書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
室町繚乱
義満と世阿弥と吉野の姫君
阿部暁子

   第一章 出奔

    一

 息をひきとった父の目尻から、儚く光りながら流れおちた透明なしずくのことを、透子は今も覚えている。
 夜闇をふるわす女たちのすすり泣き。寝所を照らす灯火のゆらめき。後ろのほうでは男たちが低めた声で何事かを話し合っている。透子は黙って枕辺に座していた。お部屋へ戻りましょう、と唐乃が肩にふれたが、頑なに父のかたわらから動かなかった。父の青ざめた肌を濡らす細い痕をぬぐおうと手をのばすと、手首をつかまれた。
『乳母、早くつれてゆけ。幼いゆえ、父上がお隠れあそばしたことがわからぬのだ』
 この時はまだ二十六歳であった異母兄の寛成は、きつく光る双眸で透子を見下ろした。さあ、と唐乃に手をひかれて寝所から出され、それが父の顔を見た最後となった。
 あの時は確かに幼かったが、父が死んだことはわかっていた。死ぬということが、もう目覚めないことであり、ほほえみかけても抱きしめてもくれないことであり、なにか決定的に自分と父が引き裂かれることだということも。
 父が生きているのなら、その涙をぬぐって慰めることもできた。けれど、すでに逝ってしまった父にはそれもできない。何もしてやれないままに、父は涙を流さなくてはならない思いの中で死んだ。
 それならばせめて、父が守ろうとしたものを自分も守りたい。
 もはや何も父に届くことはないとしても、報いるすべもないとしても、せめて。
「宮様。宮様、どうなさいました?」
 水干の袖を引かれ、はっと透子はわれに返った。
 店々が建ちならぶ広い道は、呼びこみの声をかける者や、それに集まる者、せわしげに通りすぎていく者、この世にはこんなに人がいたのかと驚くほどの人々であふれている。ここよりもっと離れたどこかから、唄や楽器の音色も聞こえていた。足もとがぬかるんでいるのは、少し前に降った通り雨のせいだ。
 まだ湿った大気の中に、甘いような水の匂いが残っている。初夏の清々しい青葉の匂いや、どこかで咲いている花の香りも。透子は一度ゆっくりと呼吸してから、心配げにしている唐乃に頭を振った。
「何でもないの。あまりに人が多いから、少しぼうっとしてしまったみたい」
「さようでございますか? 驚いてしまいましたよ、突然動かなくなってしまわれるのですもの。けれども確かに、まこと人の多いこと。おまけに随分ごみごみ、ざわざわとして……この唐乃も京の生まれでございますけれど、このように民草の群れるところは近づいたこともございませんでした。わたくしが暮らしておりましたところは、もっと静かで、こう、みやびやかな風情が漂って……」
「ところで唐乃」
「なんでございますか宮様」
「何度も言っているけれど、宮様と呼ぶのはやめて。今は椿丸よ」
 透子は腰に両手を当てて胸を張り、自分の出立ちを強調した。紅と白の菊綴をつけた萌黄色の水干に、丈長で括った下げ髪。普段のずるずると裾が長くて重たい衣装に比べると、この変装は信じられないほど身軽に動けるので透子は大変気に入っているのだが、旅装の壺装束に藤色の袿を被いた唐乃はむっつりと渋面になった。
「ええ、ええ、まことにお似合いでございますよ。宮様はお顔だちがお父君によく似て凛としておいででございますから、そんなお姿をされますと、どこからどう見てもはしっこそうな男童でございます。とくにその下げ髪。子馬のしっぽのように揺れて、まあ愛らしいこと──まさか変装のために、御髪まで切ってしまわれるなんてっ!」
「まだ髪のことを怒っているの? ちょっとしつこいわ、唐乃」
「ええ、唐乃はしつこうございます、スッポンも唐乃にかかればまっ青でございます。髪は女の命。ましてや宮様のごとき高貴なお方の御髪ともなれば、これは国の宝にも等しきもの。それを! あんなにバッサリと! おお、思い出したらまた涙が……」
「唐乃、髪はまた伸びるのよ? 爪と同じ。そのうち元通りになるのだから、そんなに騒ぎ立てなくてもよいじゃない。それにこの頭、とても軽くて、耳もよく聞こえて、気持ちがいいの。唐乃も試してみたらどう?」
「とんでもない! 女が髪を切るなど、裸になるも同然でございます!」
 唐乃の野太い声はよく響き、その声で裸などと言うものだから、周囲の人々がぎょっとふり向いた。あわてて透子は、豊かな肉におおわれた唐乃の背中を押した。
「さあ母上、わたしたちはこんなところで立ち話をするために京まで来たのではありません。まいりましょう。あの人を捜さなくては」
「しかし、み──椿丸殿、どうなさるおつもりなのです? 京は広く、人はあふれんばかりなのでございますよ。その中から一体どうやってあの男を」
 肩ごしにふり向くと唐乃の顎がぷっくり二重になる。透子はにっこりとした。
「決まっているじゃない、人に訊くのよ。楠木正儀の住まいはどこか、って」
「あの男を見つけるまでそれをくり返すと!?」
「そう、正儀に会えるまで。そしてもし、どうしても見つからなかったら、足利将軍邸へ行ってあの人の居場所を訊きましょう。幕府の者のことは幕府で必ずわかるはずよ」
「幕府ですって!? な、な、な、何をおっしゃいますか宮様!」
「椿丸だったら」
「幕府など、トンボにとっての蜘蛛の巣、小兎にとっての虎の穴のようなものでございますよ! そこへ行くなどと、いいえ、いいえ! 正気の沙汰ではございません!」
「虎の穴に入るとしても、兎だと知られなければいいのよ。大丈夫、こうして変装しているのだから、将軍邸の前に立っただけで捕まるようなことはないわ。……たぶん」
「たぶんでは嫌でございます! 唐乃は嫌でございます!」
「どうしても見つからなかったら、と言ったじゃない。これは最後の手段、本当の奥の手よ。わたしだって幕府などには近寄りたくもないもの。そうしなくてもよいように、正儀を捜しましょう。さあ母上、まいりますよ!」
 吉野山の麓の里から透子と唐乃を荷車に乗せてきてくれた親切な商人の話によると、現在の都は『上京』と『下京』に分かれているのだそうだ。
 当初、都は西の右京と、東の左京に分けられていたが、湿地の多い右京は早くにさびれ、左京に都の中心が移った。さらにだんだんと左京の町は南北にのびていき、北半分を上京、南半分を下京と呼ぶようになったという。
 上京には皇居、幕府、公家や武家の屋敷が集まり、もう一方の下京は市が開かれ店々が軒をつらねる民草の町だ。正直なところ透子は、今自分が歩いているのが下京のどこかであるということくらいしかわかっていないが、おそらく捜し人は上京かそれに近いところに屋敷を構えているはずだった。これだけ──本当に目がチカチカしてしまうほど──たくさんの人がいるのだから、その中の一人くらいは居所を知っているだろう。ということで通子はさっそく、
「失礼。楠木正儀の屋敷はどこかご存じではありませんか?」
 と目についた人にどんどん訊ねてみたが、結果は予想に反してかんばしくなかった。
 反物屋の店主も、武具屋の店主も、漬物屋の店主も「失礼」と声をかけたところまでは愛想よくにこにことしているのだが、透子が「楠木正儀の……」と続けた途端に「客じゃないのか」というようにむすっとして「知りませんな」「存じませんな」「すんませんな」と追い払われてしまうのだ。透子は腹が立つとか傷つくとかいうより、びっくりした。こんなふうに邪険にされたことは、今まで一度もなかったのだ。
「物を買わずに訊ねるからだめなのかしら。けれども金子はすべて盗られてしまったものね……」
「ああっ、そういえば無一文の身で、今宵はどうして夜露をしのげばよいのか」
 今度は通行人に声をかけてみたが、京の人々はとにかく歩くのが速く、訊ねる内容を言い切る前に通り過ぎられてしまうこともしばしばだった。やっと足を止めてくれた幾人かも、知らないなと首をひねるばかり。そうこうしているうちにまた通り雨がやってきたので、透子はおなかを揺らして必死に足を動かす唐乃の手を引き、道端の柳の木陰に走りこんだ。歩き続けの足が痛かった。
「……宮様、やはり無理なのですわ。吉野へ帰りましょう。ね、そういたしましょう」
「ここまで来たのに何もせずに帰ることなんてできないわ」
「今ごろ吉野では大騒ぎでございますよ。主上も、きっと宮様の身を案じて胸を痛めておいでですよ」
「大丈夫よ、きちんと文を残してきたもの。それにお兄様はご心配なさったりしない。わたしを嫌っておいでのこと、おまえも知っているでしょう。あるいは歌合に忙しくて、わたしがいなくなったことにも気づいていらっしゃらないかもしれないわ」
 兄の寛成と、昨年に信濃から帰った伯父宮を中心にして座を囲み、なごやかに歌を詠み交わす廷臣たちの姿を思い出すと、苛立ちがぶり返した。あの人たちはもしかして、歌が敵を倒したり、何かを救うとでも思っているのだろうか。そうして優雅に座って待っていれば、いつか誰かがどうにかしてくれるとでも?
「またそのようなことをおっしゃって──主上が宮様に厳しくなさるのは、お父君から宮様を託されたがゆえにございましょう。主上のおっしゃることは、すべてもっともだと唐乃は思いますよ。宮様は朝議を覗き見なさったりしてはいけませんし、みだりに出歩かず御簾の内でおしとやかになさるべきですし、歴史や戦よりも歌や楽などにご興味を持たれるべきですし、このように行宮を抜け出すなどもっての外ですし……」
「やめて、唐乃。今はそれどころではないの。正儀を捜さなくては」
「その楠木のことも、幾度も申し上げますが、唐乃は反対でございます。あれは主上を裏切り奉った謀叛人でございますよ。もしもあの男に会うために出奔したなどと主上がお知りになってしまわれたら、宮様のお立場は」
「──もう、ぐちゃぐちゃ言わないで! とにかく正儀に会うまでわたしは決して帰らないと決めたの。どうしても帰りたいのなら、唐乃ひとりで帰りなさい!」
 くどくどとした物言いに苛立って声を荒らげてしまい、はっと後悔した。けれど遅かった。かなしげに眉尻を下げた唐乃は、ふくよかな体をきゅっとすぼめて顔をふせ、それきり口をつぐんでしまった。
 透子が赤子の時から十三歳になる今まで、ずっとそばにいてくれた乳母だ。今度のことも、泣いて、すがって、猛反対して、それでも透子が意を曲げないのを見ると「宮様をお一人にできるわけがないではございませんか!」とついて来てくれた。唐乃がこの大きな体でずっと隣にいてくれたから、吉野を出てからの困難な道のりも怖気づかずに歩いてこられたのだ。それなのに、ひとりで戻れだなんて。あとで咎めを受けることも覚悟して、唐乃はここにいてくれるのに。
 短い雨が上がり、また町を歩き出しても、どちらも口を開かなかった。さっきはごめんなさいと言ってしまえばいいのに、唐乃がどんなに気持ちを害しているかと思うと言えなかった。声をかけた人に無視されることも、さっきまでは仕方がないと流すことができたのに、今はひどく心にこたえる。これまで挫けることのなかった気持ちが不安にゆらぎ始め、透子はきゅっと手を握りしめた。
 こんなことで、正儀に会えるのだろうか。会えなければ──どうしたらいいだろう。
「今度また観阿弥の舞台があるそうだ」
「そりゃ見に行かんとな」
 店先で立ち話をする男二人のそばを通りすぎた直後、透子は足を止めた。
「観阿弥とは、猿楽師の観阿弥のことですか!? 観阿弥は京にいるのですか!?」
 いきなりつかみかからんばかりの勢いで割りこんだ透子に、男たちはぎょっとした。
「猿楽師でない観阿弥はいないだろうな……知らないってことは坊主、京の人間じゃないな? 去年、今熊野の勧進猿楽に観阿弥ひきいる観世座が大和から招かれて、これをいたくお気に召した公方様が、観阿弥に京の屋敷を賜ったんだよ」
「公方……足利義満が?」
「今じゃ観阿弥は当代一の猿楽の名人と大評判。観阿弥のせがれも公方様のご寵愛を受けて、父子で御所に出仕してるって話だ。流れの芸人がたいした出世だな」
「義満が観阿弥に与えたという屋敷はどこにあるのでしょう。ご存じですかっ?」
「おいおい坊ちゃん、いかんよ、公方様のことを呼び捨てにしちゃあ……!」
「なんだ、観世屋敷へ行きたいのかい?」
 通りすがりの若い男が、ひょいと話に加わってきた。身なりは質素だがさわやかな顔だちをしており、目尻の笑いじわが何とも人が好さそうだ。
「俺は扇やら何やらの小道具を作ってる者でさ、観阿弥さんには贔屓にしてもらってるんだ。ちょうど今もお宅にうかがうところだけども、坊ちゃんも一緒に来るかい?」
「よろしいのですかっ?」
「いいさ、もちろん。もともと行くところに連れが増えるだけだもの」
 なんと親切な人だろう。きっと今までは、たまたま機嫌の悪い人に声をかけてしまっただけなのだ。「今、母をつれてきます!」と透子は急いで唐乃のもとへ駆け戻った。
「から──母上! 見つかりましたよ、まいりましょう!」
「え、楠木が見つかったのですかっ?」
「違うわ、見つかったのは観阿弥。猿楽の役者なの」
「はあ……? 猿楽をごらんになりに行かれるのですか?」
「ううん、けれど観阿弥ならきっと正儀に会わせてくれるはずよ」
 とまどった様子で目をパチパチさせる唐乃を引っぱり、透子は急ぎ足で歩き出した。
「宮様、速うございます……!」と後ろで唐乃がぜえぜえ言ったが、気持ちが逸って足を緩めることはできなかった。やっと捜し人につながる手がかりを得たのだ。
 透子は胸がはずむような気持ちで足を動かした。
 そして人買いに捕まった。

トップページへ戻る