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監査役 野崎修平
横幕智裕  周 良貨/能田 茂 原作

   プロローグ

 一九九八年、東京──。
「おはようございます」
 巣鴨の商店街に声が響く。
 あおぞら銀行巣鴨支店の支店長・野崎修平は、いつものように商店街を歩いていた。
「支店長さん、今日も元気だね」
 豆腐屋の店主が野崎に声をかける。
「どうも。女将さんの風邪治った?」
 野崎は止まって世間話を始めた。
「すっかりよくなってさ、もう配達行ってるよ。いつまでも寝てられないからな、ウチらみたいな小さいトコは。銀行さんと違って公的資金なんて入れてもらえねえし」
「手厳しいですね」
 野崎は思わず頭を掻いた。
 一九九〇年、『土地関連融資の総量規制』が行われたのを契機に、土地取引は縮小、地価下落と共に景気も急速に冷え込み始めた。
 バブル経済の崩壊──。
 株価や地価の下落に歯止めがかからず、日本経済はデフレが進行、金融機関は多額の不良債権を抱えることとなった。
 不良債権とは「回収不能、または困難になった貸付金」のこと。金を貸したものの、その相手が破綻、あるいは事実上破綻状態にあり、回収できなくなってしまったものをいう。バブルの時、銀行は不動産などを担保に過剰なまでの融資を行ってきた。しかし、バブルの崩壊で株価や地価が下落し、貸付金が回収できなくなってしまったのだ。
 ダメージを受けた銀行は、今度は「貸し渋り」に奔走した。突然梯子を外された形になった多くの企業は、たちまち経営が立ち行かなくなり、日本経済はますます混迷の度合いを深めていった。
 一九九七年、「三洋証券」「北海道拓殖銀行」「山一證券」が相次いで経営破綻。大手金融機関の破綻・廃業に、日本経済界は激しく動揺した。政府はこれ以上の銀行の破綻を防ぐため、公的資金の投入を決定した。
 一般の企業は銀行からお金を借りて経営を行う。銀行が破綻してしまうと、金を貸してくれるところがなくなり多くの企業がダメージを受けてしまい、経済にとんでもなく大きな悪影響を与えることになるからというのが大きな理由だった。
 公的資金とは、国民が納めている税金である。経営に失敗した銀行を、なぜ税金で助けなければならないのか? と多くの国民は疑問を持った。一般の企業なら、まずは自分の会社の現金化できる資産は売ってしまって何とかやり繰りをしようとするが、銀行はそうした努力もせず公的資金が投入されたことに、怒りを覚えた国民も多かった。
 一九九八年三月から二〇〇三年六月までに、十五にも上る大手銀行に、総額十二兆三千八百九億円の公的資金が注入されることになる。
 税金で助けてもらいながら自浄努力をしない──。
 国民の銀行を見る目は厳しくなっていた。
「支店長はよくやってくれているし信頼しているけどさ、俺、銀行には腹が立ってんだよね」
 豆腐屋の店主は言った。
 野崎は当然だと思っていた。
 支店を預かっていると、多くの小さな取引先との繋がりが生まれる。誰もが懸命に仕事をし、懸命に生きていた。本店の命令でいわゆる「貸し剥がし」を行わねばならず、呪詛の言葉をぶつけられたことも一度や二度ではない。
「銀行は晴れの日にムリヤリ傘を貸し、雨が降ったら取り上げる」
 誰かが言ったこの言葉が、支店勤務の野崎は痛いほど身に染みていた。
「今、銀行の信用は地に落ちている。今、何とかしなければ、銀行は二度と国民の信頼を回復することはできないかもしれない」
 野崎は痛いほどそう感じていた。

 支店に戻ると、副支店長の木佐が野崎のもとに駆け寄ってきた。
「阿部部長が来ています」
 木佐は野崎に耳打ちするように声を潜めて言った。聞かれてまずいことでもないのに耳打ちする必要はないだろう、と野崎は思ったが口には出さずに自席に向かった。
 あおぞら銀行支店統括第四部長の阿部龍平は、新宿区、文京区、豊島区、北区、練馬区の各支店を統括している。年に一度、本店で行われる支店長会議の時に顔を合わせる程度で、部長自ら支店に来るなど初めてのことだった。野崎はそこはかとなく嫌な予感を抱いた。
「やあ、野崎さん」
 阿部は野崎に言った。
「久しぶりです、部長」
「ちょっと出ましょうか」
 きっと支店内では話しにくいことなのだろう。野崎はますます嫌な予感を覚えた。

 近くの古い喫茶店の隅で、野崎は阿部と向かい合った。
「お元気そうですね」
 阿部の言葉に野崎は頷く。
「支店は私の性格に合っているようです」
「あなたらしい」
 阿部は頬を上げて笑顔を作ったが、その目は笑っていない。
 野崎と阿部は知らない仲ではなかった。最近こそほとんど連絡はなかったが、以前は毎日顔を合わせていた。阿部は野崎の元部下で、今は上司という関係だった。同じ部だった時は一緒にいくつもの仕事をし、阿部が結婚した時には二次会のパーティーを仕切ったのが野崎だった。
「今日は悪い知らせを持ってきました」
 阿部はコーヒーを飲んで言った。もったいぶった言い回しは昔と変わっていない。
「野崎さんの支店ね、閉鎖されます」
 阿部は表情も変えずに言った。
「えっ? 閉鎖……」
「私も動いたんですがね。上からの圧力には勝てませんでした。このご時世、銀行に対する世間の目は冷たいですからね。少しでも無駄は削減していかないと。ま、これも時代の流れです」
 無駄なら他にたくさんあるじゃないかと言いたい気持ちを、野崎はコーヒーと一緒に飲み込んだ。
「人事からは何も?」
「ええ」
「ダメですよ。もう少し情報のパイプを作っておかないと。野崎さんくらいの歳になると、もうポストも少ないですからね。私から人事に言っておきましょうか?」
「俺のことはいいよ」と野崎は言った。「でも、支店の部下たちは、同待遇でできるだけ近くの支店に異動させてやってくれないか」
「わかりました。人事にはそう伝えます。……まあ、そういうことなんで、心づもりだけはしておいて下さい」
 それだけ言うと、阿部は伝票を持って席を立った。
「ここは俺が」
 野崎は言ったが、阿部は「いいですよ。今は私の方が高給取りなんだから」と言ってレジヘ向かった。

 業務を終えた野崎は帰宅の途についた。
 電車の窓からいつもの風景を眺めながらこれからのことを考える。支店がなくなると自分はどうなるのか。銀行にこのまま残ることはできるのか。取引先はどうなるのか。不安ばかりがこみ上げた。これまで二十五年、野崎はあおぞら銀行一筋だった。色々なことがあったが、自分なりに精一杯やってきたという自負があった。
 あおぞら銀行に入ったのは父の影響が大きかった。野崎の父もあおぞらマンだった。北海道の支店で、あおぞらマンとしての誇りを持って働いていた。
「銀行が日本の成長を支えているんだ」
 父はよくそう言っていた。野崎はそんな父の背中に憧れて育った。
 その父も、野崎が大学二年生の時に胃がんで亡くなった。父に憧れていた野崎があおぞら銀行に入行したのは自然な成り行きだった。
 それから二十五年。今、あおぞら銀行は自分が憧れたものとは程遠い状況に置かれている。
 支店が閉鎖されたら自分もこのまま去ることになるのかもしれない──。野崎の胸にそんな思いが去来した。

 帰宅した野崎が遅い夕食を摂っていると、妻の彩子が「何かあったの?」と言った。
「わかるか?」
「わかりますよ。何年一緒にいると思ってるんですか」
「支店が閉鎖になるんだ。支店の統廃合は最近ではよくあることだ。俺は歳からいっても銀行に残るのは難しいかもしれない。出向だろうな」
「そうですか」
 彩子はダイニングテーブルの正面に座ってお茶を淹れた。
「嫌だったら辞めてもいいんですよ。家のローンも終わったし、私も翻訳の仕事に誘われてますし。退職金をもらって少し休んでから新しい仕事を考えてもいいんじゃないですか?」
「枝理花は高校生だ。これからお金もかかる」
「何とかなりますよ」
 彩子の笑顔を見ていると、野崎は気持ちが軽くなった。
「ありがとう。でも、あおぞら銀行は自分で選んだ会社だ。銀行から、もういらないと言われるまでは銀行で働きたい」
 野崎は微笑んだ。

翌日、野崎はいつものように取引先を回った。
 街中で取引先の人たちに声をかけられると、店舗閉鎖のことが頭に浮かび胸が痛んだ。取引先がどうなるのか心配になる。
 取引先の一つ、丸山工作所へ立ち寄った。
「あんたも変わってるよなあ。今までの支店長は外回りなんてしなかったぜ」
 丸山は笑顔で出迎えた。
「事務所に座っているのは性に合わないから」と野崎は笑った。「景気はどう?」
「悪いね。バブルっていうのか? あれが弾けてからさっぱりだよ」
 丸山はポケットからくしゃくしゃのタバコを取り出して火をつけた。
「誰もが飛びつく安易な儲け仕事より、どこも手を出さない仕事でがんばって利益を上げたいと思ったが、それには最新設備が必要でね。……資金がいるんだが、今はどこも貸してくれない」
「工場、大丈夫ですか?」
「正直、危ないかもしれないな」
 野崎は工場の中を見た。いつもながら掃除の行き届いた工場内に、手入れの行き届いた設備。野崎は改めて丸山の仕事への真摯な取り組みに感心した。
「状況は苦しい。工場の閉鎖も考えてみたが、これは俺が作ってきた道だ。最後までやれる所までやってみてえんだ」
「はい」
 突然、丸山は土下座をした。
「丸山さん……」
「支店長、最後のお願いだ。俺に資金を融資してくれないか?」
「丸山さん、頭を上げて下さい」
「あんたには絶対に迷惑をかけない」
 丸山はますます頭を下げた。
 野崎はそっと手を差し出した。

「丸山工作所に、一千万の追加融資をする」
 支店に戻った野崎が言うと、副支店長の木佐が驚いた声を上げた。
「支店長、正気ですか? 丸山工作所は業績が悪化しています。もう担保もありませんよ」
「無担保で、支店長権限で決裁する」
「し、支店長権限って……」と木佐が上ずった声で言った。
「丸山さんとは長い付き合いだ。危ない時に助けてやる銀行があってもいいんじゃないかな」
「私は反対です! 判は押せません!」
「わかりました。私の決裁印だけ押すことにします」
 木佐は心底ホッとした顔をした。

 そして事件は一週間後に起きた。
 木佐が血相を変えて野崎のもとに走ってくる。
「大変だ! 丸山工作所が不渡りを出した! 倒産するぞ!」
 その声に周囲の行員たちの顔色が変わる。
 野崎は厳しい顔でその声を聞いていた。
 木佐は大声で行員に指示を出す。
「すぐに丸山さんに電話を入れろ! 口座を至急閉めろ! 一切の出金を止めろ!」
 支店内が一気に慌ただしくなる。
 木佐が野崎のもとに走ってきて言った。
「支店長! 丸山工作所が不渡り一号を出しました! 次の不渡りで倒産です!」
「聞こえてます。……残念です」
「残念って……。どうするんですか!? 支店が閉鎖される間際に倒産しそうな会社に融資したなんて、特別背任を疑われますよ!」
 木佐の大声は支店内に響いた。まだ支店の閉鎖を知らされていなかった行員たちが驚きの顔色で野崎を見る。行内に動揺が走るのがハッキリとわかった。
「閉鎖って……、そうなんですか!?」
「支店長、ここ、なくなるんですか?」
 行員たちが口々に訊く。
「みなさん、落ち着いて下さい」
 野崎は立ち上がって行員たちを制した。
「小泉君、すぐに丸山工作所へ行って下さい。仁科さんは丸山工作所の全預貸金残高を取って下さい。社長個人と奥さんの預金もお願いします。木佐副支店長は融資部と支店統括第四部に連絡を取って下さい。原口さん、丸山工作所に発行した手形と小切手帳の残高を調べて下さい」
 野崎の指示を受け、行員たちがテキパキと動き出す。
 その時、窓口の女性行員が野崎の元へ走ってきた。
「支店長! 面会の方が……」
 野崎が視線を移すと、やつれた顔の丸山と妻が立っていた。

 夜、野崎は支店に一人残って丸山工作所の残務処理をしていた。人の気配を感じて振り向くと、支店統括第四部長の阿部が立っていた。
「なかなか見事な処理のしかたですな」
「相変わらず情報が早いね」
 野崎は手を休め、椅子の背に凭れかかった。
「本部では情報が命です。いち早く情報を握り、的確に行動した者のみが生き残れる」
「その能力をお取引先や支店運営のために使ってほしいものだね」
「皮肉ですか」
「いや、支店の最前線で働く者としての切実たる思いだよ」
 阿部が鼻で笑った。表の通りを走る車の音が静かな支店内に響いた。
「どうして丸山工作所に融資したんです?」
「あそこはいい会社なんだ。社長は仕事一筋だし、ウチも積み立てや定期でずいぶんお世話になった。実直で融通はきかないが、筋はキッチリ通してくれる。そんな会社が危なくなったからといって、手の平を返すわけにもいかないだろう。……他の金融機関が回収に転じたために倒産。結局、うちの融資では救えなかったが」
「情実融資ってやつですか」
「そう思われても仕方ない」
「経営の危機に瀕した会社に支店長決裁で無担保一千万融資。しかも会社は一週間後に倒産……。今回、貸した金は戻ってきた。しかし、それはたまたま還ってきたにすぎない。あなたは危ない橋を渡った」
 野崎は答えずに阿部を見た。二人の視線がぶつかり合う。
「あなたは特別背任に問われても仕方のないことをした。銀行員、失格だ」
「そうかもしれないな」と野崎はフッと笑顔を浮かべた。「しかし、私はそんな銀行員でありたいと願っている。銀行はもっと『人』を信用してもいいと思うんだ」
「甘いですよ、野崎さん。もっとご自分の心配をされた方がいいですよ」
 阿部は踵を返し帰ろうとした。その背中に野崎が言った。
「一つだけね、切り札があったんですよ」
 阿部が立ち止まり振り向く。
「丸山さんの娘さん、あおぞら銀行小松川支店の行員なんだ」
「え?」
「支店長会議で会った時、小松川の支店長に彼女が結婚することを教えてもらってね。丸山さんが結婚資金を貯めると言って、新規に口座を作ってくれたと話してくれた」
「じゃ、娘の結婚のための資金を準備していたことも?」
「それが親心でしょう」
「もしもの時はそれで返済するだろうことも?」
「社長はそういう人です」
 阿部はさもおかしそうに薄ら笑いを浮かべた。
「あなたは私より悪人かもしれない」
「正直、悪人だったらもっと楽だろうと思うことはありますね」
 野崎は自嘲気味に言った。

 人事異動の内示が出る日がきた。それで支店閉鎖が正式に通達されるはずだった。
 野崎はいつものように日常業務をしていた。
 副支店長の木佐はソワソワとFAXの前を行ったり来たりしている。
 FAXが紙を吐き出した。木佐がいち早くその紙を見る。そして驚きの顔で野崎の許へ走ってきた。
「支店長! 人事異動のFAX! 大変です!」
「慌てなくても大丈夫です。みんなは同じ待遇のまま近くの支店に異動できるように頼んでありますから。……みなさん、ご苦労様でした」
「違いますよ! 支店長ですよ!」
「え?」
 野崎は木佐の差し出したFAXを見た。

 野崎修平 巣鴨支店長の任を解き、監査役を命ずる

「監査役!? 俺が!?」
野崎は思わず声を上げた。

 商法二七四条 ①監査役ハ取締役ノ職務ノ執行ヲ監査ス。
②監査役ハ何時ニテモ取締役及支配人其ノ他ノ使用人ニ対シ営業ノ報告ヲ求メ又ハ会社ノ業務及財産ノ状況ヲ調査スルコトヲ得。

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