書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
浮雲心霊奇譚 妖刀の理
神永 学

   辻斬の理

   序

 暗い夜だった──。
 厚い雲が月を覆い隠し、提灯の灯りがなければ、足許すら見えないほどだ。
 萩原伊織は、暗闇から逃げるように家路を急いでいた。
「強がっていても、夜道は恐ろしいか?」
 提灯を持って隣を歩く、兄の新太郎が茶化したような口調で言った。
「怖くなどありません」
 伊織が憤然として言うと、新太郎はこの暗がりに似合わぬ、明るい笑みを浮かべた。
「以前は、一人で厠にも行けなかったではないか。幽霊が怖いと、よく泣いていた」
 確かにそういうことはあったが、それは伊織が幼子であった時分のことだ。
「私は、もう子どもではありません」
「そうだったな。真に恐ろしいのは、幽霊などより人の方だな」
 新太郎が、感慨深げに言う。
 伊織も、それには同感だった。浦賀に黒船が来航してからというもの、攘夷だなんだと何かと物騒だ。
 そればかりか、今歩いている玉川上水沿いで、辻斬が出たという話も聞いた。
「用心しなければなりませんね」
「そうだな。しかし、相手が人であるなら、伊織がいれば安心だ」
 新太郎は、肩をすくめるようにして言った。
「自分の身は、自分で守って下さい。こんな恰好では、逃げるだけで精一杯です」
 確かに伊織は剣術をたしなんでいるが、今は娘らしい着物姿の上に丸腰だ。自由に動けるわけではない。
 それに、仮にも武家の嫡男である新太郎が、妹に守ってもらおうなど、冗談にしても笑えない。
「そういえば……」
 新太郎が、言いかけた言葉を呑み込み、はたと足を止めた。
「どうしました?」
 伊織が訊ねると、新太郎は何かを察したのか、辺りを見回す。
「今、誰かの声がした気がするのだが……」
 新太郎がぽつりと言う。
「人の声ですか?」
 伊織も耳を澄ましてみる。
 しん──っと静まり返っていて、人の声など耳に入って来ない。勘違いではないかと伝えようとしたところで「ぎゃぁ!」と耳をつんざくような悲鳴が響き渡った。
 伊織は、新太郎と顔を見合わせる。
 あの叫びは、ただごとではない。伊織は、新太郎と頷き合うと、悲鳴の聞こえた方に駆け出した。
 四つ角にある古びた家屋の前まで来たところで、思わず足を止めた──。
 そこには、稽古着姿の男が、仰向けに倒れていた。
「如何されましたか? しっかりして下さい!」
 伊織は、慌てて男に駆け寄った。
 左の肩口のあたりを、ばっさりと斬られていて、夥しい量の血が噴き出し、地面に黒い血溜まりを作っていた。
 顔色が青く、唇も紫に変色している。だが、まだ息はあった。
 伊織は手拭いを取り出し、男の傷を塞ぐように押し当てるが、なかなか血は止まらない。
「つじ……き……」
 男は、掠れた声でそう言ったあと、「うっ……」と唸った。そして、それきり動かなくなった。
 騒ぎを聞きつけたのか、家屋の戸が開き、若い男と女が顔を出した。
「何ごとですか?」
 男の方が訊ねて来た。
 ごつごつとした体格で、見上げるような長身の男だった。だが、その体躯に反して、もぞもぞと喋る。
「人が斬られたようです……」
 新太郎が告げる。
「もしかして……」
 女の方が呟くように言った。
 つるんとした瓜実顔で、切れ長の目をした綺麗な女だった。
 女は、ずいっと歩みを進めて、倒れている男の顔を覗き込んだ。その途端、顔からみるみる血の気が引いていく。
「兄上!」
 女は叫び声を上げると、伊織を押し退け、倒れている男にすがりついた。
 どうやら、斬られた男は、この女の兄だったらしい。
「兄上……なぜ、このような……」
 女は、男の胸に顔を埋めると、肩を震わせながら泣いた。
 伊織も新太郎も、ただ黙ってその姿を見つめていることしかできなかった。最初に声をかけて来た男は、俯きぶつぶつと何ごとかを口にしている。
 いったい何を言っているのか──訊ねようとしたところで、武士らしき男が駆け寄って来た。
「お梅さん!」
 その男が女に声をかける。
「辻岡様。兄上が……」
 女は、わずかに顔を上げ、か細い声で告げた。
 その途端、辻岡と呼ばれた男の顔が、みるみる紅潮し、憤怒の表情に変わっていく。そして、怒りに満ちた視線を伊織と新太郎に向ける。
「私どもが悲鳴を聞き、駆けつけたときにはもう……」
 新太郎がそう告げると、辻岡は視線を足許に落とした。
「己──辻斬の仕業だな!」
 辻岡は、ぎりぎりと奥歯を噛み締め、吐き捨てるように言った。
 闇夜に女のすすり泣く声が響く中、伊織は背中に刺すような視線を感じ、はっと振り返った。
 そこには、いつの間にかもう一人男が立っていた──。
 齢、五十になろうかという老人だった。
 鼠色の着物を着流し、解けた髪が肩にかかっていた。
 げっそりと痩せ、皺だらけで、生きているとは思えぬほど青い顔色をしていた。まるで、墓場から這い出してきた死人のようだ。
 そのくせ、落ち窪んだ眼窩から覗く目は、血走り、殺気に満ち満ちていた。
 ──もしかして、この男が辻斬?
 そう思うのと同時に、伊織は背筋が凍りついて動けなくなった。
 立ち合っても勝ち目はない。理屈ではなく、心がそう悟った。それほどまでに、圧倒的で、異様な空気を纏った男だった。
 ──斬られる。
 そう思った刹那、ぽんと肩を叩かれた。新太郎だった。
「どうした?」
「そこに辻斬が……」
 指差したものの、さっきまでそこにいたはずの男は、まるで闇に溶けるように、姿を消していた。
 ──いったいどういうこと?
 伊織は、ただ呆然とすることしかできなかった。

    一

「伊織さんが見たのは、幽霊だったのですか?」
 話を聞き終えた八十八は、向かいに座る伊織に訊ねた。
 廃墟となった神社の傾きかけた社の中である。
 むわっとした熱気が籠もる、薄暗い社の中ということもあり、余計に怖さが際立っているのかもしれない。
「おそらくは──」
 伊織が目を伏せ、膝の上に置いた小さな拳を強く握った。
 剣術を嗜み、負けん気の強い伊織のことだ。居竦んでしまった己自身に対する憤慨も混じっているのだろう。
 そんな姿さえ、愛らしく見えてしまうのが、伊織の不思議なところだ。
「つまりは、幽霊が辻斬をやった──ということですね」
「私は、そう思っています」
 伊織がこくりと頷いた。
 もしそれが本当なら、実に恐ろしい話である。ただ、分からないこともある。
「幽霊が辻斬をするということは、あるのでしょうか?」
 八十八は、社の壁に寄りかかるようにして座っている男に訊ねた。
 憑きもの落としを生業として、この神社に勝手に棲み着いている男だ。
 髷を結わないぼさぼさ頭に、白い着物を着流し、赤い帯を巻いている。肌の色は着物の色よりなお白い。まるで、円山応挙の幽霊画から飛び出して来たような風貌だ。
 そして、何より際立つのが、その双眸だ。
 男の瞳は、深く鮮やかな赤で染まっている。まるで、血の色のようだ。
 男の名は浮雲という。
 本当の名ではない。訊いても教えてくれないので、八十八がそう呼んでいるだけだ。
 浮雲とは、ある事件をきっかけに知り合い、それ以来、何かと縁があり、様々な幽霊がらみの事件を共に体験してきた。
 目の前の伊織と知り合ったのも、幽霊がらみの事件がきっかけだった。そうでなければ、呉服屋の倅である八十八と、武家の娘である伊織が知り合うことなどまずあり得ない。
 返答を待っていたのだが、いつまで経っても、浮雲は口を開かない。
「あの……幽霊が辻斬をしますか?」
 八十八が、もう一度訊ねると、浮雲はこれみよがしにため息を吐いた。
「知らねぇよ」
 浮雲は、低くよく通る声でぶっきらぼうに答える。
「無責任なことを言わないで下さい」
 八十八が文句を言うと、浮雲が舌打ちを返して来た。
「何が無責任だ。他人の根城に上がり込んで、手前勝手に心霊話をしたのは、どこのどいつだ?」
 浮雲が、赤い双眸でぎろりと睨んで来た。
 その迫力に気圧され、八十八は思わず息を呑んだ。しかし、ここで尻込みするわけにはいかない。
「浮雲さんは、憑きもの落としが生業なのですよね。でしたら、これは仕事の話です」
「阿呆が」
 浮雲は、嘲るように言ったあと、手元の瓢の酒を盃に注ぎ、ぐいっと一気に呑み干した。
「何が阿呆なのですか? 私は真っ当なことを言っています」
「どこが真っ当だよ。金が入らなきゃ仕事とは言わねぇんだよ」
 まさにその通りだ。
 おまけに、浮雲は守銭奴だ。善意で人を助けるような男ではない。
「しかし……」
「やったのが、人だろうが幽霊だろうが、辻斬なんぞは、町奉行所に任せておけばいいんだよ」
 浮雲が、八十八の言葉を打ち消した。
「それはそうかもしれませんが、罪もない人が、斬られているんですよ。放っておくことはできませんよ」
 八十八が言いたてると、浮雲は苛立たしげに瓢をドンッと床に置いた。
「そんなものは、おれの知ったこっちゃねぇ」
「もし、幽霊の仕業だったとしたら、次の犠牲者が出てしまいます。何とかしたいとは、思いませんか?」
「思わねぇな」
 浮雲は、大きなあくびをすると、腕を枕に床の上に横になり、目を閉じてしまった。
 どうやら、このまま眠ってしまうつもりらしい。
 こうなってしまったら、梃子でも動かないだろう。浮雲は、そういう男だ。
「あの……」
 口を挟んだのは、伊織だった。
「お金でしたら、私どもでご用意させて頂きます」
 伊織が口にすると、浮雲が「ほう」と言いながら目を開けた。
「なぜ、伊織さんが払うのです?」
 八十八は首を傾げた。
「実は、話にはまだ続きがあるのです──」
「続き──ですか?」
 八十八は、妙な胸騒ぎを覚えた。
「はい。私も辻斬だけでしたら、奉行所に任せておけばよいことだと思います。あの場に現われた幽霊らしき男も、ただの見間違いだろうと気にも留めなかったと思うのですが──」
 伊織は、そこまで言うと視線を浮雲に向けた。興味を惹かれたのか、浮雲はガリガリと頭をかきながら、身体を起こした。

トップページへ戻る