書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
ジムグリ
飴村 行

   第一章 傷痍夫人

     1

 トンネルにまいります
         美佐

 居間の座卓の上に置かれたメモ用紙には、鉛筆でそう書かれていた。
 見慣れた妻の筆跡はしっかりとしていた。迷うことなく一気に書き記したのが見て取れた。太く濃い鉛筆の跡からは力強ささえ感じられた。
 仕事帰りの内野博人は右手にメモを持ったまま、左手の黒革の鞄を床に置き、喉元のネクタイを強く引いて緩めた。そして大きく息を吐くと背広の内ポケットから煙草を一本取り出し、口にくわえた。
「トンネルにまいります、美佐……」
 博人は煙草をくわえたまま低い声でメモを読み上げた。
 読み上げて笑おうとした。
 フンと鼻先で笑い飛ばし、「くだらん」と呟いてメモを丸めようとした。
 しかし博人は笑えなかった。笑う代わりに顔が強張り、嘲笑は喉元に詰まって土塊のように崩れた。
 理由は文面だった。
 美佐は今まで五度家出をし、その度に書き置きを居間の座卓の上に残していた。それらはどれも長文だった。自分の精神がいかに混乱し、疲弊しているかを便箋にびっしりと書き込み、最後は決まって「もう戻りません。捜さないでください」で終わっていた。しかしその一文とは裏腹に美佐は決まって翌朝六時に帰宅し、寝室でまどろむ博人の隣の布団にそっともぐり込むのが常だった。
 しかし今日は違っていた。
 メッセージは『トンネルにまいります』という極めて簡潔なものだったが、その必要最低限の情報のみを迷いのない筆跡で書き残したことにより、美佐がいたって冷静であること、そして確固たる決意のもとに家を出たことを如実に物語っている気がしてならなかった。
 博人はゆっくりと歩いていくと、南側の庭に面した居間のサッシ戸を引き開けた。
 同時に初秋の澄み切った風がさらりと吹き込み、優しく頰を撫でた。
 十坪の庭には高さ一メートルほどの秋桜が咲き誇り、上空には夕暮れと共に薄らと赤らんだ鮮やかな青空が広がっていた。
 博人は庭を見渡し、美佐が育てた淡紅色の美しい花々を眺めた。やがてその上に憂いを帯びた、うつむき加減の美佐の横顔がぼんやりと浮かんだ。
「……あいつ、本当にトンネルにいったのか?」
 博人は微かな声で囁いた。
『トンネル』とは勿論、町の南東にある『虻狗隧道』のことだった。確かに今までの五度の書き置きにもそれを連想させるような記述はあった。しかしそれらは『悪い処』や『汚れた場所』、『戻れない街』、『危険な暗闇』などと婉曲な表現がなされており、『トンネル』と明確に表記したのは今回が初めてだった。
「あっ……」
 そこで博人はあることに気づいた。
 同時にくわえていた煙草を庭に投げ捨てると歩いていき、居間の北側の壁際に置かれた茶箪笥の前で立ち止まった。古びた茶箪笥の上には昔の蓄音器ほどの大きさの、小さな仏壇が置かれていた。博人は五秒ほど躊躇した後、左右の手で両開きの扉をゆっくりと開けた。中央に位牌が一柱見えた。半年前に亡くなった昌樹のものだった。しかしその前に置かれていた写真立てが無くなっていた。中には二十五歳の美佐と、一歳の昌樹が回転木馬に乗っているスナップ写真が入っていた。
 博人は小さく舌打ちし、仏壇の扉を閉めた。
 それは美佐が人生で最も幸せだった頃の姿を写したものだった。博人がネガを失くしたため、二度と焼き増しのできない写真ということもあり、美佐の一番の宝物だった。そして今までの五度の家出で、仏壇からその写真が持ち去られたことは一度もなかった。そのため博人は美佐が発作的に家出をしたのだと判断し、冷静になればすぐに帰宅すると予想して特に慌てることはなかった。そして予想通り美佐は毎回翌朝六時に帰宅していた。しかしその一番の『宝物』を持ち去ったということは、美佐がいよいよもって計画的に家出をし、宣言通りトンネルに向かったと判断せざるを得なかった。
「……くそ」
 博人は小さく呟き、また舌打ちをした。
 これからあのトンネルに入り、『ヒヨコ』である自分が凶暴な『モグラ』共の中から命懸けで美佐を捜し出すことを思うと、それだけでうんざりした気分になった。しかもどれだけ苦労して連れ戻しても美佐はまた必ず家出するはずであり、全てが徒労に終わるのは目に見えていた。
「あの馬鹿野郎、いい加減にしろ」
 博人は吐き捨てると踵を返し、開け放ったサッシ戸の前に戻った。怒りが込み上げてきて脳内がカッと熱を帯びた。いつまで我慢すりゃいいんだという思いがぐるぐると激しく渦を巻いた。博人はズボンのポケットに両手を突き入れ、睨みつけるように庭を見た。
 咲き誇る秋桜の花々が再び視界に広がった。
 しかしいつの間にか、自分がその美しい花々から厭われているような、拒まれているような奇妙な感覚を覚えた。博人は憤りながらも己の胸中を探り、やがてその原因が美佐に対する罪の意識であることに気づいた。確かに美佐の家出は精神的苦痛を覚える迷惑行為だったが、その原因の一端は自分にもあり彼女のみを責めるのは酷だった。
 勿論博人はそれを自覚していた。
 自覚してはいたが、それでも決して変わることのない過去に雁字搦めになり、未だに家出を繰り返す美佐に強い苛立ちを覚えるのも事実だった。
 博人はまた背広の内ポケットから煙草を一本取り出し、口にくわえた。
 庭の東側から子供達の弾けるような声が聞こえてきた。
 すぐ近くにあるオバケ神社の境内で遊ぶ子供達のものだった。
 不意に博人の脳裏を昌樹の顔が過った。生きていれば一歳半になるはずだ、そう思った途端目に涙が込み上げてきて視界がじわりと滲んだ。
「悪いのは美佐でもないし俺でもない。ただ……、昌樹の運が悪かっただけだ」
 博人は自分に言い聞かせるように呟き、目を伏せた。美佐に対する怒りや不満が急速に薄れていき、やがて胸中には虚ろな物悲しさだけが残った。
 博人は右肩でゆっくりとサッシ戸に凭れ、ズボンのポケットから銀色のライターを取り出した。そしてくわえた煙草に火を点けて大きく吸うと、花弁の群れに向かって勢い良く紫煙を吐き出した。

     2

 博人が北関東の山間部にあるこの町に来たのは四年半前、十九歳の時だった。
 目的はツチヘビの食品加工工場で働き、金を貯めるためだった。
 博人は一九六九年、埼玉県の大宮で生まれた。父親が高校の数学教師、母親が音楽教室のピアノ講師をしており、一人っ子だった。資産家ではなかったが、それでも家は裕福であり金銭的には何不自由ない生活を送っていた。
 博人は幼い頃から内向的だった。加えて兄弟がいないためその性格に拍車が掛かった。とにかく人付き合いが苦手で集団行動に苦痛を覚えた。小学校に上がるとその傾向はより強まった。常に一人でいることを好み、様々なマンガを読み漁ってはひたすら空想に耽った。そのため学校でも友達ができずクラスでは浮いた存在となったが、特に気にすることもなく気ままな日々を過ごした。
 しかし博人が四年生になった頃から母親が干渉してくるようになった。そのあまりの成績の悪さに教師の息子として恥ずかしいと言いだしたのだ。そして部屋から大量のマンガを撤去すると大学生の家庭教師を雇い、勉強を強制した。内向的で反抗する術を知らぬ博人は渋々従い、結果それ相応の成績にまで到達したが、相変わらず人付き合いは苦手だった。
 小学校を卒業すると地元の大学の付属中学に進んだが、今度は母親に高校受験のための猛勉強をさせられた。そのためただでさえ友達がいない上に部活も禁止となり、またクラスで浮いた存在となった。さすがに博人も十三歳になると自我が発達し、己の束縛された生活に不満を漏らすようになった。が、「高校に入れば好きなことができる」という母親の言葉に説得され仕方なく三年間勉強を続けた。その甲斐あってギリギリの成績ながら、第一志望の私立の進学校に合格した。
 しかし博人はそこでどん詰まった。
 高校生活が始まるといきなり鬱状態に陥ったのだ。
 原因は母親の言葉だった。「高校に入れば好きなことができる」と言われてきたが、そこで待っていたのはまたしても孤独だった。それまでまともに人付き合いをしたことがないため同級生の誰ともコミュニケーションがとれず、入学三日目で完全にクラスの輪から弾き出された。そのため密かに期待していた彼女どころか、ただ群れるだけのうわべの友達すらできなかった。
 それは母親の言葉とは正反対の世界だった。好きなことどころか、高校生としてできて当たり前と思っていたことが何一つできない地獄だった。
 博人の衝撃は大きく、瞬く間に食欲を失い極度の不眠症になった。見兼ねた母親が叱咤激励すると「お前がだましたんだ!」と怒鳴り、胸倉を掴んで壁に叩きつけた。驚いた父親が慌てて止めに入り収まったが、その一件で母親は怯えきり博人に何も言わなくなった。翌日冷静になった博人は自ら病院に赴き、精神安定剤を処方してもらったがそんなものは焼け石に水だった。
 結局博人は砂を噛むような孤独で空虚な三年間を送った。
 友達も彼女もついに誰一人できなかった。全てに対してやる気が起きず、ほとんど勉強しなかったので成績は常にどん尻だった。そのため誰からも相手にされず、まるで目に見えぬ存在であるかのように完全に無視された。それは博人自身も自覚しており、学校では意識して気配を消し、極力目立たぬように過ごした。授業中は静かに文庫本を読み、休み時間は机に突っ伏して寝たふりをした。歩く時は終始顔を伏せ、誰とも目を合わせないようにした。
 高校三年の春、担任から卒業後の進路を尋ねられ博人は就職しますと即答した。そして面倒なので親には先生から伝えて欲しいと頼んだ。進学校のため就職するのは学年でただ一人だったが、常にどん尻の成績だったためか担任は納得したようにうなずいた。
そして親への連絡もあっさりと了承してくれた。
 その夜、父親が部屋を訪ねてきた。博人はドアを開けたが中には入れず、その場で用は何かと尋ねた。父親は担任から電話がきたことを告げ、本当に就職する気なのかと問うてきた。博人は真顔でうなずき「どこか見知らぬ土地で一人暮らしをして自活したい。自活しながら堕落した高校時代を深く反省し、冷静に自分を見つめ直して本当に行きたい大学を探したい」と訴えた。父親は黙って聞いていたが、やがて納得したようにうなずくと母さんと相談すると言って去っていった。
 しかしそれはあくまで建前だった。
 博人の本音はただ一つ、地元との永遠の決別だった。友達が一人もいないこの大宮から、孤独と屈辱に満ちたこの忌まわしい土地から一刻も早く引っ越し、誰も知り合いのいない場所で別人となり、誰にも指図されずに自由に生きたかった。そのため進学するつもりなど毛頭なかったが、大学出で堅物の両親が高卒での就職など許すはずがなかった。そこで博人は狡知を巡らせ、もっともらしく大学探しを理由にすれば必ず二人をだませると踏んで一芝居打ったのだ。
 翌日の夜、また父親が部屋にやってきた。そしてドアを開けた博人に「母さんと相談した結果お前に二年間の猶予をやることにした。その間だけ別の場所で自活しながら自分を見つめ直して、行きたい大学を探しなさい」と告げた。それを聞いた博人は自分の読みが正しかったことを知りほくそ笑んだ。父親はさらに「引っ越し先なんだが、お前も知っているあの瀬戸口君のところがいいと思うんだ。北関東の山奥にある、自然に囲まれた静かな町だから疲れた心を癒してくれるはずだ。連絡を取れば瀬戸口君が住む場所や働き口を紹介してくれるはずだから、そこにしたらどうだ?」と続けた。
「そうするよ」と博人は即答した。
 当面の目標は忌まわしい思い出しかないこの土地から一刻も早く出ることだった。その逃避場所を父親の方から提示してきたのだからまさに渡りに船だった。しかも誰も知り合いのいない遠方の田舎ときては願ったり叶ったりだった。
 引っ越しさえしてしまえばこっちのものだ、と博人は思った。
 その後は決して大宮に戻らず、大学にも進学せずにその場所でひたすら働く。そしてある程度金が貯まったら自分にとっての理想の場所を求めて全国を旅して回る予定だった。親は間違いなく怒り狂うであろうが何を言われても鼻であしらい相手にしないと決めていた。あまりにもうるさい場合は罵声を浴びせた上で、こちらから親子の縁を切るつもりだった。
 翌年の三月、博人は高校を卒業した。留年寸前のギリギリの成績だった。
 その一カ月後、博人は念願の引っ越しをした。
 場所はX県小仲代郡獅伝町。
 北関東中部にある山間の町で、戦争中都内の国民学校初等科に通っていた博人の父が、学童疎開のため一年八カ月を過ごした思い出の地だった。
 獅伝町は人口約二万五千人だった。町の西部が小仲代高地の北部と接しており、南部を白菊川が流れていた。元々森林地帯だったが一八九〇年代に開墾され、疎水が開通したことにより畑作が可能となった。酪農、野菜栽培を中心とした農業が盛んで、機械、木材・木製品、食料品などの中小工場が多かった。
 町には父親の友人が一人いた。瀬戸口淳一という五十代半ばの男だった。疎開中父親達が宿泊していた寺の近くにある農家の長男で、役場から依頼されて食料を運んでいるうちに父親と知り合い友達になった。やがて戦争が終わり学童はみな帰京したが、妙に気の合った父親と瀬戸口はその後も頻繁に文通を続け、夏休みや冬休みには互いの実家に交互に泊まりにいった。
 高校を卒業すると父親は都内の有名私立大学へ進学して教師に、長男の瀬戸口は実家を継いで専業農家となったが交際は尚も続き、年に数回は必ず東京で会い、酒を酌み交わして旧交をあたためた。二十代半ばで共に結婚し、家庭を持ってからはさすがに会う機会も少なくなり疎遠になったが、年賀状や暑中見舞いのハガキは欠かしたことがなかった。
 博人は面識こそなかったが昔からセトグチ君という名前を良く聞かされており、子供の頃からその見知らぬおじちゃんに親しみのようなものを抱いていた。
 そのため獅伝町で二両編成の電車を降り、駅の改札口で出迎えにきた瀬戸口と会った時、初対面にもかかわらず奇妙な懐かしさを覚えた。
 茶色いとっくりのセーターを着、黒いジャージのズボンを穿いた瀬戸口は背が高くて痩せていた。無造作に撫で付けられた白髪はうねうねと縮れ、少し頬のこけた浅黒い顔には白い無精髭が生えていた。一重の細長い目は笑みを湛えたまま左右に垂れており、一目で温厚な性格だと分かった。
「あの、内野博人君かい?」
 瀬戸口が遠慮がちに訊いてきた。博人が「はい」と答えて一礼すると、瀬戸口は照れたように笑った。同時にその口元が緩み、上の前歯が一本ない歯茎の痩せた歯列が見えた。それは子供の頃から思い描いていた通りの気のいいおじちゃんの顔だった。博人は嬉しくなり「よろしくお願いします」と張りのある声で言った。
 二カ月ほど前に父親から連絡を受けていた瀬戸口は住居と働き口を手配してくれていた。
 二人は駅舎を出ると、閑散としたロータリーに停められていた軽トラックに乗って出発した。
 博人の住むアパートは町の北東にある小学校の近くにあった。
 その『レジデンスホング小仲代』という洒落た名前とは裏腹に、木造モルタル三階建ての古びた建物だった。一階が四隅に柱だけある貸し駐車場で、二階と三階が住居部分だった。部屋は各階に二つずつしかなく、木製のドアの左側に洗濯機を置くスペースが設けられていた。博人の部屋は二階の右側、二〇一号だった。
「これでも、この町じゃ上等なんだよ」
 瀬戸口がそう言って不動産屋から借りた鍵でドアを開けた。室内は六畳一間で南側と西側に窓があった。玄関の四角い三和土の左側には小さなキッチンがあり、右側には新設したらしいピカピカのユニットバスがあった。
「三階は便所だけで風呂無しなんだけど、二階は半年前に改築してこれを付けたんだ」瀬戸口が少し得意げにユニットバスを指さした。「だから家賃が三階より割増になってるけど、それでも東京と比べたらタダみたいなもんだよ」
 博人はその料金を聞いて驚いた。東京の相場の約五分の一であり、大宮と比べても三分の一ほどでしかなかった。鈍行に乗ってたった二時間北上しただけで、これだけ物価に差が出ることが信じられなかった。
 続いて二人が向かったのは町の南西にある食品加工工場だった。
『おろろんフード』という地元の食品メーカーの直営工場で、蛇肉を使った食肉加工品を製造していた。中でも売れ筋は地元に生息するツチヘビを使った『ツッチーの珍味シリーズ』で、特にモツ煮の缶詰は人気が高く全国各地のコンビニなどで売られていた。それらは父親が晩酌の時によく食していたため、博人にとっても子供の頃から馴染みのあるものだった。しかしツチヘビというものには酒の肴というイメージしかなく、下戸である博人は一度も口にしたことがなかった。
 工場に着くと瀬戸口の案内でプレハブの事務所に行き、工場長の関本という男に会った。瀬戸口と旧知の仲らしい関本は笑顔で二人を迎え、さっそく職場に案内した。博人が配属されたのはツチヘビを扱う部署だった。ここでツチヘビを捌き、腹から内臓を取り出す係を任されることになった。
「これはバラシと言ってキツい仕事なんだけど、君が一番給料のいい仕事をしたがってるって瀬戸口から聞いてここに回したんだ。ツチヘビをバラすのは初めてだと思うけど大丈夫かな?」
 関本が少し心配そうな顔をしてこちらを見た。
「大丈夫です。すぐに慣れると思うのでよろしくお願いします」
 博人は笑みを浮かべて頭を下げた。一番給料のいい仕事をする理由はただ一つ、とにかく一日でも早くまとまった金を貯め、自分の理想の場所を探す旅に出るためだった。したがってこの工場も、この町も一時的な仮の宿でしかなく、親から与えられた二年の猶予期間以上留まるつもりは毛頭なかった。
 翌日から工場での博人の新生活が始まった。
 バラシ班には十五人の工員がおり、班長は長井という六十代の男だった。いかにも職人という雰囲気を漂わせており、寡黙で無愛想だったが目には優しい光が浮かんでいた。長井は他の工員達を呼び博人を紹介すると、低くしわがれた声でモツ煮の缶詰を作る工程を説明した。
 バラシの工程にはゾリ、ヌキ、ギリの三段階があった。
 一番目のゾリとは毛剃りのことだった。
 体長約八十センチ、幅約十センチのツチヘビは地下にトンネルを掘って棲み、ミミズや甲虫類の幼虫などを捕食する。左右の眼は退化しており極めて小さく、視力は殆どない。背部には象牙色の細かい体毛がびっしりと生えている。これらは柔らかくて光沢があるのでとても重宝されており、主に乗馬用ズボンや婦人コートなどに用いられている。
 そのためまずこの体毛を細長い手動のバリカンできれいに剃り上げる。
 二番目のヌキとは内臓を抜き出すことだった。
 まず二人一組となり、頭部と尾部を持って仰向けにしたツチヘビをステンレスの台に載せる。次にムグリ刀という、ツチヘビ解体用の角ばった特殊包丁で頚部の左側を突き刺して血抜きをする。出血がおさまりツチヘビが完全に絶命したことを確認したら、今度はムグリ刀を頚部中央のやや上側、つまり下顎骨の付け根に突き刺して尾部方向に向かって一気に裂く。ツチヘビの腹部に体毛は無く、腹板という灰白色の鱗が露出しているため、体毛に覆われている背部よりやや硬く、その分力がいる。尾部まで裂いたら一人が両手で腹腔部を押し広げ、もう一人がムグリ刀を水平にして滑り込ませる。ムグリ刀には面切っ先、角峰、幅直刃があり、さらに幅直刃の先端に『腸引き』と呼ばれる鋭角の鉤が、後端に『骨引き』と呼ばれる鈍角の鉤が付いている。ヌキの場合、この先端の腸引きを内臓下部にあてがい、傷をつけぬようゆっくりと弧を描くように、時には大きな弓型を描くようにしながら、生麩のような砂色の肺臓、その間にある野いちごのような紅色の心臓、その下に続く雲丹のような鬱金色の肝臓、その右側に連なる絡み合った塩辛のような朱色の小腸と緋色の大腸の順に切除していく。そして作業台の後端に設置された洗い場の水道で内臓の血と滑りを完全に洗い流した後、足元に置かれたブリキのバケツに入れる。それらは班長のチェックを受けた上、『ツッチーの珍味シリーズ』を製造する第一食品加工室へと運ばれる。
 そして三番目のギリとは骨と肉を分けることだった。
 残ったツチヘビの体躯から頭部を切断。腹部と同様に背部も裂き、今度は幅直刃の骨引きを用いて背骨を丁寧に除去する。さらに各部位を幾つかに分解して一つ一つを念入りに洗浄する。その後、肉はスーパー・飲食店等の業務用食材を製造する第二食品加工室へと運ばれる。
 最後に、ムグリ刀についての短い説明があった。
 獅伝町では「殺す」ことを「ムグる」と言い、「ムグリ」は「殺害」や「消去」を意味した。ムグリ刀は直訳すれば「殺し包丁」だが、物騒な呼び名とは裏腹に、地元の鍛冶職人が一本一本手間暇かけて作る獅伝町の伝統工芸品であり、非常に高価であるため、貸与されたムグリ刀を大切に扱い、作業の後は必ず入念に血液を洗い流すよう指示を受けた。

「どうだい? やれそうかい?」
 長井は喫煙室のベンチに腰を下ろすと、作業着の胸ポケットから煙草の箱を取り出した。銘柄はゴールデンバットだった。
「はい、大丈夫です。頑張ります」
 博人は傍らに立ったまま明朗な声で答えた。
「そうかい、そりゃ頼もしいね。初めは独特の臭いが気になると思うけど、慣れると臭いと思わなくなるから大丈夫だ。それに一カ月もすれば体が勝手に動くようになるから、思っているよりずっと楽な作業になる。ツチヘビのバラシってのは、ほんのちょっとの忍耐力さえあれば、ある意味都会のサラリーマンよりもずっと楽で、ずっと儲かる仕事だってことが身に染みて分かるさ。あんた、この時期にヌキの工員に空きがあって本当に良かったな」
 長井は煙草を引き抜いて口にくわえ、百円ライターで火を点けた。そして勢い良く紫煙を吐きだすと「やんなよ」と言ってバットの箱を差し出した。
「いえ、吸わないもので……」
 博人は言葉を濁し、おもねるような笑みを浮かべた。長井は少し驚いたような顔をすると小さくうなずき、バットの箱を大切そうにしまった。
 博人の胸を罪悪感が掠めた。立っているのが気まずくなりベンチの隣に腰かけた。博人は愛煙家だった。十五歳から喫煙を始め、今は一日一箱セブンスターを吸っていた。しかしバットのような旧3級品を、しかもフィルターのない両切りをどうしても吸う気になれず咄嗟に嘘を吐いた。
 廊下に面したガラス戸が開き、工員が二人は入ってきた。作業を終えた直後らしく、どちらも作業着の袖を肘までまくり上げていた。
「お疲れ様です」
 二人は長井だけに挨拶すると、向かいのベンチに腰を下ろした。博人は気まずくなり無言でうつむいた。
「終わったかい?」
 長井の目にやわらいだ光が浮かんだ。
「終わりました」
 右側の小太りの男が愛想よく答え、左側の眼鏡の男が相槌を打った。
「バリカンの調子が悪くて難儀しましたよ」
 小太りは作業ズボンに付いた細かい毛を両手で払った。
「全部アタリだったか?」
 長井はスタンド型の吸い殼入れに煙草の灰を落とした。
「一匹だけロータイがいました。一服したらムグります」小太りは胸ポケットからハイライトの箱を取り出した。「図体がデカいから、ゾリが終わるまで誰も気づかなくて」
「そのムグリ、この新人にやらせてもらえんかね?」
 長井は班長らしい鷹揚な口調でいい、博人の顔を横目で見た。

トップページへ戻る