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the SIX ザ・シックス
井上夢人

     あした絵

 最初の三日間、遙香は目も合わせてくれなかった。
 もちろん、話しかけたところで返事など返ってくる筈もない。約束の四時間が過ぎるのを、子供部屋の窓辺に腰を下ろしたまま、和真はひたすら耐えた。覚悟してはいたものの、小学二年生の女の子からこれだけ無視されるというのもかなり堪える。なにせ四時間なのだ。
 母親同士が従姉妹という、和真にとってはなんの意味もない理由で、遙香のベビーシッターをする羽目になった。
「遙香ちゃん、ずっと学校休んでるんだって。イジメがあったのかどうかはよくわからないみたいだけど、まあ、登校拒否なのかな──あんた、仕事も決まらないんだし、時間があるんだから、ブラブラしてるよりはいいバイトになるんじゃない?」
 もちろん皮肉だ。母は時折、和真を〈ニート君〉と呼ぶ。
 遙香の母親の言葉は、さらに辛辣だった。
「和真君って、やっぱり学校でイジメに遭ってたんだって? 不登校も長かったんだってね。だったら、遙香の気持ちも、他の人よりわかってくれるんじゃないかって思うんだ。違う?」
 言われた和真がどんな気分になるかは、まるで気にならないらしい。
 この人は、学校へ行こうとしない遙香に、どれだけのことをしてやったのだろう、と和真は思った。共働きでほとんど家を空けているとはいえ、部屋に閉じ籠もったままの娘をもてあまし、児童カウンセラーでも医者でもない二十三歳のプータローに預けて、何がどう変わると思っているんだろう。
 そもそも、登校拒否だの不登校だのと言うけれど、学校には行きたくないんじゃない。行けないのだ。行くのを拒否しているのは本人じゃない。学校のほうだ。同級生や先生はもちろん、親にだって拒否されている。当然、それを言えば、そんなことないという言葉が返ってくる。思い込んでいるだけだよ、と。でも、本人にとってみれば「思い込んでる」というその言葉自体が、すでに拒否以外のなにものでもない。
 遙香との沈黙の四時間は、否応なく、和真に自分の小学時代や中学時代を思い出させる。振り返れば、今でも、あのころの恐怖が足の裏から滲み出してくる。
 だから遙香の気持ちがわかるとは言わないけれど、それでも、なんとなく想像はつく。
 遙香にとっては、和真だって彼らの中の一人なのだ。和真がどんな過去を持っていようが、そんなこと、彼女にはなんの関係もない。和真が感じている息苦しさの数倍を、遙香は自分の部屋の中で感じている。
 たとえば「あなたの気持ちはわかるけど、ずっと部屋に閉じ籠もってたって、何も変わらないよね?」などと言われて、その通りだと納得できるぐらいなら、最初から学校に行ってる。そんなことぐらい、自分でも厭になるほど思っている。繰り返し繰り返し、自分に言い聞かせている。でも、身体が動かないのだ。
 死にたくなるほど──ほんとにすべてを終わらせてしまいたくなるほど、自分が情けないのだ。
 成り行きで、遙香の部屋に来ることにはなったけれど、和真は、自分がこの小さな女の子の力になれるとは、最初から思っていなかった。
 ただ、無言で過ごす四時間を三日繰り返してみて、和真に一つだけわかったことがあった。それは、遙香にとっては、絵を描くことだけが、自分の居場所になっているらしいということだった。
 遙香は、ずっと絵を描いていた。
 フローリングの床に腹這いになって、画用紙に色鉛筆で絵を描く。和真が部屋にいる間ずっと、遙香はそれをやめなかった。時折、不意に立ち上がると、キッチンに降りていって罐ジュースを持ってくる。飲み物は、いつもアップルジュースだった。ジュースを持って戻ると、床にぺたりと座り、罐を開けてコクコクと飲む。そして、色鉛筆をつ
まみ上げ、腹這いになって、また絵の続きを描きはじめるのだ。
 四時間が過ぎて母親が帰宅し、和真が部屋を出て行った後、彼女が絵を描くのをやめるのかどうか、それは知らない。たぶん、やはり描き続けているんだろう。絵を描き続けることが、遙香にとっては、自分を守るたった一つの方法なのだから。
 和真の場合は、絵ではなく、それがインターネットだった。
 あのころは、寝ている時間以外はずっとパソコンのディスプレイを見ていた。食事も家族とは摂らなかった。用意されたものの中から、自分が食べられるものだけを部屋へ運び、パソコンの前で食べた。自分が着るものは自分で洗濯し、風呂も家族が寝静まってからこっそりと使った。
 生身の人間とは──それが親でさえ、話すことも一緒にいることも苦痛だった。なのに、ネットの中の人々とはつきあえた。本名をあかす必要もない。他の連中だってハンドルネームでやっている。和真は、五つのハンドルを使い分け、五つのキャラクターを作り上げて、あちこちの掲示板やチャットサービスに入り浸っていた。
 ネットさえあれば充分だった。
 あのころ、和真は本気で、自分はサイバースペースに棲んでいる生命体だと考えていた。そこ以外に、和真が息のできる場所はなかった。
 だから、自分にとってネットがそうだったように、遙香は自分の描く絵の中に棲んでいるのかもしれないと、和真は思った。
 ある意味で、遙香の絵は、和真にも救いを与えていた。無言の四時間を、それでも耐えることができたのは、彼女が描いている絵を横から眺めていられたからだ。
 遙香の描く絵には、不思議な魅力があった。
 具象とも抽象ともつかない奇妙な世界。何を描いたのか見てすぐにわかる部分もあるが、さっぱりわからないものも多い。子供の描いた絵だから、と言ってしまえばそれまでだが、意味がわからないながらも、どこかに訴えかけてくるものを感じさせるのだ。
 とりわけ色づかいが素晴らしかった。使っているのは、ごく普通の十二色セットの色鉛筆でしかないのに、遙香の描く絵にはその数倍もの色が現われる。何度も何度も塗り重ねられていく色は、深みのある強烈な陰影を生み出した。
 丁寧に、時間をかけて、作品が仕上げられていく。それを、和真は感心しながら見続けた。一時間も、ときには二時間以上も一つの絵を描き続けるのだ。その集中力は、とても八歳の子供のものとは思えなかった。
 こんなにすごい絵が描けるのなら、厭な思いをして学校に行く必要などないじゃないかと、和真は思ってしまう。本人が行きたくない場所へむりやり追いやったところで、それが遙香に良い結果をもたらすとは思えない。現実からの逃避だろうがなんだろうが、彼女は絵が描けるのだ。クラスの同級生たちが誰も持っていないような才能を、遙香は持っているではないか。
 だから、その遙香との四日目──和真は紙包みを一つ持って彼女のいる部屋を訪れた。紙包みの中身は色鉛筆だった。ご機嫌取りをしようと思ったわけではない。遙香が今使っている〈黒〉と〈赤〉の二本が、かなり短くなっているのを知っていたからだ。
 それがきっかけになったのか確信はない。ただこの日から、遙香との関係が少しずつ変わりはじめた。

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