずだけど」
「うん……」
 留吉が下を向いた。
「じゃあ、なんで店賃、そんなに溜めたの? 一両二分八百なんて、四つ分でしょ」
 そうだ。肝心のそれを聞いていなかった。大事なことをよくも忘れていたものだと、秀八は自分で自分がいやになった。
「それは……実は」
「なんだ、妙にもじもじして。おれたちに隠し事してもしょうがないだろ。また酒か。それにしちゃ額が大きいが。それとも博打か。あれほど博打には手を出すなって言ったろ。それとも、まさか女じゃないだろうな」
「おまえさん。そんなにぽんぽん言ったんじゃ、当人が話せやしないじゃないか」
 おえいに言われて、秀八は口をつぐみ、留吉が話し出すのをじっと待った。
「実は……ちゃ、ちゃるごろを」
「ちゃるごろ? なんだそれ」
「そのう……お袋が、浅田屋さんから……」
「お袋さんが? 浅田屋で?」
 浅田屋といえばここらでは一番の質屋だ。主人の宗助は講釈好きで知られていて、副業で釈場──講釈のみの寄席──も持っている。秀八は宗助に遠慮して、自分の寄席ができても講釈師は呼ばないつもりでいた。
「なんだ、わけが分かんないな、ちゃる……」
「待って待って。あたしが聞くよ。おっ母さん、最近ちょっと……ごめんよ、こんなこと言って。でもはっきり言うよ。ちょっと、様子がおかしいよね?」
 諭すように水を向けたおえいの言葉に、留吉は半べそをかいた顔になった。
 その後、少しずつ語ったところによると、母親のおよしが浅田屋から無断で持ってきてしまった「ちゃるごろ」とかいう妙なものの代金として、留吉は大枚二両を払ったというのだった。
「これっくらいの本の箱で、なんか細けえ金細工が入ってんでさ。そのねじをくるくる巻いてやると、きらきら、ぴんぴん、なんだか不思議な良い音が鳴りやす。南蛮の品で、どっかのお旗本がこっそり浅田屋さんに入れたものだって。そのお旗本はもうその品を諦めたって言うんで、宗助さんは骨董屋にでも売るつもりだったって」
 留吉がおっ母さんと呼ぶおよしは、実は母ではなく、母の姉にあたる人だ。留吉には奉公に出ているおつるという妹がいるが、兄妹の生みの母は、おつるが生まれて間もない頃に亡くなったらしい。
 以来、およしは甥と姪を自分の子として面倒を見てきたという。
「おっ母さん、ちょっとこの頃おかしなことをするんだ。うちへ帰ってこられなくなったり、よそさまへ勝手に上がり込んで、そこのものを黙って持ち出してきちまったり。そのちゃるごろも……」
 他のものは、留吉が「返そう」と言うと素直に従うというのだが、ちゃるごろだけはどうしても返そうとせず、取り上げるとひどく怒るらしい。
「そのかわり、ちゃるごろを持ってきてからはおかしなことがずいぶん減って。機嫌良くあの音を聞いてると、よそへ上がり込むこともなくなったし、道に迷うことも。いくらですかって聞いたら、二両って。ひえぇって思ったけど、二両思い切って払いました。そしたら、店賃払えなくなっちまって……」
 おえいがため息をついた。
 ──じゃあ、あの音は。
 長屋の路地で聞こえたぴん、こん、からんこん、を思い出した。
「えらい。よし。留吉。それでこそ、おれんとこの大工だ。見上げたもんだ。二両、よく払った。よし」
 秀八は留吉の背中をばんばんと手でたたいた。
「留さん。これからは、そんなことがあったら必ずあたしたちにも言うんだよ。で、おっ母さん、家の中のことはちゃんとできてるのかい?」
「うん。飯も炊けるし、洗濯もしてくれる。味噌汁の味が濃くなったくらいかな」
「そうか……よし、おっ母さんのことは、おれたちも気にかけておいてやる。とりあえず、店賃の残り払って、道具箱もらってこよう。でないと、何も始まらないからな」
 秀八は、改めて、四百文と羊羹の入った風呂敷包みを持ち、留吉を連れて家を出た。

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