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暗闇・キッス・それだけで
Only the Darkness or Her Kiss
森 博嗣

 真っ直ぐの道路。その両側には、さほど高くない樹が立ち並ぶ林。道路と林の間に黄緑色の芝生みたいな緩衝地があって、それも道路と同じように真っ直ぐ。黒と黄緑のストライプがずっと先まで続いているわけだ。なんというのか、「ああ、人工」という壮大な自然。残念ながら、前にも後ろにも車が連なって走っている。この季節だから、観光客も多い。僕の中にだって、観光客が半分弱は入っている。夏じゃなくても、普段から、どこにいても、僕の半分はいつも観光客なのだ。
 たぶん、自分の人生という風光明媚な観光地を物見遊山で訪ねているのだろう。自分に対する「無責任さ」が、すべてを作り物にしてしまい、しかも、どうしても自分から離れない。まるで、海賊たちが奪い合う宝の地図みたいにいい加減な無責任さだ。そうなってしまったのには、もちろん理由がある。でも、それはできるだけ思い出さないようにしている。地図は箱に入れて鍵をかけておくにかぎる。ただ言えることは、この無責任さが、結局はこうして生きていられる僕の余裕というか、活路というか、つまりは「遊び」というものなのだ。それが薄々わかってきたから、この頃は開き直っている。つまらない男だ。いい加減な男だ。そう、そのとおり。べつにいいじゃないか。こんなろくでなしでも、ときどきちょっとした拾いものをすることだってあるさ。それに、もしかしたら、誰かの拾いものになれるかもしれない。
 水平対向六気筒のエンジンがシートの後ろで、具合の悪い冷蔵庫みたいに低く唸っている。僕の右側には、冷蔵庫から出したばかりみたいな赤座都鹿が座っている。きっと宇宙人になりたい人のために作られたのだろう、とてつもなく大きなサングラスをかけていて、彼女がこちらを向くだけで僕は目眩がしそうだった。目測で僕のサングラスの四倍といったところか。このスポーツカーは、都鹿の車だけれど、もう十年くらいまえの型だ。今日からしばらく僕に貸してくれることになっている。僕がこの地へ来たことで、彼女はまあまあご機嫌だ。冷えきっているような態度は、だから見せかけで、これから私は溶けますよ、という姿勢がむしろ顕著。食事くらい奢らなければいけないな、と僕は鶴亀算で割り出していた。彼女の脚が四本だったら、という想像をしたわけではない。世の中というのは、すべてそういったぎりぎりの交換法則に基づいた計算で成り立っていることを、僕くらいの年齢になったら、誰でも知っているということ。この僕でさえもだ。
「どう? 気に入ってくれた?」都鹿がきいた。つんとした口の形のままだ。オープンカーだけれど、スピードを出していないから、普通に話ができる。どちらかというと、普通に話ができない方が僕の好みだけれど、道路や車に文句を言うつもりはない。
「うん、こんな直線じゃあ、良いも悪いもわからないけどね」
「え、どうして?」
「さっき、山を上ったときのカーブの連続、あれは良かったね」
「酔いそうになったわよ」
「ああいうのが、続いてほしいな、どこまでも……。天国への階段みたいに」
「天国? それで?」
「だから、ああいう上りのカーブだと、ちょっとトルクが足りないとか、重いかなとか、わかってくるんだ」
「重いって、二人しか乗ってないじゃない」
「いや、車の話。オープンカーってのは、重いんだ」
「車の話じゃなくて……。私が、どうってきいたのは、ここの景色」
「ああ……」
 景色が気に入ったか、という意味だったらしい。それは無理な質問だ。僕は、景色なんてものを気に入ったことは、生まれてこのかた一度もない。それに、風景が気に入っているなんて本気で言えるのは、殿様くらいだと認識している。
「なかなか、素晴らしいね。うん、気に入ったよ」殿様になったつもりで、大人の返事をしておいた。
「そうでしょう。気持ちが良いなぁ」
 どうして気持ちが良いのだろう。酔ったあとのリバウンドだろうか。酔ったままの方が気持ちが良いともいえるんじゃないかな、と言おうと思ったけれど、都鹿にそこまでの論理的理解を求めるのは酷な気もしたので自重した。
「ねえ、頸城君」そう言いながら、彼女は僕の右手に触れた。僕の右手は、不注意にもシフトレバーの上に置いたままだった。ギアなんて変える必要はないし、だいたい今どきの車なら、それはステアリングにもある。単なる右手の怠慢というべきか。
「私、今、幸せだなって、思った」
「へえ……」としか答えられない。よほどカーブが嫌いなのかもしれない。
「しばらく、ストレートみたいだね」
「は?」
「なんでもない。道の話」
「道?」
「幸せって、何が?」
「だから、今が」
「ふうん、そう……。あまり、そういうこと、言わない方だよね」
「そうだよぅ。だから、重みがあるでしょう?」
「重みね……。もしかして、方針を変更するような、その……、なにか切っ掛けがあったとか?」
 そういえば、都鹿はヨガを始めたと話していた。ヨガが思想に影響したのだろうか。そんな想像をしただけで、笑えてきた。僕は都合良く上機嫌な顔になっただろう。
「そうね……」彼女は、ふうっと息を吐き、唇に指を当てたようだ。こちらを向いて顔を近づけてきたが、サングラスの圧迫感がもの凄い。僕が少しだけそれを避けようとし
たら、彼女も冷静になったようで、前を向き、座り直した。「ママがね、そういうことを言うわけ。貴女は、ちょっと物言いがいけませんって」
「あそう……」
「いけないかしら?」
「いや、そんなふうに感じたことはないよ」
「でしょう? あ、でも、心当たりはあるのよね」
「軍師でもついたとか?」
「グンシ?」
「いや、なんでもない。ああ……、そうか、君の母上が軍師なんだね」
「グンシって?」
「それよりもさ、ウィリアム・ベックって知っている?」
「え? ううん、知らない」都鹿は首をふったようだ。大きなサングラスが一瞬光を反射した。「私、音楽とか聴かなくなった。どうかしたの?」
「大富豪でさ、この辺りに別荘を建てたって噂を聞いたんだけれど」
「あ、知っている、それなら」
「何を知ってるの?」
「うーんとぅ……。歌手じゃないよ」
「うん、歌手じゃない」
「えっと、コンピュータの天才なんじゃない?」
「そうそう」
「超お金持ちでさぁ。なんか、体育館みたいなでっかいのを建てたって」
「どこに? もしかして、見た?」
「どこかは知らない」
「写真とかは?」
「見たことない」
「君の母上なら、きっと知っているだろうね」都鹿の母親は、名うての情報通なのである。
「どうかなぁ……。あ、何? 頸城君、なにか仕事で、関係があるの?」
「いやぁ、違う。そうじゃないよ。さっき、タクシーの運転手がそんな話をしていたからさ」
「嘘だぁ」都鹿は指を僕の鼻先へ近づけた。「嘘をつくと、鼻が伸びるんだよ」
 都鹿は、馬鹿じゃない。かなり頭が回るので、油断ができないのだ。馬鹿そうに装っている、というほどではないものの、天然のシールドがうまく知性を隠している、といえば、まあ、五十パーセントくらいは彼女というシステムを表現しているかもしれない。
「ねぇねぇ、何をしにきたの? 車を貸してくれなんて言わずに、私んとこに泊まったら、どう?」
「いや、そういうわけには……」
「そうしてほしいなぁ」
「とにかく、仕事だからね。その……、泊まるところは指定されているんだ。もちろん、ときどき抜け出して、遊びにいけるとは思うけれど」
「嬉しい、ママが会いたがっているんだから」
「あそう。素敵なママだね」
「すっごい化粧が濃いから、びっくりするよ」
「そう」
「ねぇねぇ、どこに泊まるの? ホテルでしょう? 教えてくれてもいいんじゃない?」
「悪いけど、やっぱり僕みたいな仕事はね、秘密厳守だから」
「私、絶対に秘密は守るから」
「ママにも言っちゃ駄目だよ」
「え? 嘘……。ママは、いいんじゃない?」
「ほら、そういうのは、絶対って言わない」
「うーん、そっかぁ……、ママにも言えないのかぁ。じゃあ、聞いてもしかたがないかしら」
「それは、うん、なかなか素敵な判断だね」
「そう?」
 僕は微笑んで頷いた。素敵だと言ったのは、正直なところだ。これが、彼女の良さでもある。若いのに、一番大事なところが自分の中で確立している。僕が彼女の歳だったときに比べたら雲泥の差だ。たぶん、女性というのは、生まれたときから、この柱のような確かさが備わっているのではないか、と常々感じている。それに比べたら、男というのは、キャンプのテントみたいなもので、その場しのぎで雨風を防いでいるだけなのだ。
 その先のドライブインで、コーヒーを飲んだ。気持ち良いくらい時化た場所だった。だいぶまえの景気が良かった時代の文化遺産のような施設で、高校生が文化祭ででっち上げたみたいなインテリアだった。コーヒーも平凡。でも、飲めないほどでもない。都鹿の機嫌が悪くなるんじゃないかとひやひやしたけれど。
 そこを出て、来た道を戻り、また林の中のストレートを走った。ただ、山を下る道では旧道を選び、低速と急カーブと路面の悪さの連続だった。都鹿は酔ったかもしれない。でも、彼女はしゃべり続けていて、子供の頃ここでキャンプをしたとか、そのときの男友達が、今はプロゴルファになっているとか、そんな思い出話に明け暮れた。濃い薄いの差はあれ、誰にでも生きてきた時間なりの人生がある、と僕は思った。ようは、それを思い出すときの「抵抗」と「演出」の大小の問題なのだ。
 ひんやりと湿った空気に包まれ、日差しが届かない林の中を下っていく。有名な滝があって、そこの駐車場は満車だった。道路にも駐車されている車が並んでいて、細い道がますます通りにくくなっていた。
「今日は、これからどうするの?」自分の話のネタが尽きたのか、都鹿がきいた。
「えっと……」僕は時計を見て確認した。もちろん、見なくても時間を忘れたりはしない。夕方の四時半だった。「そろそろ、君を送っていく」
「どこへ?」
「君の家へ」それは彼女の母親の別荘のことだ。「それとも、別のところが良い?」
「頸城君が泊まるところが良いけど」
「だからね……」
「わかっています。そう、もうお仕事ですか」
「残念ながら、そうなんだ」
「残念だなんて、思ってないよ。そうでしょう?」
「思っているよ」
「これから、きっと、どこかで女と会うんでしょう?」
「女って、誰のこと?」
「とぼけてる」
「まあ、人間のうち半分は女性だからね。もしかしたら、会うかもしれない」
「でも、良いの。私は幸せよ。ふうんだ……。方針変更したんだから」
「まだ、完全に自分のものになっていないね」
「何が?」
「君の新しい方針」
「どういうこと?」
「いや、方針なんてものはね、だいたい、そんなものさ」
 都鹿の別荘は、その滝からしばらく下って、人里に近い辺りにある。この町は大半が別荘地なのだが、その中でも最も古い地域で、もちろん地価も高い。日本中の金持ちの別荘と、日本中の好調企業の研修所が、林の中で適度に距離を保って建っている。夏は葉が生い茂っているから、隣の建物は一切見えない。僕は、冬に一度だけ来たことがあって、そのときに建物が無数に見える風景に驚いた。
 都鹿の母親に挨拶をするつもりだったが、幸いにも留守だった。買い物に出かけたらしい。だから、都鹿を降ろしただけで、僕は車を出した。彼女は笑顔で手を振った。本当に、僕にはもったいないくらい良い子だ、とバックミラーで確認しながら遠ざかった。
 土産物屋が建ち並ぶ有名な通りがあって、その近くで道路が渋滞していた。そこを抜けて、駅まで車を走らせた。空は明るくて、低い太陽はまだ眩しい。それなのに、ときどき雷が鳴っていた。これは、この土地の特徴で、夏の夕方は毎日のように雷が鳴っている。そして、半分くらいは短い夕立になる。
 新幹線の到着時刻に五分ほど遅れてしまった。水谷優衣は、タクシー乗り場の横で待っていた。ちょうど、人を乗せた一台が出ていったので、僕はそこに入り込むことができた。手を振ると、オープンカーだから、すぐに彼女が気づいてくれた。
 都鹿とは対照的で、スカート丈が長めのベージュのスーツで、サングラスもかけていない。もちろん、これから仕事にいくわけだから、落ち着いたファッションになるのも当然の選択というべきだが、しかし、彼女の場合は、プライベートであっても派手なファッションを選ばない。むしろ、プライベートの方がさらに大人しい。化粧をしていないのでは、と思えることだって多い。
 僕は車から降りて、彼女の荷物をフロントのバゲージルームに納めた。
「どうしたの? この車」
「友達から借りた」
 助手席のドアを開けて、優衣をシートに座らせてから、僕は運転席に戻った。
「人が見てるじゃない。相変わらずね」
「何が?」
「ドアくらい、自分で開けられます」
「ああ……、ごめん。無意識にやってしまった」
「でしょうね」
 僕は、後方を確認してから車を出した。
「涼しいね、嘘みたい」彼女はいつもの笑顔に戻っていた。髪が軽そうに揺れる。
「君と二人でドライブができるなんて、嘘みたいだよ」
「勘違いしないでね、仕事ですから」
 水谷優衣は、本職は舞台女優だ。それは、彼女が自分でそう言っている。でも、あまり売れていない。アマチュアに限りなく近い。今は、出版社に臨時で雇われている。つまり、バイトだ。どうしてそうなったのかというと、ちょっとまえに僕が本を書いたときに、彼女が少し関ったからだ。その本が予想外に売れたこともあって、出版社は、また僕に本を書かせようとしている。僕には、しかし、そもそもものを書きたいという衝動がない。もう少し簡単に言うと、書くことが嫌いだ。そこで出版社は、優衣ならば僕を説得できるだろう、と踏んでいるみたいで、彼女を編集員として雇い上げた。
 優衣は若い頃に、別の出版社で働いていた経歴があったから、これは特に無理な人選ではない。彼女は、僕よりも二つ歳上。三十代ももうすぐ終わり。そろそろ身を固めても良いだろう。身を固めるというのが、具体的にどんな意味なのか僕は限定できないし、そんな言い回しを使ったことさえないのだけれど、世間的にはそういう空気が確実にあって、きっと、彼女も親族からそんなプレッシャをかけられているにちがいない。女優の夢を追うシーズンは、もう終わっているということでもある。でも、僕は、そうは思わない。彼女には才能があるし、なによりも、彼女はとても魅力的だ。僕の目にはそう映る。
 僕たちは、かつて同棲していた。もう少し正確に表現すると、僕は彼女に食べさせてもらっていた。その関係が破綻して、もう何年にもなる。実は、今の僕は、そのことを後悔している。何がって、別れることに奇跡的な活路がある、と信じた自分の甘さにだ。それはまるで、炎の中を全速力で走り抜ける厄払いみたいに、そのときの僕を興奮させたことを覚えている。だけど、結局は火傷の跡が残っただけで、肩凝り一つさえ消えることはなかった。
 このまえの本の仕事で、彼女と、なんとなくだけれど少し話ができて、僕は微かなミクロン単位の光を見た感じがした。深海からようやく海面に届いた泡みたいな懐かしさだったかもしれない。そんなこともあって、今回の仕事を彼女が持ってきたときには、無条件に嬉しかった。仕事に関する条件なんてどうだって良いと思った。いちおう話を聞いたけれど、断る理由なんてなかった。
 その仕事というのは、これから会いにいく人物について、僕が本を書くというものだ。詳しい条件はまだ決まっていない。インタビューを纏めるのか、それともゴーストに近い書き方になるのか、両極端はそんな感じだろう。どちらだって、僕はかまわない。世界的に有名な人物であってもなくても、その本がベストセラになろうがなるまいが、僕に関心はない。ただ、普通に取材して、それを書くだけだ。
 僕は、その超有名人の別荘にゲストとして宿泊することになっている。期間は一週間。もっとも、不足があれば延長ができる。相手は多忙なので、ずっと僕のために時間を提供してくれるわけではない。近くにいれば、ちょっとした空き時間を見つけて、少しずつ応じられる、ということだった。それは、僕にとってもありがたい。相手が忙しければ、それだけ僕は暇になる。暇な時間を、この高級リゾート地で自由に使える。こんな素晴らしい夏期休暇はないだろう。
 都鹿の別荘が近くにあることはすぐに気づいた。何度か、彼女から誘われていたからだ。話をしたら、車が借りられる、ということもわかった。話が上手すぎて、断ろうとしたのだが、都鹿が強くプッシュした結果だ。
 僕にとっては、水谷優衣と一緒に過ごせる時間が持てること、その期待は大きかった。今のところ、最初の一日は、彼女も同じところに宿泊する予定だった。たぶん、明日には東京へ帰ってしまうだろう。ときどき、なにか理由を作って彼女を呼び出そう、と僕は考えていた。執筆の方向性で相談事があるとか、なにか資料を持ってきてほしいとか、そんなことを伝えれば良いのではないか。東京から簡単に日帰りができる距離だけれど、そこは、食事に誘うとか、大富豪のパーティがあるとか、作戦を練ろう。仕事が決まってからというもの、僕は、そんなことばかり考えていたのだ。この浅ましさは、なんだか自分が若いときの感覚を思い出させてくれて、自然に躰が軽くなった。なるほど、歳を取ったら、こういう具合に夢を見て、元気を出せば良いのだな、と理解したくらいだ。
「僕のことは、向こうに何て話したの?」真面目な質問をした方が優衣は嬉しいだろう、と考えて仕事の話をすることにした。運転をしながらだが、道は車が数珠つなぎでのろのろだったから、彼女の顔色を窺うことだって容易い。
「ベストセラ作家だって紹介したわよ」
「うわぁ……」
「それから、本業は探偵だってことも、伝えてあります」
「うわぁ……」
「いけなかった?」
「恥ずかしいなぁ。今どきさ、探偵だなんて」
「何て言えば良かった?」
「まあ、ボランティアとか……」
「何のボランティア?」
「いや、ボランティアっていったら、何でも屋のことだよ。そのまえに、義勇兵だと思われるかもね」
「あ、そうか。それ、案外、当たっているわね。そう自己紹介してね」
「恥ずかしいなぁ」
「とにかく、日本人向けに、自伝を出したいわけ」
「どうして、そんなことをしたいと思ったのかな?」
「私は、わからない」
「ビジネスの一環?」
「お金に困っているような人じゃないから……。私がわからないって言ったのは、日本人の誰が、この企画を彼のところへ持っていって、どんなふうに説得をしたのかってこと」
「ああ、そうか。出版社の方から仕掛けたわけだね。そのあたりの話は、君は聞いていないわけ?」
「うん。全然。私、部外者だし、下っ端だし」
「言い出しっぺがいるなら、そいつが偉そうな顔して、僕になにか言いにきても良さそうなものだけれどね」
「ええ、そう。普通はそうね。でも……」
 彼女は、そこで黙ってしまった。
「でも、何?」
「君、普通じゃないから」
 それは本当の答ではない、ということがわかった。ちょっとしたタイムラグがあったからだ。つまり、その偉そうな顔をしたい奴は、僕に会えないなんらかの理由があって、彼女はそれを知っているというわけだ。思い当たることは、北斗七星の星の数ほどある。だいたい、僕は仕事関係でつい喧嘩をしてしまうらしい。こちらにその気がなくても、
あとであれが悪いと指摘されることが多い。冗談のわからない人間が日本には沢山いるし、僕は、冗談のわからない奴がわからない奴なのだ。
「普通の人じゃないと会わないっていう人も、普通じゃないなあ」
「そう、そのとおりかも。たぶん、いかれてるんだと思う」
「いかれてるか……。懐かしい表現だね」
「いえ、単なる敬語として」
「え? どこへ行かれているの?」
「冗談よ」彼女はくすっと笑った。
「ああ、それは……」僕もつられて笑った。「いかれてるよ」
「あのね、頸城君、約束してほしいの。ちゃんと仕事をしてね。途中で投げ出したりしないでね」
 ほら、やっぱりそうなんだ。僕の言動を心配している。彼女に心配させてしまうなんて最低だな、と自分でも思った。
「大丈夫だと思うよ。たぶん、だけれど」
「なんか、うーん、やる気ないでしょう? わかるよ、顔を見たら」
「うん、やる気ってのは、正直ないね。だって、面白くもなんともないし、それに、興味もないし、あと、はっきり言って、そのベックさんっていう人も、そんなに知らないし」
「そこが駄目。興味があるんだって言わないと」
「誰に?」
「ベックさんに。失礼でしょう?」
「ああ、そうだね、それはわかるよ、その理屈は。特に……」
 もちろん、それくらいはできる。僕は、けっこう人当たりが良い、と自己評価しているくらいだ。探偵業なんて怪しいビジネスには、人当たりが一番大切なのはまちがいない。それに僕の場合、人当たりの良い悪いよりも、人当たりに弱いだけなのだ。
「特に、何?」
「君が言うと、よくわかる」
「どういう意味?」
「ほかの人が言ったら、馬鹿馬鹿しいって思う、という意味」
「なんか、心配……。はぁ……」優衣は溜息をついた。「大事な仕事だと思うのよ」
「大事って?」
「貴方にとって、人生を決めるような仕事なの。だから、お願いだから、巫山戯たりしないで」
「僕はいつも……」
「巫山戯ているわよ」鋭い眼差しをぶつけてきた。彼女の得意技だ。そういう眼力みたいなものが、舞台女優の武器なのだろうけれど、できれば日常生活であまり使ってもら いたくない。特に、僕みたいに気の弱い人間は、それだけで思わず急ブレーキを踏んでもおかしくない。
 幸い、僕はブレーキを踏むまえに、バックミラーを見た。だいぶまえに、国道の交差点で脇道に入り、さらに森林の中を抜ける細い道を進んでいた。目的地は、だいたいの道順を事前に優衣から聞いていたし、ドライブインで都鹿が化粧を直しているのを待っているときに、ナビの地図で調べてあった。ミラーに小さく映っているのは、少し離れてついてくる黒いランドローバだ。振り向きたいところだけれど、我慢をした。
「なんか、護衛されているみたいだよ」僕は言った。
「護衛? 誰が?」優衣が眉を顰める。そして、少し考えてから、彼女は後ろを振り返った。「あ、あのジープ?」
「駅からずっと後ろにいる」
「へえ……。誰をつけているの? 君? それとも、私?」
「まあ、君じゃないだろうね」
「ふうん、それくらいのことは、普通にするのかな……。いちおう、警戒されても不思議ではないわけだし」
「もしかしたら、君と会うまえから、見張られていたかもしれない」
「私と会うまえは、何をしていたの?」
「いや、なにもしていない」
「なにかはしているでしょう?」
「うーん」たとえば、何をしただろう。息をしたとか、汗をかいたくらいしか思いつかなかった。
「たとえば、このシートだけれど、香水の匂いがしたよ」
「へえ……。どうしてだろう」
「私も、香水を持っていたら、ここに零してやろうかしら」
「それは、なんか、犬みたいだね」
「面白いことを言うじゃない」優衣は笑った。
「たまにはね。ありがとう」
 その道からもまた逸れた。もう、ナビには道が表示されていない。つまり、私道ということか。しばらく進んだところに、ゲートがあった。それは広く開いていて、そこから先の上り坂は石畳になった。黒いランドローバは、ゲートの中には入ったが、そこで停車したようだった。
 僕たちはさらに奥へ進む。白樺の林になり、広い芝生の庭園も見えてきた。池もあるようだ。ゴルフ場のような人工的な造園だった。まだ新しいので、まったく自然に溶け込んでいない。テーマパークみたいなわざとらしさに加えて、あまりにも綺麗で整いすぎていて、気持ちが悪くなるくらいだ。一番高いところに、白い壁の城のような建築物が見えてきた。
 どうして城だと思ったのかというと、まず大きいこと、それから、屋根がゴシック建築みたいに尖っていること、塔のようなものが両側にあること、そんなところだ。城以外に何と表現すれば良いだろう。まさか、ホテルみたいだなんて、平凡なことは僕の口からは恥ずかしくて言えない。
「凄いね。機能的でないお城みたいだ」
「そう? 私には、お金をかけすぎたホテルみたいに見えるけれど」
「ちょっと、日本の建築家にはありえないセンスじゃないかな」
 道はその建物の反対側へ回り込んだ。正面ロータリィヘ車を入れ、玄関の前で停まる。従業員風の若い男と、黒い服を着たいかにも執事という風貌の中年の男が立っていた。たぶん、執事だろう。あれが主人だったら、かなり凄い。それくらいのトリックはあっても良さそうなものだ。
 車のエンジンを切り、僕たちは降り立った。さきほど見えた敷地内の人工的な庭園は建物に遮られて今は見えない。周囲の山も見えない。唯一の例外は、数キロ離れたところにある火山だった。それは標高が二千六百メートルある活火山で、今も頂上付近には白い煙なのか雲なのかが見える。たぶん、僕が立っているところでも、標高は千数百メートルはあるはずだ。空気が薄いとは感じないが、ひんやりとした空気は異質だった。
世間の空気とは違う。
 さて、仕事モードに切り換えて、真面目に、そして彼女の期待を裏切らないように注意をして、僕なりに時間を使おう、と思った。ほんの一瞬だけ、夢のような夏の一時も連想しかけたけれど、そういう連想自体が、この空気の薄さで膨張した結果かもしれない。
「頸城様、お待ちしておりました」その執事風の男が言った。日本人だ。ということは、この別荘にいる、ここ専用の執事ということだろうか。
「葉山書房の水谷と申します。よろしくお願いいたします」優衣がお辞儀をした。
 僕も、まあまあの笑顔を作って、軽くお辞儀をした。とっておきの笑顔とお辞儀は、ウィリアム・ベックのために温存しておいた方が良いだろう。

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