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墓標なき街
逢坂 剛

   プロローグ

 前を行く男の首筋を、じっと見つめる。
 あの盆のくぼに、千枚通しを柄もとおれと突き立てたら、どうなるだろう。細く、鋭くとがった先端が延髄を貫き、男はほとんど苦痛を感じる間もなく、死ぬに違いない。
 それを考えると、自分も首筋がぴりぴりしてくる。
 男が、ふと足の向きを斜めに変え、歩道の建物側に向かった。
 その背中に、かすかな緊張感が漂うのを感じ取って、すばやく手近の立て看板の後ろに、滑り込む。
 看板の陰から、男を見つめた。
 男は、メニューのスタンドをのぞき込みながら、目の隅でそれとなく背後の人通りを、うかがっている。
 もしかすると、尾行の気配を察したのかもしれない。
 だとすれば、いい勘をしているとほめてやりたいところだが、こちらも簡単に見破られるほど、まぬけな駆け出しではない。
 男が背を向け、ふたたび歩き出す。
 背の緊張が解けたのは、気のせいだと思ったからだろう。
 腹の中でほくそ笑み、また男のあとを追い始める。
 高速道路の下にはいった。
 男は歩調を緩め、ゆっくりした足取りで、歩き続ける。ほどなく、信号のある広い交差点に、差しかかった。
 男は、横断歩道を通りの反対側に渡り、また高速道路の方へもどり始めた。
 ときどき、腕時計を眺めるところをみると、尾行の有無を確かめるというよりも、単に時間を調整している、という雰囲気だ。
 高速道路の下にもどると、男は一度足を止めて軽く身繕いをし、左側にあるレストランに、はいって行った。
 三十秒ほど間をおき、あとを追って中にはいる。
 とたんに、うるさいラテン音楽が、耳をついた。
 男は、脱いだコートを椅子の背にかけ、壁際の模造暖炉の前のテーブルに、一人ですわっている。

     1

 首筋に、ふと視線を感じる。
 田丸清明は、さりげなく歩道の建物側に身を寄せて行き、小さな和食屋の前に立った。
 上体をかがめ、店頭のスタンドに載ったメニューを、のぞき込んだ。目の隅で、今歩いて来た背後の歩道を、さりげなくチェックする。
 急いで物陰に隠れる者も、不自然な格好で立ち止まる者もおらず、人の流れは変わらない。
 ほっとして、体の力を緩める。気のせいだったようだ。
 田丸は、ふたたび歩き出した。
 考えてみれば、いまたずさわっている編集の仕事で、あとをつけられるような覚えは、まったくない。かつて、新聞社で修羅場をくぐっていたころでさえ、つけられたことは一度もない、と思う。
 なぜ、急にそんな不安を覚えたのか、分からない。かつての部下を呼び出し、危ない相談を持ちかけようと、肚を決めたせいだろうか。
 きっと、そうに違いない。
 にわかに、古傷が痛むような気がして、ため息をつく。
 春先とはいえ、まだ気温は低い。もう少し、厚手のコートを着てくればよかった、と思いながら田丸は道を急いだ。
 指定した店は、地下鉄の京橋駅と銀座一丁目駅の、どちらから歩いても六、七分の中間距離にある。高速道路の下の、昔なじみのメキシコ料理店だ。約束は、午後十時。
 腕時計を見ると、まだ十分ほど間がある。
 田丸は、意識して歩調を緩めた。
 呼び出したのは自分だが、あまり早く行くのも体裁が悪い。なんといっても、こちらは相手よりだいぶ年長だし、以前は上司でもあったのだ。
 高速道路の下をくぐり、ぶらぶらと京橋の方へ向かう。
 交差点まで来ると、通りを渡って反対側の歩道に上がり、ゆっくりと引き返した。目当ての店は、そちらの側にある。
 高速道路下までもどったとき、ちょうど十時になっていた。
 すぐ左側に、緑の地に赤い字で〈ソンブレロ〉と書かれた、やぼったい電飾看板が見える。
 新聞社に勤めていたころ、打ち上げで部下をよく連れて来たものだが、最近はとんとご無沙汰したきりだ。
 中にはいると、なつかしくもにぎやかなメキシコ音楽が、耳に飛び込んできた。
 店主がラテン音楽の愛好家で、興味のない人間には迷惑なくらい、大きな音を流す癖がある。
 当時、それをうるさいと思わなかったのは、記者連中が音楽に負けないほど野放図に、おしゃべりに熱中したからだ。
 雑然と置かれた、いくつもの木のテーブルのいちばん奥に、模造暖炉のついた壁際の席がある。
 そこが、かつて定席になっていたテーブルだった。今夜も、予約しておいたのだ。
 店主の姿はなく、ウエイターも入れ替わったとみえて、知っている顔がない。
 コートを脱いで、それをいつものように椅子の背にかけ、腰を下ろした。
 ほどなく、だれかがはいって来た気配を感じて、田丸は振り向いた。
 残間龍之輔が、テーブルのあいだを縫いながら、やって来るのが見える。
 そばに来ると、残間は最敬礼をした。
「すみません、お待たせしてしまって。ご無沙汰しています」
 田丸も立ち上がり、挨拶を返す。
「おれもたった今、来たところだ。こちらこそ、忙しいのに急に呼び出したりして、悪かったな」
 残間は、古びたトレンチコートを脱いで、もう一度頭を下げた。
「どういたしまして。お変わりありませんか」
「うん、相変わらずだ」
 おざなりに応じて、向かい合わせに腰を下ろす。
 田丸は続けた。
「おまえさんは今、編集委員をやってるようだな。遊軍のキャップも、社会部のデスクも卒業した、ということか」
 残間は、困ったような笑みを浮かべ、軽く肩を揺すった。
「デスクを素通りして、編集委員になったんです」
「ほう。そういうことも、あるんだな。おまえさんが、ほかの委員と交替で書いてるコラムを、ときどき読ませてもらってるよ。やはり、事件ものが多いようだが」
 社会部上がりだから、いきおいそういう傾向になるのだろう。
「ときどきは、政治ネタや経済ネタも、書きますよ」
 残間が応じたとき、ウエイターがやって来る。
 田丸は、残間に聞いた。
「何を飲む。メキシカン・ビールか」
「いいですね。あのころはいつも、それだった。料理の方は、お任せします。この店は、田丸さんの方が詳しいでしょう。わたしは、最近ずっと来てなかったので」
「おれだって、似たようなものだ。店の連中も、全員若返ったようだしな」
 田丸はウエイターに、ビールとつまみをいくつか頼んだ。
 残間が言う。
「田丸さんは、まだ〈ザ・マン〉の編集長をしてらっしゃいますよね」
「ああ、相変わらずだ。雇われ編集長だから、なんの権限もないがね」
 別に、謙遜でもなんでもなく、事実だった。
 だいぶ前の話だが、田丸は東都ヘラルド新聞社で社会部長を務め、残間はその下で働いていた。
 当時、田丸は民政党の幹事長だった馬渡久平の、陰のブレーンの一人だった。
 民政党は、内部のごたごた続きで国民の支持を失い、新たに結成された保革連合の民主中道連合に、政権を奪われていた。
 しかし、馬渡は新政権に対しても隠然たる影響力を持ち、民政党出身の幹部に睨みをきかせる、陰の実力者だった。
 馬渡の依頼で、田丸が部下にちょうちん記事を書かせたり、逆に上がってきた記事をボツにしたりしたことも、二度や三度ではない。
 そうした状況下で、残間はとかく田丸の指示に反発する傾向があり、扱いにてこずったものだった。
 ことに、例の百舌事件の際は原稿を差し止めるのに、ひどく苦労した覚えがある。
 そんなこともあって、馬渡が長崎県の鷲ノ島で警察庁の特別監察官、津城俊輔に撃たれて死ぬと、田丸は後ろ盾を失ってしまった。
 なんとなく社内で浮き上がり、上層部から露骨に圧力をかけられたりして、結局は退社を余儀なくされた。
 そのとき元民政党の副幹事長で、民主中道連合の官房長官を務めていた茂田井滋が、新しい勤め先を紹介してくれた。
 それが、右翼色の濃いオピニオン誌〈ザ・マン〉の、編集長の仕事だった。
 茂田井は、もともと馬渡の古くからの盟友、と見なされていた。
 それが、大方の驚きをよそに民政党を飛び出し、新たに保守の真政党を立ち上げた。しかも、急激に力をつけた中道左派の民主同盟と合体して、民主中道連合を興す挙に出た。
 当時は無節操な野合と、さんざんに叩かれたものだ。
 実を言えば、この筋書きは馬渡と茂田井が裏で示し合わせ、巧みに練り上げた茶番劇だった。少なくとも田丸は、そのように理解していた。
 茂田井の変節の真意は、民主中道連合を内部から空中分解させ、民政党の単独政権を復活させる、というところにあった。
 田丸も、側面からそうしたもくろみを応援するよう、馬渡からひそかに要請を受けていた。
 しかし、その野望も馬渡のスキャンダラスな死によって、ついえたかに見えた。
 幸か不幸か、一度は政権を奪取した民主中道連合も、うまく上昇気流に乗ることができず、次の総選挙で民政党に敗北を喫した。
 民政党はふたたび、政権の座を奪い返した。
 馬渡の死後、茂田井は行き場を失ったかたちになり、民政党への復帰を画策した。そのため、ひそかに後継の幹事長三重島茂に、接触を図った。
 三重島は、馬渡とのあいだのいきさつを知りながら、茂田井の復党談判をはねつけた。
 そのため茂田井は、引退を余儀なくされたのだった。
 田丸にしてみれば、今の仕事への斡旋が茂田井の置き土産、ということになる。
 本心は、東都ヘラルドをやめたくなかったのだが、馬渡に関わる不透明な噂があだとなって、地方の支局長に転出するか依願退職するかの、二者択一を迫られたわけだ。
 さすがに、地方へ飛ばされるのはプライドが許さず、茂田井から持ち込まれた再就職の話を、受け入れるしかなかった。
 新聞社の退職金は、家のローンを完済することで、そっくり消えた。
 一人娘はすでに嫁いでおり、妻と二人きりの生活を維持するくらいの収入は、新しい仕事でなんとか確保された。
 とはいえ、これで終わるつもりはない。
 もう一花咲かせなければ、気持ちが収まらない。
 ビールとつまみが来て、田丸は残間とグラスを合わせた。
 一口飲んだ残間が、妙に真剣な顔つきで切り出す。
「声をかけていただいた、わたしの方から話を持ち出すのは気が引けますが、勘弁してください。実は、ずっと以前から知りたかったことが、ありましてね。先に、そのことをお尋ねしても、いいですか」
 田丸は、少し身構えた。
「なんだ、あらたまって」
「田丸さんが、うちの社会部長をしていたあのとき、百舌と呼ばれる正体不明の殺し屋による、一連の事件が発生しましたよね」
 ぎくりとする。
 のっけから、目下最大の関心事になっている一件を、先に持ち出されるとは思わなかった。
 もっとも、それを顔に出さないくらいの経験は、積んでいる。
 田丸は煙草を取り出し、残間の方に開いた蓋を向けた。
「やるか」
 残間が、首を振る。
「いや、けっこうです。だいぶ前に、やめましたので」
「そうか」
 田丸は煙草に火をつけ、勢いよく煙を吐き出した。
「ああ、百舌の事件のことは、よく覚えてるよ」
 覚えているどころではない。
 今日残間を呼び出したのも、そのことと大いに関係がある。
 もしかして、残間もそれを何かのきっかけで予感し、先手を打ってきたのではないか、とさえ思える。
 残間は続けた。
「そもそも、百舌と呼ばれる殺し屋による最初の事件は、あれよりずっと以前のことだった、と聞いています。たぶん、田丸さんは社会部の筆頭デスクになったばかりで、わたしがまだ地方にいたころじゃなかったですか」
「たぶん、そのころだろう」
「最初の、稜徳会病院事件と呼ばれた一件では、問題の殺し屋の正体は姓名も含めて、いっさい明らかにされなかった。百舌という呼び名すら、公表されませんでしたね」
「ああ。縮刷版でも、引っ繰り返してみたのか」
「ええ、隅から隅までね。裏に、政治的陰謀がからんでいたために、事件そのものが隠蔽され抹殺された、という印象でした。その後に起きた一連の事件でも、同様の結果に終わっています。田丸さんが社会部長になったあと、百舌に関わる人間が次つぎに殺されたあの事件では、とうに死んだはずの百舌が復活したように、受け止められていました」
「それは、一連の事件に関係のあった連中のあいだで、というだけの話だろう」
「そうです。あのときも、百舌という呼称はいっさい公表されず、したがって新聞でもテレビでも、報道されなかった」
 残間は一度口を閉じ、ビールを飲んだ。
 田丸は居心地が悪くなり、椅子の上ですわり直した。
 残間が、なおも続ける。
「ところが田丸さんは、当時違法カジノの潜行取材をしていたわたしに、もっとおもしろいネタがあると言って、興味深い話をしてくれました。つまり、あの前後に起きた複数の元警官殺しは、百舌という殺し屋のしわざらしい。追ってみたらどうだ、とわたしをけしかけたんです。覚えておられますか」
 田丸は、煙草をもみ消した。
「ああ、覚えてるよ」
「わたしはそのあと、事件の渦中にあった元警察官の大杉良太氏や、警察庁の監察官だった倉木美希警部から、百舌と呼ばれる殺し屋と事件の詳細を、聞き出しました。当事者以外だれも知らない、という事実も含めてね」
 残間は一度言葉を切り、それから付け加えた。
「ちなみに、倉木警部はその後昇進して、今は警視になっています」
 倉木美希に会ったことはないが、当時から優秀な監察官だという噂は、田丸も耳にしていた。
 残間が、話を進める。
「そこで不思議なのは、当事者でも関係者でもない田丸さんが、なぜ百舌の一件を知るにいたったか、ということでした。いったいどこから、百舌の情報を入手されたんですか」
 田丸は、時間稼ぎに新しい煙草に、火をつけた。
「情報源を明かさないのが、新聞記者のルールだろう」
 残間は、皮肉な笑みを浮かべた。
「今さら、ルールもないでしょう。しかし、答えていただくまでもありませんよ。馬渡久平から出た情報だ、ということくらい子供にだって、分かります。田丸さんは、あのころ民政党の幹事長だった馬渡の、懐刀の一人でしたしね」
 田丸はビールを飲み干し、テキーラを頼んだ。
「その点は今さら、否定するつもりはない。おかげで、馬渡が殺されたあとおれは干されて、退社に追い込まれたんだからな」
「田丸さんにけしかけられて、わたしは当事者の一人だった大杉さんから、詳しいいきさつを取材しました。それをもとに、百舌の一件を原稿にしたわけです。自分でもよく書けた、と思えるくらい出来のいい原稿だった。ところが、田丸さんはこれでは記事にならない、とダメを出しましたね。取材しろ、とわたしをたきつけたくせに、握りつぶしてしまった。情況証拠ばかりで、説得力がないと言って」
「事実、そうだったろう」
 田丸が突っぱねると、残間は苦笑した。
「まあ、そう言われても、しかたないでしょう。しかし、あの原稿に書いたリポートが、すべて事実だったことは倉木警視も、大杉さんも認めています。田丸さんは、ひそかに馬渡の指示を受けて、わたしに百舌の情報を吹き込み、調べるようにそそのかした。しかしそれは、百舌の一件を記事にするためではなく、わたしを通じて倉木警視や大杉さんが、どの程度裏の事実を把握しているかを、突きとめるためだった。違いますか」

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