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岳飛伝 十六
戎旌の章
北方謙三

   李師の火

     一

 茸を干したものを、ひと晩水に浸け、滲み出してきた汁を煮つめる。それは一日分で、数回に分け、湯で割って飲む。
 さまざまな薬湯を飲んだが、それが最も効くと秦檜は感じていた。
 茸は三種類で、昨年の秋に大量に採ったものを、高い床の倉に置いてある。籠で二十ほどだという。
 寝ついているわけではない。宰相府の執務室では、桂妍がそれを作るし、万波亭では王妙が出す。秦檜は茶を飲むように、息を吹きかけながら啜るのである。
 もともとは、桂妍の故郷の山で、やっていることだったらしい。木の根に生えているような茸ではなく、崖に育って、捜すのも採るのも命がけだという。
 戦に、進展はなかった。大きなところでは二カ所、国内に敵がいる。全体から見ると点のような病巣だが、見えない病巣はじわりと全国に拡がっている。
 程雲は、地方軍の編制をやり直し、守備だけでなく、攻撃もできる軍に変えようとしていた。それができれば、兵力で敵を圧倒するだけでなく、叛乱をひとつずつ、徹底して叩き潰せる。
 叛乱の対処をきちんとして、戦に臨もうという程雲のやり方を、秦檜は認めていた。
 岳飛を、討ちもらした。きわどいところで討ちもらし、一度は、生死の境まで追いこんだ。そこまで行くと、運としか言いようがない。
 程雲は腰を据えて構え直し、もう一度、自分の運を賭ければいいのだ。
 茸の汁を啜っていると、臨安府で桐和と細かい話し合いをするために、雷州から来ていた薛崇が、汗を拭いながら現われた。まだ、暑い季節ではない。多分、大量の食い物を腹に詰めこんだのだ。
「御報告だけ、よろしいでしょうか」
「言ってみよ」
「一応の、細い道筋はできあがりました。兵站部隊が遣えるそうです。輜重十輛に、護衛が二百。それが十隊です」
「兵站部隊の許可は、はじめから出してある」
「雷州までの道筋が、確保できたということであります、宰相。いくつかの城郭に岳飛軍が入っていて、戦時となるとそれが邪魔だったのです」
 絹織物の移送は、戦時でも途絶えさせたくなかった。そのための兵站部隊だが、轟交賈の二倍以上の費用がかかる。そして、兵站部隊さえ出動すればいいという、単純なものでもないらしい。
 秦檜はただ、絹織物が作られ、雷州に集まり、それがどこかへ運ばれていく、ということだけを重視した。細かいことは、部下がやればいいのだ。
 雷州の守備は、万全のはずだった。それに、産物を襲ったりはしないという暗黙の了解が、いまのところ梁山泊との間にはあった。
 夏悦の船隊は、南にいる。それがいずれ象の河に達すれば、甘蔗園を襲うということになる。その時に、了解は崩れるだろう。
 いや、夏悦の船隊の四十艘ほどは、日本にむかった。それを知った梁山泊水軍が、船隊を止めようとする。そこで行われる海戦で、梁山泊水軍の船は、かなり減らせるはずだった。
 しかし四十艘は、消息を断っている。一艘も、戻ってきていないのだ。
 そこで、自分は、誤りを犯したのか。昆布を押さえるために船隊を派遣するというのは、自分の命令で、海戦を覚悟しないかぎり無理だ、と夏悦は言った。
 昆布が欲しい。甘蔗糖も欲しい。そして、絹織物はすでにある。
 南宋は、物産の国であるべきだった。その三つを手にすれば、交易では絶対的な力を持てる。それは、轟交賈を自らの懐にとりこむことでもあった。
 しかし、見果てぬ夢なのか。物産と物流を手にするということは、ほとんどすべてを手に入れるということではないか。
 なにか、欲望のようなものが、夏の雲のように心に湧きあがってきたのは、自らが病を得ていると自覚してからだった。それは、死を自覚してからでもある。
「薛崇、民はしばらく苦しい思いをするだろう。しかし、戦はいつまでも続かぬ。続けられるわけがない。疲弊だけが残り、勝者などおるまいよ」
「しかし、宰相」
「そうだ。負けはせぬが、勝てもせぬ。そういう戦なのだ。勝負は、戦のあとということになる。富が、優劣を決めるのだ」
「言われている意味は、わかるような気がいたします。それでも、私は勝たなければならない、と思います」
「そうだな」
 秦檜は、茸の汁を啜った。
 銀は蓄えるものではなく、生み出すものだ。それができているかどうかが、戦後の勝負になるのだ。桐和も薛崇も、そのために働いている。
 戦に勝者などいないと、最初に見きわめたのは、梁山泊ではないのだろうか。
 旧宋と、闘い続けてきた。旧宋を倒しても、国らしい国を作ろうとしなかった。ある地域を、自分たちの領分のようにして、交易の手を方々にのばした。
 戦に勝者などいないという考えどころか、これまでの国の姿など、形骸にすぎない、という考えに到ったのではないのか。動きを見ていると、これと指させる国に、大きな関心を持っているとは思えないのだ。
 それなら自分は、ただ形骸である国を、守ろうとしているだけなのか。
 なにもかも欲しい。そう思いながら、こういうことも考えてしまう。自分が、早晩死ぬと思うようになってからは、常にそうだった。
「桐和殿との話し合いで、宰相にお願いしなければならないことが出てきました」
 秦檜は、軽く頷いた。
「備蓄してある米を、ある程度出していただきたいのです」
 米を買い集めていたのは、間違いなく梁山泊だろう。その米を戦の手段のひとつとして遣わせないためには、こちらも米を持っていなければならない。
 黄広は、いまだ大規模な隠匿を摘発していない。よほど巧妙な隠し方をしてあるのだろう。しかし、岳飛にも秦容にも、兵站として米は届いている。
 軍の兵糧は、地方軍を含めて充分だった。備荒用としての米も、かなりある。
「隠匿された米に対抗するために、備蓄の米が必要であることは、わかっておりますが、絹の生産を絶やさないためには、銭ではなく米で払ってやらなくてはならない情況が、来ると思います。桑畠を持っている者をはじめとして、織物を織る者たちまで、相当の人数になるのです」
「わかった」
 秦檜は、短く言った。
 物流は、すでに半分近く止まっている。やがて、米はあるかなきかになるだろう。
「岳飛のやつ」
 呟いた。岳飛が、そこまで戦略を考えてやるとは思えない。うまく、梁山泊の戦略に乗っているのだ。
 小賢しい、という思いが秦檜にはあった。しかしそういう運が、岳飛にはいつもある。
「宰相府に、備蓄米を担当している者たちがいる。知っているな?」
「はい。お願いしてみようと思います」
「命じればいいことだ。おまえは、雷州の知府(知事)であると同時に、宮殿には大臣の席もあるのだ」
 異例の扱いだが、秦檜はそういうことをためらわなかった。力のある者には、それを発揮する場所を与えなければならない。
「ありがとうございます。桐和殿も私も、お願いすべきかどうか、迷ったのですが」
 拝礼して、薛崇が出ていった。
 茸の汁が、冷めている。秦檜は桂妍を呼び、新しいものを運ばせた。冷めると、口に粘りついてくるような感じがある。
「参内するぞ」
 帝に会う日だった。このところ、三日に一度になっていた。廷臣はみんな、秦檜の息のかかった者で揃えてあり、帝の不安はその者たちが鎮める。
 茸の汁を飲み終えると、十名ほどの供回りで、秦檜は玄黄殿に行った。
 ここには、衛兵の姿は入口にしかない。最も奥の部屋が、帝の起居する部屋で、腐れ者にしてある帝には、後宮など必要ないのだった。
 しん太子が、食事の部屋にいた。ともに昼食をとったのだろう。帝は、上機嫌のように見えた。
 ひと通りの、挨拶をした。
 しん太子は、秦檜を見て笑っている。やはり、機嫌はいいのだ。東宮の中に、後宮に相当するものを作ってやった。女の躰を愉しむことをすぐに覚え、東宮にいる時の半分は、そこに籠っていた。
「陛下、遠くではございますが、小さな戦が続いております」
「何度、同じことを言うのだ、秦檜。朕は、程雲総帥を信じている」
「私もです」
 しん太子が、白い歯を見せて笑った。
「その対処に忙しく、三日に一度の拝謁しかできぬ私を、どうかお許しくださいますよう、お願い申しあげます」
「ひどく、お顔の色が悪いですよ、宰相」
 しん太子が言う。
「殿下、私も歳でございまして」
 しん太子に会うのは、ふた月ぶりぐらいだった。うるさいことは、あまり言わない。むしろ、周囲に労りの言葉をかけたりするのを、忘れないようだ。幼少から、帝王学を身につけさせられた。いまでも、学問の師が四名つけてあり、武術の師が二名いる。その六名には、どれほど厳しくしてもいい、と秦檜は言っていた。
 遊び相手の側近は、選び抜いていた。しん太子自身が、価値観を作っていく時に、意外に遊びなどは影響するものだ。
 やがて後宮になるだろう、女たちのいる館は、かつての後宮に準じているので、男の出入りはできない。
 秦檜が、あまり危惧を抱かず、やがて後宮に移る館を作ってやったのは、もともとしん太子は後宮で育っているからだ。後宮の中に青蓮寺を置いていたようなものなので、しんを男ということにせずに、育てることも難しくなかった。
 いまは、女官を選り抜いてある。三十二名で、最年長が四十一歳、最年少が十三歳である。
 十八歳と十七歳の女四人に、しんは手をつけていた。その女たちは、それぞれに部屋を持っている。
 その館の中のことは、桂妍が細かく調べあげていた。実際に女であるし、醜さが意外に警戒心を抱かせない。下女たちが嫌がる仕事は、大抵は桂妍とその部下三名がやる。
「絹織物が、いまこの国の重要な産物になっております。国外からの引き合いが多く、万人が見てすぐれた柄は、相当な高値で取引されております」
「知っているが、朕がいままとっているものも、その織物であろう」
「陛下は、お気に召したものを、申しつけてくださればいいのです。実は、高級なものばかりを織る者たちがおりまして、絹も糸から選び抜いてあり、染料などもこれ以上にないものを遣っております」
「それで?」
「できれば、陛下のお手なる絵を、織物にしたいのです。それは、帝王錦と呼ばれて、わが国の織物の頂点にあるものになります」
「帝王錦であると」
「はい。絵は、正殿の一室の壁に飾られます。陛下が、飾ってよいとお許しになったものだけですが。それをもとにした織物が、わずかだがあり、望めば買うことができます。正殿で拝見できる絵ですから、国外の使節などがこぞって望むだろう、と私は思うのですが。帝王錦でありますので、わが国に対する尊崇と、陛下への恐懼の念がある者だけが、購うことができます」
「悪くないな。朕は、長く絵筆が友であった。下手ではない、と絵師たちも言う」
「私も、そう思います」
「売れれば、国庫を潤すことにもなる。絵が、手すさびではなくなるということだ」
「まことそのような道があるのだと、私はついこの間、思い到りました」
「遅いが、思いつかないよりましである。朕は、やってみたい」
「かしこまりました。織物にいたしますので、かぎられた色しか遣えないことも、あるやもしれませんが」
「秦檜、絵とはそういうものだ。どれほどの顔料を遣おうと、描こうとするものを同じようには写せぬ。つまりは、いつもかぎられたものの中で、描いているのだ。かぎられたものが狭くなれば、それだけ自分が見えてくる。苦しむであろうが、愉しい苦しみである。朕は、久しぶりに気力が満ちてきた」
 絵は、帝が気を入れているもののひとつだった。女に関心は持てない。そういう時、秦檜が一番恐れたのは、戦に関心を持ち過ぎることだった。
 旧宋の童貫元帥は、そういう男だったのだろう。宦官であってもなお、戦をなすことで心の雄々しさは失おうとしなかった。
 帝は、さまざまなことに手を出しているが、絵だけはずっと続いているのだ。
「宰相、私も絵を学びたい」
 しん太子が言った。
「殿下には、学ばなければならないことが、多くございます。それを減らすことは、できないのです」
「増やすことは、できるのであろう?」
「それは、殿下さえよいと仰せならば、いくらでも」
「私も、絵を学びたい。十年二十年で、陛下の境地に近づけるのかはわからないが、私も学びたい。そして、帝王錦を受け継げるだけの技を会得したい」
「なまやさしいことでは、ございません、殿下。耐え抜くと仰せならば、絵師を選んでおきます。東宮に、新しい画室も建てましょう」
「おう、そうしてやってくれ」
 帝が言った。しん太子は、顔を赤らめて、頭を下げた。しかし、眼は笑っていない。
 本能的に、身を守ろうとしている。自分に、支えがなにもないことを、よく知っているのだ。しかし、この国の太子である。いずれは、政事をなすかもしれない。
 しん太子と、眼が合った。
 不意に、秦檜は視界が暗くなるのを感じた。
 似ている。李富に、似ている。李師師に、似ている。二人の、狂った欲望が、そのままここにあるのか。しん太子の姿が、そうなのか。
「帝王錦か。朕は気に入った」
 秦檜は、一度頭を下げた。
 李師師は、若いころから死ぬまで、ほとんど容姿は変らなかった。昔、はじめて会った時、ほんとうに若かったのかどうかも、わからない。李富との間に子を生したことも、秦檜には信じ難いことだった。
 はじめから、李師師を、化物を見るような眼で、見ていただろうか。はじめて会った時は、その妖艶さに、眩暈がしそうだった。同時に、激しい気後れがあったかもしれない。眼にしたことがない類いの、女だったのだ。王妙も、あでやかさとは遠い、地味な女である。
 敵対することになったのは、しん太子をめぐってだろう。徐々に徐々に李師師の力を削ぎ、その財力も弱らせた。
 青蓮寺が以前ほど機能しなくなったのは、政事から陰謀を排除する秦檜のやり方で、働きどころが少なくなったことがある。同時に、蓄えた銀が、尽きてきた。
 李師師の死については、報告を受けただけである。
 秦檜は、いかなる想像もせず、ただその死を心に刻みこんだ。
 しん太子を見て、なぜいまごろ李師師を思い出すのか。
 人に対して、異常な鋭敏さを持っている王妙が、李師師を見て瘧のようにふるえた。それほど、不吉な気配を持っている女だった。その不吉さは、底の知れない不気味なものに彩られている、と秦檜はあの時思った。
 李師師との対立で、女の武器などを遣ってきたとしたら、自分はどうしたか。
 その言葉を、ふと思い浮かべるだけである。
 対立は、もっと厳しく、長いものだった。
「いつから、はじめるのだ、秦檜?」
「陛下は、すでに絵を描いておられます。織物に通じた者、染色に通じた者に、一度、御下問をいただけますか?」
「そうしよう」
 帝が描くのは、草花や蝶などで、くっきりした図柄である。絹糸さえうまく染めれば、織物としては難しくないだろう。
 しばらくは、帝王錦が帝を虜にする。それは秦檜にとっては、都合のいいことだった。戦は、帝の心の外で行われる。
「私は、墨絵などの濃淡が織物に出せるのか、ちょっと不安なのだが」
 しん太子が言った。その声が、李富のものにも李師師のものにも聞え、秦檜の視界は再び暗くなった。
「それも、織物に関る者に、御下問ください、殿下」
 それだけ言い、秦檜は拝礼して、玄黄殿の一室から退出した。

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