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屋上で縁結び
日曜日のゆうれい
岡篠名桜

   日曜日のゆうれい

       1

 薄暗い階段室の踊り場の数字は“8”。
 地下一階から一定のリズムで上がってきた足をこの場所でいったん止め、呼吸を整える。
 約四か月間週五日も続けてきた習慣とはいえ、一気に八階分の階段を上るのはなかなか大変だ。足も体も鍛えられてはきているのだろうが、それでも息は上がるし、足も重い。
 膝の怠さが軽くなるのを待ち、深呼吸をして、苑子は再び顔を上げた。
 あと三階分。
 階段を上がった先に、扉がある。
 息が乱れないように、一歩一歩、丁寧に足を運ぶ。
 扉を開けた向こうには赤い鳥居と。
(……あ)
 今日は、いない。
 途端に疲労に耐えていた体ががくんと重くなった。
 いや──諦めるのはまだ早い。祠の裏側で掃除をしているかもしれない。期待を込めて鳥居を潜るが、その時点で人の気配を感じず、やっぱりいないのだと項垂れた。仕方がない。時間が合わなかったのだろう。とりあえずお参りお参り。
 ちゃりんと賽銭箱に小銭を入れて手を合わせる。
(神様いつもありがとうございます。今日の午前のお仕事は特にトラブルもなく順調でした。午後もこの調子で頑張れますように。あっ、あのおじいちゃんが無事に目的地に着いていますように)
 願い事なのかお礼なのか報告なのか、自分でもよくわからないとりとめのないことを苑子は祠に向かって唱えた。
 ここは都内某所にある近野ビルの屋上である。
 地下二階、地上十階建てのオフィスビルだ。地下一階にある須田メンテナンスが苑子の勤めている管理会社だった。近野ビル自体を管理している会社である。
 大学卒業後、四年間勤めた会社が倒産し、長く厳しい再就職活動の末に、苑子はこの会社に出会った。
 いや、出会えたというべきか。
 巡り会わせてくれたのは、この屋上にある賀上神社だった。
 と、苑子は今でもそう信じている。
 連敗続きだった再就職活動の中、面接で訪れた高層オフィスビルの窓から、偶然この近野ビルの屋上に佇む赤い鳥居が見えたのだ。
 それに向かって願掛けをしたおかげで、苑子はこのビルに入っている会社に就職することができた。一般事務で採用されたはずが、なぜかビルの顔というべき受付業務を担当するという、自他ともに認める地味系女子の苑子にとっては試練でしかない展開が待ち受けていたが、そこは自分はあくまで受付嬢ではなく受付担当員だと自覚することで前向きに業務をこなしている。
 ちなみに、今日は午前中にビルヘの来訪者ではなく、ビル周辺で道に迷った年配の男性がやってきた。目的地の場所がわからず弱り果てていたところ、外から受付のカウンターが目に入ったというわけだ。奇しくも男性が探していたのはビルの近所にある、賀上神社の本宮だった。そんな些細なことにも縁を感じてしまう最近の苑子である。
 自分とこの会社との縁も、賀上神社が取り持ってくれた。
 苑子がそう信じたくなるのは、賀上神社が縁結びの神社として有名だと言われているからだろうか。
 参拝客は地下二階の駐車場から階段室に入り、十二階分の階段を上がって参拝する。
 情緒も風情もない無機質な階段だが、それが賀上神社への参道なのである。毎日、苑子は昼休憩に須田メンテナンスがある地下一階からその参道を上がり、参拝するのを日課としていた。
 会社との縁を結んでくれただけではない──彼とも出会わせてくれた。縁が繋がっているかどうかは、今のところわからないけれど。
 そんなことを考えながら、いつもの場所──屋上の設備機器の建物の下──でひとりお弁当を広げていると、
「あ。苑子さん」
 屋上の出入り口のほうから手を振りながら男性が近づいてきた。グレーのパーカーに黒いジャンパー、穴あきジーンズにスニーカー。癖のない長めの髪が、少し寒さが和らいだ三月の風になびく。
「神主さん」
「よかった。間に合った」
 笑顔を見せながら、当然のように苑子の隣に腰を下ろす。膝のところがぱっくり破れたジーンズから白い膝小僧が見えて、苑子はどぎまぎした。
 松葉幹人というこのカジュアルすぎる出で立ちをした三十一歳の男性はれっきとしたこの賀上神社の神主である。
 須田メンテナンスの採用面接の日にビルのロビーですれ違い、出勤初日にこの屋上で再会、その後どういう経緯かお弁当を一緒に食べる仲になってしまった。
 互いにほのかな想いを抱いている気はしている。苑子の勘違いでさえなければ。だが今のところ、お弁当を食べる仲からは進展していない。
 ……そうだろうか。
 彼は一方的に進展している──のかもしれない。
 いつのまにか、苑子を名前で呼んでいる。少し前までは名字で瀬戸さんと呼んでいたのに。
 その変化の瞬間を、不覚にも苑子は見過ごしてしまっていた。結果、自分はまだ幹人のことを名前では呼べずに、神主さん、で通している。
 だが呼び方が名字から名前に変わったとはいえ、やっぱり何も前には進んでいないのだろう。
 相変わらず、ランチタイムの約束はしていない。休憩が交代制である苑子の昼休み時間は日替わりだし、毎日掃除をするためこの屋上神社を訪れる幹人も時間は決まっていない。神主とはいえ、主なお勤め先は本宮なのだ。こうして顔を合わせた時にだけ、一緒に昼ご飯を食べる。たったそれだけの仲だった。
 ましてや、ここ以外での場所で会う約束をしたこともない。待ち合わせをして一緒にどこかへ出掛けたこともないし、誘われたことも誘ったこともない。そもそもそういった話題が出ない。話をするときも、お互い、おおむね敬語を使っている状態だ。
「ちょっとだけ、待っててくださいね」
 幹人はいったん立ち上がると、祠の前でごそごそと手を動かし、すぐに戻ってきた。
「はい、今日はこれ」
 と言って、苑子に草色の和菓子を差し出した。
「蓬餅?」
「先に掃除しなくちゃいけないのに、神主失格かな。ま、いっか。うちの神様は寛容なはずだから」
 はははっと幹人は笑う。
 祠には常時、菓子が供えられていて、一日経つと、神様のお下がりとして幹人が胃に収める。それをいつも、苑子にもおすそ分けしてくれるのだ。お返しに、苑子はお弁当のおかずをひとつふたつ幹人に食べてもらう。
 ──何なのそれ、完全にカレカノじゃないの
 と、受付の先輩である派遣社員の倉永千晶は冷やかすが、やっぱりまだ、そうではない。そして今後、そうなるのかどうかもわからない。
 苑子は幹人が好きだ。ちゃんと打ち明けてはいないが、苑子の気持ちは幹人も感じ取っているだろう。もしかしたら、幹人のほうも──。
 けれど、確かめ合うのもなかなか難しい。それは勇気だけの問題ではないからだ。勇気よりも必要なのは、きっと覚悟だろう。
 幹人は七歳の息子を持つシングルファーザーだった。


「そういえば、聞きました? 幽霊の話」
 午後一番の文化教室の受講者たちへの対応も終わった昼下がり。
 受付ロビーは来客もまばらでひと時の静寂に包まれていた。ちょうどビル清掃員の有来が塵ひとつ残さず磨き上げた直後で、見渡す限り清々しく気持ちのよい空気が広がっている。
 持ち場の清掃を完璧に仕上げ、満足げに清掃カートを押しながら近づいてきた有来が顔の半分を隠していたマスクを顎の下にずらしたかと思うと、受付カウンター越しにそう囁いた。
「幽霊? 何それ」
 千晶が目を瞬かせた。
「出たんですって。昨日の日曜日。昼間だったそうなんですけど」
「ここに?」
 訊ねた苑子に向かって有来が頷く。
「防犯カメラに映ってたみたいです。薄暗い廊下に白い影がふたつ、すーっと動いていたのが」
 二階の非常口、つまりは階段室の出入り口付近とそことは反対側に位置する非常口あたりだという。
「二階の防犯カメラはその二か所しかないわよね」
 千晶が冷静に言った。だがその口調が明らかに面白がっているのを感じ、
「てことは、もしかしたら二階のフロア全体を彷徨っていたのかも──」
 などと、苑子も顔だけは真面目なふりで茶化してみる。たちまち有来の表情が強張った。
「ちょっと、ふたりともやめてくださいよ。わたし、これから二階を掃除するんですから」
 ぶう、と口を尖らせる。二十歳の女子大生だからどんな顔をしても愛らしい。
「有来ちゃん案外怖がりなのねえ。でも、このビルもけっこう古いから、そういう話があっても変じゃないかもよ」
「古いっていってもまだ築二十五年くらいじゃないですか?」
 苑子は資料を思い出しながら言った。たしか、建築年は一九九一年だったはずだ。
「十年ひと昔っていうんだからふた昔は経ってるわけよ。その間に何かあっても、って話」
「何かって何ですか。まさか怨念系」
「それか、未練系」
「地縛霊というやつですね」
 悪乗りをしているうちに、本当に気味が悪くなってきた。
「このビルが建つ前は、ここは何だったのかしらねえ」
 さほど興味もなさそうに千晶が言う。
「老朽化したビルがあったそうですよ。それを壊して建てたって聞いたことありますけど」
 答えたのは有来だ。さすがに詳しい。
「ビルというか、前の所有者に無念の想いを持ってるっていうんなら、真っ先にうちの父親とか当てはまりますけど」
「────」
 さらりと言った有来を前に、苑子と千晶は閉口する。
 このビルは八年前に近野氏が丸ごと買い取り、近野ビルとなったが、それまでは総合商社崎田商事の自社ビルだった。業績が悪化し、業務を縮小する過程でビルを売却した後は、今は近野ビルの七階にテナントとして入居している。
 有来はその崎田商事前社長の孫娘だ。かつては崎田有来だったが、今は両親が離婚し、婿養子だった父親について崎田家を出たので山内有来になっていた。その父親は業務縮小の際に崎田商事を追われたと聞いている。
「なんて、嘘ですよう。うちの父親、もう崎田に未練も恨みもなさそうですから。何より、幽霊になんてなりようがないです。ぴんぴんしてますもん。あ、生霊ってこともあるか。ああ、でもやっぱりないです。故郷に戻って明るくなったし、のびのび楽しそうですし」
 それより、と、有来は表情をあらためた。
「当時、大掛かりなリストラもあったから、そっちですかね。自殺した人とかいたのかなあ」
「で、でももう八年も前の話だし、幽霊になって出てくるっていうのも今さらって感じじゃ……」
 苑子は少しだけ、及び腰になる。千晶に乗せられて平気な顔をしているが、本来、こういう話は苦手なのだ。
「だけどほら、こういうのって何がきっかけになるかわからないから。今になって何か出てくる理由があるのかも」
「きっかけ、理由」
 一方、有来はいつのまにか、けろりとしてこの現象を分析している。さっきの怯えようは、どうやらパフォーマンスだったらしい。
「二階っていうのも、何かあるんでしょうか。崎田ビルだった頃、二階にあった部署──うーん。さすがにわかんないな。わたし、祖父がいた社長室しか行ったことなかったし」
「そうだ。倉永さんならわかるんじゃ」
「何でわたし? わたしがここに勤務しだしたのは近野ビルになってからよ」
「あ、ええと、ご主人に訊けば……」
 途中まで言いかけて、苑子は口を噤んだ。千晶の美貌がわずかに歪んだからだ。千晶の夫である倉永氏は崎田商事に勤めている。今は千葉支社にいるが、もともとはここの本社に勤務していた。崎田商事の当時のことにも詳しいだろう。だが──夫の話は、いまだ千晶の前では禁句だったらしい。
「倉永さんの旦那さんですか?」
「ああ、それはいいの」
 きょとんとする有来に向かって、ぱんっとわざとらしく手を叩く。
「さっ、この話は終わり! 勤務中の無駄口は厳禁!」
 今さらですか。
 有来と顔を見合わせ、突っ込みたいのを我慢した。有来はカートごとエレベーターホールヘと消え、苑子はカウンターの引き出しから近野ビルのフロアマップが入ったファイルを取り出す。
(今、二階に入っているテナントは)
 何も崎田商事にかかわる幽霊とは限らない。現在入居しているテナント絡みだとも考えられる。
(輸入雑貨を扱っている会社と服飾メーカーの二社)
 これだけでは何もわからない。そもそも自分がそれらの幽霊をどうにかしようなんてことはまったく考えていないのだが。
 苑子は二階のフロアマップを凝視する。
 有来の話では幽霊らしきものが映っていたのは階段室の出入り口と非常口の防犯カメラ。人気のないフロアにふたつの白い影が縦横無尽に浮遊している──そんな光景が脳裏に浮かんだ。それとも白い影はちゃんと人型をなしているのだろうか。白く、体は半透明だったりして、いきなり消えたりするのだろうか。あいにく本物の幽霊に遭遇したことがない苑子は、テレビの怪奇特集か、ホラー映画などで映像化された幽霊しか想像できない。
「……瀬戸さん、熱心ね。幽霊の話、信じてるの?」
 千晶が呆れたように訊いてきた。
「頭から信じてるわけじゃないですけど」
「そうね。でも瀬戸さん、かなり真辺さんに感化されてるわね」
「ばれました?」
「幽霊といえども、防犯カメラに映ったれっきとした不審人物」
「セキュリティは呪いの言葉だそうですから」
 須田メンテナンス総務部部長の真辺の口癖だ。不審者の解明には命を懸けている。セキュリティという言葉には弱い。だって管理会社だから。管理してなんぼだから、である。
「瀬戸さんは須田メンテナンスの社員だものね。その点、わたしは受付業務専門の派遣社員だもの。いちばん大事なのは笑顔。あ、いらっしゃいませ」
 自動ドアが開いて、入ってきたビジネスマンが受付に近づいてくる。少し前まで多かった冬物の重い色のコートもここ数日で見なくなってきた。
 内線でアポイントを確認し、エレベーターホールに案内してから戻ってきた千晶は、ふと思いついたように言った。
「本当に幽霊だったら、管理会社より賀上神社よね」
「え?」
「お祓い」
 千晶は来訪者に向けたままの笑顔を苑子に見せつつ、どこか不穏なその言葉を突き付けた。

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